●大岡昇平の神戸を歩く  戦後編
    初版2008年1月27日  <V01L01>
 今週は「大岡昇平を歩く」の五回目を掲載します。大岡昇平は昭和20年1月、レイテで米軍の捕虜になります。そして昭和20年12月、妻子が疎開していた兵庫県明石市大久保に復員します。

「文学の旅・兵庫県」
<「文学の旅・兵庫県」>
大岡昇平の神戸については、大岡昇平自身の「わが復員わが戦後」しかなかったのですが、宮崎修二朗の「文学の旅・兵庫県」に少しですが、書かれたのを発見しました。甲南荘については前回に掲載しましたので、今回は妻子の疎開先である大久保ついて、掲載します。
「…土山駅のつぎは大久保駅。もう明石市に入ったわけである。 
この大久保の町には作家大岡昇平氏が昭和十三年以来住み、神戸の帝国酸素に勤務のかたわら、アランの『スタンダール』 (昭和十四年)やスタンダールの『ハイドン』 (昭和十六年)などの翻訳を出した。十九年応召したのも二十年十二月十一日比島からの復員先もこの大久保の家。そして『俘虜記』もここで書き始められたのである。『酸素』も帝酸に取材したものである。…」

 ここには、大岡昇平は昭和13年から大久保に住んでいたことになっています。明らかに間違って掲載しています。「文学の旅・兵庫県」は昭和30年に神戸新聞社より出版されていますので、宮崎修二朗は大岡昇平の「妻」、「神経さん」等を読んでいなかったのではないかと思います。宮崎修二朗が昭和52年に書いた「ふるさと兵庫の文学地誌、環状彷徨」では
「…昭和二十年の暮、比島から復員した大岡昇平氏は、国鉄大久保駅の北、通称山崎部落の、今も当時の面影を残す二階建ての借屋に身を落ちつけた。応召する以前、彼は神戸の帝国酸素、のち川崎重工業に勤めるかたわらアランの
『スタンダール』(昭和十四年)やスタンダールの『ハイドン』(昭和十六年)などを訳していた。
第一回横光利一賞を受けた『俘虜記』(昭和二十三年)は、この大久保で執筆が始められたものだ。『妻』『神経さん』なども当時の作だが、後者には「その田舎町のまた町端れの、広い田園を見晴す二階で、私の前線の経験を書いて──  というより書けないで── 過ごした」と当時のことが回想されている。…」

と修正されていました。

左上の写真は昭和30年出版の宮崎修二朗版「文学の旅・兵庫県」です。良くできた本で神戸の文学散歩には欠かせません。昭和52年の「ふるさと兵庫の文学地誌、環状彷徨」の写真を掲載しておきます。

「阪急王子公園駅」
阪急王子公園駅(旧西灘駅)>
大岡昇平の「わが復員わが戦後」の中の「わが復員」を参考にしながら、妻子が疎開していた明石市大久保にたどり着くまでを歩いて見ました。
「…汽車が遂に三宮駅に着いた時、私は自分の家が必ず残っているという殆んど確信に達した。
俘虜の仲間ともこれでお別れだ。もう一生会うこともあるまい。
「さよなら」「御苦労さん」を交わし、手を振って、元気にホームに降り立った。窓々の友人に呼び掛けながら行く。一人は、「大岡、大岡」と忙しく呼んで、「家が焼けたって、あんまり気を落すなよ。何処でも行くとこあるからな」と真剣に慰めてくれる。「はは、大丈夫さ、俺のとこは山の方だ。これまで悪運が続いたんだから、ついでに家だって残ってるさ。さよなら」
省線の駅から新京阪の駅へ渡る間には、露店が並び、蜜柑、大福、煙草を売っている。みんな法外に高いが、比島のインフレとは比べものにならない。前大戦後のドイツとロシャの状態の噂話から類推していた私にとって、すべて意外に品物が沢山ある。
「へっ、何でもあるじゃねえか。何でえ、じや金さえ取って来ればいいってことか。よおし、稼いで見せるぞ。要するに稼げばいいんでしょう。稼げば」と私は殆んど声に出して考えた。かねて収容所で私が計算したところによると、帰還後私が養わなければならぬ親類縁者は十二人いるのである。
無論何をして稼ぐか復員者にあてなどあるはずがないが、いずれ月給で間に合わないとすれば、闇屋でも何でもやるつもりである。前線で生命を守るために、どんなことでもやって来た体だ。
新京阪の駅は、階段の下、ホームの隅、線路上にも、いたるところ糞がしてあった。見下す駅前には闇市場が立って、バラックの間に様々の物品が雑然と並び、何をしているのかわからな小あんちゃんが汚いなりをしてうろうろしている。比島の市場と正確に同じ風景だ。やれやれ、欺ければどこでも同じことか。
電車は西灘に近づき、わが家のあたりのブロックがたしかに残っているのが見えた。町内会長の鈴木さんの庭木も、家の周囲の高級借家の赤屋根も見える。
高架の西灘駅は焼けたと見え、少し先で線路が地面に下りたところに仮の駅があった。附近はやはり闇市である。…」

 大岡昇平は昭和20年12月10日、九州に復員し復員列車に乗って神戸に向かいます。

左上の写真は現在の阪急王子公園駅です。昭和19年6月に出征する時に家族が住んでいた神戸市灘区上野通八丁目に向かうために、三宮で国鉄から新京阪(昭和18年10月 阪神急行電鉄が京阪電気鉄道を合併、京阪神急行電鉄となったためで、昭和23年に解消して現在の阪急電車になる)に乗り換えて、西灘駅(現在の王子公園駅)で下車します。

「灘区上野通八丁目」
灘区上野通八丁目>
阪急王子公園駅から少し登ったところに灘区上野通八丁目はあります。
「…上りは五、六丁ある。上るにつれて焼け残りの家が殖えて来たが、遠くからは一帯に残っているように見えても、近づくと歯の抜けたようにぼこぼこ焼けた家が混っているのがわかる。庭木だけあっても家のない邸もある。道傍のポストが倒れたままだ。いたるところやはり焼跡の狼藉である。
家に近く、電車からは無事に見えた洋館の高級借家も、博多のピルと同じく残っているのは外部だけで、中は、黒々と焼け抜けていた。油断は出来ない。最後に家の見える曲り角で、私は殆んど「一二」と号令をかけるようにして、わが家のかたへ眼を向けた。
家は残っていた。三方が焼けた中に、島のように黒い登が残っている。ざまあ見やがれ。私の足は遠くなった。
見馴れた軒と窓が見える。玄関へ導く階段の手摺も、もとのままだ。洗濯物が干してある。
妻は生きている。しかし待てよ。あの干物は少し変だぞ。どうもうちでは見掛けなかったものだが。留守宅の経済では新しい繊維製品を買えるはずはないのだが。
表札が違っていた。「吉田」。なんだ、これは大家の苗字だ。出て来た婆さんは耳が遠かった。
どうやら大家の親類に当るらしい外、以前の店子としての一応の挨拶にも答えがどうもぴんと来ない。妻の行く先は田舎とだけしか知らない。
町内会長の鈴木さんの家へ行くことにした。幸い奥さんがいて、よくお帰りになりました」と縁側に招じてくれた。
帳簿には、「明石郡大久保町中ノ番菊谷百太郎方」とある。やはりさっき汽車で通った大久保の親類へ疎開していたのである。前線で受取った手紙には「女子供ばかりで疎開をすすめられてますが、あなたと永年暮した家が去り難く云々」とあったが、空襲が激しくなってはいたたまれなかったのであろう。…」

 この辺りは空襲で焼けてしまったはずなのですが、一部焼け残っていたようです。

左上の写真は神戸市灘区上野通八丁目です。大岡昇平が住んでいたのは写真左側の路地を入った右側の角から二軒目になります。高台なので神戸市内や大阪湾が見渡せ、絶景です。

【大岡昇平】
 明治42年(1909)東京の生まれ。旧制中学のとき、小林秀雄、中原中也らを知る。京大仏文で学びスタンダールに傾倒。戦争末期に召集を受け、フィリピンに送られる。戦後、この間の体験を「伴虜記」「野火」などに書き継いだ。ほかに「花影」、恋愛小説に新風を送った「武蔵野夫人」など。たえず同時代に向けて発言するかたわら、「天誅組」「将門記」など歴史小説に一境地をひらいた。(筑摩書房 ちくま日本文学全集より)

大岡昇平 神戸地図 -1-


大岡昇平の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 大岡昇平の足跡
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 - 父貞三郎、母つるの長男として牛込区新小川町で生まれる
明治45年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
3 春 麻布区笄町に転居
大正元年〜
2年
1912〜
13
島崎藤村、フランスへ出発
4 下渋谷字伊藤前に転居
宝泉寺付近に転居
下渋谷521番地に転居
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 5 下渋谷543番地に転居
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 6 中渋谷字並木前180番地に転居
4月 渋谷第一尋常高等小学校入学
大正6年 1917 ロシア革命 8 中渋谷896番地に転居
         
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
29 10月 神戸の帝国酸素株式会社に入社(翻訳係)
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
30 10月 社内恋愛で上村春江と結婚
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 32 2月 長女誕生
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 34 6月 帝国酸素を退社
7月 長男誕生
11月 川崎重工業に入社
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
35 2月 川崎重工東京事務所に転勤
3月 教育召集を受ける
6月 臨時召集となる
7月 フィリッピンに出征
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
36 1月 ミンドロ島で米軍の捕虜となる
12月 復員、妻の疎開先の明石市大久保に住む
12月 和歌山の姉と大叔母を訪ねる



「大久保駅」
大久保駅>
 大岡昇平は灘区上野通八丁目から、三宮に戻り、国鉄にのって明石市大久保に向かいます。下りる駅は大久保駅になります。
「…「…三宮で乗り換えた汽車は丁度勤め帰りの人達で一杯であった。車中の話は食物と闇相場に限られているのは、出征前の十九年と同じである。軍部の回顧的悪口をいうと、じろりと振り返って睨む人種もいる。
大久保の駅は暗かった。駅前から発する道をまっすぐに行くと中ノ番村である。菊谷とは妻の母の兄の家で、戦時中二、三度買出しに来たので知っている。
国道を横切って少し行き、畑中に肥壷のあるところで道が二筋に分れるのを右と覚えていた。道はたしかに分れていたが、肥壷はなく三角の家が建っている。違うかな。あたりに人はいない。ままよ、行くところまで行って見ろ。。…」

 大岡昇平一家の疎開先の付近はすっかり宅地化していて、肥壷などは全くありません。

左上の写真はJR大久保駅です。神戸からは明石駅、西明石駅(新幹線乗換駅)と来て、次が大久保駅となります。普通電車や一部の快速は西明石駅止まりなので、若干交通の便が悪くなりますが、新興住宅街として発展しています。

「大久保駅前」
大久保駅前>
 上記に”駅前から発する道をまっすぐに行くと中ノ番村である”と書かれていますが、現在は駅前広場が拡張され、その道の左側に新たに大通りが出来ています。当時の大久保駅前の状況を大岡昇平は下記の様に書いています。
「…大久保の町は駅から海と反対側に向う一つの通りを中心に開けている。開けているといっても、無論何ほどのこともない。まず駅から取っつきの両側に運送店と飲食店、それから八百屋、魚屋、時計屋、雑貨屋、古道具屋なぞ半町ばかりごたごた並んだ先が、阪神国道の延長である舗装された国道と交る十字路の四隅が、煙草屋、肉屋、旅館、交番で陣取られたあたりで終る。…」
 当時と現在ではすっかり様子が変わってしまっています。

右上の写真は現在の駅前の取っつきのところです。先程も書きましたが左側に全く新たに大通りができてしまっているので、バスなどはそちらを走っています。上記に書かれている取っつきの運送店(日通?)と飲食店(たばこ屋?)は、駅前広場が拡張されており、一筋分無くなってしまっていますので、駅前広場の一部になってしまっています。二号線との交差点のお店は、交番、肉屋(吉川精肉)、旅館(大久保花壇だと思われますが少し交差点から離れている)は確認できました。

「日の出湯」
日の出湯>
 大岡昇一家の疎開先に向かう途中に風呂屋がありました。大岡昇平一家も良く通ったのだとおもいます。
「…「…二里奥の岩岡という村の地主が建てた借家が、ごみごみかたまった一郭である。大久保町大窪百二十七番地、字山崎という集落は、赤煉瓦の風呂屋の煙突をその目標としている。これは一里四方でたった一軒の風呂屋であったから、そこへ一分で行けるところに住居を得た我々は、よほど幸運であったといえる。…」
 お風呂屋さんの煙突は昔のままのようでした。

左の写真は「日の出湯」です。この辺りでお風呂屋さんはここ一軒のようです。

「明石郡大久保町中ノ番」
明石郡大久保町中ノ番>
 大岡昇平の疎開先です。奥様のご両親と一緒に疎開されています。近所には親類の方が住まわれていたようです。
「…「うち、春枝さん、ちょっと歎したろ」 と呟いて小走りに先へ出た。格子を開けて「春枝さん」と頓狂な声で呼んだが、やはり欺す喜びより喜ばす喜びの方が大きかったらしい。
「お父さんが帰って来てだしたで」
「足ありまっせ」といって私も統いて入った。
狭い土間から横へあがり口、そこから梯子段がすぐ二階へ続いている。正面の硝子障子が明るく、人影が動いて騒がしくなった。
真先に戸を開けて出て来たのは妻の父であった。
「ほう、帰って来たか。よう帰って来た。よう帰って来た」と涙声でいって、私の手を把った。
義父の開けた戸口に妻とその妹と義母の逆光線の立姿が重なった。
それからちょっと記憶が欠けている。いつの間にか私ははね退けた蒲団に寄りかかり、みなが半円で私を取り巻いている。案内してくれた誠一君の嫁さんは帰っていた。
「ほんとに、よう帰って来られたね」
と妻は笑った眼で私を見詰める。化粧してない顔は、田舎暮しのせいか何処となく薄ぎたないが、品川で別れた時よりはよほど元気そうである。もう少し感激しそうなものではあるが、まずこれぐらいでもよろしい。
「えへへ、まったくもうちょっとで帰って来んとこやったのや」
と私はさり気なくいったが、声は上ずっている。その声で、密林にマラリヤで倒れていて、どういう風に米兵に助けられたかを早口に喋った。
「よう帰って来た。よう帰って来た」…」

 フイリッピンに出征したのですから、本人も含めて家族も生きて帰えれるとはおもっていなかったでしょう。ただ「俘虜記」などを読むと、軍隊の中でも、米軍との戦いの中でも、上手に生きていくことが出来るのだとおもいました。ようするに、要領の問題だなとおもいました。

右上の写真の正面の家が大岡昇平一家が疎開していたお宅です。家は建て直されていて、昔の面影は全くありませんでした。右側の路地などは昔のままのようです。

大岡昇平 神戸地図 -2-



「川崎重工神戸工場」
川崎重工>
 大岡昇平は復員後、出征前の職場であった川崎重工に出社します。出征中も家族に対して給料が支払われていました。
「…「…神戸の駅で降りた時は午近く、人々は無暗とそこらに腰を下して弁当を使っていた。厚さ二寸もあるような弁当箱に白米のぎっしり詰ったのを、どういうつもりでああ振り廻しながら食べねばならぬのか、私には見当がつかなかった。
神戸の焼跡は明石の焼跡より焼屑が大きいようである。その間をちょぼちょぼ耕して、麦や野菜を植えてある。その中に真直に通った道を長く歩くうちに、私は空腹を覚えた。
大正以来工業都市神戸の繁栄の源であったと誇っているわが造船所の大船台は、米軍が爆撃を留保したのであろう、かつて「瑞鶴」「大鳳」を収容したと同じ偉容を中空に聳えさせていた。しかし周囲の附属建物はあらかた焼けていた。
焼け残りの事務室では古顔の同僚達が、挨のたまった机にぼんやり向っていた。彼等の態度はよそよそしかった。月給取が解雇された旧同僚に対して、どういう顔をするかは誰でも知っている。
「本社の人事部へ行って見給え。君なんかこんなつぶれた会社へ来ないでも、どこでも行くところがあるだろう」と旧部長は弱い声でいった。
本社は神戸の元居留地にある。ここも米軍が爆撃を留保した一郭で、内部は昔ながら綺麗できちんとしている。
「えへへ、復員者は優先的に首ですかね」
と私は顔の白い人事課長にいった。
「さあ、そういうわけではありませんが、事情は察していただけると思います」
そして私は千なにがしの退職手当を貰ってそこを出た。この金額は私が予想していたものの倍であった。造船所へは私は四カ月しか勤めないで応召し、留守宅手当は二十カ月貰っているその上月給の七カ月分の退職金を貰っては申訳ないような気がする。半民半官の会社の性質から見れば、これはほぼ国家から支給されたも同然である。…」

 神戸駅から川崎重工神戸工場に向かい、次に居留地の神戸大丸裏の川崎重工本社に向かっています

左上の写真は現在の川崎重工神戸工場です。神戸新聞のビル(神戸情報文化ビル)の最上階のお店から撮影したものです。川崎重工神戸造船所の大船台とはガントリークレーンのことで、「瑞鶴」「大鳳」もこのクレーンで作られました。現在は無くなっています。

「帝国酸素本社(戦後)」
帝国酸素>
 大岡昇平は川崎重工を訪ねた後、帝国酸素も訪問しています。あわよくば再就職しようとおもったのでしょう。
「…旧湊川の干上った三角洲の突端にある造船所から、新湊川の河口に近い酸素会社へ向う焼跡の道をたどりながら、私はまた空腹を感じた。
酸素会社の古い同僚達が私を見る眼には、新しい「可能性」の荷い手に対する好奇心と畏怖が交っていた。しかしかつての海軍と財閥に阿諛していた幹部達ほ落着き払っていた。海軍は去ったが、財閥は残っていた。彼等は財閥がいろいろな形で会社に固定さしている資産の監視者という新しい任務に安んじていた。資産というものが没収でもされない限り、処置になかなか手間のかかるものであることを、彼等はよく知っていたのである。 将来の大きな方向は決定していると思われた。しかし重役でも平社員でも、すべて一定の給与によって生計を樹てている人達には、将来の大方針のため、目前の利益を無視するということは出来ないものである。
平社員も毎日の生活に追われていた。ある者は彼自身と家族の栄養失調を解決しなければならず、別の者は肺の疾患を押して往復八時間、疎開地から通勤するという状態を改善するためにやっきになっていた。彼等は要するに私の「可能性」にかまっている暇はなかった。私は御愛想に彼等に明石の焼跡で見た焼瓶の話をしたが、 「ほんまにうちの奴かな。でも、大抵の焼瓶やったら、水圧試験やり直したらまた使えまっさ」と冷淡にいった。
フランス人の到着にはまだ一年の間があるそうである。それまでGHQの指示に従って、会社は当らず触らずの方針で運営されるらしい。全国の工業都市にある工場の三分の一が失われていたが、生産力は戦争中に海軍の手によって倍加されていたので、会社はなお戦前を上過る生産力を持っていた。会社は未復員者に対し留守宅手当を払い続けていた。
あてどのない挨拶を投げて事務室を出ると、私が当分ここでは「可能性」、つまり「余計者」の域を出ることが出来ないのを知った。
しかし旧同僚の一人は私が弁当を持っていないのを見て、応接室へ呼び込んでパンの食い残しを薦めてくれた。私は兵隊上りの胃の腑の調節の「可能性」を誇張して話し、妻の立場、つまり家の貧乏を擁護するのに骨を折った。しかし私は結局そのパンを食べたので、相手は私の負け惜しみを憐むような顔をした。…」

 帝国酸素はフランス系の会社でしたが、戦時中に軍部の介入により資本を住友系の会社に分割譲渡されてしまいます。しかし終戦後は住友系の役員は退陣し戦後処理に入ります。昭和21年、GHQの指示により再びフランス系資本に戻ります。

右上の写真は帝国酸素兵庫工場内の本社です。昭和20年6月5日の神戸空襲で京町八十三番地の本社ビルが焼けたため、すぐに生田区栄町一丁目の住友銀行神戸支店の三階に本社を移します。戦後間もなく、帝国酸素兵庫工場内に本社を移しています。


帝国酸素の神戸年表
和 暦 西暦 年  表 帝国酸素の足跡
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 帝国酸素アセチレーヌ会社本社を大阪より神戸に移転
元居留地仲町三八番地
大正9年 1920 国際連盟成立 トーアロードよりセンター街に入る角に本社を移転
(三宮町二丁目三二六番屋敷)
大正12年 1923 関東大震災
市電中山手通り二丁目の山側の西角に本社を移転
(中山手通二丁目十五番地)
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
元の元居留地仲町三八番地に本社を移転
昭和4年 1929 世界大恐慌 東隣の明石町三八番地に本社を移転
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
10月 大岡昇平、帝国酸素株式会社に入社(翻訳係)
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 ビルが川崎重工に回収され、京町八三番地に本社を移転
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 6月 大岡昇平、帝国酸素株式会社を退社
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
6月 空襲により生田区栄町一丁目の住友銀行神戸支店に移転
終戦後、兵庫工場内に本社を移転