●「パンの会」を歩く -2-
    初版2014年3月1日 <V01L03> 暫定版

 今回は「『パンの会』を歩く -2-」です。少し時間が空きましたが、引き続いて「パンの会」が開催された場所を巡ります。前回はセーヌ川をイメージした隅田川河畔の西洋料理店でしたが、今回は日本橋から浅草、日比谷公園の西洋料理店を廻りました。


「メイゾン鴻之巣」
<「祖父駒蔵とメイゾン鴻之巣」奥田万里>
 まず本の紹介です。「パンの会」が開催されていた「メイゾン鴻之巣」について書かれている奥田万里さんの「祖父駒蔵とメイゾン鴻之巣」です。タイトルのとおり奥田万里さんは「メイゾン鴻之巣」の経営者であった駒蔵さんのお孫さんのようです。本全てが「メイゾン鴻之巣」について書かれているわけではなくて14ページ程(全体で120ページ)ですから、そんなに詳細に書かれているわけではありませんが、大変参考になります。

 奥田万里さんの「祖父駒蔵とメイゾン鴻之巣」からです。
「… 駒蔵はその年のうちに一家を率いて東京に上り、日本橋小網町鎧橋のたもとにカフェ「メイゾン鴻之巣」を開店する(文献により四十三年と記されているものもある)。「鴻之巣」の名は、ふるさと久世郡寺田村近くの丘「鴻ノ巣山」に因んでいる。駒蔵は三十六歳になっていた。
 「メイゾン鴻之巣」は、明治維新後の東京で初めて「カフェ」を名乗る店だったようだ。星田宏司著『黎明期における日本珈琲店史』によれば、日本で最初の珈琲店は、明治二十一年東京下谷に開店した鄭永慶の「可否茶館」だとされている。その後風月堂、木村屋など菓子店の一部に喫茶室を設けてコーヒーを飲ませる店が徐々に出現している。
 カフェ「メイゾン鴻之巣」は純喫茶というよりもレストラン・バアの類いだったが、料理のあとにでるコーヒーは相当本格的なものだったらしい。…」

 ”久世郡寺田村近くの丘「鴻ノ巣山」”は現在の京都府城陽市(京都市伏見区の南が宇治市でそのまた南が城陽市)で、JR京都線の城陽駅か、京阪の寺田駅が最寄りの駅になります。又「メイゾン鴻之巣」が日本橋區小網町に開店したのは明治41年(1908)〜43年(1910)だったとおもわれます。

写真は奥田万里さんの「祖父駒蔵とメイゾン鴻之巣」です。かまくら春秋社版、平成20年7月発行です。



中央区日本橋附近地図(立原道造の地図を流用)



「三州屋跡」
<三州屋>
 「パンの会」の會場で一番人気があったのがこの「三州屋」です。残念ながら隅田川の川縁ではありませんが、西洋料理屋としては一流だったようです。大正8年の”西洋料理店の番付(日本橋區、浅草區)”で関脇に入っていました。たいしたものです。

 野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」からです。
「… とに角両國橋手前に一西洋料理を探した。最初の二三囘はそこでしたが、その家があまり貧弱なので、且つ少し情趣のない家であったから、早く倦きてしまっで、その後に探しあてたのは、小傅馬町の三州屋といふ西洋料理屋だった。ここはきっすゐの下町情調の街區で古風な問屋が軒を並べてゐる處で、其家はまた幾分第一國立銀行時代の建物の面影を傅へてゐる西洋館であつたから、我々は大に気に人つた。おかみさんが江戸ッ兒で、或る大會の時には霞町の一流勢者などを呼んでくれて我々は美術學校に保存しである「長崎遊宴の圖」を思ひ出しで、喜んだものである。…」
 建物自体も”第一國立銀行時代の建物の面影”と書いていますのでかなり西洋風で、「第一やまと」や「永代亭」よりはかなり近代的だったのだとおもいます。日本家屋で西洋料理は似合いませんね!!

 野田宇太郎氏の「新東京文學散歩 別巻1」からです。
「… 瓢単新道といふのは、大伝馬町二丁目の南裏通のことをいふのであるが、そこの横町から一軒
  の、どこかまだ文明開化的情調の残つてゐる、古風な西洋料理店を発見して来だのは、その時分
  から猟奇癖のあつた木下杢太郎君であつた。

と、これはその瓢単新道の三州屋と云ふレストランで催された明治四十二、三年頃のパンの会を語る吉井勇の「大川端」と題する文章の一節である。
 その三州屋を瓢単新道にさがし出した木下杢太郎の「『パンの会』と『屋上庭園』」と云ふ文章には次のやうに述べられてゐる。

   ……「パンの会」が日本橋瓢単新道の三州屋と云ふ小さい古風な西洋料理屋で行はれたのも、
  そこに明治初年のエキゾチスムの残渣が、幾分の下町的浮世絵的趣味と共にこびりついて居たか
  らである。

 又、同じ杢太郎の特集『食後の唄』の自序の中には『廣重、清親ばりの商家のまん中に、異様な対照をなして『三州屋』と云ふ西洋料理屋があつた」と書いてゐる。
 昔はこのあたりまで、思案橋、荒布橋を潜つだ運河の水が伸びてゐて、三州屋はその水近く、明治初年の開化錦絵風の面影をとどめた店であつだのであらう。パンの会はこの瓢単新道で最も隆盛を極め、ことに明治四十三年十一月の大会には、「スバル」「三田文学」「白樺」「新思潮」の同人を中心に文人や画家の四五十名が集つて、近代文学史中空前絶後のスツルム・ウント・ドランクを現出した。…」

 「三州屋」の場所については”日本橋瓢単新道”と書かれているのですが詳細の場所が分からず、明治40年前後の案内本には大伝馬町一丁目と書かれていました。大正8年の”西洋料理店の番付(日本橋區、浅草區)”では”大伝馬町二丁目”と書かれていました。関東大震災前の電話帳には詳細の番地が書かれているのを見つけることが出来なかったので、震災後の”昭和4年 東京市商工名鑑”では”日本橋小伝馬町2−2”と書かれていました。震災後、場所が変ったようです。
 上記に書かれている”スツルム・ウント・ドランク”は、正しくはシュトゥルム・ウント・ドラング(独:Sturm und Drang) で、18世紀後半にドイツで見られた革新的な文学運動のことを言い、訳すると「疾風怒濤」、ドイツ語から直訳するならば「嵐と衝動」が正しいそうです。

写真は大伝馬町二丁目と掘留町一丁目の境の道です。この道が”日本橋瓢単新道”となります。少し前まで写真の少し先右側に”瓢単湯”という風呂屋があり(戦前もありました)、通の名前が確認できます。写真の左側角付近に「三州屋」がありました。

「都川跡」
<永代橋の「都川」>
 「第一やまと」、「永代亭」に次いで、隅田川の川縁にもう一軒料理屋を見つけます。永代亭とは隅田川を挟んで反対側、京橋區(現在の中央区)になります。

 野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」からです。
「…都川は永代亭の會と開聯して彼等にとつて因縁浅からぬ店であつた。
 白秋の詩集『東京景物詩及其他』の中に「かるい背廣を」といふ小曲がある。

  かるい背廣を身につけて
  今宵またゆく都川
  懸か、ねたみか、吊橋の
  瓦斯の薄黄が気にかかる

 この小曲も都川でのパンの會常連の二次會でラッパ節に合はせて唄はれたといふ。先に掲出した杢太郎の「築地の渡」と共に隅田川の河口永代橋の夜の情調の小曲の佳品である。
 都川は永代亭の對岸、永代橋の扶近くの河岸にあつた鳥料理屋で、パンの會の連中には馴染み深い店であつた。といふのは、パンの會は何と云つても西洋式なテーブルの會であつたので、會が盛んになる忙つれて気の合つた連中のゆく、生粋の江戸趣味的座敷の店もほしかつた。そのために二次會場として選ばれたのが、都川であつた。わけても酒席の放逸を好む者には忘れ難く、江戸趣味を好む者にはまた捨て難い店であつた。白秋、秀雄、勇等の粋人を以で任ずる連中には特に親しみが深かつた。…」

 ”都川”の場所については直ぐに分かりました。明治から震災前まで、震災後、戦後とお店を開かれていました。残念ながら現在はお店はありません。

写真は現在の永代橋東詰から永代橋西詰北側を撮影したものです。震災後、戦後の「都川」は写真の”バンドーVベルト”の看板があるビルのところにありました。震災前は震災後、戦後の「都川」の場所より一筋西にありました。震災前は川岸には建物はありませんでしたので、「永代亭」からよく見えたとおもいます。

「メイゾン鴻之巣跡」
<メイゾン鴻之巣>
 最初の項でも「メイゾン鴻之巣」について紹介しましたが、「メイゾン鴻之巣」は幾たびか場所が変っており、その変遷を辿ってみたいとおもいます。

 木下杢太郎の大正8年12月発行「食後の唄 序」からです。
 ( ):添え字、<>:昭和57年発行木下杢太郎全集第二巻
「… そのころ日本橋も小網町のほとりに鴻の巣といふ酒場が出来た。まづまづ東京の最初のCqfe<Cafe>と云っても可い家で、その若い主人は江州者ながら、西洋にも渡り、世間が廣く、道楽気もある気さくな亭主であった。亭主は Conquerille<Conqueville> の漁人ならぬ我々に如何に Curacao(きゆらさお) の精神を快活にし、如何にのGin(じん)の人の心を激怒せしむるかを教へた上に、「まず酒杯の形にもいろいろあります。それを一つお目に掛けませう」と云って小さい該里(しえりい)ので、赤蒲萄杯(れつどわいんぐらす)、白蒲桃杯(ほわいとわいんぐらす)、無足杯(たんぶら)、鶏尾杯(こくてえるぐらす)、璃球児杯(りけえるぐらす)の敷々を示説した。それは冬の夜のことで、華奢な火爐(すとおぶ)には緑色のえなめるの花が光り、外は外として東京の河岸らしい響きのする中に、昔の浦里時次郎を物語る夜楽の通らうといふ時であった。そこで予は乃ち立ろに一曲作って主人に
 贈った。
 「冬の夜の 暖爐の 湯のたぎる静けさ…」
 始まる該里酒(せしいしゅ)の歌がそれである。…」

 ”江州”とは、滋賀県の近江附近の異称です。この附近を表しているようです。
 ”Conquerille”については原本は大正8年12月、アララギ発行の木下杢太郎「詩集 食後の唄」で、綴りは原本と一致していますが、昭和57年発行 木下杢太郎全集 第二巻で確認したところ、”Conqueville”に修正されていました。ネットで調べましたが意味が良く分かりません。”Conque”は巻貝、”ville”は都市と別けると訳せます。”Curacaoha”は綴りは正解でオレンジの皮で味つけしたリキュール酒のこととおもいます。無足杯はタンブラー、鶏尾杯はカクテルグラス、璃球児杯はリキュールグラスのこととおもいます。

 奥田万里さんの「祖父駒蔵とメイゾン鴻之巣」からです。
「… 大正四年ごろ、「メイゾン鴻之巣」は日本橋木原店(きわらだな・かつての白木屋の横町、いまも「木原店跡」の札がかかっている)に移転する。
 一階は庇のような狭いバア。煉瓦のあらわに出た壁が地下室を思わせる。その煉瓦にはいろんな油絵具のようなものが塗りたくってあって、それがまた不思議な感じをあたえていたという。二階の食堂はかなり広く、「十日会」「未来」「新思潮」などさまざまな文芸団体の集会場として、小網町時代よりも一層利用されるようになる。芥川龍之介の『羅生門』の出版記念会は写真が残されていて、鴻之巣の店内のようすが知れる。
 大正九年の末ごろになると、店は再度移転。こんどはフランス料理「鴻乃巣」として、本格的なレストランを名乗りでる。場所は京橋の南伝馬町二丁目、現在地下鉄京橋駅上の明治屋の位置。もと田村帽子店のあった四階建てのビルだった。
 一階は天井の高いホールのような造りで、曲木細工の椅子に円いテーブルが数組。冬にはだるまストーヴが赤々と燃え、カウンター背後の棚には洋酒の瓶がズラッと並び、鼻をくすぐるコーヒーの香りが店先にまで漂い、客を誘う。二・三階には大小の宴会場が数間あり、四階は従業員の休憩所や家族の住居になっていたようだ。
 ところが大正十二年九月一日、関東大震災で店は倒壊してしまう。駒蔵一家は無事だったが、ふるさとから呼び寄せで店を手伝わせていた甥の一人順蔵が出先の横浜で罹災、建物の下敷きになっで死亡したという。このことは、つい最近駒蔵のふるさと城陽市に住む親戚をたずねてわかったことである。
 大震災後、駒蔵は不死鳥のように店を再建する。自ら設計したバラック建築の店の写真が当時の建築雑誌に掲載されていて、興味深い。
 しかし、震災からわずか二年後の大正十四年十月一日、駒蔵は四十三歳の若さで急死する。息子一夫はまだ十七歳であった。…」

 「メイゾン鴻之巣」は大正4年頃には日本橋木原店(きわらだな)に転居(今のCOREDO日本橋と日本橋西川の間の通)、大正9年末には京橋区南傳馬2−12、現在の明治屋の所に転居しています。その後は上記に書かれている通り、大正14年に駒蔵が死去するとお店は無くなります。

写真は現在の鎧橋の東側から撮影したものです。左側が鎧橋で、写真の正面当たりの川沿いに「メイゾン鴻之巣」が有ったとおもわれます。橋の袂に鎧橋の記念碑があります。

「よか楼跡」
<雷門の「よか楼」>
 浅草、雷門前の「よか楼」でも「パンの会」が開かれたようです。日本橋界隈からはかなり遠いのですが、浅草という地の利で開催したのだとおもわれます。

 野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」からです。
「… 明治四十四年(一九一こにはパンの會は段々落莫なものになつでしまつたと杢太郎は「パンの會の囘想」に書いてゐる。そして其中には二月十二日と六月五日のことが朧気に書いてあるばかりである。
 先づ二月十二目は「浅草のヨカロウで開き、そこのおかみさんが演説などした。」と記されてゐる。
 また同年三月號「三田文學」前息欄には「二月十二日午後四時半より浅草雷門よか棲にてパンの會あり」とだけ出でゐる。浅草のよか棲といふのは雷門前竝本通りにあつた三階建の塔のやうなレストランであつた。明治四十二年七月に歸國してからの高村光太郎をはじめ、浅草を愛したパンの會の定連達、吉井勇や北原白秋や木下杢太郎などもときに姿をみせた店である。
 この明治四十四年二月十二日のパンの會は、當時の記録としては小さいが、内容には見落し難いものがあり。久しぶりのパンの大會で、その年の第一同の集りだつた。例によつて案内ハガキが印刷され、それには木下杢太郎筆の赤と黒二色刷カットが上段横幅一杯に入れられた。カットはあたかも商店の軒上にかかげられた大きな看板のやうに。太目の枠が横長にあり、その中央には半獣神が酒壷を前にして立ち上り、その上に SOIREE DE PAN の文字、右やや下寄りに、「パンの會」「貳月の大會」と二行に書かれてゐる。そして右寄りに額縁から下半分をはみ出させた瓦斯を入れる四角下細、屋根の尖つた軒燈が如何にもその時代を現はす明治調に描かれて、正面の硝子に「パン」と赤で肉太に書かれでゐる。案内文面は次の通りである。
  遅ればせながら新年の御慶目出度中納候 陳者昨年秋のパン大會は萬朝報の為めに不祚なる誹毀を蒙り候へ
  ども、あれは「理解」の足らざる近眼者流の中傷と御思召被下度候。吾人は人間生活の一部として「遊楽」
  と云ふものの権利を認むるものに有之候。而して此「遊楽」を共同的たらしめ、藝術的たらしむるが亦吾人
  の主張の一分に有之候。今同また新年の大會を左記の時處に於て相開き申候聞何卒御出席被下度候。
     一 四十四年二月十二日(日曜)午後四時半より
     一 浅草雷門よか樓
     一 會 費 貳 圓
 その世話人としては、高村光太郎、北原白秋、小山内薫、永井荷風、森田恆友、木下杢太郎、吉井勇の定連の他に、前年十一月の大會以来加はつた「白樺」の代表として正親町公和、「新思潮」の代表として木村荘太(木村荘八の兄)の名が印刷された。…」

 世話人の名前は凄いですね、これだけのメンバーが揃うのは明治末期の時代背景と「パンの会」だからですね。

写真は現在の雷門から西南の方向を撮影したものです。並木の藪蕎麦方向と言った方が分かりやすいかもしれません。角から南に2軒目のところが「よか楼」跡です。「よか楼」に関してはかなり有名だったのか、地番を記載した本がかなりありました。当時の住所で浅草區茶屋町一番地、角から二軒目のところになります。関東大震災後は無くなっています。

「松本楼」
<日比谷公園の「松本楼」>
 もう一ヶ所、有名なところが「パンの会」の會場として使われています。「第一やまと」から考えると、そうとう出世したようです。メンバーも凄い顔ぶれですから、このくらいの場所を使わないとすまないのかもしれません。

 野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」からです。
「…葉書印刷のパンの大會案内状が詩壇、文壇、書壇、その他音楽家や演劇家などへも發送された。
      パン大會
  先きの永代亭の會の時は、警吏に圍まれしなど、とんだ虚報に人を驚かせ中したり、今度は場處を替へてずつと當世に致し、大都の眞只中、噴水に近くバンドに耳を傾けながら飲みも話も致し度、時節柄御上を憚りてニムフ抜きの、聊か物足らぬ心地致し候へども軒に下げたる大提灯を目富に賑々敷御參會の程奉希侯。
 以上が案内文であるが、なほその次に、「場處、日比谷公園松本樓」「日時、十月廿三日后五時」「會費、金貳圓」、そして上記の翌起人十二名の名が二段に連ねられ、「追而御来會の有無前以て本郷區駒込千駄木林町百八十三石井柏亭宛御一報煩し度候」と六號活字の追記がある。
 この松本棲パン大會案内状の文面から明らかに讀みとられることは、すでに藝術至上主義的な青年藝術家たちの、社會に對する反抗的で皮肉な態度である。永代亭の刑事臨検の貝偏はさることながら、「御上を憚りてニムフ抜き」の會であるとか「軒に下げたる大提灯を目富に賑々敷」とか、中々面白い含みのある表現である。またニンフとは女給仕のことで、松本樓は女性を使はず、すべてボーイがサービスしたからであらう。
 この大會については「スバル」明治四十二年十一月、第十一號の消息欄に、當時の編輯者であつた江南文三が次のやうに書いてゐる。

○十月の二十三日に日比谷公園でPANの會があツた。音楽家、畫家、彫刻家、小説家、詩人、俳優、記者、批評家が集ッて大分盛んであツた。我等は大きな麺麹をこさへて贈るつもりであツたが、その計畫も出席することも、「昴」の編輯や其他の用があツたため出来なかツた。…」

 日比谷公園の「松本楼」は明治36年(1903)に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営していた 小坂梅吉が落札し、日比谷松本楼として同年の6月1日にオープンしています。当時としては珍しい洋風レストランに人気が集まり、明治39年(1906)秋には東京料理店番付で西の関脇に押し上げられたほどでした。(ウイキペディア参照)

写真は現在の「松本楼」です。昔から同じ場所にあったとおもわれます。「松本楼」は三度焼失しています。関東大震災、空襲、沖縄返還協定反対デモでの焼失です。現在は鉄筋コンクリートで堅牢になっています。



パンの会年表
和 暦 西暦 年  表 「パンの会」の足跡
明治34年
1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 春 岩村透「パリの美術学生」を「二六新報」紙上に連載
明治40年 1907 義務教育6年制 5月 「方寸」:石井柏亭・森田恒友・山本鼎の三人の画家によって創刊
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
12月 第一回「パンの会」両国公園前の「第一やまと」で開催
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 1月 「スバル」発刊
3月 この頃まで「パンの会」を「第一やまと」で開催
春〜夏 永代橋東詰の永代亭で開催