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甲南荘>
大岡昇平が帝国酸素に入社したときの下宿が、この甲南荘でした。「酸素」に、「甲山アパート」として登場しています。
「…「…今夜は二科の藤井雅子さんのお家へ寄ります。亡くなった御主人がN大学出身だったんです。えゝと、場所は夙川の……」
「知ってゐます。僕も夙川の甲山アパートにゐるんですから、毎朝前を通ります。お近づきになりたいな……」
「それは丁度よかった。僕は晩飯は大阪で食はなきやならんので、少し遅れますが、うちの奥さりんは参ります。さつき酸素工場にゐた若い人もN大学の今年の卒業生で、奥さんを返って貰ふんですが、──
頼子、行きがけにちょっとお誘ひしなさい。今夜あなたには騎士が二人出来ましたね」 西海中尉が掃ったあと、会社の車はコラン連が乗って行ってしまったので、瀬川夫婦は三宮まで電車で行った。
「あなた、今夜出ないつていってたけど、出るの」
「あの中尉と仲好くなる必要があるんでね。大阪を早く切り上げて来ます。九時頃になるかな ー 中尉殿の御機嫌を取つといて下さいよ。大分あなたがお気に召したらしい」
「いやね」
窓外には西神戸の汚い工場の塀と商店が過ぎて行った。電車にはその地区内を往来する、油の染みた服を着た労働者や、子供を背負ったその妻達が、忙がしく乗降した。…」。
帝国酸素本社に通勤するには阪急夙川駅まで300m程歩いて、三宮まで阪急電車に乗ります。後は、神戸大丸の南側の本社まで1km弱歩きます。
大岡昇平全集を読んでいたら、大岡昇平の「わが師わが友」に甲南荘について書かれているのを見つけました。
「… 先生の夙川甲南荘におけるロマンスは、僕が昭和十三年に神戸の月給取になって、しばらくそこに住んだ頃でも、まだアパートの語り草であった。…」。
と自ら書いていすまので、住んでいたのは間違いないようです。この先生は京都帝国大学の生島遼一先生です。
★左上の写真の橋を渡った左側に甲南荘がありました。現在の住所で西宮市相生町11付近です。この甲南荘について詳しく書かれた本を見つけました。
「…そこから東に下って阪急夙川駅の西側のガードをくぐり北へ千米ほどもゆくと、そこは「甲南荘」アパートの跡である。戦前まで三階建の洋館があったというが、その跡かたもない。当時の経営者長塩流生氏は西宮市江上町にいるが、氏の話によればそこには評論家の千葉亀雄が大正十五年から昭和三年まで住んでいたという。丸山幹治も昭和一二年から十二年まで、その他洋画家の上野山清貢や伊藤慶之助氏もここに住んだ一時があり、谷崎氏も原稿執筆に芦屋から通って来たともいう。左翼陣営から転向した直後の片岡鉄平も保釈中をこのアパートに身を寄せていた。昭和八年ごろの話である。アパートの住人で野球チームを作ろうということになって、町のアマチュア球団との試合に出場したが、運悪く同じチームのなかにSという検事もいて、いわば呉越同舟で斗った。ところがその小話を耳に擁んだ新聞記者の小さな記事が当局の目に入りR検事は左遷され、鉄平は東京につれ戻されたという笑えぬ挿話もあるという。その後も鉄平は妻子を伴って数年問住んでいた。…」。
? 宮崎修二朗の「文学の旅・兵庫県」に「甲南荘跡」として書かれていました。ここでは住所は書かれていなかったのですが、番地は下記の図書を参考にしました。
<「細雪」谷崎潤一郎>
2008年1月28日 甲南荘の解説で「細雪」を追加 甲南荘については、谷崎潤一郎の「細雪」にも登場していました。谷崎潤一郎が夙川の根津家別荘に滞在していたときから、すぐ近くの甲南荘は知っていたとおもいます。
「…彼女は最初、本家は子供が大勢で騒々しいので、幸子の家へ来て作っていたが、そうなるともっと完全な仕事部屋がほしくなって、幸子の所から三十分もかからずに行ける、同じ電車の沿線の夙川の*松涛アパートの一室を借りた。…」。
「細雪」の一節です。最後のページに記載されている注解には、
「*松涛アパート 武庫郡大社村北蓮毛八四七 (現・西宮市相生町十一番地) にあった三階建て洋館アパート「甲南荘」がモデル。阪急夙川駅からは、北へ三百メートルぐらい。谷崎潤一郎は、ここを『猫と庄造と二人のおんな』などの執筆に利用したことがあった。」、と書かれています。これで詳しい番地も分かりました。かなり有名なアパートだったようです。