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最終更新日:2006年2月20日


●織田作之助の東京を歩く(戦後編) 2003年5月17日 V01L04

 今週から「芥川龍之介を巡る」の改版を掲載する予定だったのですが、同じタイトルで続くと退屈してしまいますので、3タイトル位で順番に回していこうと考えています。今週から新たに掲載するのは戦後の無頼派作家の三人目として「夫婦善哉」でおなじみの織田作之助です。掲載順序は亡くなられた東京から順に戻っていく予定です。

<織田作之助>
 戦後の無頼派作家といえば「太宰治」、「坂口安吾」、そして三人目が「織田作之助」です。昭和21年末に銀座5丁目のルパンで撮影した写真は見るからに無頼派三人です(林忠彦写真集 カリスト時代)。残念ながら版権の関係で掲載できません。大谷晃一の「織田作之助」から引用すると、「昭和二十一年十一月十一日朝、東京銀座三丁目の読売新聞社へ作之助があらわれる。文化部次長の藤沢逸哉とあいさつをするなり、待ち兼ねたようにヒロポンの注射を自分でした。示威でもあった。初対面の藤沢をあっと言わせた。読売で見つけた築地の闇旅館に落ち着く。あすもう一人来ますので、と作之助が言った。それはだれだったか。四日して大阪から追って来たのは、昭子であった。」、ピロポンてわかりますよね、まあ〜戦後まもなくの目茶苦茶が通る時代だった訳です。

【織田作之助】
織田作之助は大正2年(1913)10月26日、大阪市天王寺区上汐町4丁目27で父織田鶴吉、母たかゑの長男として生まれています。父鶴吉は仕出屋を営んでおり、生活は決して楽ではなかったようです。大正9年(1920)、大阪市立東平野第一尋常高等小学校(現、市立生魂小学校)に入学、大正15年(1926)、成績優秀で大阪府立高津中学校(現、府立高津高等学校)に入学します(町内中があっといったそうです)。昭和6年(1931)、第三高等学校(のちの京都大学教養部)文科甲類に入学します。当時、仕出屋の息子が第三高等学校に入ることなどありえなかったことで、東平野第一小学校は創立以来初めて卒業生から三高生を出したという事で、入学式の日に児童総出で見送るとの申し出があったそうです(こうなると殆ど天才ですね)。三高入学後は、身体を悪くしたりして順調に進まなくなり、出席日数不足で退学となります。その後一時東京へ出ますが、長く続かず結局大阪に戻ります。昭和14年(1939)7月三高時代からの恋人宮田一枝と正式に結婚。昭和15年(1940)2月、「俗臭」が芥川賞候補となり、7月「夫婦善哉」が改造社の第一回文芸推薦作品となり、ここから作家生活にはいります。「猿飛佐助」「土曜夫人」等を発表し昭和21年再び東京に出ますが、三高時代からの胸部疾患が悪化し、翌昭和22年1月死去します。

左上の写真は昭和22年の亡くなる直前に出版が決まった「夫婦善哉(めおとぜんざい)」です(元々は昭和15年発行ですが初版本は高すぎて手が出ません)。ストーリーは、こてこての大阪が舞台で、好きでやっと一緒になった男が仕事に身が入らず、苦労するのですが、添い遂げる話です(今の女性たちに読んで上げたいです)。

左の写真は法善寺横丁の本物の夫婦善哉です。「柳吉は「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか」と蝶子を誘った。法善寺境内の「めおとぜんざい」 へ行った。道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びた阿多福人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提燈がぶら下っているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。おまけに、ぜんざいを註文すると、女夫の意味で一人に二杯ずつ持って来た。碁盤の目の敷畳に腰をかけ、スウスウと高い音を立てて畷りながら柳吉は言った。「こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか太夫ちゆう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょつとずつ二杯にする方が沢山はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」蝶子は「一人より女夫の方が長えいうことでっしゃろ」ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。」、「夫婦善哉」の最後のところですが、なんとも言えませんね(詳しくは大阪編で紹介します)。

織田作之助の「東京(戦後編)」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

織田作之助の足跡

作  品

昭和21年 1946   34 11月 連載中の「土曜婦人」の舞台が東京に移るため、取材をかねて上京
12月4日 深夜 宿泊先の佐々木旅館にて喀血
12月中旬 東京病院(慈恵医大)に入院
土曜婦人
昭和22年 1947 中華人民共和国成立 35 1月10日 肺結核のため死去  

<佐々木旅館跡>
 昭和21年11月11日、織田作之助は読売新聞に連載中の「土曜婦人」の舞台が東京に移るため、取材をかねて上京します。その時の事を織田昭子さんの「わたしの織田作之助」では、『「土曜夫人」を読売新聞へ連載中で、その東京編を書くために.十一月の初旬大阪から上京してきた。上京と同時に舞台は東京へ移るのではないかと期待されながら、小説はまだ四条通りの夜更けの雨のなかで続いていた。』、と書いています。小説では簡単に東京に行けそうですが、なかなか辿り着かない様です。東京にきて最初に泊まったのは上記に書かれている築地の闇旅館とあり、此方は不明です。次に宿泊した佐々木旅館については、「一週間ほどして、銀座二丁目の佐々木旅館に移った。三共薬局の裏通りで、キムラヤという喫茶兼パン屋の横を入った袋小路にあった。銀座もまだ焼け跡が多く残り、その中のバラック建てだった。六畳、六畳、六畳、四畳半の二階を占領してしまう。朝は十一時近くに起きた。『土曜夫人』を一気に書く。一時までに読売の藤沢が取りに来る。一回三枚半分を書くのに、ヒロポンの二CCの作用を、もはや倍らねばならなかった。部屋の裏は空き地で、ほうり捨てた空のアンプルが一杯になる。フィリップモリスを半分も吸わずに灰皿にこすりつけた。表のキムラヤから、しよつちゅう珈琲を取り寄せた。一杯五円。キムラヤで原稿を書くこともある。万年筆と用紙さえあれば、どこでも不自由なく書ける。日常的なことをいよいよ厭うようになるのに、昭子は気付いた。」、と大谷晃一は「織田作之助」に書いています。なんというか、ものすごいですね。

左上の写真の正面ビルの後ろ辺りに佐々木旅館がありました(住所は銀座2−8、メルサの裏辺り)。ですから正面のビルの右側に袋小路があったはずなのですが、ビルに挟まれてなくなっています。上記に書かれている三共薬局、キムラヤは今も健在です。特にキムラヤは写真に写っているお店で「コーヒー・ハンバーグステーキ KIMURAYA」になっていました。また青山光二の「青春の賭け」では、「…裏通りから宿へ折れ込む路地でばったり出くわした織田はそのとき、太宰治・坂口安吾との座談会に駆けつけるところで、……路地へ折れる角にちかごろ開店したばかりの「木村屋」へ先に立ってはいって行こうとする彼を制めて、電車通りの方へぶらぶら歩きながら私はとりとめない会話を彼と、ほんのしばらく交わした。そして、六時に西銀座の酒場「ルパン」で又会う約束をして、座談会場になっている出版社の建物がすぐ向うに見える辺りで別れた。」、と書いています。上記に書かれている西銀座の「ルパン」はあまりに有名です。

<東京病院(現 慈恵医大病院)>
 織田作之助は銀座二丁目の佐々木旅館で倒れます。むりにむりを重ねてきたのがここで堰を切ったのでしょう。三高時代からの友人青山光二は、「…ふイと起って廊下の方へ出て行った。瞬間、私はおやッと思った。起き方が少少、変だったからだ。……「おい、食塩水!…」低くこもった、短い叫び声が聞こえた。「はい」恐らくはそれより早く、夫人は廊下へ駈けだしていた。廊下を隔てた向い側の部屋に明りが点き、緊迫した低い話し声が二言三言したと思うと、夫人があわただしく階段を駈け降りて行った。何事が起こっているかは、もう明らかだった。私は起って、やはり織田が使っている向い側の部屋へ、夢中でとびこんで行った。六畳の部屋は、二人分敷きつめた夜具で、はとんどいっぱいになっていた。いきなり織田と眼が合った。手前の夜具と入口の襖との間の畳に、派手な柄の掛蒲団に焦れかかるように僻伏せに倒れて、彼は喘いでいるのだ。喘ぎ喘ぎ眼を挙げ、突立っている私の限を見て、「喀血や!」とはっきりした語調で、彼は言った。」、と書いています。すごい描写ですね(この後がもっとすごい描写なのですが……)、そばにいないとこんな事は書けません。このあと彼が人気作家のため大騒ぎになります。「そんな時、いきなり襖があいたかと思うと、夫人の「どうぞー」という声より早く、天の人物がツカツカとはいって来た。織田の寝床の傍に肱杖ついて外套のまま寝そべっていた私は、振り向いて闖入者の顔を見たとたん、思わずバネ仕掛けのように起き直り、次の瞬間には座蒲団の上にキチンと膝を揃えて坐っていた。ジカに見るのは始めてだったが、その人が菊池寛だとは私には、すぐ判ったのだ。……「いま死んじまっちヤアつまんねえじゃねえかー……ヒロポンなんか、むやみに打つからだぜ。ピタ・ミンくらいにしとけアいいんだよ」……「イヤア、しつかり養生しろよ……」と言いおいて菊池寛は、傍らのハンティングを掴みざま起ちあがった。」、菊池寛がお見舞いに佐々木旅館に来ています。すごいですね。このあと織田作之助は東京病院(現在の慈恵医大病院)に入院します。

右上の写真が織田作之助が入院した東京病院(現在の慈恵医大病院)です。当時の建物はほとんどなく、大学の一部の校舎がのこっているのみです。

<天徳寺>
 東京病院に入院後、病状は一進一退を繰り返しながら徐々に悪化していきます。その中で林芙美子が見舞いに訪れます。「三日ほどして林芙美子が見舞いに来た。この部屋を見回して、パリの留置場みたいね。元気になってよ、と芙美子が声をかける。作之助はふとんに埋もれて、大阪へ帰りたいがもうあきらめた、とほほえんで見せる。その初々しい笑顔に、芙美子の胸が詰まった。一か月しか持つまいと、彼女は玄関まで送って出た西田にささやいた。だれもが、もはや死しかないのを知ったようである。何人かの親しい人のほかは、ジャーナリズムも潮が引くように遠ざかった。つい二週間前は門前市をなしていたのだ。その冷厳さが、青山の身にしみた。」。そして昭和22年1月10日午後7時頃、昭子さんに看取られて亡くなります。三高時代に喀血してから13年目になります。通夜は東京病院のすぐ近くの愛宕山トンネルをくぐった所にある天徳寺でおこなわれ、13日桐ヶ谷斎場で荼毘に付されています。その時の出席者は、林芙美子、太宰治、青山光二、他でした。

左の写真が通夜のあった天徳寺です。太宰治が東京新聞に発表した「織田君の死」が仏前に供えられていました。「織田君は死ぬ気でいたのである。‥…はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。死ぬ気でものを書きとばしている男。それは、いまのこの時代に、もっともっとたくさんあって当然のように私には感ぜられるのだが、しかし、案外、見当らない。いよいよ、くだらない世の中である。世のおとなたちは、織田君の死に就いて、自重が足りなかったとか何とか、したり顔の批判を与えるかも知れないが、そんな恥知らずの事はもう言うな! ‥…織田君を殺したのは、お前じゃないか。彼のこのたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。織田君! 君は、よくやった。」、なにも云う事はありません。

<楞厳寺のお墓>
 東京での荼毘の後、生まれ故郷の大阪で再度通夜がいとなまれました。「富田林の竹中家へ帰り、再び通夜をした。一月二十三日の午後二時から葬儀が営まれた。菩提寺の楞厳寺の境内は、人で埋まった。若住職で高津中学で同級だった田尻玄竜も読経した。喪主は竹中国治郎、親族総代は山市席次と西井松太郎、友人総代は柴野方彦。葬儀委員長は藤沢桓夫が務めた。多くの梧が立ちならび、生け花が供えられた。盛大であった。」、と大谷晃一の「織田作之助」では書いています。詳細は「大阪を歩く」で掲載します。

右の写真が織田作之助のお墓です。三回忌の昭和25年1月に生誕地近くの大阪市中央区城南寺町の楞厳寺本堂前に建てられています。

次回は大阪に戻ります。

<織田作之助の東京地図>


<織田作之助の東京詳細地図 −1−>



【参考文献】
・わたしの織田作之助:織田昭子、サンケイ新聞社
・織田作之助:大谷晃一、沖積舎
・資料 織田作之助:関根和行、オリジン出版センター
・青春の賭け:青山光二、中公文庫
・わが文学放浪:青山光二、実業之日本社
・純血無頼派の生きた時代:青山光二、双葉社
・夫婦善哉:織田作之助、大地書房
・カリスト時代:林忠彦、朝日ソノラマ
・青春無頼の詩:織田作之助、大和出版
・夫婦善哉:織田作之助、新潮文庫

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