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●大岡昇平を歩く 東京編 -1-
    初版2007年12月23日  <V01L04>
 今週から「大岡昇平を歩く」を掲載します。大岡昇平は小林秀雄、中原中也と友人であり、当時の文学界を知る上で非常に重要な作家です。少し時間が掛かけて掲載していきたいと思います。

「幼年」
<幼年 大岡昇平>
 大岡昇平関連のどの本を参考にして歩こうかと思ったのですが、やはり自伝的な「幼年」、「青年」を参考にしながら歩くことに決めました。「幼年」の書き出しです。
「私の少年時代は主に渋谷ですごされた。生れたのは、牛込区新小川町三丁目であるが、三歳の時、赤十字病院前麻布区笄町(現、南青山七丁目)に引越した。これは渋谷町羽根沢(現、広尾三丁目)に接している。それから大正十一年までの間に、渋谷の氷川神社付近、渋谷駅付近、宇田川町、松濤へ、合計七度越している。渋谷区を東南の端れから、西北の端れまで移動したことになる。 大正年間に東京郊外で育った一人の少年が何を感じ、何を思ったかを書いて行けば、その間の渋谷の変遷が現われて来るはずである。「私は」「私が」と自己を主張するのは、元来私の趣味にない。渋谷という環境に埋没させつつ、自己を語るのが目的である。…」
 大岡昇平は東京生まれの東京育ちで、純粋の江戸っ子なのですが、両親は和歌山の出です(「和歌山を歩く」で特集します)。大学はどういう訳か京都帝国大学に通います。その後は神戸の帝国酸素、川崎重工に勤めたりします。戦争末期に召集を受け、フィリッピンの捕虜収容所で終戦を迎えます。この体験を「伴虜記」「野火」などに書き、一躍有名になります。

左上の写真が大岡昇平の「幼年」です。「わが生涯を紀行する」として昭和46年(1971)1月の「潮」から、同誌の後身である「日本の将来」に昭和47年(1972)11月まで掲載されたものです。大岡昇平の生誕から小学校までが書かれています。

「新小川町交差点」
牛込区新小川町>
 大岡昇平が生まれたのが牛込区新小川町です。この付近は江戸川乱歩も大正4年から5年に住んでいます。
「…私の生れは明治四十二年三月六日、東京市(現、都)牛込区(現、新宿区、以下特に断らない限り、当時の区町名を使う)新小川町三丁目一三番地で生れた。飯田橋の北に接して、江戸川の右岸に沿った町である。その江戸川橋寄りの川の屈折部を「大曲」といった。父は日曜の休みにはその下で釣りをしたという。現在では想像出来ない状況である。 父貞三郎三十三歳、母つる二十四歳の長男であった。…」
 大岡昇平の「幼年」には上記のように生まれた場所は新小川町三丁目十三番地とかかれていました。大岡昇平全集は昭和50年に中央公論社版、昭和58年に岩波書店版、そして最後の筑摩書房版が平成7年に出版されています。一番最初に出版された中央公論社版には、新小川町三丁目十三番地と書かれていましたが、岩波書店版には新小川町三丁目十番地と修正されていました。その後の大岡昇平に関する本(新潮日本文学アルバム、群像 日本の作家等)では新小川町三丁目十番地と、統一されていました。十番地が正しいようです。

左上の写真正面の角から右に二軒目36山京ビルの右隣が新小川町三丁目十三番地で、十番地は写真の交差点を左に曲がった左側になります。「幼年」にもう少し詳しく新小川町のことが書かれていました。
「…飯田橋から江戸川添いのいわゆる「目白通り」を北へ約四〇〇メートル行き、二つ目の角を左 へ曲る。両側にたばこ屋、食料品店などがあるあたりに、「新小川町」と標識の出たゴーストップがある。その角を右へ切れると、左右は工務店、合金工場、塗料工場などに、すし屋、喫茶店などがまじった幅員四メートルくらいの町工場街になる。これが新小川町二丁目と三丁目の境の通りである。…… 一四番地は大きな地番で、一三番地はその東南の角を借りたような形になっている。現在は地番の境を西に折れ曲った路地が入り込んでいて、小さな住宅に分割されているが、昔は一四番地は多分一つの大きな屋敷だったので、地番も不分割のまま現在に至っているのではあるまいか。一三番地の全部は百坪ぐらいで、現在は二階半ぐらいの鉄筋の建物で占められている。「関根近次郎商店」がその名で、「トラス」というコンクリートの二次製品(埋設電線を保護するブロック)を販売している。路地の入口と、建物の裏側が一四番地になっているのは昔のままである。多分関根商店は一四番地へ少しはみ出しているに違いない。…」
 十三番地を説明しています。大岡昇平は飯田橋からの詳しい経路を書いています。上記に書かれている「関根近次郎商店」は社名が「株式会社ヴェインシステムズ」と変わっていますが、所在地はそのままです。

【大岡昇平】
 明治42年(1909)東京の生まれ。旧制中学のとき、小林秀雄、中原中也らを知る。京大仏文で学びスタンダールに傾倒。戦争末期に召集を受け、フィリピンに送られる。戦後、この間の体験を「伴虜記」「野火」などに書き継いだ。ほかに「花影」、恋愛小説に新風を送った「武蔵野夫人」など。たえず同時代に向けて発言するかたわら、「天誅組」「将門記」など歴史小説に一境地をひらいた。(筑摩書房 ちくま日本文学全集より)


大岡昇平 東京地図 -1-


大岡昇平の東京年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 大岡昇平の足跡
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 - 父貞三郎、母つるの長男として牛込区新小川町で生まれる
明治45年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
3 春 麻布区笄町に転居
大正元年〜
2年
1912〜
13
島崎藤村、フランスへ出発
4 下渋谷字伊藤前に転居
宝泉寺付近に転居
下渋谷521番地に転居
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 5 下渋谷543番地に転居



「日赤通り商店街より」
麻布区笄町一八〇番地>
 麻布区新小川町から麻布区笄町一八〇番地に転居します。新小川町からは直ぐ近くになります。
「…それから渋谷町羽沢(羽根沢とも書く。現、港区広尾三、四丁目)の赤十字病院の前の家へ引越したのがいつだったか、もはや確かめる手段はない。ピアノを弾いている嘉子さんの記憶が二歳の時とすると、その翌年、私が三歳になった明治四十五年の春か夏ではないだろうか。赤十字病院の北側に沿って上る御太刀坂という坂道は、正門のある角で、首都高速三号線の下の道(もと青山六丁目と六本木をつなぐ路面電車線)から高樹町で曲り、広尾へ抜ける道にぶつかる。そこに病院の正門があるが当時の正門は敷地に沿って二〇メートルばかり西南にあった。古風な石柱があり、木の格子で閉鎖してある。その向い側を北へ向って幅四メートルばかりの細い道が入っている。この道はゆるく左へカーヴしながらやがて国学院大学前から、氷川神社裏へ抜けるその頃の幹線道路で、元の麻布区、赤坂区と下渋谷(つまり旧東京市内と豊多摩郡渋谷町)との境界になっていた。わが家はその道を三〇メートルばかり行って、右側の路地の突当り、当時麻布区笄町一八〇番地(港区南青山七丁目一四番地)にあった。その路地の右側は、わが家の玄関までずっと空地で、その向い側、つまり赤十字の側にまた一つ路地が入っていた。この路地の突当りからまた右へ(つまり赤十字の側へ)細い路地があるが、その左側に、やはり哲吉伯父の家があった。…」
 細かく書かれていますので、場所は直ぐに分かりました。

左上の写真の正面の道を少し入って二本目の角を右に曲がった小道を入ったところが大岡昇平の邸宅があったところです。麻布区笄町一八〇番地は広すぎて地番だけでは場所の特定は困難でしたが、「幼年」に書かれている地図を参考にして場所を特定しました。

「氷川神社」
下渋谷字伊藤前>
 麻布区笄町一八〇番地から、下渋谷字伊藤前に転居します。大岡昇平本人もこの字伊藤前の詳細な場所は分からなかったようです。
「…渋谷の奥深く、氷川神社の鳥居の前、当時下渋谷字伊藤前といった方へ越して行く。…… 笄町の家の前から氷川神社へ至る道は、前述のように幅四メートルぐらい、今日では脇道になっているが、当時は東京市内と渋谷川流域を結ぶ幹線道路の一つであった。…… 「伊藤前」で最初に入った家について、実ははっきりした記憶がない。対話の記憶を伴った記憶がはじまるのは氷川神社の鳥居の前から、一〇〇メートルばかり南の、いまの渋谷東一丁目二四番地(当時、中渋谷五二一番地)の家からである。ただそこへ移る前に、宝泉寺付近の、少し高いところにある家にいたことだけ覚えている。 …」
 この辺りの路は細い路地が入り組んでいて、昔のままです。

右上の写真が氷川神社正面です。当時はこの付近一帯(かなり広い)が字伊藤前で、番地が分からないと詳細の場所は探せません。

「氷川神社別当宝泉寺」
氷川神社別当宝泉寺>
 字伊藤前で、宝泉寺の辺りに一度転居したようです。
「…渋谷川流域の広尾下渋谷一帯を氏子とする氷川神社である。祭神は素義男命、大己貴命、社伝は日本武尊東征の時の勧請と伝える。本殿は練兵場に横腹を向けて南面し、横手から三層の階段が折れ曲って合せて四十段ぐらい、西方へ降りている。これが青山台地の西端で、渋谷川に面した斜面の下は、渋谷駅付近から恵比寿、広尾町方面に連なる渋谷川左岸の廻廊地帯である。石段を降りかかって左側にだらだら坂が平行している。これがいわゆる「女坂」で、その向う側は氷川神社別当宝泉寺の境内で、参道は別についている。石段下から石畳が西方に約三〇メートル延びている。一つの石の鳥居を出て、両側に商家の並んだ参道をさらに五〇メートル下りると、渋谷川の左岸の当時のいわゆる川端通り(後の中通り)に出る。 その参道東側に渋谷区役所があった。(現在分所がある)… 」
 氷川神社の直ぐ横に宝泉寺がありました。この場所も地番が不明で詳細の場所は分かりませんでした。

左上の写真の正面が宝泉寺です。この付近に転居したのだとおもいます。上記に書かれている”氷川神社参道東側に渋谷区役所があった”は、現在は氷川出張所になっていました。昔は区役所だったとは知りませんでした。

「大岡昇平を歩く」は次回も渋谷を歩きます。

大岡昇平 東京地図 -2-



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