<幼年 大岡昇平>
大岡昇平関連のどの本を参考にして歩こうかと思ったのですが、やはり自伝的な「幼年」、「青年」を参考にしながら歩くことに決めました。「幼年」の書き出しです。
「私の少年時代は主に渋谷ですごされた。生れたのは、牛込区新小川町三丁目であるが、三歳の時、赤十字病院前麻布区笄町(現、南青山七丁目)に引越した。これは渋谷町羽根沢(現、広尾三丁目)に接している。それから大正十一年までの間に、渋谷の氷川神社付近、渋谷駅付近、宇田川町、松濤へ、合計七度越している。渋谷区を東南の端れから、西北の端れまで移動したことになる。 大正年間に東京郊外で育った一人の少年が何を感じ、何を思ったかを書いて行けば、その間の渋谷の変遷が現われて来るはずである。「私は」「私が」と自己を主張するのは、元来私の趣味にない。渋谷という環境に埋没させつつ、自己を語るのが目的である。…」。
大岡昇平は東京生まれの東京育ちで、純粋の江戸っ子なのですが、両親は和歌山の出です(「和歌山を歩く」で特集します)。大学はどういう訳か京都帝国大学に通います。その後は神戸の帝国酸素、川崎重工に勤めたりします。戦争末期に召集を受け、フィリッピンの捕虜収容所で終戦を迎えます。この体験を「伴虜記」「野火」などに書き、一躍有名になります。
★左上の写真が大岡昇平の「幼年」です。「わが生涯を紀行する」として昭和46年(1971)1月の「潮」から、同誌の後身である「日本の将来」に昭和47年(1972)11月まで掲載されたものです。大岡昇平の生誕から小学校までが書かれています。