<メイゾン鴻之巣> 最初の項でも「メイゾン鴻之巣」について紹介しましたが、「メイゾン鴻之巣」は幾たびか場所が変っており、その変遷を辿ってみたいとおもいます。
木下杢太郎の大正8年12月発行「食後の唄 序」からです。
( ):添え字、<>:昭和57年発行木下杢太郎全集第二巻
「… そのころ日本橋も小網町のほとりに鴻の巣といふ酒場が出来た。まづまづ東京の最初のCqfe<Cafe>と云っても可い家で、その若い主人は江州者ながら、西洋にも渡り、世間が廣く、道楽気もある気さくな亭主であった。亭主は
Conquerille<Conqueville> の漁人ならぬ我々に如何に Curacao(きゆらさお) の精神を快活にし、如何にのGin(じん)の人の心を激怒せしむるかを教へた上に、「まず酒杯の形にもいろいろあります。それを一つお目に掛けませう」と云って小さい該里(しえりい)ので、赤蒲萄杯(れつどわいんぐらす)、白蒲桃杯(ほわいとわいんぐらす)、無足杯(たんぶら)、鶏尾杯(こくてえるぐらす)、璃球児杯(りけえるぐらす)の敷々を示説した。それは冬の夜のことで、華奢な火爐(すとおぶ)には緑色のえなめるの花が光り、外は外として東京の河岸らしい響きのする中に、昔の浦里時次郎を物語る夜楽の通らうといふ時であった。そこで予は乃ち立ろに一曲作って主人に
贈った。
「冬の夜の 暖爐の 湯のたぎる静けさ…」
始まる該里酒(せしいしゅ)の歌がそれである。…」。
”江州”とは、滋賀県の近江附近の異称です。この附近を表しているようです。
”Conquerille”については原本は大正8年12月、アララギ発行の木下杢太郎「詩集 食後の唄」で、綴りは原本と一致していますが、昭和57年発行
木下杢太郎全集 第二巻で確認したところ、”Conqueville”に修正されていました。ネットで調べましたが意味が良く分かりません。”Conque”は巻貝、”ville”は都市と別けると訳せます。”Curacaoha”は綴りは正解でオレンジの皮で味つけしたリキュール酒のこととおもいます。無足杯はタンブラー、鶏尾杯はカクテルグラス、璃球児杯はリキュールグラスのこととおもいます。
奥田万里さんの「祖父駒蔵とメイゾン鴻之巣」からです。
「… 大正四年ごろ、「メイゾン鴻之巣」は日本橋木原店(きわらだな・かつての白木屋の横町、いまも「木原店跡」の札がかかっている)に移転する。
一階は庇のような狭いバア。煉瓦のあらわに出た壁が地下室を思わせる。その煉瓦にはいろんな油絵具のようなものが塗りたくってあって、それがまた不思議な感じをあたえていたという。二階の食堂はかなり広く、「十日会」「未来」「新思潮」などさまざまな文芸団体の集会場として、小網町時代よりも一層利用されるようになる。芥川龍之介の『羅生門』の出版記念会は写真が残されていて、鴻之巣の店内のようすが知れる。
大正九年の末ごろになると、店は再度移転。こんどはフランス料理「鴻乃巣」として、本格的なレストランを名乗りでる。場所は京橋の南伝馬町二丁目、現在地下鉄京橋駅上の明治屋の位置。もと田村帽子店のあった四階建てのビルだった。
一階は天井の高いホールのような造りで、曲木細工の椅子に円いテーブルが数組。冬にはだるまストーヴが赤々と燃え、カウンター背後の棚には洋酒の瓶がズラッと並び、鼻をくすぐるコーヒーの香りが店先にまで漂い、客を誘う。二・三階には大小の宴会場が数間あり、四階は従業員の休憩所や家族の住居になっていたようだ。
ところが大正十二年九月一日、関東大震災で店は倒壊してしまう。駒蔵一家は無事だったが、ふるさとから呼び寄せで店を手伝わせていた甥の一人順蔵が出先の横浜で罹災、建物の下敷きになっで死亡したという。このことは、つい最近駒蔵のふるさと城陽市に住む親戚をたずねてわかったことである。
大震災後、駒蔵は不死鳥のように店を再建する。自ら設計したバラック建築の店の写真が当時の建築雑誌に掲載されていて、興味深い。
しかし、震災からわずか二年後の大正十四年十月一日、駒蔵は四十三歳の若さで急死する。息子一夫はまだ十七歳であった。…」
「メイゾン鴻之巣」は大正4年頃には
日本橋木原店(きわらだな)に転居(今のCOREDO日本橋と日本橋西川の間の通)、大正9年末には京橋区南傳馬2−12、
現在の明治屋の所に転居しています。その後は上記に書かれている通り、大正14年に駒蔵が死去するとお店は無くなります。
★写真は現在の鎧橋の東側から撮影したものです。左側が鎧橋で、写真の正面当たりの川沿いに「メイゾン鴻之巣」が有ったとおもわれます。橋の袂に
鎧橋の記念碑があります。