●大岡昇平の京都を歩く
    初版2008年2月24日  <V01L01> 
 今週は「大岡昇平を歩く」の八回目を掲載します。大岡昇平は昭和4年3月、京都帝国大学文学部に進学します。中原中也との付き合いに辟易しており、半分は東京から逃げ出したかったのたとおもいます。

「京都大学正門」
京都帝国大学>
今回から中央公論社版の「大岡昇平全集」を参照しながら歩きます。大岡昇平全集は昭和50年に中央公論社版、昭和58年に岩波書店版(初期の間違いは修正されています)、そして最後の筑摩書房版が平成7年に出版されています。年譜は初期の中央公論社版が一番詳しく書かれていました(間違いがあるので岩波書店版と見比べる必要あり)。
「… 昭和四年(二十歳)、京都大学文学部に入り、フランス文学を専攻した。京大を選んだのは、両親の膝下を離れたいというのも一つだったが、一つにはしばらく中原との交際を避けたいということもあった。当時中原は中野辺の下宿にいたが、毎日のようにやって来て、酒を飲んで、説教するので、まだどうしたらいいかわからない
僕には、やり切れなかったのだ。…」

 大岡昇平が入学する前年の昭和3年(1928)には、マルクス経済学者の河上肇教授が文部省からの辞職要求により大学を追われる事件が起こっています。「滝川事件」は昭和8年(1933)のことです。暗い時代の始まりです。

左上の写真は京都大学正門です。京都帝国大学時代から変わっていないと思います。第三高等学校はこの反対側になります。戦後の昭和22年には名称が京都大学になり、昭和24年、第三高等学校が京都大学に吸収されます。

【大岡昇平】
 明治42年(1909)東京の生まれ。旧制中学のとき、小林秀雄、中原中也らを知る。京大仏文で学びスタンダールに傾倒。戦争末期に召集を受け、フィリピンに送られる。戦後、この間の体験を「伴虜記」「野火」などに書き継いだ。ほかに「花影」、恋愛小説に新風を送った「武蔵野夫人」など。たえず同時代に向けて発言するかたわら、「天誅組」「将門記」など歴史小説に一境地をひらいた。(筑摩書房 ちくま日本文学全集より)


大岡昇平 京都 -1-



大岡昇平の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 大岡昇平の足跡
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 - 父貞三郎、母つるの長男として牛込区新小川町で生まれる
明治45年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
3 春 麻布区笄町に転居
大正元年〜
2年
1912〜
13
島崎藤村、フランスへ出発
4 下渋谷字伊藤前に転居
宝泉寺付近に転居
下渋谷521番地に転居
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 5 下渋谷543番地に転居
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 6 中渋谷字並木前180番地に転居
4月 渋谷第一尋常高等小学校入学
大正6年 1917 ロシア革命 8 中渋谷896番地に転居
         
昭和4年 1929 世界大恐慌 20 4月 京都帝国大学文学部文学科入学
4月 左京区東福ノ川丁(黒谷前)に下宿
5月 上京区塔之段今出川上ルに転居
秋 上京区銀閣寺町付近に転居
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 21 4月 母死去
左京区浄土寺西田町に転居
昭和6年 1931 満州事変 22 9月頃 都ホテル前のアリゾナで矢田津世子、林芙美子に合う
左京区東福ノ川の貸間に移る
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
23 3月 京都帝国大学卒業
3月 坂口安吾が京都に来る
         
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
29 10月 神戸の帝国酸素株式会社に入社(翻訳係)
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
30 10月 社内恋愛で上村春江と結婚
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 32 2月 長女誕生
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 34 6月 帝国酸素を退社
7月 長男誕生
11月 川崎重工業に入社
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
35 2月 川崎重工東京事務所に転勤
3月 教育召集を受ける
6月 臨時召集となる
7月 フィリッピンに出征
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
36 1月 ミンドロ島で米軍の捕虜となる
12月 復員、妻の疎開先の明石市大久保に住む
12月 和歌山の姉と大叔母を訪ねる
昭和23年 1948 太宰治自殺 39 1月 上京
東京都小金井市中町1丁目の富永次郎宅に寄寓
12月 鎌倉市雪ノ下の小林秀雄宅離れに転居
昭和24年 1949 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 40 5月 鎌倉市極楽寺104番地に転居
7月 鎌倉市極楽寺108番地に転居
昭和28年 1953 朝鮮戦争休戦協定 44 2月 大磯町東町に転居
10月 ロックフェラー財団の給費生として渡米


「左京区東福ノ川丁(黒谷前)」
左京区東福ノ川丁(黒谷前)>
大岡昇平が京都帝国大学文学部に入学して最初に下宿したのが大学近くの、左京区東福ノ川丁(黒谷前)でした。東福ノ川は京都帝国大学を卒業するときも住んでいたようです。
「…京都へ坂口に下宿を世話したのは、昭和七年の三月だったと思う。僕は京大を卒業するところで、黒谷の前の、加藤英倫と同じ下宿に室を取っておいた。 僕はそのまま東京へ帰って来たが、加藤英倫は黒田孝子女史と媾曳を続けるためかどうか知らないが、わざと落第して京都に残っていた。そこで坂口といっしょに神戸のヘルマンの邸跡を見に行ったりすることになったのだと思う。 加藤が惚れるような素振りを見せたとかいう、神戸の「マズイ顔の女」とは、アリゾナのマダムの二人の妹のうち、神戸のナショナルシティバンクへ勤めていた上姉の方ではないかと思う。(僕はそれほどマズイ顔とも思わないが)彼女達は矢田津世子のことを「トイフェル」と呼んでいた。ドイツ語で悪魔ということで、矢田は口角があがった、少しきつい顔立だったので、そうアダ名したのである。…」

 左京区東福ノ川は第三高等学校、京都帝国大学の学生たちが下宿する場所としてはオーソドックスな場所でした。中原中也(西福ノ川)、梶井基次郎(西福ノ川)等も近くに下宿していました。坂口安吾の京都訪問については、「坂口安吾を歩く」の方で追加する予定です。

左上の写真は黒谷 光明寺です。この光明寺は京都守護職本陣(会津藩)が置かれた所で有名です。お寺も大きくて、写真の門を入って少し歩くと左側に大きな三門があります。南禅寺の三門に負けない大きさです。京都では黒谷というと光明寺のことになります。黒谷前の下宿と記載されていましたので、この黒谷前の写真を掲載しておきます(下宿名、地番が記載されていないため詳細の場所は不明です)。

「上京区塔之段今出川上ル」
上京区塔之段今出川上ル>
この頃、東京で同人雑誌「白痴群」を創刊しており、東京だけではなく京都でも売るために富永次郎と本屋を回ります。
「…『白痴群』を富永と二人で、三条河原町の「そろばん屋」、京大、同志社大付近の本屋に配って歩く…」。
 同人雑誌「白痴群」はなかなか売れなかったでしょう。「そろばん屋」は本屋さんで、現在はなくなっています。少し前までは営業されていたようです。「そろばん屋跡」の写真を掲載しておきます(写真左側から2軒目です)。

左上の写真は御所裏、同志社の右横です(写真左側が同志社女子)。左右の道は今出川通りで、この路地を少し歩くと右側が下塔之段町になります(地図参照)。この付近の下宿だとおもわれます(下宿名、地番が記載されていないため詳細の場所は不明です)。

「左京区銀閣寺町」
左京区銀閣寺町>
 大岡昇平は京都でも転居を繰り返します(記載されているだけで4回下宿を変えています)。
「…京都へ行ったといっても、学校へ出るのは一年に二十時間くらい、半年は東京で暮した。したがって卒業の時は、単位が足りなくなり、大山(定一)助教授のドイツ語などは、無理に頼んで、自宅で試験してもらうという有様だった。桑原武夫、生島遼一などはいずれも四年先輩で、桑原さんには、三好達治に紹介してもらい、スタンダールを教わった。しかしスタンダールを本当に読み出したのは、学校を出てからの話だ。京大時代は、もっぱらジィド、ヴァレリーだった。河上と一緒にプルーストを読んだこともある。…」
 ほとんど授業に出席せず、東京に帰っていたようです。

右上の写真は銀閣寺道(銀閣寺参道)です。この左右が銀閣寺町になります(下宿名、地番が記載されていないため詳細の場所は不明です)。

「左京区浄土寺西田町」
左京区浄土寺西田町>
大岡昇平は浄土寺西田町にも下宿しています。この浄土寺西田町は富永太郎が大正13年6月、京都帝国大学に入学した正岡忠三郎を訪ねたときの、正岡忠三郎の下宿があったところです。なにか、因縁めいていますね。

左の写真の左側に正岡忠三郎の下宿がありました。浄土寺西田町は非常に広く、大岡昇平が下宿した場所は、下宿名、地番が記載されていないため詳細の場所は不明です。

「都ホテルの前のアリゾナというバー」
都ホテルの前のアリゾナというバー>
 大岡昇平は京都時代に坂口安吾との恋愛騒動で有名になった矢田津世子に合っています。京都帝国大学卒業後に東京の「ウインゾア」で会う以前です。
「…矢田はまあきれいな女だが、当時いわば札付きの女流作家だった。加藤や僕が彼女と京都で知り合ったのはこの一年ばかり前である。都ホテルの前のアリゾナというバーのマダムを通してである。マダムは当時阪神地方にいた谷崎潤一郎や片岡鉄兵を知ってる文学マダムだったが(ベッドの下に皮の鞭を持っていた)矢田津世子が遊びに来ることがあった。……
… 僕が林芙美子にはじめて会ったのもこのバーである。多分その前年の秋、或る午後アリゾナの留守番を頼まれて、カウンターで勝手にアブサンか何か出して飲んでいたら、手軽鞄を下げた、小さな女が入って来た。物売りだと思って、 「留守ですよ」とつっけんどんにいったが、女はなかなか出て行かない。そこらの椅子へ腰を下して、かえって僕が何者であり、昼間からバーで何をしているかなどときく。最後に、「林が来たとおっしゃって下さい。すぐ東京へ帰らなければならないので、もうお寄り出来ませんから」とか何とかいって帰って行った。 それまでにアリゾナのマダムは林芙美子を知っていることを自慢したことがあった。従って私はこれが物売りではなく、林だと気が付いていたのだが、私にも文学的誇りがあった。急にファンめいた口調になるのはいやなので知らんふりをしていた。 あとで東京で林芙美子と知り合いになってからきくと、向うでは僕を泥棒だと思ったという。お互いに人相夙態が悪かったのだ。彼女はフランスから貨物船で門司か神戸へ着いて、東京へ帰る途中だった。 その林芙美子ももう死んでいる。矢田津世子も坂口安吾も同じ。だんだん死んだ人のことを書く年に、僕もな って釆たわけである。…」

 林芙美子にも京都時代に合っています。本人は林芙美子とは気がつかなかったようです。

右上の写真の右側が都ホテル(現在のウエスティン都ホテル京都)です。”都ホテル前のアリゾナというバー”とのことで、写真の左側にあったはずなので探してみたのですが、戦前のことでもあり、又、都ホテル前の道も拡張されていて、詳細の場所が分かりませんでした。右側の可能性もあるのですが、何方かご存じの方がいらっしゃいましたらご教授ねがいます。宜しくお願いいたします。

次回から戦前の東京を歩きます。