<「日本耽美派文學の誕生」野田宇太郎>
「パンの会」とは、明治時代後期に20代の芸術家たちが中心となり、浪漫派の新芸術を語り合う目的で出発し、東京を、恋い焦がれるフランスのパリに、隅田川を、セーヌ川に見立てて、月に数回、隅田河畔の西洋料理店に集まり、青春放埓の宴を開いていた会のことです。「パンの会」は反自然主義、耽美的傾向の新しい芸術運動の場となり、明治41年(1908)末から大正2年(1913)頃まで続いていました。(ウイキペディア参照)
「パンの会」について一番詳しく書かれているのは野田宇太郎氏が書かれた昭和50年11月発行の「日本耽美派文學の誕生」です。この前に、野田宇太郎氏が書かれた昭和24年発行の「パンの會」という本があるのですが、この本も含めて纏められたのが「日本耽美派文學の誕生」と見ていいとおもいます。
野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」からです。
「… 隅田川下流の大川べりに遊ぶ鴎さへ異國を空想させた。蒸汽はドーナツのやうな煙の輪を吐いて大川の波を切つで上下した。なかなかカフェらしい家は見つからなかつた。
隅田川はパリのセーヌ川をしのばせた。どうしても、この川べりに、西洋と江戸の調和した場所と家をつきとめて、そこに會場を求めたかつた。 當時の東京にはコーヒーを出す店といへば、本郷赤門近くの青木堂と、町に散在するミルクホールの前身としての新聞縦覧所位しかなかつた。その他は牛鍋屋か、せいぜい西洋料理屋であつた。
仕方がないのでカフェの代りに西洋料理屋と決めて捜し出したのが、両國の橋に近い両國公園にあつて、よく學生の會合などを催しでゐた西洋館まがひの三階建の第一やまとであつた。もともと牛鍋屋ではあつたが、西洋料理も酒も出した。あまり清潔な店ではなかつたが、それでも大川端であることが、太田正雄の心に一抹の満足感を與へた。
このやうにして明治四十一年も歳の瀬の迫つた十二月十五日(土曜日)の夕刻に、第一囘のパンの會はこの第一やまとの三階で開かれることとなつた。…」
明治から大正にかけての日本の若い芸術家達はパリへの憧れが強かったようです。パリのセーヌ川と隅田川とは似ても似つかぬ川なのですが、憧れの中で墨田川をモデルとしたのだとおもいます。当時、パリに留学しようとおもえば、船便で40〜50日は掛かったとおもいます。お金もそれなりに掛かり、庶民には高値の花だったとおもいます。日露戦爭(明治37年)中に完成したシベリア鉄道は、昭和に入ってシベリヤ経由でヨーロッパへ向かうルートが出来て、15日程度でパリまで行けるようになりました。
★写真は野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生(昭和50年11月発行)」です。野田宇太郎氏は昭和59年(1984)に亡くなられており、「パンの会」について書かれる方がいなくなったのは寂しいかぎりです。