●大岡昇平の鎌倉・大磯を歩く
    初版2008年2月17日  <V01L01> 
 今週は「大岡昇平を歩く」の七回目を掲載します。大岡昇平は昭和23年1月、東京都小金井市の富永次郎(富永太郎の弟)宅に寄寓しますが、12月には鎌倉の小林秀雄宅の離れに移ります。その後、鎌倉から大磯へと転居します。

「雪ノ下の小林秀雄宅離れ」
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大岡昇平は昭和23年1月、東京都小金井市の富永次郎(富永太郎の弟)宅に寄寓しますが、12月には鎌倉の小林秀雄宅の離れに移ります。
「… 戦後、昭和二十三年十一月から翌年の四月まで、私は小林さんの雪ノ下の新居の、離れに同居させてもらった。
彼はその頃はハイゼンベルクと不確定原理について考えていた。私は日本文学がこれら現代科学の成果をその技法に取り入れないのはへんだ、というほど軽薄であったが、小林さんがどう思っていたかは知らない。われわれの心理はもともと不確定なものだが、ハイゼンベルクのいう意味で不確定であるかどうかはわからないだろう。
中林さんはまた量子力学にはリアリティがあるといっていた。…」

 「『本居宣長』前後」からです。鎌倉の小林秀雄宅に移った経緯については、少し探したのですが、あまり書かれたものがありませんでした。富永次郎宅には約一年ほど寄寓していたので、そろそろ転居しようと考えていたのだとおもいます。この後直ぐに鎌倉市内で転居先を見つけます。ハイゼンベルクはドイツの有名な理論物理学者です。

左上の写真は鎌倉市雪ノ下三十九番地の小林秀雄宅跡です。この家は小林秀雄が昭和23年6月に購入したもので、離れもありかなり大きな住まいでした。

大岡昇平 鎌倉 -1-



大岡昇平の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 大岡昇平の足跡
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 - 父貞三郎、母つるの長男として牛込区新小川町で生まれる
明治45年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
3 春 麻布区笄町に転居
大正元年〜
2年
1912〜
13
島崎藤村、フランスへ出発
4 下渋谷字伊藤前に転居
宝泉寺付近に転居
下渋谷521番地に転居
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 5 下渋谷543番地に転居
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 6 中渋谷字並木前180番地に転居
4月 渋谷第一尋常高等小学校入学
大正6年 1917 ロシア革命 8 中渋谷896番地に転居
         
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
29 10月 神戸の帝国酸素株式会社に入社(翻訳係)
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
30 10月 社内恋愛で上村春江と結婚
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 32 2月 長女誕生
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 34 6月 帝国酸素を退社
7月 長男誕生
11月 川崎重工業に入社
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
35 2月 川崎重工東京事務所に転勤
3月 教育召集を受ける
6月 臨時召集となる
7月 フィリッピンに出征
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
36 1月 ミンドロ島で米軍の捕虜となる
12月 復員、妻の疎開先の明石市大久保に住む
12月 和歌山の姉と大叔母を訪ねる
昭和23年 1948 太宰治自殺 39 1月 上京
東京都小金井市中町1丁目の富永次郎宅に寄寓
12月 鎌倉市雪ノ下の小林秀雄宅離れに転居
昭和24年 1949 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 40 5月 鎌倉市極楽寺104番地に転居
7月 鎌倉市極楽寺108番地に転居
昭和28年 1953 朝鮮戦争休戦協定 44 2月 大磯町東町に転居
10月 ロックフェラー財団の給費生として渡米

「極楽寺104番地」
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大岡昇平は鎌倉市雪ノ下三十九番地の小林秀雄宅に6ヶ月滞在し、鎌倉市極楽寺に借家を見つけます。
「…極楽寺へ越して来てから、中村光夫の家が近くなり、よく遊びに行って、啓発されたり、本を借りたりしていますが、去年の夏頃、勉強家の彼はサルトルの『自由への道』を読み出し、面白いから是非読めと薦められました。僕はサルトルは喰わず嫌いの方でしたが、あんまりいわれるので、ちょっとのぞいて見たのが病み附きで、この頃では僕の方から早く読んで廻せと催促するようになってしまった。…」

 中村光夫は東京帝国大学文学部仏文で、小林秀雄とは親しい友人であり、その関係から大岡昇平とも友人になったのだとおもわれます。昭和18年から極楽寺に住んでいます。中村光夫は昭和31年から昭和62年まで芥川賞の選考委員を勤めており、村上春樹の芥川賞選評を読むと、・・・みたいなことを書いています(「村上春樹と芥川賞」を参照してください)。

左上の写真の正面が鎌倉市極楽寺104番地です。当時と変わらないのは階段と石垣だけかもしれません。極楽寺駅からは約400mの距離です。

「極楽寺108番地」
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大岡昇平は極楽寺で直ぐに転居します。僅か2ヶ月で転居していますので、推測ですが、前の家は家族が住むには狭かったため、大きな家が借りられたので直ぐに転居したのではないかと思います。

左の写真の正面付近が108番となります。104番地の裏側になります。ここで4年間過ごします。

「大磯町東町一丁目」
大磯町東町一丁目>
 大磯に転居したのは昭和28年2月です。「俘虜記」、「武蔵野夫人」等が売れて、家を買う余裕がてきたものとおもいます。
「…ぼくの家は、大磯の平塚寄りの海から二丁ばかり入ったところにある。いわゆる湘南ドライブウェイが、東海道といっしょになるちょっと手前で、ここに大磯のバンガロー村がある。……
… 今の大磯の家には、十二畳の客間兼食堂があるが、前の持主がサンマーハウスに建てた家であるから、よろずお粗末に風通しがよくできている。ステレオ室に改造の仕様もない。子供達が大きくなって、東京へ出ようとし っこく言うし、名人の来朝しきりのこの頃では、親父の方も気が動いた。 しかし何分先立つものがないんだから、何を考えたって無駄である。そのやさき、賞金をもらったので、とにかく絨毯を敷きカーテンを厚くして、小林と同じ機械を買い込んだわけである。 なんだかテレフンケンの広告みたいで気がさすが、なるほどこれは不思議な音を出す機械である。ストラヴィンスキーやバルトークがはじめて納得がいった。最近の吹込みは楽器を材料にしたミュジーク,コンクレートの気配がある。演奏会で聞くものとは別物だということがわかる。レコードは音楽を俗化さすというのが、子供の時からほとんどレコード音楽一本で育ってきたくせに、私の生意気な所感であるが、これくらいになると最早どうしようもない。新しい音楽に接するつもりで耳を澄ましているほかはない。…」

 大磯の家はかなり大きな家だったようです。自らが建てたわけではなくて、中古物件を購入しています。お金の余裕が出来てくると、オーディオに凝ったりしますね。この頃から坂本睦子との関係が出来ていたようです(坂本睦子については別途特集したいとおもっています)。

右上の写真の右側一帯が大岡昇平邸跡です。現在は8軒に分割されていました。この後、昭和44年に成城に転居するまで16年間大磯に住みます。大磯駅からは島崎藤村宅とは反対側の東側になります。徒歩で1Km弱です。

次回から戦前の東京、京都を歩きます。

【大岡昇平】
 明治42年(1909)東京の生まれ。旧制中学のとき、小林秀雄、中原中也らを知る。京大仏文で学びスタンダールに傾倒。戦争末期に召集を受け、フィリピンに送られる。戦後、この間の体験を「伴虜記」「野火」などに書き継いだ。ほかに「花影」、恋愛小説に新風を送った「武蔵野夫人」など。たえず同時代に向けて発言するかたわら、「天誅組」「将門記」など歴史小説に一境地をひらいた。(筑摩書房 ちくま日本文学全集より)


大岡昇平 鎌倉・大磯