

今週は大岡昇平の「少年」を参照しながら、小学校、中学校、旧制高等学校時代を歩きました。大正11年2月、大岡家は大向橋近くから、中渋谷七一六番地(後に栄通二丁目四番地、現、松涛二丁目十四番地)に転居します。父親が株でかなり稼いだようです。
「… 中渋谷七一六番地(後に栄通二丁目四番地、現、松涛二丁目十四番地)の家は、農大通りをずっと東大農学部の方へ行った高台にあった。大向小学校から左へ、円山の台地の裾に沿った道は、三年前までは大向田圃に沿った片側道だったが、この頃では田圃は埋めつくされ、両側に商店が並んだ道になっていた。約三〇〇メートル行って左方の神泉に繋がる谷に会うところで、道は二筋に分れる。右は依然台地の裾をなぞって、鍋島公園 のガへ行くが、本道は頁直に東大農学部を目指して台地を上り出す。約二〇〇メートルの名もない垣 の左手は急な崖に接している。これは農学部の前身、駒場農学校の出来た時、或いは天皇が来た時かなんかに、崖を崩して道を拡げたのである。右側も三メートルぐらい掘り下げられて、切通しの形になっていたという。その土を掘り崩して大向田圃を埋めると共に、坂の右側を約二〇〇坪単位の宅地に造成したのが、この辺一帯の地主で、商売上手の鍋島侯爵である。坂を上ったところで右に切れ、先で坂下で分れた道に合する道までの間に、十一軒の家が建った(付図参照)。 父の買おうとしていた家は、その上から三軒目、坂の途中で唯一つの横丁の上の角屋敷であった。この横丁から下の四軒は少し古く、借主が個別的に建てたらしく、二階家だった。上の三軒は恐らく建売業者の仕事で、平家である。…」。
現在は松涛という高級住宅街の一郭です。ただ車の通行の多い道に面していますので、すこしうるさいかもしれません。
★左上の写真正面のマンションのところが、渋谷で最後に住んだ中渋谷七一六番地(後に栄通二丁目四番地、現、松涛二丁目十四番地)です。現在、道の拡張工事が始まっています。少し前までは昔のままだったのですが、残念です。この土地は大岡昇平の父親が亡くなったときに全て処分しています。
「…家の前の道は、前述のように、約二〇〇メートルで農学部正門に達する。しかし家の前で学生の姿を見た記憶はあまりない。道は坂を上り切って、少し行き、農学部正門、か見えて来るところで、右へ曲っている。三角橋(今の東北沢付近) から甲州街道の幡ヶ谷に通ずる幹線道路である。農学部正門はさらに五〇メートル直進し、三田用水を越した先にあって、そこはもう渋谷町ではなく、目黒区駒場である。そこまでの直線の道の左右は空地になっている。左手の空地の奥は杉の疎林になるが、それを通り越すと家のかたまった一劃がある。下宿屋がその中にあるのは、あとで成城高校の同級生の古谷綱武が下宿した時、はじめて知ったわけだが、止宿人は大抵農学部の学生だった。それらの学生の大部分は、地方の地主の息子で、この辺から弘法湯へかけて下宿していたと思われる。渋谷駅から農大通りを通って通学する学生はあまりなかったのではあるまいか。…」。
東京帝国大学農学部が近くだったため、学生の下宿が農学部までの間にたくさんあったようです。成城高校の同級生の
