<「武蔵野夫人」>
大岡昇平は昭和23年1月、疎開先の兵庫県明石市大久保を離れて、上京します。上京先は成城学園で同級であった小金井の富永次郎宅でした(東京二十三区以外の郡部には転入可能となった)。富永次郎は富永太郎の弟です。その当時のことが昭和25年正月から「群像」に連載を始めた「武蔵野夫人」に書かれています。
「… 土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない。「はけ」の荻野長作といえば、この辺の農家に多い荻野姓の中でも、一段と古い家とされているが、人々は単にその長作の家のある高みが「はけ」なのだと思っている。
中央線国分寺駅と小金井駅の中間、線路から平坦な畠中の道を二丁南へ行くと、道は突然下りとなる。「野川」と呼ばれる一つの小川の流域がそこに開けているが、流れの細い割に斜面の高いのは、これがかつて古い地質時代に関東山地から流出して、北は入間川、荒川、東は東京湾、南は現在の多摩川で限られた広い武蔵野台地を沈澱させた古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡で、斜面はその途中作った最も古い段丘の一つだからである。
狭い水田を発達させた野川の対岸はまたゆるやかに高まって楯状の台地となり、松や桑や工場を乗せて府中まで来ると、第二の段丘となって現在の多摩川の流域に下りている。
野川はつまり古代多摩川が武蔵野におき忘れた数多い名残川の一つである。段丘は三鷹、深大寺、調布を経て喜多見の上で多摩の流域に出、それから下は直接神奈川の多摩丘陵と対しっつ腕々六郷に到っている。…」。
大岡昇平らしい書き出しです。丁寧に野川付近を説明しています。この野川はもう少し下流には野川公園があり、村上春樹の「1973年のピンボール」でゴルフ場(当時はICUのゴルフ場だった)として登場しています。
★左上の写真は昭和28年出版の新潮文庫版「武蔵野夫人」です(写真は平成17年発行の17版)。昭和26年の講談社版「武蔵野夫人」の写真も掲載しておきます。