< 茗荷谷ハウス跡>
昭和11年3月、織田作之助は三高を退学した事を姉夫婦に隠して、東京帝国大学を受験すると偽って上京し、茗荷谷ハウスに下宿していた三高時代の友人青山光二の所に転がり込みます。
「…昭和十一年三月も終わりに近い日、三人は上京した。車中、文学談にふけつた。……東京駅のプラットホームに、吉山光二と深谷宏が出迎えた。青山によれば、五人は何んとなしに意気軒昂として深夜まで銀座を彷復した。横光利一を語り、行動主義文学を論じた。コロンバンで、作之助は止血剤のトロンボーゲンを飲んだ。はげしく咳き込んだ。血疾が出たらしい。小石川の茗荷谷ハウスというアパートに青山がいて、ころげ込んだ作之助と善後策を考えた。東大の入試発表の前日、青山は大阪日本橋の竹中国治郎へ電報を打った。残念ながら体格検査で落ちた、来年を期せよ。国治郎もタツもころりとだまされた。…」、 学費を出して貰っている姉夫婦にはなかなか本当のことが言えなかったのでしょう。この時に上京した三人は三高時代の友人達で、同じく三高を退学した白崎礼三と東大文学部の美術史科へ入学した瀬川健一郎でした。
★左上の写真の右側辺りが茗荷谷ハウス跡です(現在の文京区小日向一丁目付近)。この茗荷谷ハウスは。谷崎潤一郎の二番目の妻古川丁未子が離婚後東京で再就職し、昭和10年頃に住んでいました。
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