<「文学の旅・兵庫県」>
大岡昇平の神戸については、大岡昇平自身の「わが復員わが戦後」しかなかったのですが、宮崎修二朗の「文学の旅・兵庫県」に少しですが、書かれたのを発見しました。甲南荘については前回に掲載しましたので、今回は妻子の疎開先である大久保ついて、掲載します。
「…土山駅のつぎは大久保駅。もう明石市に入ったわけである。
この大久保の町には作家大岡昇平氏が昭和十三年以来住み、神戸の帝国酸素に勤務のかたわら、アランの『スタンダール』 (昭和十四年)やスタンダールの『ハイドン』 (昭和十六年)などの翻訳を出した。十九年応召したのも二十年十二月十一日比島からの復員先もこの大久保の家。そして『俘虜記』もここで書き始められたのである。『酸素』も帝酸に取材したものである。…」。
ここには、大岡昇平は昭和13年から大久保に住んでいたことになっています。明らかに間違って掲載しています。「文学の旅・兵庫県」は昭和30年に神戸新聞社より出版されていますので、宮崎修二朗は大岡昇平の「妻」、「神経さん」等を読んでいなかったのではないかと思います。宮崎修二朗が昭和52年に書いた「ふるさと兵庫の文学地誌、環状彷徨」では
「…昭和二十年の暮、比島から復員した大岡昇平氏は、国鉄大久保駅の北、通称山崎部落の、今も当時の面影を残す二階建ての借屋に身を落ちつけた。応召する以前、彼は神戸の帝国酸素、のち川崎重工業に勤めるかたわらアランの
『スタンダール』(昭和十四年)やスタンダールの『ハイドン』(昭和十六年)などを訳していた。
第一回横光利一賞を受けた『俘虜記』(昭和二十三年)は、この大久保で執筆が始められたものだ。『妻』『神経さん』なども当時の作だが、後者には「その田舎町のまた町端れの、広い田園を見晴す二階で、私の前線の経験を書いて──
というより書けないで── 過ごした」と当時のことが回想されている。…」。
と修正されていました。
★左上の写真は昭和30年出版の宮崎修二朗版「文学の旅・兵庫県」です。良くできた本で神戸の文学散歩には欠かせません。昭和52年の「ふるさと兵庫の文学地誌、環状彷徨」の写真を掲載しておきます。