●大岡昇平の東京を歩く -3-
    初版2008年3月2日  <V01L01> 
 今週は「大岡昇平を歩く」の九回目を掲載します。大岡昇平は大正10年4月、青山学院中等部に進学します(府立一中を受験しますが二次試験で不合格となります)。旧制高等学校に入るため、7年制の成城学園に転入します。

「中渋谷七一六番地」
中渋谷七一六番地>
今週は大岡昇平の「少年」を参照しながら、小学校、中学校、旧制高等学校時代を歩きました。大正11年2月、大岡家は大向橋近くから、中渋谷七一六番地(後に栄通二丁目四番地、現、松涛二丁目十四番地)に転居します。父親が株でかなり稼いだようです。
「… 中渋谷七一六番地(後に栄通二丁目四番地、現、松涛二丁目十四番地)の家は、農大通りをずっと東大農学部の方へ行った高台にあった。大向小学校から左へ、円山の台地の裾に沿った道は、三年前までは大向田圃に沿った片側道だったが、この頃では田圃は埋めつくされ、両側に商店が並んだ道になっていた。約三〇〇メートル行って左方の神泉に繋がる谷に会うところで、道は二筋に分れる。右は依然台地の裾をなぞって、鍋島公園 のガへ行くが、本道は頁直に東大農学部を目指して台地を上り出す。約二〇〇メートルの名もない垣 の左手は急な崖に接している。これは農学部の前身、駒場農学校の出来た時、或いは天皇が来た時かなんかに、崖を崩して道を拡げたのである。右側も三メートルぐらい掘り下げられて、切通しの形になっていたという。その土を掘り崩して大向田圃を埋めると共に、坂の右側を約二〇〇坪単位の宅地に造成したのが、この辺一帯の地主で、商売上手の鍋島侯爵である。坂を上ったところで右に切れ、先で坂下で分れた道に合する道までの間に、十一軒の家が建った(付図参照)。 父の買おうとしていた家は、その上から三軒目、坂の途中で唯一つの横丁の上の角屋敷であった。この横丁から下の四軒は少し古く、借主が個別的に建てたらしく、二階家だった。上の三軒は恐らく建売業者の仕事で、平家である。…」
 現在は松涛という高級住宅街の一郭です。ただ車の通行の多い道に面していますので、すこしうるさいかもしれません。

左上の写真正面のマンションのところが、渋谷で最後に住んだ中渋谷七一六番地(後に栄通二丁目四番地、現、松涛二丁目十四番地)です。現在、道の拡張工事が始まっています。少し前までは昔のままだったのですが、残念です。この土地は大岡昇平の父親が亡くなったときに全て処分しています。
「…家の前の道は、前述のように、約二〇〇メートルで農学部正門に達する。しかし家の前で学生の姿を見た記憶はあまりない。道は坂を上り切って、少し行き、農学部正門、か見えて来るところで、右へ曲っている。三角橋(今の東北沢付近) から甲州街道の幡ヶ谷に通ずる幹線道路である。農学部正門はさらに五〇メートル直進し、三田用水を越した先にあって、そこはもう渋谷町ではなく、目黒区駒場である。そこまでの直線の道の左右は空地になっている。左手の空地の奥は杉の疎林になるが、それを通り越すと家のかたまった一劃がある。下宿屋がその中にあるのは、あとで成城高校の同級生の古谷綱武が下宿した時、はじめて知ったわけだが、止宿人は大抵農学部の学生だった。それらの学生の大部分は、地方の地主の息子で、この辺から弘法湯へかけて下宿していたと思われる。渋谷駅から農大通りを通って通学する学生はあまりなかったのではあるまいか。…」。
 東京帝国大学農学部が近くだったため、学生の下宿が農学部までの間にたくさんあったようです。成城高校の同級生の古谷綱武が下宿した所(写真の先)は、現在の山手通りになってしまったようです(昔は山手通りは無かった)。

【大岡昇平】
 明治42年(1909)東京の生まれ。旧制中学のとき、小林秀雄、中原中也らを知る。京大仏文で学びスタンダールに傾倒。戦争末期に召集を受け、フィリピンに送られる。戦後、この間の体験を「伴虜記」「野火」などに書き継いだ。ほかに「花影」、恋愛小説に新風を送った「武蔵野夫人」など。たえず同時代に向けて発言するかたわら、「天誅組」「将門記」など歴史小説に一境地をひらいた。(筑摩書房 ちくま日本文学全集より)


大岡昇平 東京 -3-



大岡昇平の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 大岡昇平の足跡
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 - 父貞三郎、母つるの長男として牛込区新小川町で生まれる
明治45年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
3 春 麻布区笄町に転居
大正元年〜
2年
1912〜
13
島崎藤村、フランスへ出発
4 下渋谷字伊藤前に転居
宝泉寺付近に転居
下渋谷521番地に転居
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 5 下渋谷543番地に転居
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 6 中渋谷字並木前180番地に転居
4月 渋谷第一尋常高等小学校入学
大正6年 1917 ロシア革命 8 中渋谷896番地に転居
大正8年 1919 松井須磨子自殺 10 5月 大向小学校に転校
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 12 4月 府立一中は不合格、青山学院中等部に入学
大正11年 1922 ワシントン条約調印 13 2月 中渋谷716番地(松濤二丁目14番地)に転居
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
16 3月 静岡高等学校を受験したが不合格
12月 成城二中に編入
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
17 4月 成城二中が成城高等学校となる
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
18 9月 アテネフランセに通う
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
19 2月 小林秀雄にフランス語の個人教授を受ける
小林秀雄宅で長谷川泰子と出会う
3月 小林秀雄宅で中原中也と出会う
昭和4年 1929 世界大恐慌 20 4月 京都帝国大学文学部文学科入学
4月 左京区東福ノ川丁(黒谷前)に下宿
5月 上京区塔之段今出川上ルに転居
秋 上京区銀閣寺町付近に転居
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 21 4月 母死去
左京区浄土寺西田町に転居
昭和6年 1931 満州事変 22 9月頃 都ホテル前のアリゾナで矢田津世子、林芙美子に合う
左京区東福ノ川の貸間に移る
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
23 3月 京都帝国大学卒業
3月 坂口安吾が京都に来る
         
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
29 10月 神戸の帝国酸素株式会社に入社(翻訳係)
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
30 10月 社内恋愛で上村春江と結婚
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 32 2月 長女誕生
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 34 6月 帝国酸素を退社
7月 長男誕生
11月 川崎重工業に入社
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
35 2月 川崎重工東京事務所に転勤
3月 教育召集を受ける
6月 臨時召集となる
7月 フィリッピンに出征
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
36 1月 ミンドロ島で米軍の捕虜となる
12月 復員、妻の疎開先の明石市大久保に住む
12月 和歌山の姉と大叔母を訪ねる
昭和23年 1948 太宰治自殺 39 1月 上京
東京都小金井市中町1丁目の富永次郎宅に寄寓
12月 鎌倉市雪ノ下の小林秀雄宅離れに転居
昭和24年 1949 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 40 5月 鎌倉市極楽寺104番地に転居
7月 鎌倉市極楽寺108番地に転居
昭和28年 1953 朝鮮戦争休戦協定 44 2月 大磯町東町に転居
10月 ロックフェラー財団の給費生として渡米


「大向小学校跡(東急本店)」
大向小学校跡(東急本店)>
大岡昇平は、渋谷駅西側の大向橋近く(中渋谷八九六番地)に転居してから2年後に、渋谷駅東側の渋谷第一小学校から、西側の大向小学校に転入しています。
「…大正八年、五年生の一学期から私達宇田川町、上渋谷など、国鉄線路の西側に住居のある者は、大向小学校に転校させられた。前に書いたように四年の三学期から撰抜された男女組を作っていた。『赤い鳥』に「赤リボン」という私の投書した童謡が掲載されたのは、大正八年八月号である。発行は前月の七月末だったはずだから、六月に投書したことになる。ただし肩書は「渋谷小学校五年」となっている。 私の記憶では大向小学校への転校は、校舎の増築がおくれて、一学期の始業式には間に合わなかったような気がする。しかしおくれは大したことはなく、タンポポの咲いている頃に移ったはずである。 理科の時間に、大向小学校の裏の松涛園の地所にタンポポを掘りに行き、その板が長くて掘りにくかったことを報告した記憶があるからである。「渋谷小学校五年」とあるのは、自分の作品といっしょに投書してくれた洋書さんの書き違いだったろう。…」
 渋谷地区の人口が増加し、小学校が足らなくなって新興住宅街である渋谷駅西側に新しい小学校を作ったのだとおもいます。

左上の写真は大向小学校跡の東急本店です。昭和42年に大向小学校は渋谷区役所裏に移転しています(現在の神南小学校に統合されています)。この移転にはいろいろあったようです。

「青山学院」
青山学院>
大岡昇平は府立一中を目指しますが、不合格となり、青山学院中等部に入学します(府立一中の第一次試験には合格しますが、第二次試験で不合格となります)。この年の府立一中の志願者数は1359名、合格者数は161名ですから、大変です。
「…私の進学の目標は洋吉さんと同じ府立一中である。当時の東京の子供の第一志望は一中か四中だったが、渋谷近辺に住居のある子供の第二志望は麻布中学(今日の麻布学園) だった。次が青山学院中学部で、それも駄目なら富ヶ谷の名教中学に落ちて行くことになる。 私は第二志望には麻布中学を省いて、青山学院にするといった。洋吉さんと同じ一中に入れないのなら、あとはどこでもいいのである。麻布中学なんて半端なとこへ入らなくてもいい、という判断には、一中を落ちたみじめな姿で、洋書さんの家の近くの麻布中学へ通うのはいやだという考えがあったかも知れない。父は私の選択に賛成してくれた。珍らしく子供の主張を容れたのは、恐らく父も同じ思いだったのではあるまいか。 私は結局一中の入試に失敗して、青山学院に入る。…」
 富永太郎、小林秀雄、正岡忠三郎などは皆合格していますから、やはり勉強が足らなかったようです。

左上の写真は現在の青山学院正門です。青山通りに面していて、家からも近く大岡昇平にとっては良い学校だったとおもいます。

「成城学園」
成城学園>
大岡昇平は青山学院中等部から旧制高等学校を目指します。しかし大正14年に旧制静岡高等学校を受験しますが不合格となります。相変わらず勉強をしていないようです。ここで、勉強をせずに旧制高等学校へ行く方法を考えます。
「…大正十四年、成城学園四年に編入試験を受けて入り、ついで高等部に進んだ。親父が株屋で、まだ羽振りがよ かったからだ。…… 僕を成城高校へ引っぱったのは、古谷綱武である。彼は外交官であった父親が妹や弟達を連れて帰国したのを機に、宇和島の中学から、青山学院へ転校して来た。校内の僕の「文学的名声」を慕って、ある夜訪ねて来たのである。彼はまたクリスチャンで、親爺に金を出させて、北沢の奥に家を借り、アルバイト貧窮学生二人と共同生活をしていた。…… 古谷は僕同様鈍才だったから、官立の高等学校を受験する資格も志望もなく、裏口入学自由の成城に転校した。僕も古谷にならって、大正十四年の暮に転校し、富永次郎と同級になったのである。 …」。
 大岡昇平は成城第二中学校が七年制の高等学校に変わるという情報を古谷綱武より得て、試験を受けなくても高等学校へ入学できる成城学園に転校したわけです。
 「…富永次郎は大向小学校では僕より一級下であったが、成城高校で同級になった。家は僕の家は栄通、彼の家は富ヶ谷で、四、五丁はなれていた。顔は小学校の時から知っていたが、僕が青山学院で、キリスト教や心境小説に凝っている間に、彼は兄太郎のボへミヤニスムの、感化を受けていたらしい。成城高校はダルトン・プランという、アメリカの自由教育の方針で教えていて、制服はなかった。お釜帽子にボへミヤン・ネクタイをして、昂然とわが家の付近を通りすぎる次郎の姿を、僕は羨望の眼でながめていた。…」。
 成城学園に転校して初めて富永次郎と出会い、富永次郎の兄の太郎のことを知ります。

左上の写真は成城学園への並木道です。小田急の成城駅も地下化して綺麗な駅に変わっていました(昔の成城駅の写真も掲載しておきます)。

「渋谷日本基督会」
尾島教会>
 大岡昇平は渋谷時代に教会に通っています。
「…農大通りに出るところの右側に、尾島という牧師の持っている会があり、町田という親類の子供が大 向小学校の同級生だったことは前に書いた。尾島牧師は丈の低い髭を生やした、しかし目付のやさし い人だった。それまでに牧師としてでなく、友だちのお父さんとして、可愛がってもらった。町田君 は大向小学校を出るとすぐ熊本に帰ってしまったので、その後行く教会はなかったが、キリストのこ とを訊きに行くには、青山学院の先生より身近な存在だった。…… この程、尾島教会のあとが、渋谷の松涛一丁目二十五番地に「渋谷日本キリスト教会」の名で存続していることを知って、訪ねた。尾島師は一九五〇年に死んでいて、森吉という方があとを継いでおられた。この方がすでに八十歳の高齢であったが、尾島師とは戦争中からの知り合いで、古いことは御存知なかった。…」
 上記には「渋谷日本キリスト教会」と書かれていますが、現在は「渋谷日本基督会」となっていました。カタカナと漢字の違いかなとおもいます。

右上の写真は渋谷日本基督会です。中渋谷七一六番地(現、松涛二丁目十四番地)の家の裏側になります。

「大盛堂」
渋谷駅周辺の本屋>
大岡昇平が通っていた渋谷の本屋さんです。
「…青山七丁目から官益坂の間には、高等部、神学部の学生を相手の古本屋が二軒ばかりあり、宮益坂の中途には正美堂という店があった。むずかしい本だけおいてある気配で、古本屋の店先は、なんともいえない臭いと共に、厳粛な気拝になる場所だった。その頃の子供にとって、本屋は本を買うところであると同時に、立ち読みをするところだったが、古本屋には子供の読む本はあまりなかった。
私がよく立ち読みしたのは、駅前の練兵場通り(今日の公園通り)の角にあった大盛堂である。現在少し北へ入ったところに六階建の本のデパートと称するものを建てたのは養子さんだということだが、その頃の主人は頭を角刈にした面長の人だった。立ち読みをする子供にとってこわい小父さんだが、ある程度子供の立ち読みを黙認してくれたと思う。…」

 大盛堂は残っていましたが、宮益坂の正美堂は場所が不明でした。

左上の写真の正面に大盛堂があります(写真を拡大してみてください)。