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最終更新日:2018年06月07日

●織田作之助の東京を歩く(戦前編)
 初版2003年7月12日
 二版2007年3月11日 
<V01L03> アパート二十六号館を特定
 今週は織田作之助の三週目として、「戦前に織田作之助が歩いた東京」を巡ってみたいとおもいます。昭和11年三高を退学した織田作之助は家族には東京帝国大学を受験すると偽って上京します。初めて読まれる方は織田作之助の「戦後の東京を歩く」から読んで下さい。

ペリカン書房(ペリカン・ランチルーム)>
 織田作之助が本郷でよく利用したのが東大前落第横町のペリカン・ランチルームでした。品川力さんの「本郷・落第横町」の中の青英通信にペリカン(ペリカン・ランチルーム)のことが書かれています。
「…ペリカンにはレオナルドのキリストの写真版が栗色の額ぶちにかこまれてかけてあり、一家あげてのクリスチャンであつた。主人の弟さんが絵描きで、妹さんは背のすらりとした詩人で、佐藤春夫から、さまよいくれば秋草の、という詩をもらったとかで、それにふさわしい恋愛詩など書く美しい人であり、お父さんは白髪の淡い人で、毎日ステッキをついて散歩していた。主人の品川氏は、ボオに傾倒する白皙の美少年で、ロマンチックな一家だつた。私はその店で、矢田津世子と大谷藤子が、何かひそひそ話をしているのを見たことがあり、立原道造なども、上品な犬のような顔をして、ひょいと入って、ひょいと出て行つたりしていた。ハイカラな一品料理などもうまかった。織田や私が座っていると、美少年の品川さんは、手廻しの蓄音機をもち出し、もの思うまなざしで、コクトオの朗読詩のレコードなどをかけてくれるのだった。すると織田君は困つたなというように頭に手をやり、私の顔を見て、てれた様な嬉しい様な顔をして、笑うのだつた。織田君は、この神に仕える美しい一家を、非常に愛していた。…」
織田作之助が下宿していたのはこのペリカンの裏手の秀英館でしたから、すぐ近くであり、同人の「海風」の発行所もかねていました。

左上の写真は現在のペリカン書房です。何回が前を通りましたが、お店が開いているところを見た事がありません。多分閉められているのだとおもいます。織田作之助が滞在していた当時のペリカンのメニューです。ハンバクステイキ30銭、カレーライス25銭、コーヒー、紅茶、ミルク、パイが10銭、プディング、ケーク、プルンが15銭。昭和六年から十四年まで営業していました。戦後は書店として営業されていた様です。

左の写真は東大前の本郷通りを撮影したものです。正面中央辺りに本郷郵便局があり、その左側の小路が白十字横町(当時、本郷郵便局の所に白十字という喫茶店があった)、郁文堂の手前の横町が落第横町です。上記のペリカン書房は落第横町を入った右側にあります。大谷晃一の「織田作之助」では、
「…たまりは、ペリカン・ランチルームである。白十字横丁の一つ南が、落第横丁と呼ばれた。玉突き場や喫茶店や食堂がごみごみと並んで、この横丁をうろうろする学生は必ず落第するという伝説があった。小川はそこの二見館に下宿し、白崎がころげ込む。ペリカンは三坪ばかりの店だった。…」
と書かれています。

織田作之助の「東京(戦前編)」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

織田作之助の足跡

昭和11年
1936
2.26事件
23
3月 上京、一週間で帰郷
10月 上京、東中野のアパート二十六号館に宿泊
12月 一枝をつれて上京、二泊して大阪に帰る
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
24
5月 上京、本郷秀英館に止宿
昭和14年
1939
ドイツ軍ポーランド進撃
26
4月 東京生活をきりあげて大阪に帰郷

茗荷谷ハウス跡>
 昭和11年3月、織田作之助は三高を退学した事を姉夫婦に隠して、東京帝国大学を受験すると偽って上京し、茗荷谷ハウスに下宿していた三高時代の友人青山光二の所に転がり込みます。
「…昭和十一年三月も終わりに近い日、三人は上京した。車中、文学談にふけつた。……東京駅のプラットホームに、吉山光二と深谷宏が出迎えた。青山によれば、五人は何んとなしに意気軒昂として深夜まで銀座を彷復した。横光利一を語り、行動主義文学を論じた。コロンバンで、作之助は止血剤のトロンボーゲンを飲んだ。はげしく咳き込んだ。血疾が出たらしい。小石川の茗荷谷ハウスというアパートに青山がいて、ころげ込んだ作之助と善後策を考えた。東大の入試発表の前日、青山は大阪日本橋の竹中国治郎へ電報を打った。残念ながら体格検査で落ちた、来年を期せよ。国治郎もタツもころりとだまされた。…」
学費を出して貰っている姉夫婦にはなかなか本当のことが言えなかったのでしょう。この時に上京した三人は三高時代の友人達で、同じく三高を退学した白崎礼三と東大文学部の美術史科へ入学した瀬川健一郎でした。

左上の写真の右側辺りが茗荷谷ハウス跡です(現在の文京区小日向一丁目付近)。この茗荷谷ハウスは。谷崎潤一郎の二番目の妻古川丁未子が離婚後東京で再就職し、昭和10年頃に住んでいました。

アパート二十六号館跡> 2007/3/11場所を特定
 織田作之助の三高時代の友人、青山光二は下宿を茗荷谷ハウスから東中野のアパート二十六号館に移ります。再び織田作之助は上京します。
「…友がみな東京にいる。孤独と焦慮に作之助を駆り立てた。東京へ行きたかつた。十一年十月三日の夜行列車に乗り、翌朝、車窓に富士を見た。…… 青山や白崎のいる東中野のアパート二十六号館に泊まった。…… 六日夜半、青山の部屋で喀血した。驚き、また不安になる。十日朝、大阪へ帰った。…」
相変わらず体調がすぐれなかったようです。

右の写真の中央、茶色のアパートの所が宮園通アパート二十六号館跡です(現在の東中野一丁目7番付近です)。青山光二がこの東中野のアパート二十六号館について、
「…二十六号館というのは、『新青年』の常連執筆者だった作家中村進治郎が新宿ムーラン・ルージュの踊り子高輪芳子と心中未遂事件を起こしたりした、デカダントな雰囲気のある古びた三階建てのアパートだった。…」
と書いていますが、当時の新聞を調べてみると、
「昭和7年12月13日の東京朝日新聞:新宿園アパート四谷区番衆町127新宿園アパート二階十四号室で自殺」
と書かれており、上記記載場所の東中野とはかなり離れており、アパート名も違うのでどうも間違っている様です。上記の心中事件ではムーランルージュの踊り子高輪芳子のみが亡くなり、中村進治郎は生き残ります。そして二年後の昭和9年11月15日、中村進治郎は今回は一人で自殺を図ります。この時のアパートがアパート二十六号館でした。昭和9年11月16日読売新聞夕刊を読むと、
「…15日午前十時ごろである。中野区宮園通りの二十六号館アパート階下二号室に止宿する中村進治郎くんが …… 絶息している。…」
と書かれていました。ですからアパート二十六号館は二度目の自殺の場所だったようです。

紫苑(しおん)跡(推定)>
 昭和11年12月、今度は青山光二が紹介した「紫苑」を買い取るため一枝を連れて再び上京します。
「…私たちは夜の東京駅に織田を出迎えた。二重廻しのハネをひるがえし、ニコニコしながら列車を降り立つて来る織田の後から、防寒ゴートに緑色の婦人用スーツケースをさげた宮田一枝の姿がステップにあらわれた。……私は「紫苑」のマダムに、織田を正式に紹介した。……ものの三十分も経つた頃だったろうか、マダムが一人で帰って来た。が、その啻ならぬ顔色をひとめ見た瞬間、私たちは何事か、容易ならぬ出来事が起こつたのを察した。…「あんな頼りない人つてないですよ。あんなアヤフヤな態度で文学なんかやったつて、ゼッタイにだめよ!…資金の事なんか差配に問いつめられたら、ヘドモドしちやって、かんじんの話の最中に、便所へ行く振りして逃げ出しちゃったのよ」、私と白崎とは、言葉に窮して顔を見合わせた。ふきだしたい気持もあった。…」
なんと頼りない人なんでしょう。

左上の写真が「紫苑」のあった東京大学農学部付近です。「紫苑」の場所については
「…農学部の建物に沿つて千駄木の通りへ折れた所に、仲間のあつまる「紫苑」という、うらぶれた喫茶店があったからである。…」

とあります。この喫茶店?には太宰や檀一雄も登場します。
『ある夜おそく、入口の扉の傍のボックスに坐つた『海風』の仲間がしめやかに、アクビしながらショパンのプレリエードに、耳かたむけていた時のことである。トントンと扉を叩く音がして、マダムが出て行くとそれはつい先刻、檀一雄とふたりで出て行つた太宰治で、ひそひそ声の用件はどうやら、自動車賃を五十銭貸せ、ということらしかつた。シブシブ顔でカウンターの蔭へ引返したマダムは五十銭玉を握つて出て来たが、扉の外にいてそれを受取つた太宰の呟くようにこう言っている声が私には、妙にはつきりと聞き取れた。「くるま代を借りているのは、仮りの太宰。本当の太宰は、むこうの通りにいる、檀君といつしよに − 」
なんとうまいこと云うのでしょう、私も言ってみたいです!!

秀英館>
 昭和12年5月、織田作之助は再々度、上京してきます。
「…上京して来た織田は、ひと月もまえから私と白崎が下検分して借りておいた、本郷台町の下宿屋「聚英館」の一室におちついた。道路を見おろす二階の一室であつた。運送屋のはこんで来た荷物を、皆で手伝って二階へ上げると、織田はボストンバッグから、愛人一枝の贈物とおばしき緑色の衣裳を着けたフランス人形を取出し、友人たちに見せびらかすようにニヤニヤしながら、チュッと接吻する真似の唇を鳴らしてそれを、菰包みを解いたばかりの本箱の上にご本尊然と凭せかけたものである。そうしておいて荷物の整理は後まわし、何はさておき荷あるき、というように一同を促して部屋を出るのだつた。…」
今回は本格的に書き物をするため上京してきます。

右上の写真の立体駐車場の所が秀英館跡です。現在は駐車場になっていますが、駐車場の名前が秀英館になっていましたので直ぐにわかりました。
「…リドーの雪子が、大阪から追って来た。作之助はあわてた。前年の夏に青山と賭けをして、喫茶店を住みかえさせるのに成功した女である。作之助は自尊心の満足のため賭けに熱中したので、彼女には初めから気がなかつた。雪子がそれを知る由もない。容姿も性格も平凡であった。とにかく、落第横丁の喫茶店ポーラリスに世話した。作之助の仲間はがやがやとそこでわざと騒ぐ。雪子は居たたまれずに、あきらめて大阪へ帰った。…」、まあ〜、いろいろありますね!

次回は大阪に戻ります。

<織田作之助の東京地図>

<織田作之助の東京詳細地図 -2->


【参考文献】
・わたしの織田作之助:織田昭子、サンケイ新聞社
・織田作之助:大谷晃一、沖積舎
・資料 織田作之助:関根和行、オリジン出版センター
・青春の賭け:青山光二、中公文庫
・わが文学放浪:青山光二、実業之日本社
・純血無頼派の生きた時代:青山光二、双葉社
・夫婦善哉:織田作之助、大地書房
・カリスト時代:林忠彦、朝日ソノラマ
・青春無頼の詩:織田作之助、大和出版
・夫婦善哉:織田作之助、新潮文庫
・本郷・落第横町:品川力、青英舎版
 
参考図書























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