今週から「芥川龍之介を巡る」の改版を掲載する予定だったのですが、同じタイトルで続くと退屈してしまいますので、3タイトル位で順番に回していこうと考えています。今週から新たに掲載するのは戦後の無頼派作家の三人目として「夫婦善哉」でおなじみの織田作之助です。掲載順序は亡くなられた東京から順に戻っていく予定です。
<織田作之助> 戦後の無頼派作家といえば「太宰治」、「坂口安吾」、そして三人目が「織田作之助」です。昭和21年末に銀座5丁目のルパンで撮影した写真は見るからに無頼派三人です(林忠彦写真集 カリスト時代)。残念ながら版権の関係で掲載できません。大谷晃一の「織田作之助」から引用すると、「昭和二十一年十一月十一日朝、東京銀座三丁目の読売新聞社へ作之助があらわれる。文化部次長の藤沢逸哉とあいさつをするなり、待ち兼ねたようにヒロポンの注射を自分でした。示威でもあった。初対面の藤沢をあっと言わせた。読売で見つけた築地の闇旅館に落ち着く。あすもう一人来ますので、と作之助が言った。それはだれだったか。四日して大阪から追って来たのは、昭子であった。」、ピロポンてわかりますよね、まあ〜戦後まもなくの目茶苦茶が通る時代だった訳です。
【織田作之助】 織田作之助は大正2年(1913)10月26日、大阪市天王寺区上汐町4丁目27で父織田鶴吉、母たかゑの長男として生まれています。父鶴吉は仕出屋を営んでおり、生活は決して楽ではなかったようです。大正9年(1920)、大阪市立東平野第一尋常高等小学校(現、市立生魂小学校)に入学、大正15年(1926)、成績優秀で大阪府立高津中学校(現、府立高津高等学校)に入学します(町内中があっといったそうです)。昭和6年(1931)、第三高等学校(のちの京都大学教養部)文科甲類に入学します。当時、仕出屋の息子が第三高等学校に入ることなどありえなかったことで、東平野第一小学校は創立以来初めて卒業生から三高生を出したという事で、入学式の日に児童総出で見送るとの申し出があったそうです(こうなると殆ど天才ですね)。三高入学後は、身体を悪くしたりして順調に進まなくなり、出席日数不足で退学となります。その後一時東京へ出ますが、長く続かず結局大阪に戻ります。昭和14年(1939)7月三高時代からの恋人宮田一枝と正式に結婚。昭和15年(1940)2月、「俗臭」が芥川賞候補となり、7月「夫婦善哉」が改造社の第一回文芸推薦作品となり、ここから作家生活にはいります。「猿飛佐助」「土曜夫人」等を発表し昭和21年再び東京に出ますが、三高時代からの胸部疾患が悪化し、翌昭和22年1月死去します。
★左上の写真は昭和22年の亡くなる直前に出版が決まった「夫婦善哉(めおとぜんざい)」です(元々は昭和15年発行ですが初版本は高すぎて手が出ません)。ストーリーは、こてこての大阪が舞台で、好きでやっと一緒になった男が仕事に身が入らず、苦労するのですが、添い遂げる話です(今の女性たちに読んで上げたいです)。
★左の写真は法善寺横丁の本物の夫婦善哉です。「柳吉は「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか」と蝶子を誘った。法善寺境内の「めおとぜんざい」 へ行った。道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びた阿多福人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提燈がぶら下っているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。おまけに、ぜんざいを註文すると、女夫の意味で一人に二杯ずつ持って来た。碁盤の目の敷畳に腰をかけ、スウスウと高い音を立てて畷りながら柳吉は言った。「こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか太夫ちゆう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょつとずつ二杯にする方が沢山はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」蝶子は「一人より女夫の方が長えいうことでっしゃろ」ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。」、「夫婦善哉」の最後のところですが、なんとも言えませんね(詳しくは大阪編で紹介します)。
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