●「パンの会」を歩く -1-
    初版2014年1月18日 <V01L06> 暫定版

 今回は東京に戻って「パンの会」を歩きたいとおもいます。「パンの会」とは明治後期から大正にかけて、フランスのパリに憧れる若い芸術家たちがセーヌ川河畔をイメージした隅田川河畔の西洋料理店に集まり、浪漫派の新芸術を語り合った会のことです。パリのカフェに集うイメージなのですが、適当なところがなく場所探しには苦労したようです。


「日本耽美派文學」
<「日本耽美派文學の誕生」野田宇太郎>
 「パンの会」とは、明治時代後期に20代の芸術家たちが中心となり、浪漫派の新芸術を語り合う目的で出発し、東京を、恋い焦がれるフランスのパリに、隅田川を、セーヌ川に見立てて、月に数回、隅田河畔の西洋料理店に集まり、青春放埓の宴を開いていた会のことです。「パンの会」は反自然主義、耽美的傾向の新しい芸術運動の場となり、明治41年(1908)末から大正2年(1913)頃まで続いていました。(ウイキペディア参照)

 「パンの会」について一番詳しく書かれているのは野田宇太郎氏が書かれた昭和50年11月発行の「日本耽美派文學の誕生」です。この前に、野田宇太郎氏が書かれた昭和24年発行の「パンの會」という本があるのですが、この本も含めて纏められたのが「日本耽美派文學の誕生」と見ていいとおもいます。

 野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」からです。
「… 隅田川下流の大川べりに遊ぶ鴎さへ異國を空想させた。蒸汽はドーナツのやうな煙の輪を吐いて大川の波を切つで上下した。なかなかカフェらしい家は見つからなかつた。
 隅田川はパリのセーヌ川をしのばせた。どうしても、この川べりに、西洋と江戸の調和した場所と家をつきとめて、そこに會場を求めたかつた。 當時の東京にはコーヒーを出す店といへば、本郷赤門近くの青木堂と、町に散在するミルクホールの前身としての新聞縦覧所位しかなかつた。その他は牛鍋屋か、せいぜい西洋料理屋であつた。
 仕方がないのでカフェの代りに西洋料理屋と決めて捜し出したのが、両國の橋に近い両國公園にあつて、よく學生の會合などを催しでゐた西洋館まがひの三階建の第一やまとであつた。もともと牛鍋屋ではあつたが、西洋料理も酒も出した。あまり清潔な店ではなかつたが、それでも大川端であることが、太田正雄の心に一抹の満足感を與へた。
 このやうにして明治四十一年も歳の瀬の迫つた十二月十五日(土曜日)の夕刻に、第一囘のパンの會はこの第一やまとの三階で開かれることとなつた。…」

 明治から大正にかけての日本の若い芸術家達はパリへの憧れが強かったようです。パリのセーヌ川と隅田川とは似ても似つかぬ川なのですが、憧れの中で墨田川をモデルとしたのだとおもいます。当時、パリに留学しようとおもえば、船便で40〜50日は掛かったとおもいます。お金もそれなりに掛かり、庶民には高値の花だったとおもいます。日露戦爭(明治37年)中に完成したシベリア鉄道は、昭和に入ってシベリヤ経由でヨーロッパへ向かうルートが出来て、15日程度でパリまで行けるようになりました。

写真は野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生(昭和50年11月発行)」です。野田宇太郎氏は昭和59年(1984)に亡くなられており、「パンの会」について書かれる方がいなくなったのは寂しいかぎりです。

「巴里の美術学生」
<「巴里の美術学生」>
 「パンの会」の始まりはこの本から始ったようです。「巴里の美術学生」は岩村透が明治33年(1900)巴里大博覧会の見物を終え、帰国早々、二度目の巴里の夢の未だ醒ぬ中で明治34年(1901)春頃の「二六新報」紙上に連載したものです。この頃からパリの存在を意識し、憧れが始ったのではないでしょうか。

 二六新報(にろくしんぽう)は明治23年(1893)に秋山定輔が中心となって創刊した日刊新聞です。明治時代から昭和時代にかけて発行され、同時代の萬朝報と並んで代表的な「大衆紙」です。昭和15年(1940)9月に新聞の戦時統制が行われたため、廃刊となっています。(ウイキペディア参照)

 岩村透の「「巴里の美術学生」」からです。
「     巴里の美術学生

 大都の社会生活というものはどこも大概は同様であって、ロンドンもニューヨークも巴里も羅馬(ローマ)も大した相違はない、何れの都にも贅沢と無駄に日を消して居る貴族や金持ちがある、コツコツと朝から晩まで勉強しで居る学者がある、有難い一方で日を暮らして居る宗旨家がある、デコデコと着飾って大道狭しと練り廻る淫売婦がある、また日に夜を続けて働き抜く貧乏人がある、この都にあってあの都にないというものは先ずないといってよろしかろう。

  * 岩村透は本書単行本の「前置詞」につぎのように記している。「『巴里の美術学生』は記者が千九百年巴里大
   博覧会見物を終え、帰国早々、二度目の巴里の夢の未だ醒ぬ中に認め、昨年春頃の『二六新報』紙上に連載
   したもので、閑の無い為に続けられず、俄然中途で切れで居る」。文中の昨年とあるのは一九〇一年(明治
   三十四年)をさす。

ところがここに巴里にのみ在ってほとんど他の都に見ることの出来ぬものが一つある。これが美術家の生活である。なるほどニューヨークにもボストンにも立派な美術学校がある。ロンドン、ローマ、ミユーニック(ミュンヘン)、アントゥエルプ(ベルギーのアントワープ)にもそれぞれ有名な美術学校があり、また立派に生活を立てて居る一本立ちの美術家が大勢あり、学生の群があるが、しかしそれは学生が技術を研究し大家が家業大切に商売をして居るというまでであって、一種毛色の変った、特殊の美術社会を形造って、他の社会と異った、一種固有の美術家の生活をやって居るのは巴里のほかにはない。この美術生活という奴は多数の美術学生、殊に多数の外国から来て居る留学生の集まって居る所でなければ出来ない。ところが世界の美術教育の中心は時によって所を変えるから、今でこそ巴里に本陣を構えて居るが一時は羅馬(ローマ)にも、ミューニックにもまたヅセルドルフ(デュセルドルフ)なぞにも華々しい美術生活が行われて居たのである。…」

 当時の日本人がパリを訪ねたら、その文化の違いに驚いたとおもいます。そうとう憧れるのではないでしょうか。岩村透は明治21年アメリカ渡航、23年からは米欧州に渡航しており、かなりの海外経験があるようです。

写真は「芸苑雑稿他 岩村透 宮川寅雄編」です。この中に「巴里の美術学生」があります。

「方寸」
<「方寸」>
 「パンの会」が始る一年程前に同じ20代の芸術家たちが企画出版した美術雑誌が「方寸」でした。このメンバー達が後の「パンの会」の主要メンバーになります。この「方寸」は菊倍判の大きさで僅か8ページでした。この雑誌は明治40年5月から明治44年7月まで4年にわたって5巻35冊を発刊しています。

 石井潤の「「方寸」概説(一)」からです。
「「方寸」概説(一)    石井 潤
「方寸」は明治四十年五月十五日に石井柏亭・森田恒友・山本鼎の三人の両家によって創刊された。創刊が企図されたのは前年の秋ごろである。創刊の経緯や「方寸」の名の由来は山本の「方寸時代」(「アトリエ」昭和二年九月号、『画学生の頃』昭和五年、アトリエ社刊所収)に

 石井君がトラホームの療養に永らく大阪へ行っていた。僕と森田は美術学校を卒業したばかりで、写生、画論に日を暮していた。或日、ふと「雑誌を作らうぢやないか」と云ふ話が出たのが動機で、だんだん無気になり、さういふ仕事に手腕のある柏亭君の帰京を待って決行しようといふ事になった。まもなく柏亭君が眼病も癒へて、千駄木の家へ帰って来た。雑誌の計画は賛成で、大体獨エのユーゲントのやうな。評論や詩や随筆などを本文とし、凝った挿画を入れた薄い雑誌を作らうといふ話に決まったが、名前を決めるのに大いに骨が折れた。結局柏亭君が、「設文」から「方寸」といふ宇を見付け出してそれに結着する。… …

 とあるのによって知ることができる。柏亭が帰京したのは三十九年十一月三日であるから、刊行の話が具体化したのはそれ以後のことに相違ない。
「方寸」がドイツの「ユーゲント」やフランスの「ココリコ」のような漫画雑誌をモデルとしたことは柏亭が自伝(「教育美術」に連載、『柏亭自伝』昭和四十六年、中央公論美術出版刊所収) の中にも書いているが、当時の美術雑誌とは全く異なる内容のものを作り出そうとしたわけである。それは「方寸」第一巻第二号に初めて載った。「方寸」の社説ともいうべき「方寸言」 (無署名、筆者石井柏亭) の中に、「古物の調べは「国華」に一任する。新聞の切抜は「美術新報」と「日本美術」とに依頼する。素人画家の養成は「みづえ」の任務である。」と述べているのによっても察知することができる。…」

 この「方寸」は菊倍判の大きさなのでコピーするのに苦労しました。B4版で大きめにコピーするほかしかたがありませんでした。雑誌としては大きさが変っています。

写真は明治40年5月15日発刊の「方寸 第一巻第壹號定價一部金拾二銭」です。一部分カラー化されており、大きめの雑誌という感じです。
「石井柏亭の家跡」
<石井柏亭の家>
 上記の「方寸」の発行所が石井柏亭の家でした。この家の場所は東京市本郷區駒込千駄木林町八番地で、団子坂上の少し西です。この後、明治41年には石井柏亭は駒込千駄木林町百八十三番地に転居しています。

 野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」からです。
「… 「方寸」の凌行所は當時の東京市本郷謳駒込千駄木林町八番地の石井柏亭の家で、前記同人の他、やがて倉田白羊、坂本繁二郎、小杉未醒、織田一磨、不絹百穂が同人となり、丸山晩霞、荻原守衛等をはじめ、「明星」新詩社の詩人、太田正雄、北原白秋、明治四十二年の秋からは高村光太郎も寄稿メンバーとして加はり、長田秀雄や幹彦なども執筆するやうになつた。その他異色としてはドイツ人フリッツ・ルンプが寄稿した。
 柏亭は「明星」の寄稿畫家であつたと共に、詩や散文でも名を知られてゐたので、太田正雄や北原白秋等とも親交があつた。當時のヤンガー・ゼネレーションとしての野心や抱負を彼等は「方寸」にも注いだ。
 「方寸」の經營は世の例に漏れず成り立たなかつた。定價は十二銭から十五銭で、部数は二百から七百を前後する程度であつたが、毎月の賣行は約半数に過きないことも多かつたといふ。同人は印刷所である下谷ニ長町凸版印刷株式會社まで畫筆等を持つて通ひ、本文中に刷り込む色刷の自畫石版を發表して誌上を飾つた。…」


 上石井 柏亭(いしい はくてい、明治15年(1882)3月28日 - 昭和33年(1958)12月29日)は日本の版画家、洋画家、美術評論家。
 明治15年(1882年)東京府東京市下谷区下谷仲御徒町生まれ、本名石井満吉。父は日本画家の石井鼎湖。明治37年(1904)東京美術学校(現在の東京芸大)洋画科に入学するが、眼病のため中退。明治40年(1907)山本鼎とともに美術雑誌『方寸』を創刊し、近代創作版画運動の先駆をなします。明治41年(1908)木下杢太郎、北原白秋ら文学者とパンの会を結成、この頃の版画に明治43年(1910年)版行の「東京十二景」、「木場風景」などがあります。明治43年(1910)12月、渡辺銀行の専務、渡辺六郎の支援でヨーロッパに外遊、明治45年(1912年)に帰国。大正2年(1913)、「日本水彩画会」を創立、大正3年(1914年)には有島生馬らとともに二科会を結成しています。昭和3年(1928)フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受章、昭和10年(1935)帝国美術院会員となり二科会を辞します。昭和11年(1936)一水会を結成、昭和12年(1937)帝国芸術院会員、昭和24年(1949年)日展運営会理事。昭和33年(1958)死去、享年76歳。(ウイキペディア参照)

写真は現在の文京区千駄木5丁目5番付近、団子坂を上がった先です。写真の左側が団子坂上広場という公園で、その右側が当時の地番で千駄木林町八番地です。



文京区東大附近地図(流用)



「近藤富枝」
<「矢ノ倉は水の匂いにつつまれて」近藤富枝>
 近藤富枝さんが「パンの会」について少しだけ書かれているのを見つけました。元々は自身が生まれた矢ノ倉について書かれているのですが、「パンの会」の第一回会合があった「第一やまと」が直ぐ近くであったため書かれたのだとおもいます。

 近藤富枝さんの「矢ノ倉は水の匂いにつつまれて」からです。
「… パンの会にはじまる……隅田川文学譜

 文学者と美術家とが合同でサロンを作って交歓することは西欧で盛んだが、日本での第一号は「パンの会」といい、その第一回会合が光栄にも矢ノ倉公園の第一やまとというレストランで開かれている。残念ながら私のまだ生れていない明治四十一年の暮のことで、詩入の北原白秋、木下杢太郎、画家の石井柏亭、山本鼎、倉田白羊、森田恒友などが発起人だった。みな二十三、四の若者たちである。
 このなかの画家たちというのは当時「方寸」という版画中心の美術雑誌を出していた連中である。しかも柏亭などの美術家たちは詩や小説も書いたので、白秋や杢太郎などの詩人たちが「方寸」の寄稿家となり、彼らの間に親しい交際がはじまり「パンの会」が生れた。パンとはギリシャ神話に出てくる牧羊神のことで、山羊に似た顔を持ち、角を生やし髭があって鉤鼻、尾と山羊の足を持つ半獣神のことである。…」

 この「パンの会」が日本の文学者、芸術家サロンの始まりだったのがわかります。

写真は近藤富枝さんの「矢ノ倉は水の匂いにつつまれて」です。1995年発刊です。

「スバル第一號」
<「スバル」第一號>
 「スバル」は、明治42年(1909)から大正2年(1913)までに刊行された、ロマン主義的な文芸雑誌です。月刊。通巻60冊。菊判200頁内外。定価30銭。文芸雑誌「明星」の廃刊後、森鴎外や与謝野寛(鉄幹)、与謝野晶子らが協力して発行しています。創刊号の発行人は石川啄木。石川、木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載し、同人らはスバル派と呼ばれていました。「パンの会」とは木下杢太郎、北原白秋等が重なっており、消息欄等に「パンの会」の会合等の報告が掲載されていました。(ウイキペディア参照)

 「スバル」第一號からです。
「 消息
…『Panの會』と申す青年文藝者藝術家の談話會の第一會、本月十二日両国公園前『Panの會』會場にて催され候、来春は正月第二土曜日開會引き續いて毎月第二、第四土曜に開かるる筈に御座候。…」

 「スバル」第一號の印刷は明治41年12月28日、発刊は明治42年1月1日です。野田宇太郎氏は”明治四十一年も歳の瀬の迫つた十二月十五日(土曜日)の夕刻に、第一囘のパンの會はこの第一やまとの三階で開かれることとなつた”と「日本耽美派文學の誕生」に書いていますが、上記の”本月十二日”は明治41年12月12日となりますから「スバル」には「パンの会」の第一回が明治41年12月12日に両国公園前『Panの會』會場にて催されたと理解できます。この3日の違いはよくわかりません。開催日時が大体分りましたから、この両国公園前の會場が何処か探します。

写真は「スバル」の第一號です。「方寸」と合せて東京都立多摩図書舘で閲覧することができます(複製版)。都立多摩図書舘は立川駅もしくは南武線の西国立駅からです。都心からは遠いです。



明治17年の両国附近地図



大正元年の吉川町、元柳町、新柳町地図



現在の両国橋附近地図



「第一やまと跡」
<両国橋近くの「第一やまと」>
 様々な本で「パンの会」について調べてきました。もう少し詳しく、「パンの会」の第一回会場の場所を探してみます。

 野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生(昭和50年11月発行)」を参照します。
「 隅田川下流の大川べりに遊ぶ鴎さへ異國を空想させた。蒸汽はドーナッのやうな煙の輪を吐いて大川の波を切つで上下した。なかなかカフェらしい家は見つからなかつた。
 隅田川はパリのセーヌ川をしのばせた。どうしても、この川べりに、西洋と江戸の調和した場所と家をつきとめて、そこに會場を求めたかつた。
 當時の東京にはコーヒーを出す店といへば、本郷赤門近くの青木堂と、町に散在するミルクホールの前身としての新聞縦覧所位しかなかつた。その他は牛鍋屋か、せいぜい西洋料理屋であつた。
 仕方がないのでカフェの代りに西洋料理屋と決めて捜し出したのが、両國の橋に近い両國公園にあつて、よく學生の會合などを催しでゐた西洋館まがひの三階建の第一やまとであつた。もともと牛鍋屋ではあつたが、西洋料理も酒も出した。あまり清潔な店ではなかつたが、それでも大川端であることが、太田正雄の心に一抹の満足感を與へた。…」

 上記に書かれている”本郷赤門近くの青木堂”は現在の東京都文京区本郷5-24-3、東京ウェディング&ブライダル専門学校のところにありました。

 第一回「パンの会」が開催された”西洋館まがひの三階建の第一やまと”の場所は”両國の橋に近い両國公園”と書かれています。この公園を明治43年の地図で探してみると、両国橋の広小路跡が両国公園になっていました。又、「スバル」には”両国公園前”と書かれていましたので、これらから推察すると、両国公園に面している所で川縁に近いところではないかとおもわれます。現在のカゴメ東京ビルの附近ではないかと推察しています。これは近藤富枝さんの「矢ノ倉は水の匂いにつつまれて」と合っています。この付近は関東大震災後の区画整理で全く変ってしまっており、当時の道を探すのが大変でした。

写真は日本橋中学校の東側にある陸橋から北方面を撮影したものです。正面やや左のKAGOMEの看板が有るビルの所附近が”第一やまと”跡ではないかと推察しています。明治37年に完成した両国橋が川上に移ったことにより旧広小路が両国公園になり、震災後の昭和7年に現在の両国橋が完成しています。

「永代亭跡」
<永代橋東詰の西洋料理店永代亭>
 第一回の「パンの会」は”両國の橋に近い両國公園前の西洋館まがひの三階建の第一やまと”で開催されます。”第一やまと”での開催は3月頃まで続いたようです。その春以降夏頃までの開催は”永代橋東詰の西洋料理店永代亭”に移ったようです。

 野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」からです。
「… ヴィナスとバッカス

 北原白秋主宰の雑誌「近代風景」が創刊(大正十五年十一月)から三冊目の昭和二年(實際は大正十六年となってゐる)一月號でパンの會の追想特輯をした時、それに「パンの會の囘想」といふ一文を寄稿した木下杢太郎はその中に次のやうに書いてゐる。

  當時我々は印象派に開する書論や、歴史を好んで讀み、又一方からは上田敏氏が活動せられた時代で、そ
 の翻譯などからの影響で、巴里の美術家や詩人などの生活を空想し、そのまねをして見たかつたのだった。
  是れと同時に浮世繪などを通じ、江戸趣味がしきりに我々の心を動かした。で畢竟パンの會は、江戸情調
 的異國情調的憧憬の産物であったのである。
  當時カフェらしい家を探すのには難儀した。東京のどこにもそんな家はなかった。それで僕は或る日曜
 一日東京中を歩いて(尤も下町でなるべくは大河の見えるやうな處といふのが注文であった。河岸になけれ
 ば下町情調の濃厚なところで我慢しようといふのであった。)とに角両國橋手前に一西洋料理を探した。最
 初の二三囘はそこでしたが、その家があまり貧弱なので、且つ少し情趣のない家であったから、早く倦きて
 しまっで、その後に探しあてたのは、小傅馬町の三州屋といふ西洋料理屋だった。ここはきっすゐの下町情
 調の街區で古風な問屋が軒を並べてゐる處で、其家はまた幾分第一國立銀行時代の建物の面影を傅へてゐる
 西洋館であつたから、我々は大に気に人つた。おかみさんが江戸ッ兒で、或る大會の時には霞町の一流藝者
 などを呼んでくれて我々は美術學校に保存しである「長崎遊宴の圖」を思ひ出しで、喜んだものである。
  その後深川の永代橋際の永代亭が、大河の眺めがあるのでしばしば會場になつたのである。また遥か後に
 なつて小網町に鴻の巣が出来「メエゾン・コオノス」と稱して異國がつた。わかいと云ふものは好いもの
 で、その頃は宇頂天になり勿もこの少し放逸な會合に、大に文化的意義などを附して得意がつたものである。

 この囘想には三州屋と永代亭の會が時間的に逆になつてゐるなどの思ひ違ひはあるが、パンの會の會場にするフランス風のカフェを捜し、そこに江戸情調と異國情調とを求めようとして街から街を歩いた東京帝大醫學部の學生太田正雄(杢太郎)の若き日の姿を、まざまざと思ひ描くことが出来る。…」

 上記に書かれている”永代亭”の場所は”深川の永代橋際のポンポン蒸汽の發着所二階の「永代亭」”ですから、当時の地図で船の発着場を探すと、永代橋の東詰、北側と分りました。ただ、永代橋も何回か架け替えられており、順に場所を見てみました。

 永代橋は明治30年(1897)、道路橋としては日本初の鉄橋として、鋼鉄製のトラス橋が現在の場所より少し下流に架橋されています。明治37年には東京市電による路面電車も敷設されます(昭和47年11月に廃止)。しかし、橋底には木材を使用していたため、関東大震災の時には多数の避難民とともに炎上し、多くの焼死者、溺死者を出しています。その後、大正15年に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋されています。現在の橋は明治30年の橋の少し北側に建設されています。工事中の写真を掲載します。(ウイキペディア参照)

写真は現在の永代橋東詰から永代橋と交番を撮影したものです。旧永代橋の東詰北側は丁度、現永代橋の東側になります。ですから船の発着場は写真の正面付近にあったのではないかとおもわれます。

 続きます。



現在の両国橋附近地図



パンの会年表
和 暦 西暦 年  表 「パンの会」の足跡
明治34年
1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 春 岩村透「パリの美術学生」を「二六新報」紙上に連載
明治40年 1907 義務教育6年制 5月 「方寸」:石井柏亭・森田恒友・山本鼎の三人の画家によって創刊
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
12月 第一回「パンの会」両国公園前の「第一やまと」で開催
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 1月 「スバル」発刊
3月 この頃まで「パンの会」を「第一やまと」で開催
春〜夏 永代橋東詰の永代亭で開催