●大岡昇平の神戸を歩く  戦前編
    初版2008年1月20日
    二版2008年1月28日  <V01L03> 甲南荘の解説で「細雪」を追加
 今週は「大岡昇平を歩く」の四回目を掲載します。大岡昇平は昭和13年10月、友人の紹介で神戸のフランス系企業、帝国酸素株式会社に翻訳係として入社します。京都帝国大学でのフランス文学専攻が役に立つわけです。

「酸素」
<酸素>
大岡昇平は昭和30年12月、帝国酸素時代を素材とした小説「酸素」を新潮社より出版します。大岡昇平が帝国酸素に入社したのは昭和13年10月で、友人の加藤英倫の義弟、鈴木たかしの紹介での入社でした。月給が130円ですからかなりの高給です。後に業務課長代理、神戸支社長補佐となっています。ここでは「酸素」の書き出しを紹介します。
「一人の小男が舷側にもたれ、陸を眺めてゐた。海はまだ暗かった。波を消された港の水が広がってゐた。ドック、突堤、倉庫、起重機、煙突など、港の水際を形づくる設備が、さまざまの光度の燈火を、飾花のやうにつけたまま、次第に輪郭を現はさうとしてゐた。遠く背景の六甲の山は、茜色にあけかける四月の空に影絵を描き、その襞の文様を明らかにするつもりらしかった。小男の妻と子はこの陸のどこかで、多分眠ってゐるはずであった。三年合ってゐなかった。妻は彼が帰れない理由を知ってゐるが、子供は理解しないであらう。彼等は不幸であらう。しかし天皇の名の下に、戦争に駆り立てられてゐる、この陸の住人の大多数に比べて、別に不幸といふことは出来ないと小男は考へてゐた。そして今彼がその陸の沖まで来たのも、家へ帰るためではなかった。赤い標識燈をつけた水上署のラソチが、夜通し浮標に繋がれたこの外国船の周囲に動き廻ってゐた。…」
 最初の書き出しは、神戸港を描写しています。戦前の神戸の状況と、帝国酸素というフランス系企業が海軍の圧力で乗っ取られていく過程を書いています。

左上の写真が新潮社版の「酸素」です。文庫本もあるようですが古本でもあまり見かけません。最後のページに「第一部 終」と書かれていましたので、二部も書かれる予定だったようですが、出版されないまま一部で終わっています。すこし残念です。

「帝国酸素本社跡(昭和13年)」
帝国酸素株式会社>
大岡昇平が入社した「帝国酸素」はフランス系企業でした。溶接に欠かせない「酸素」を高圧ボンベで大量に供給できる企業はこの「帝国酸素」意外になかったようです。この技術を実用化したのはフランス人で、特許も取得しています。第二次世界大戦の直前ですから、海軍もこの技術を得たかったのだとおもいます。逆に言うと、溶接には不可欠な技術なのに日本にはこの技術がなかったといえます。欧米との技術差は歴然としています(よく戦争を始めたものだとおもいます)。
「…神戸に「帝国酸素」という会社があり、わが国における酸素製造工業の草分けであるとともに現在では高圧ガス業界の大手六社中でもトップにせまる成長を示しているが、帝国酸素という会社の名を知る人は多くてもそれが実はフランスの世界的企業レール・リキード(液体空気)会社が株式の78パーセントを保有するフランス資本系の会社であることは、その「帝国」という看板との異和感もあってあまり知られていない。フランス資本主義が、今世紀に入ってまもなく、東洋市場への帝国主義的進出の一環としてわが国に酸素精製工業のパイロット・プラントをつくり、それを母胎として発展した会社だから帝国の名を冠したわけでもない。…… 昭和五年、ようやく高まる産業国策ムードは在日外国法人の存在にきびしさを加えたか、レール・リキード会社は再びその資本の素顔をかくし、住友財閥との共同出資により「帝国酸素株式会社」を設立し、社長に海軍造兵中将有坂紹蔵をいただいたが、社業運営の実権は常務としてH・メルキオールと住友から来た小高親が掌握していた。しかしその後日中戦争から太平洋戦争へとわが国をめぐる国際情勢が悪化していく問に反枢軸国系資本であり重要な軍需戦略産業であるということから二重にチェックされ、昭和一八年軍当局と住友との工作により「帝国圧縮瓦斯株式会社」として再発足し、軍需工業用酸素の増産に拍車がかけられた。かくて昭和一九年には戦時体制化における最高の生産高を記録するに至ったが、まもなく敗戦により一時的には停滞におちいりながらも、やがてわが国の経済再建と各種産業の復興の過程で酸素の生産も回復の一途をたどった。昭和二一年一二月、社名も「帝国酸素株式会社」に復帰し、戦後処理と再建整備がすすめられ、昭和二三年ピエール・クリー代表取締役に就任、正式にレール・リキードの在外法人にもどり、今日の盛業に至っている。 
同社には、作家大岡昇平が戦前から戦中にかけて社員(翻訳係)として勤務していたことがあり、その小説「酸素」はフィクションながら当時の帝国酸素会社をめぐる一種の脱日本的雰囲気をよく伝えているといえよう。…」
 上記は神戸史学会編集「歴史と神戸」のなかの「帝国酸素五十年」からです。帝国酸素についてはこちらの本から情報を得ました。

左上の写真は大岡昇平が帝国酸素に入社当時の本社です。現在の神戸市中央区明石町38(当時も明石町38)神戸大丸の南側、東角で、当時のビルがそのまま残っていました。本社の移り変わりについては「歴史と神戸」のなかの「帝国酸素五十年」から引用しました。「…大正十一年、帝酸の中興の士ともいうべき、バンリー・メルキオール氏が来日して、社長の椅子に就いた。大正十二年本社は、市電中山手通二丁目の山側の西角にいった。間もなく、九月一日に関東大震災が起った。大正十二年十二月に新に液体空気会社日本支社が生れ、帝国酸素アセチレーヌ会社の業務を引継いだ。大正十五年六月、元の仲町三十八番地に新築中の社屋が竣工したのでこれに移った。昭和四年七月東隣りの明石町三十八番地の三階に引越した。一階はナショナル・シティーバンクがおり、二階は独逸染料及びバイエル薬品がいた。その後独系二社がいなくなったので二階も使用することになった。…… 昭和十八年二月、明石町の社屋が川崎重工業に買収せられ、立退を要求されていたので、京町八十三番地(商工会議所の北側)に移った。…」。下記の「帝国酸素の神戸年表」に神戸での本社の移り変わりを掲載しました。それぞれの場所をクリックすると写真を見ることができます。

「帝国酸素兵庫工場跡」
帝国酸素兵庫工場>
帝国酸素の工場も神戸にありました。大岡昇平の「酸素」から引用します。
「…日佛酸素株式会社専務取締役エミール・コラソ氏は、神戸港外の海に画した兵庫工場の屋上を歩いてゐた。鉄筋コソクリート四階建の工場の平らな屋上は、降口の傍に小さな稲荷が祭られてゐるほかは、何もなかった。コラソ氏は新しくフラソスから着いたばかりの技師アソドレ・ラルー氏と並び、日本人工場長山村に、うやうやしく従ほれてゐた。北は須磨鷹取など低山に限られた西神戸が見渡せた。かつて一の谷、湊川、その他幾度か武士が戦った狭い廻廊地帯が、今は工場の高い煙突と、民家の低い瓦屋根に埋められてゐた。南には静かな大阪湾の水が広がってゐる。生駒和泉の山脈が遠く霞み、淡路の山々が、幾重にも襞を畳みながら、右の方明石海峡までせり出して来る。その海峡を越えて来たらしい機帆船が岸に沿って進み、或ひは洲本の漁区に向ふ漁船が斜行する向うを、神戸港を出はづれた欧洲航路の鋼鐵船が、その巨大な體で徐やかに風景をさへぎりながら動いて行った。微風は海から吹いてゐた。その暖い春の風が、工場敷地と海との問に存在する、納戸市糞尿虞理場の古い煉瓦癖の建物から発する、あの日本的な臭ひを含んでゐるのが、新任のラルー技師に對し、コラソ氏のいささか遺憾とするところであった。…」

 当時、工場のあった所には工場は無くなっていましたが、直ぐ近くに関連会社のジャパン・エヤ・アガシズの工場がありました。

左上の写真は帝国酸素兵庫工場跡です。現在の住所で神戸市兵庫区高松町一丁目です。この付近全体が帝国酸素兵庫工場でした。

【大岡昇平】
 明治42年(1909)東京の生まれ。旧制中学のとき、小林秀雄、中原中也らを知る。京大仏文で学びスタンダールに傾倒。戦争末期に召集を受け、フィリピンに送られる。戦後、この間の体験を「伴虜記」「野火」などに書き継いだ。ほかに「花影」、恋愛小説に新風を送った「武蔵野夫人」など。たえず同時代に向けて発言するかたわら、「天誅組」「将門記」など歴史小説に一境地をひらいた。(筑摩書房 ちくま日本文学全集より)


帝国酸素の神戸年表
和 暦 西暦 年  表 帝国酸素の足跡
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 帝国酸素アセチレーヌ会社本社を大阪より神戸に移転
元居留地仲町三八番地
大正9年 1920 国際連盟成立 トーアロードよりセンター街に入る角に本社を移転
(三宮町二丁目)
大正12年 1923 関東大震災
市電中山手通り二丁目の山側の西角に本社を移転
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
元の元居留地仲町三八番地に本社を移転
昭和4年 1929 世界大恐慌 東隣の明石町三八番地に本社を移転
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
10月 大岡昇平、帝国酸素株式会社に入社(翻訳係)
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 ビルが川崎重工に回収され、京町八三番地に本社を移転

大岡昇平 神戸地図 -1-


大岡昇平の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 大岡昇平の足跡
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 - 父貞三郎、母つるの長男として牛込区新小川町で生まれる
明治45年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
3 春 麻布区笄町に転居
大正元年〜
2年
1912〜
13
島崎藤村、フランスへ出発
4 下渋谷字伊藤前に転居
宝泉寺付近に転居
下渋谷521番地に転居
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 5 下渋谷543番地に転居
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 6 中渋谷字並木前180番地に転居
4月 渋谷第一尋常高等小学校入学
大正6年 1917 ロシア革命 8 中渋谷896番地に転居
         
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
29 10月 神戸の帝国酸素株式会社に入社(翻訳係)
11月 甲南荘に転居
12月 神戸市葺合区中尾町54旭アパートに転居
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
30 10月 社内恋愛で上村春江と結婚
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
  2月 灘区上野通八丁目12に転居
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 32 2月 長女誕生
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 34 6月 帝国酸素を退社
7月 長男誕生
11月 川崎重工業に入社
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
35 2月 川崎重工東京事務所に転勤
3月 教育召集を受ける
6月 臨時召集となる
7月 フィリッピンに出征
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
36 1月 ミンドロ島で米軍の捕虜となる
12月 復員、妻の疎開先の明石市大久保に住む
12月 和歌山の姉と大叔母を訪ねる



「甲南荘跡」
甲南荘>
 大岡昇平が帝国酸素に入社したときの下宿が、この甲南荘でした。「酸素」に、「甲山アパート」として登場しています。
「…「…今夜は二科の藤井雅子さんのお家へ寄ります。亡くなった御主人がN大学出身だったんです。えゝと、場所は夙川の……」
「知ってゐます。僕も夙川の甲山アパートにゐるんですから、毎朝前を通ります。お近づきになりたいな……」
「それは丁度よかった。僕は晩飯は大阪で食はなきやならんので、少し遅れますが、うちの奥さりんは参ります。さつき酸素工場にゐた若い人もN大学の今年の卒業生で、奥さんを返って貰ふんですが、── 頼子、行きがけにちょっとお誘ひしなさい。今夜あなたには騎士が二人出来ましたね」 西海中尉が掃ったあと、会社の車はコラン連が乗って行ってしまったので、瀬川夫婦は三宮まで電車で行った。
「あなた、今夜出ないつていってたけど、出るの」 
「あの中尉と仲好くなる必要があるんでね。大阪を早く切り上げて来ます。九時頃になるかな ー 中尉殿の御機嫌を取つといて下さいよ。大分あなたがお気に召したらしい」 
「いやね」
窓外には西神戸の汚い工場の塀と商店が過ぎて行った。電車にはその地区内を往来する、油の染みた服を着た労働者や、子供を背負ったその妻達が、忙がしく乗降した。…」

 帝国酸素本社に通勤するには阪急夙川駅まで300m程歩いて、三宮まで阪急電車に乗ります。後は、神戸大丸の南側の本社まで1km弱歩きます。

 大岡昇平全集を読んでいたら、大岡昇平の「わが師わが友」に甲南荘について書かれているのを見つけました。
「… 先生の夙川甲南荘におけるロマンスは、僕が昭和十三年に神戸の月給取になって、しばらくそこに住んだ頃でも、まだアパートの語り草であった。…」
と自ら書いていすまので、住んでいたのは間違いないようです。この先生は京都帝国大学の生島遼一先生です。

左上の写真の橋を渡った左側に甲南荘がありました。現在の住所で西宮市相生町11付近です。この甲南荘について詳しく書かれた本を見つけました。
「…そこから東に下って阪急夙川駅の西側のガードをくぐり北へ千米ほどもゆくと、そこは「甲南荘」アパートの跡である。戦前まで三階建の洋館があったというが、その跡かたもない。当時の経営者長塩流生氏は西宮市江上町にいるが、氏の話によればそこには評論家の千葉亀雄が大正十五年から昭和三年まで住んでいたという。丸山幹治も昭和一二年から十二年まで、その他洋画家の上野山清貢や伊藤慶之助氏もここに住んだ一時があり、谷崎氏も原稿執筆に芦屋から通って来たともいう。左翼陣営から転向した直後の片岡鉄平も保釈中をこのアパートに身を寄せていた。昭和八年ごろの話である。アパートの住人で野球チームを作ろうということになって、町のアマチュア球団との試合に出場したが、運悪く同じチームのなかにSという検事もいて、いわば呉越同舟で斗った。ところがその小話を耳に擁んだ新聞記者の小さな記事が当局の目に入りR検事は左遷され、鉄平は東京につれ戻されたという笑えぬ挿話もあるという。その後も鉄平は妻子を伴って数年問住んでいた。…」
? 宮崎修二朗の「文学の旅・兵庫県」に「甲南荘跡」として書かれていました。ここでは住所は書かれていなかったのですが、番地は下記の図書を参考にしました。

<「細雪」谷崎潤一郎> 2008年1月28日 甲南荘の解説で「細雪」を追加
甲南荘については、谷崎潤一郎の「細雪」にも登場していました。谷崎潤一郎が夙川の根津家別荘に滞在していたときから、すぐ近くの甲南荘は知っていたとおもいます。
「…彼女は最初、本家は子供が大勢で騒々しいので、幸子の家へ来て作っていたが、そうなるともっと完全な仕事部屋がほしくなって、幸子の所から三十分もかからずに行ける、同じ電車の沿線の夙川の*松涛アパートの一室を借りた。…」
「細雪」の一節です。最後のページに記載されている注解には、「*松涛アパート 武庫郡大社村北蓮毛八四七 (現・西宮市相生町十一番地) にあった三階建て洋館アパート「甲南荘」がモデル。阪急夙川駅からは、北へ三百メートルぐらい。谷崎潤一郎は、ここを『猫と庄造と二人のおんな』などの執筆に利用したことがあった。」、と書かれています。これで詳しい番地も分かりました。かなり有名なアパートだったようです。

「旭アパート」
旭アパート>
 甲南荘から直ぐに灘区の旭アパートに転居しています。昭和15年7月発行の同人雑誌の奥付に発行元として掲載されていました。「酸素」にも少し書かれていました。
「…バスが来た。辻は丁度六甲の駅からこの高さに上り、山際を傳って、布引へ降りるバスの沿線に當つてゐた。良吉のアパートの電話番号は知らなかったが、場所は幾度か自動車で迭ったことがあるので知ってゐた。とっさの思ひつきで、頼子はそのバスに乗ってしまって、取り返しのつかないことをしたと思った。
好子は生れてからこれまで一入で男を訪ねたことがなかつた。殊にアパートなぞといふ独身者の巣に足を踏み久れるなぞ、恩ひも及ばなかった。新聞や雑誌は、昭和の初め頃から流行り出した、これらの孤立した室の風儀について、いかゞはしい話を振り撒いてゐた。
玄関へ呼び出して貰へばいゝんだわ、と彼女は心に呟いた。番人はゐるだろうし、応接間ぐらゐあるだろう、と自分にいひきかせてゐるうちに、バスは急な坂をどんどん降りて、あっと思ふ間もなく、生田川の岸に着いてしまった。
アパートは電車道から川に沿って、二三町山の方へ上ったところにあった。樹立に埋れた屋根の緑色の瓦は酒落てゐたが、漆喰の壁は虞々剥落して水害の跡を示してゐた。「布引アパート」と吹きつけの銅粉で記した碍子戸の傍に、女名前の表札が出てゐた。玄閲のたたきから一尺上って、リノリュームの廊下が眞直に奥に向ひ、曇り碍子の開き戸で終ってゐた。そこに裏庭の緑がうつってゐた。何処かでハタキを使ふ音がし、二階から男の鼻歌が聞えて来た。 …」

 六甲の駅から(阪急六甲駅かJR六甲道駅)から山の手を回って布引から三宮へ向かうバス路線は今でも健在です。上記に電車道とあるのは山手幹線で、市電の駅は熊内一丁目です。因みに市電は廃止されています。

右上の写真の道を200m程上がった左側に推定「旭アパート」がありました。古そうな家だったので多分そうではないかとおもっています。当時の住所で神戸市葺合区中尾町54旭アパートです。

大岡昇平は神戸であと二回転居しています。一カ所は兵庫区夢野町です。番地が不明のため未掲載です。もう一カ所は戦後編で掲載予定です。


大岡昇平 神戸地図 -2-