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最終更新日:2006年2月20日

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●稲荷神社散歩 2002年2月2日 V02L01


inarijinjya29w.jpg 初午が近づいてきましたので、今週は岡本綺堂の「風俗江戸東京物語」を参照しながら、書かれている”八つの東京の稲荷神社”を廻ってみたいと思います。2002年の初午は2月7日、二の午は19日です。この「風俗江戸東京物語」は1.風俗江戸物語、2.風俗明治東京物語、3.明治東京雑題、の三章からなっており、原本は大正12年に出版されたものです。なかなか面白いので一度読まれるといいと思います。話は戻りますが、初午については「二月初めの午の日を初午といい、次を二の午、次を三の午と唱えて、所々の稲荷の社で祭礼を執行する。そもそも稲荷の本社は山城国紀伊郡にあって(京都市伏見区の伏見稲荷のこと)、その神体出現は和銅四(七一一)年二月九日、即ち初午の日に相当するを以て、今もこの日を祭日と定めているという。だが、そんな縁起はしばらく略して、元来この江戸には稲荷の社のおびただしきこと実に驚くばかりで、伊勢屋稲荷になんとやら(犬の糞)という僅諺さえ存しているくらいであるから、一町内に必ず一、二の社はある。その他にも王子の稲荷、または葛西金町半田の稲荷などという朱引外の社も少なからずであるから、大小合わせて五千有余社、倉稲魂(うかのみたま)の御威勢、実に盛んなものである。」とあります。稲荷神社の本山は京都伏見の伏見稲荷神社で、赤い鳥居が山の上までビッシリ並んでいるので有名な稲荷神社です(昔、資生堂のコマーシャルで使われていたのを覚えています)。初午とは京都の伏見稲荷神社の神が地上に降りた日がこの日であったとされ、全国で稲荷神社を祭ります。

左の写真は初午で購入した「王子稲荷神社」の火防お守り『火伏せの凧』です。1200円でした。

【稲荷神社散歩地図】←ここをクリックして地図を出してください。

<岡本綺堂>
 岡本綺堂は明治5年(1872)10月15日、東京芝高輪に生まれます。府立第一中学校卒。劇作家を志して「東京日日新聞」に入社、大正2年にようやく記者生活から離れて作家活動に専念しています。二世市川左団次のために『修禅寺物語』 『専町御所』 『佐々木高綱』 『鳥辺山心中』 『番町皿屋敷』 など70余偏の史劇を書いています。その後は巷談劇として『権三と助十』 『相馬の金さん』 『正雪の二代目』などや、読者に一番よく知られている江戸の町の推理小説『半七捕物帳』を68編を次々に書き、以後の捕物小説のモデルとなりました。昭和14年(1939)3月1日目黒区上目黒の自宅で死去します(68歳)。(作家の臨終墓標辞典を参照)

inarijinjya11w.jpg<半田稲荷神社>
 都心からは少し遠いですが葛飾区東金町にあります。当時の初午の賑わいを本では「町家ばかりでなく、武家屋敷にもたいていは鎮守として稲荷勧請の社があったから、初午当日の繁昌はすこぶる目覚ましいもので、大いなる社では社殿において神楽を奏し、幣帛を捧げ、五色の幟を立て、笛太鼓を囃し立てる。したがって名も知れぬ横町、または裏店の空地に鎮座まします稲荷さまも、当日は神前にお定まりの神酒・赤飯・油揚げ、その他の供物を捧げ、地口行燈を掛け連ね、町内の子供たちが寄り集まって太鼓を叩く、笛を吹く。中には大人が寄って素人茶番を催す。」とあります。金町駅から約1Km程で、葛西神社の先です。

左の写真が半田稲荷神社の入口です。正確な創建年代などは明らかになってはいませんが、享保(1716〜35)の頃には麻疹、疱瘡、安産に霊験がありとして広く信仰されていました。石柵の柱や袖石に刻まれているのは、新富町大新をはじめとする寄進者たちの名前です。なかには市川団十郎、尾上菊五郎など新富座の役者の名前も見え、当神社の繁栄を今に伝えています。(教育委員会の紹介文より)


inarijinjya13w.jpg<王子稲荷神社>
  JR王子駅から京浜東北線沿いに森下通り商店街を少し歩くと、左手に王子稲荷神社が見えてきます。この神社は江戸時代には関八州の稲荷神社の総社となっていました。毎年大晦日の晩に関東地方の狐が集まって、装束稲荷神社のところで高級女官の装束に改めて、行列を調えてここに参拝したという装束狐の伝説が残っています。今年の初午(7日)に出かけてみましたが、火難厄除けのお守りの火伏せの凧をもとめる参詣客で大賑わいとなっていました。火伏せの凧を買い求めるのに30分位並んでしまいました。午前中でしたが、年配の方ばかりの凄い人出で、熟年パワーには圧倒された一日でした。

右の写真が王子稲荷神社です。現在の社殿は文政5年(1822)に建てられたもので「落語の王子の狐」の舞台として知られています。初午の日に催される凧市も人気があります。社殿の右を登ると「狐の穴」と呼ばれている穴があり、昔の雰囲気をそのまま出しています。

inarijinjya15w.jpg<真崎稲荷神社>
 真先(崎)稲荷は天文年間(1532〜1554)石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝えられています。もともと隅田川沿岸にあり、その門前は景勝地として知られていたようで、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は、対岸の三囲稲荷の狐と並んで有名だったそうです。江戸中期から参拝する人が多くなり、宝暦7年(1757)ころには、吉原豆腐で作った田楽を売る甲子(きのえね)屋、川口屋などの茶屋が立ち並んで、大いに繁昌しています。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの信者なり」など、当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれています。大正15年(1926)、石浜神社に併合されています。(教育委員会の紹介文参照)

左の写真が石浜神社です。現在の真崎稲荷は荒川区南千住3丁目38番の石浜神社境内にあります。以前は同28番地の東京ガス千住工場内、東部隅田川よりにあったのを、同工場北部にあった石浜神社と共に工場建設に伴い現在地に移転したものです。

inarijinjya17w.jpg<三囲稲荷神社(みめぐり)>
 もとは現在地より200mほど南の田の中にあって「田中稲荷」と称していました。文和年間に近江国三井寺の僧源慶が再建したものです(再建しょうとしたときに突然白狐が現れ、神体の周りを三回まわって消えたので三囲稲荷と呼ぶようになったそうです)。本では「府下で有名の稲荷は一々数うるに暇あらず。そのうちでも主なるものは王子稲荷、向島の三囲稲荷、浅草田町の袖摺稲荷、橋場の真崎稲荷、芝の烏森稲荷、赤坂の豊川稲荷、吉原の九郎助稲荷等で、近来は羽田の穴守稲荷が大いに繁昌するという。」とあり、明治の末期頃は王子稲荷についで人気のあった稲荷神社だったようです。三井寺ですので、三井家のゆかりの神社で、三越本店屋上にも三囲稲荷神社が祀られています。境内にある有名な三柱鳥居は、もともと三井家にあったものを移したたそうです。

右の写真は三囲稲荷神社です。昔はこの三囲稲荷神社の隅田川堤と浅草三谷堀口の今戸橋とを結ぶ竹屋の渡しがあり、隅田川の私の代表的な存在でした(昭和6年3月までありました)。
 

inarijinjya19w.jpg<袖摺稲荷神社>
 岡本綺堂の「半七捕物帳」の”広重と川獺”の中にも登場します。「これは安政五年の正月十七日の出来事である。浅草田町の袖摺稲荷のそばにある黒沼孫八という旗本屋敷の大屋根のうえに、当年三、四歳ぐらいの女の子の死骸がうつ伏せに横たわっていたが、屋根のうえであるから屋敷の者もすぐには発見しなかった。かえって隣り屋敷の者に早く見つけられて、黒沼家でも初めてそれを知って騒ぎ出したのは朝の五ツ(午前八時)を過ぎた頃であった。」とあり、昔から有名な稲荷神社だったようです。しかし現在は今回紹介した稲荷神社のなかで一番小さな神社でした。

左の写真が現在の振袖稲荷神社です。浅草寺の裏手から吉原に向かい、浅草署の先を右に曲がり、もう一度右に曲がった所にあります。下町のビルの間にありますので、なかなか探すのに苦労しました。


inarijinjya20w.jpg<九郎助稲荷神社(吉原神社)>
  吉原神社は明治14年までは吉徳稲荷といい、大正12年9月の関東外震災までは大門外の五十間道にありました。樋口一葉の「塵中日記」の中に吉原神社の記述があります。「今宵、くに子と共に吉原神社の縁日みる。例之歌うたひが美音をきく。」とあり、明治26年11月29日の午の日の縁日のようです。

吉原の九郎助稲荷は江戸時代には、いわゆる新吉原の南東隅、いまの台東区千束3丁目1番にありましたが、明治5年に吉原の他の隅にあった榎本稲荷、明石稲荷、開運稲荷とともに合祀、新たに吉原神社として千束3丁目20番に設置しています。

inarijinjya21w.jpg<烏森稲荷神社>
 新橋の駅前の露地を入ったところにあるのが烏森神社(烏森稲荷神社)です。本では「殊に芝の日比谷稲荷、烏森稲荷は、当日は神輿を担ぎ出し、山車を曳き出すなど、実に凄じい賑わいで、この日に限って他の神様や仏様はあれどもなきが如くの光景であった。「初午やほかの社は神無月」という俳句も、「初午や狸つくづく思ふやう」という川柳も、その当時の倉稲魂や狐の繁昌を証したものであろう。」とあります。

左の写真が烏森神社の入口です。JR新橋駅の烏森口側にあり、注意してみていないと通りすぎてしまいます。参道の両側は飲み屋街で私も昔はよく飲んだ場所です。奥に本殿があり、鉄筋コンクリートのビルになっています。

inarijinjya23w.jpg<日比谷稲荷神社>
 明治に入って稲荷神社は数が減ってきます。「稲荷も三、四十年前まではかくの如き威勢であったが、明治以来、万事の古例慣習がだんだんに廃れてゆくと同時に、憂きには洩れぬ稲荷様も次第に世をせばめられて、午祭も年々に廃れてしまった。ましてや地価謄貴して、裏店の奥ですらもー坪十銭という当世に、地代も払わぬ稲荷棟などに快く地所を貸しておく地主は甚だ少なく、いやしくも空地があれば社も華表も容赦なく取り毀して、貸長屋を建てるというのが一般の流行であるから、以前に比べると社の数も大いに減じた。」とあります。この本が書かれたのが大正12年ですから、明治、大正となるにつれて、段々みみっちくなってきたようです。特にここの日比谷稲荷神社をみるとそう思いますね。新橋の駅に近い場所で、ビルの間に挟まれてほそぼそと生き長らえています。

右の写真が日比谷稲荷神社です。こんな所にこんな稲荷神社があるとは知りませんでした。ビルの間に挟まれて殆ど気がつかずに通りすぎてしまいます。


inarijinjya25w.jpg<豊川稲荷神社>
  文政11年(1828)の創建で、もとは赤坂一ツ木町の旧大岡家邸内に有り大岡越前守が信仰したので盗難除けに霊験があるとされています。明治20年に当地に移転しています。

左の写真は初午の豊川稲荷神社です(現在は港区元赤坂1−4で、青山通りの青山御用地隣です)。大正10年の永井荷風「雨瀟瀟」の中でこの地を紹介しています。「坂地なれば庭平ならぬ処自然の趣面白く垣の外すぐに豊川稲荷の森に御座候間隠居所妾宅にほまづ適当と存ぜられ候。昨日見に参候折参詣人の拍手拍つ音小鳥の声木立を隔てゝかすかに聞え候趣大に気に入り申候。」とあり、隠居所・妾宅などに適した静かな地域であったようです。商家で有名だったのは羊羹で有名な虎屋(当時は宮内省御用菓子商)で裏町3丁目にありました。現在は港区赤坂4丁目の表通りに移っています。

inarijinjya27w.jpg<穴守稲荷神社>
 もとは羽田空港内にありましたが、昭和20年に米軍に接収され、いったん羽田神社に合祀されましたが、昭和27年7月、羽田飛行場が米軍から変換されたときに当地に再建遷座されています。しか赤鳥居だけは旧ターミナルビルの前に残されましたが、新ターミナル建設のときに弁天橋の側に移されています。夏目漱石の「我輩は猫である」の一節にも穴守稲荷神社は紹介されています。「序でだから御三の顔を一寸紹介するが、それはそれはふくれたものである。この間さる人が穴守稲荷から河豚の提灯をみやげに持って来てくれたが、丁度あの河豚提灯の様にふくれている。」。当時は河豚の提灯がお土産だったのですね。現在は売ってはいませんがなかなか面白いです。

右の写真が穴守稲荷神社です。参拝客が増えだしたのは明治20年頃からで、明治27年(1894)に和泉茂八が温泉を発見、料亭や旅館が門前に進出したため、歓楽地となりました。明治35年(1902)には、京浜電車が稲荷橋まで開通、参道にはおびただしい数の鳥居と茶店、土産物店などが立ち並び、大正2年(1913)に、さらに神社前まで電車が入るようになり、その発展ぶりは目をみはるほどであったそうです。

【稲荷神社散歩地図】←ここをクリックして地図を出してください。

【稲荷神社住所】
・半田稲荷神社:葛飾区東金町4-28-22
・王子稲荷神社:北区岸町1-12-26
・真崎稲荷神社(石浜神社):荒川区南千住3-28-58 石浜神社HP
・三囲稲荷神社:墨田区向島2-5
・袖摺稲荷神社:台東区浅草5-48
・九郎助稲荷神社(吉原神社):台東区千束3-20-2
・烏森稲荷神社:港区新橋2-9
・日比谷稲荷神社:港区新橋4-13
・豊川稲荷神社:港区元赤阪1-4-7
・穴守稲荷神社:大田区羽田5-2-7

【参考文献】
・風俗江戸東京物語:岡本綺堂、河出書房新社
・「半七捕物帳」江戸めぐり:今井金吾、ちくま文庫
・半七捕物帳:岡本綺堂、光文社文庫
・作家の臨終墓碑辞典:岩井寛、東京堂出版
・東京文学地名辞典:槌田満文、東京堂出版
・新潮文庫 明治の文豪(CD−ROM版):新潮社
 
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