●大岡昇平を歩く 東京編 -2-
    初版2008年1月5日  <V01L01>
 今週は「大岡昇平を歩く」の二回目を掲載します。大岡昇平は渋谷界隈で小学生時代を過ごしますが、渋谷駅を挟んだ東側と西側で複数回の転居を経験しています。

「大岡昇平」
<大岡昇平(新潮日本文学アルバム)>
大岡昇平の「新潮日本文学アルバム」は非常に良くできていて、今回の「大岡昇平を歩く」では、たいへん参考になりました。
「大岡昇平は明治四十二年(一九〇九)三月六日、東京市牛込区(現、東京都新宿区)新小川町三丁目十番地に長男として生れた。父は貞三郎、母はつる。両親とも和歌山県の出身。父が兜町の株式仲買店に勤める関係で上京して住むようになったため、大岡は主に渋谷で幼少年期を過し、両親の故郷の和歌山を直接知ることはなかった。しかし、このことは、将来の作家にとって大きな謎として残り、戦後フィリピンから復員すると和歌山を訪れ、自己を支えてきた和歌山の親族や家の歴史について、検討しょうとした。大岡昇平の作家としての出発はもちろん『俘虜記』や『野火』などの小説であるが、「自己とはなにか」という謎を軸にした「母」「父」「女相続人」など一連の作品が別にある。生未の知的探求心がそれに加味して、過去の自己の同一性の起源を生涯追求しょうとした。この作家にとって自己といい、経験といい、既知であり、固定したものはなにもなかった。自己追求の過程で大岡昇平を驚愕させた最大の事件は、おそらく母が芸妓であったことを少年時に知ったときのことであるが、後年に家を描いた一連の小説の中で、並みの私小説家であったら徹底して隠蔽するか、逆に露悪的ないしは自虐的に表現するところを、乾いた筆致で描いた。このように家族を描いた小説はー大岡文学にとって重要な一つの山系を形作っている。それは両親の故郷の地理と風土の中で織りなす一つの家系の消長と濃密な関係を描き出して いる。…」
 ここで書かれている大岡昇平の生まれた住所は、新小川町三丁目十番地となっています。「幼年」で書かれている新小川町三丁目十三番地とは違っています。何方が正しいのでしょうか?

左上の写真が大岡昇平版「新潮日本文学アルバム」です。新潮日本文学アルバムは50人以上の作家名で出版されていますが、大岡昇平版はその中でも出来のいい方だとおもいます。

「渋谷駅東口」
<渋谷駅東口>
大岡昇平と渋谷駅は、縁が深いのです。
「…私が引越した大正三年は一九一四年だから、第一次世界大戦の始った年である。漁夫の利を占めた日本に好景気が見舞った年で、渋谷駅付近は大きく変貌しょうとしていた。当時の渋谷駅は約二〇〇メートル南方、いまの貨物引込線が輻輳しているあたりにあった。都電(当時市電)が駅の北側の宮益坂下ガードの手前から南に曲り、鉄橋で渋谷川を渡って、稲荷橋の道にぶつかるところまで来ていた。玉川電車はいまは三軒茶屋から出る世田谷線だけになってしまったが、当時は二子玉川と渋谷を繋ぐ主要な近郊線だった。(第一の目的は砂利を運ぶためだが)東口はいまの駅前広場の南側にあったが、引込線が、稲荷橋通りの西に市電、国鉄と重ったあたりまで来て、そこにも乗ロがあった。つまりこの地域一帯は、すべて旧渋谷駅との関連で設計されていたのである。山手線はもとの日本鉄道で、明治十八年、品川−赤羽間を結んで東海道線、東北線を連結した。中間駅は板橋、新宿、渋谷の三か所、当時渋谷の中心はむしろ広尾方面にあったので、四反町に駅を設けようとしたのだが、土地収用と煙害をおそれて住民が反対し、中渋谷に繁栄を奪われることになったのは前に書いた。…」
 上記に書かれているように、初期の渋谷駅は、現在の渋谷駅よりもっと南側(恵比須側)にあったようです。

左上の写真は少し前の渋谷駅東口です。東急文化会館が写っています。大岡昇平が通った渋谷第一尋常高等小学校がこの東急文化会館の所にありました。残念ながら東急文化会館は現在は無くなっています。

【大岡昇平】
 明治42年(1909)東京の生まれ。旧制中学のとき、小林秀雄、中原中也らを知る。京大仏文で学びスタンダールに傾倒。戦争末期に召集を受け、フィリピンに送られる。戦後、この間の体験を「伴虜記」「野火」などに書き継いだ。ほかに「花影」、恋愛小説に新風を送った「武蔵野夫人」など。たえず同時代に向けて発言するかたわら、「天誅組」「将門記」など歴史小説に一境地をひらいた。(筑摩書房 ちくま日本文学全集より)


大岡昇平 東京地図 -2-


大岡昇平の東京年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 大岡昇平の足跡
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 - 父貞三郎、母つるの長男として牛込区新小川町で生まれる
明治45年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
3 春 麻布区笄町に転居
大正元年〜
2年
1912〜
13
島崎藤村、フランスへ出発
4 下渋谷字伊藤前に転居
宝泉寺付近に転居
下渋谷521番地に転居
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 5 下渋谷543番地に転居
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 6 中渋谷字並木前180番地に転居
4月 渋谷第一尋常高等小学校入学
大正6年 1917 ロシア革命 8 中渋谷896番地に転居



「下渋谷521番地」
下渋谷521番地>
 大岡昇平は大正時代初期に氷川神社周辺の字伊藤前で複数回転居しています。
「…そして多分大正二年のうちに氷川神社の斜面の裾の通りを、一〇〇メートルばかり南へ行って右側の前記下渋谷五二一番地の家へ越した。この家には煉瓦塀があり、引き開けの格子門があった。門を入るとひと跨ぎで玄関になってしまうが、堅牢な煉瓦塀があるのは、この辺ではうちだけだった。父が少し相場を盛り返していたとも考えられるのだが、実はわれわれはこの家の全部を占拠しているのではなかった。玄関二畳、茶の間三畳とそれに接した八畳の奥間だけで、その右手に鍵の手に出張った一翼は (多分六畳一間) は人に貸していた。家の中に、そこから先へ入ってはいけず、開けてはならない仕切りがあるというのは変なものであった。八畳の間とは縁側を隔てた右手に半間の淡藍色の襖があったが、つまみは私が開けないように取り除いてあったような気がする。…」
 氷川神社から南東に100mと書いていますが、下渋谷五二一番地は、もう少し遠くて、250m位離れています。煉瓦堀ももうありませんでした。

左上の写真の左側一帯が下渋谷五二一番地です。「幼年」では地図が掲載されていましたので、参考にすると、写真正面の路地を少し入った左側に住居があったようです。
「…氷川神社の鳥居の前から、私は右に折れ、煉瓦塀の家を目指した。左側の宝泉寺の参道の両側の桜が満開だった。石段の下にお寺さんの子供らしい、十歳ぐらいの、恋の相手として幼なすぎる和服を着た少女が立っていた。風が吹き、花が一画にその少女にふりかかった。私はその光景をなぜか堪えがたいように想い、顔をそむけて歩み去った。この時の旧居訪問で覚えているのはこれだけである。二度目に来たのは、昭和十九年の一月か二月である。当時私は神戸の川崎重工業株式会社の東京出張員だった。それに先立つ五年間神戸に住んでいたので、久振りの帰京だった。近く召集されて戦地へ送り出される予感があり、会社からの帰り、一度五二一番地の煉瓦塀を見に来たことがあった。その年の三月、私は予定通り召集され、やがてフィリピンに送られた。ミンドロ島サンホセの駐屯地で、夜、消燈後の暗闇の中で、自分の生涯の各瞬間を、あますところなく回想した。間近い死を控えて自分が何者であったか、何をしていたかを確認しなければならないような気がしたのだが、実際は回想の楽しみそれ自体が目的だったといえよう。…」
 よほど、印象深い所だったのでしょう。

「下渋谷543番地」
下渋谷543番地>
 下渋谷付近で再度転居しています。下渋谷五二一番地から一筋西に、北西150m位で下渋谷五四三番地となります。
「…その次に越したのは、小沢商店の角を渋谷川の方へ曲ったところである。それから最初の角をまた右へ曲り、すぐ右側の路地の中の家、当時下渋谷五四三番地(現、東二丁目一七番地)の位置であった。路地の入口には門があり、突当りに井戸があった。そこに表通りに面した二軒の家の台所ロと、路地の中の二軒の家の玄関が開いていた。私の家は奥の右側だった。この辺の地勢は小沢商店の前と同じく、南から北へゆるやかな下り斜面になっている。従って私の家の敷地は、路地より少し高くなっていた。玄関まで一メートル弱の段をなしていて、板が渡してあった。この家の間取りは大体記憶に残っている。格子を開けて土間、二畳の玄関から、左手に四畳半の茶の間、奥は八畳の座敷になっていた。八畳間の奥には、形ばかりの縁側があり、その先に下部の透けた板塀まで、一間ばかりの庭があった。五二一番地の家よりは、大分格が落ちるが、こんどは同居人がなく、完全なわが家である。ただなんとなく、日の当らない暗い家という感じがあった。 …」
 下渋谷五四三番地は写真付近一帯の地番で、かなり広い範囲でした。”南から北へゆるやかな下り坂”とは、写真の手前から上に下り坂と言うことのようです。

右上の写真一帯が下渋谷五四三番地です。正面の道を挟んで両側が五四三番地となります。大岡昇平の「幼年」に掲載されている地図を参照すると、正面の道を少し進み左に入った先に住居があったようです。

「中渋谷字並木前180番地」
中渋谷字並木前180番地>
 小学校に入学する歳になった大岡昇平のために一家は渋谷第一尋常高等小学校に近い所に転居します。
「…私がいまの渋谷駅前東急会館の位置にあった渋谷第一尋常高等小学校へ入学したのは、大正四年四月、早生れの私の六歳の時であるが、学校の近くの稲荷橋付近へ引越したのは、その前年の秋のはずである。近所に靴をはいて幼稚園に適っている子供がいて、羨しかったのを憶えているからだ。渋谷川に沿った道で遊んでいたら、下駄臣の前の道で石ケリをした年上の女の子が通りかかり、 「あら、この辺にお越しになったの」 とませた口調で声をかけられ、どぎまぎした記憶がある。その時はまだ学校へは上っていなか った。それは中渋谷字並木前一八〇番地である。… 」
 現在の渋谷駅の南側になります。渋谷駅すぐ東側の246号線を陸橋を渡って南に超えると、暗渠だった渋谷川が表れます。渋谷川西側が中渋谷字並木前180番地となります。

左上の写真の川が渋谷川となります。写真正面の右側手前から3〜4件目辺りが大岡昇平の自宅となります。渋谷川の手前側は暗渠となっています。写真の橋は稲荷橋で、写真右側に田中稲荷があったはずなのですが、現在はありません(昭和26年に区画整理で渋谷三丁目の豊栄稲荷神社に合祀されています)。又、写真の道を右に歩くと、当時は踏切があって、この向こう側に渡れたのですが。
「…いまの渋谷駅南側を跨ぐ首都高速の下の道と、駅東側の通りとの交叉点の西南の角、歩道橋の降り口のところに渋谷川にかかった小さな橋がある。 これが稲荷橋で、橋を渡ると、右側の路地に屋台に毛の生えたような小さな飲食店が並んでいるだけで、道はまもなく東横線の高架の下をくぐり、国鉄用地にぶつかると、左右に分れるさびれた裏道となる。駅付近の区画整理の残り層の、見る影もない一画になっているが、渡って右手の飲屋横丁はもと田中稲荷の境内の参道の名残りである。十年ぐらい前まで、本殿がその北二〇メートルにあったが、首都高速下のバイパスが出来る時、取払われた。飲屋横丁の反対側に、同じくらいの幅の小路が、東横線の高架に沿って南へ入っている。渋谷川との間の狭い地面に、橋の枚は料理店、その次に二軒の町工場が並び、次は空地となって、串の置場になっている。ほぼこの空地の位置、いまの番地でいえば、渋谷三丁目一八番地が、もと私の家のあったところである。 渋谷川を背にした三畳、四畳半、八畳の三間の平家で、格子戸の玄関がすぐ路地に開いていた。── ただしこの家は案外長持ちがして、昭和三十四年に、私が通りすがりにこの路地に入ってみた時は、傾きながらも残っていた。田中稲荷の本殿もまがりなりにもあった。境内の銀杏も幹だけは残っていた。それがいまは元参道の飲屋を除いて、完全に消滅してしまったのだから、この十年の間に、首都の変貌がどんなに急に進んだかがわかる。… 」

「中渋谷896番地」
中渋谷896番地>
 大岡昇平が次に転居したのが渋谷駅西側の中渋谷896番地です。この場所は大岡昇平が渋谷で住んだ中では一番有名な場所だとおもいます。
「…もう少し広い家へ越そうということになったらしく、駒場通りのいまの東急百貨店本館(当時大向小学校、二年後私はここに転校することになる)の手前を右に入ったところに、少し広い借家を見付けて引越した。この辺は官益橋の上で、渋谷川に合流する宇田川の流域である。横丁はだらだら下りになっているが、一つの小さな十字路を左に曲り、すぐ右にカーヴを描いて「大向橋」というコンクリートの橋で、宇田川を越している。その橋の手前右側、中渋谷八九六番地 (現、宇田川町三〇番地)がそれである。横丁は十字路を真直に下ってもすぐ宇田川の岸に出てしまう。この三方を道に因まれた川に画した地所に、同じような新築の借家が二軒あった。その右側は「頼」という、父と同じ兜町の仲間だったので、多分その紹介で見付けた借家だったろう。 家は一間増えただけだったが、前庭が板塀で仕切られ、門があった。粗末な開き門で、斜めに三メートル入ると、すぐ玄関の格子戸になってしまうのだが、それまで氷川前の家、稲荷前の家と、道からすぐ玄関になる家に住んでいた私には、ひどく大きな家に入ったような気がした …」
 この付近は、区画整理がされておらず、昔の道もそのまま残っていました。

右上の写真は井の頭通りです(右に曲がっていきます)。正面右側に交番があり、大岡邸の裏を流れていた宇田川が交番左側の道になっていました。大岡邸は交番左の「大向橋」を越えた辺りになります(「大向橋」は無くなっています)。


大岡昇平 東京地図 -3-