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最終更新日:2006年11月3日


●織田作之助の大阪を歩く(戦前・戦後編)
  初版2003年6月28日
  二版2006年11月3日 
<V01L01> 2006年11月2日 笹田医科跡の写真追加

 今週から「織田作之助を巡る」を再会します。前回からかなり時間が経ってしまいましたが、お約束通り東京から「戦前・戦後の大阪」へ戻ります。昭和11年に京都の第三高等学校を退学してから昭和21年に声楽家笹田和子さんと結婚するまでを掲載します。

<自由軒のカレー>
 大阪で戦前からのカレー屋といえば自由軒です。織田作之助も相当好きだった様で「夫婦善哉」にも登場しています。「千日前の愛進館で京山小円の浪花節を聴いたが、一人では面白いとも思えず、出ると、この二三日飯も咽喉へ通らなかったこととて急に空腹を感じ、楽天地横の自由軒で玉子入りのライスカレーを食べた。「自由軒のラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょうま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」とかつて柳吉が言った言葉を想い出しながら、カレーのあとのコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持が胸に湧いた。」、昭和初期の時代にカレーと卵の組合せは栄養満点で、なにか元気の出るカレーだったようです。お店は明治43年操業だそうで、日本で最も古いカレー屋かもしれませんね。

左の写真が自由軒のインディアンカレーです。普通のカレーと違い、カレールーとご飯を事前に混ぜこんでいます。これはカレールーとご飯を熱いうちに食べてもらうにはどうしたらよいか考えた末に出来あがった名物カレーだそうです。私も食べましたがなかなかの味でした。東京新橋にもお店が有りますが、東京のお店は千日前の自由軒から独立した”せんば自由軒”のほうのお店です(横浜のカレーミュージアムにも出店しています)。

織田作之助の「大阪(戦前・戦後編)」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

織田作之助の足跡

作  品

昭和11年
1936
2.26事件
23
3月 第三高等学校を退学、上京
大阪に戻り日本橋の竹中家(姉夫婦)に居候をする
7月 大阪市住吉区住吉町のアパート姫松園に転居
11月 上京、以後上京を繰り返す
 
昭和14年
1939
ドイツ軍ポーランド進撃
26
4月 東京での 生活をあきらめて大阪に戻る
7月 宮田一枝と正式に結婚、大阪府南河内郡野田村丈六に新家庭を持つ
9月 日本工業新聞社に入社
俗臭(芥川賞候補となる)
昭和15年
1940
 
27
  夫婦善哉
昭和19年
1944
 
32
8月 妻一枝死去
昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾、終戦
33
3月 大阪空襲のため、竹中家が野田村に疎開
12月 竹中夫妻の富田林市寿町二丁目四−六へ転居
猿飛佐助
昭和21年
1946
日本国憲法公布
34
2月声楽家笹田和子と結婚、宝塚に近い清荒神駅にある笹田家に同居
11月 連載中の「土曜婦人」の舞台が東京に移るため、取材をかねて上京
12月4日 深夜 宿泊先の佐々木旅館にて喀血
12月中旬 東京病院(慈恵医大)に入院
土曜婦人
昭和22年
1947
中華人民共和国成立
35
1月10日 肺結核のため死去  

<アパート姫松園跡>
 昭和11年3月、織田作之助は第三高等学校を退学します。三回落第すると放校になるのをなんとか依願退学ですませます。一度は上京しますが、やむを得ず大阪に戻ります。当初は姉の嫁ぎ先の竹中家に居候していましたが住吉区住吉町のアパート姫松園に住み始めます。当時の事を東京帝国大学に進学していた同級生の青山光二は「青春の賭け」の中で書いています。「難波に近い御堂筋の、地下鉄口を出たばかりの所に「仏蘭西屋敷」という清洒な小さな喫茶店があつた。床板を張らず、キレイな砂を敷きつめてあるところがミソであつた。…梅田から姫松アパートへ電話を掛ける。そうしておいて、地下鉄で心斎橋か難波まで行き、仏蘭西屋敷を覗いてみるとたいていの場合、織田は先に来ていて、すでに伽排を二杯ほど飲み、煙草を三、四本吸つたあとらしい様子で、嬉しそうに私の顔を見てニコニコと笑うのであつた。……姫松アパートへ帰り着いたのは十一時過ぎであつた。織田の部屋は通用口の取ッかかりにあつた。中庭に面して狭い窓が一つあるきりの、一日じゅう陽の当らぬ湿気臭い部屋であった。湿気臭いだけでなく、挨臭く汗臭く熱臭い空気が、むっとこもっていた。敷きつ放しの蒲団を壁際へ押しやって、二人は坐った。…部屋の入口に立つているのは、織田の愛人、宮田一枝であった。私は身を起こしながら、やア、というように微笑はんぶん会釈しておいて、隣に寝ている織田を揺りおこしにかかつた。…」。青山光二は東京帝国大学なのによく大阪の実家に帰っていた様です。帝塚山はもともと高級住宅街で、駅前には帝塚山学院というお嬢様学校もあります。

左上の写真のマンションの所にアパート姫松園があったようです。交通の便としては南海電鉄高野線の帝塚山駅から歩くと10分程です。難波までは南海電車で10分程度なので、近くてよかったのでしょう。

<大阪府南河内郡野田村丈>
 織田作之助は昭和14年7月、第三高等学校時代から付き合っていた宮田一枝と結婚します。大谷晃一の「織田作之助」では、「仲人に瀬川を頼んだ。彼は京都下鴨の宮田家へ結納を持参した。一枝の父俊吉もついに許した。二人は五年も心を変えなかったし、作之助は結婚のために働くという。いい加減でないことを知った。ひとり身の瀬川を仲人に仕立てたのは、一枝の前身を作之助側に隠し通すのに、何もかも飲み込んだ彼が好都合だったからである。式の前に、一枝は作之助から来た手紙をすべて焼いた。バケツに五杯もあった。タツは作之助のために、織田信長と同じ木瓜の紋付きをあつらえてやった。昭和十四年七月十五日は暑い日だった。大阪市住吉区阿倍野筋二丁目の料亭千とせの松の間で、作之助と一枝はとうとう結婚式を挙げた。」、と書かれています。当時の事を織田作之助は「蚊帳」にも書いています。「彼の家は池の前にあった。蚊が多かった。新婚の夜、彼は妻と二人で蚊帳を釣った。永い恋仲だったのだ。蚊帳の中で蛍を飛ばした。妻の白い体の上を、スイスイと青い灯があえかに飛んだ。」。織田作之助と宮田一枝の関係については第三高等学校時代の話をしないと分からないのですが、この話は次々回位にしたいと思います。

右上の写真の「力餅食堂」の所が織田作之助が住んでいた六軒長屋です(右側の家が当時のままだと思われます)。大谷晃一の「織田作之助」に詳しく書かれています。「大美野田園都市は、南海電鉄高野線の北野田駅の西に昭和十年ごろから開発された。尻田池は駅にすぐ近い。春は土手に桜が咲き、秋は名月を映した。他の面は、夏に微風を送り、冬は鳥肌立った。閑静だった。池の前の六軒長屋は新建ちである。下は六畳、二畳、二畳と台所、二階は六畳と三畳。家賃は二十五円で、敷金は三か月。かいづかの生垣で体裁がよく、上汐町の裏長屋とは違う。月給取りの借家である。当時は大阪府南河内郡野田村大字丈六、いまは堺市丈六一七四番。家はそのままで、うち四軒はあのときからずっと住んでいる。前の池は埋め立てられてマーケットになり、騒がしい。」南海電鉄高野線北野田駅からは歩いて5〜6分、商店街から少し入った所にありました。

<富田林市寿町>
 昭和19年8月、妻一枝が癌で死去します。妻の死はそうとうショックだったようで手紙にいろいろ書いています。「小生、女房を失って以来、気の遠くなるようなさびしさにおろおろしながら仕事しています」。昭和20年3月、大阪が空襲をうけ道頓堀付近は焼け野原となります。姉夫婦の住んでいた日本橋界隈も焼けたため、野田村で同居します。竹中家は昭和20年10月に富田林で家を買います。織田作之助も12月野田村を引き払い、富田林の竹中家で住み始めます。

左の写真の路地を入った所に竹中家がありました。正確には昭和40年ころまではあったようなのですが、現在は公園になっていました。交通の便としては近鉄長野線富田林西口駅を降りてすぐです。

<笹田家> 2006年11月3日 笹田医科跡の写真追加
 昭和21年2月、笹田和子と結婚します。笹田和子と始めてあったのは終戦後の8月、NHK大阪局へ行った帰りで、彼女は阪急宝塚線清荒神駅近くの笹田歯科医院のお嬢さんでした。ここでは大谷晃一氏の「続 関西名作の風土」から引用します。「…阪急宝塚線の清荒神駅は疎らな雑木林に囲まれていた。奥行きのない林を抜けると、摂津の平野が目の下にあった。黯ずんだ太い柱の農家が点在する。− 昭和二十一年初頭の風景である。 夜の八時を過ぎると駅員が帰ってしまうので、改札口は真っ暗だ。…… 国鉄福知山線の踏切で、私の記憶が返って来た。そこだけが、うらぶれた単線のままだった。坂の途中に古びた構えが、あのときのままにあった。笹田歯科の門標だけがない。住人はすでに二代変り、内は改装されている。兵庫県川辺郡小浜村米谷も、いまは宝塚市米谷字児石十七の二、○○方と改まった。日記をひっくり返すと、二十一年の一月二十八日、二月五日、同じく十一日の三回、私はこの家に織田さんをたずねている。表に面した洋風の応接室で、私は待っていた。二回目か三回目かの訪問である。「よおう」と、織田きんは隣の和室から入って来た。…」。二人は結婚しますが結局二ヶ月しか続きませんでした。関西の方なら大谷晃一氏は皆さんご存じだとおもいます(「大阪学」等で)。終戦後間もなく朝日新聞大阪本社記者の頃に笹田医科家にいた織田作之助を訪ねています。その時のことを書いています。

右の写真の右側が笹田医科跡です。「続 関西名作の風土」は地図付きでしたので直ぐに場所が分かりました。上記に書かれている福知山線の踏切も複線にはなっていますが当時の雰囲気を伝えています。笹田医科家の前には売布神社旧参道がそのまま有りました。阪急宝塚線の清荒神駅も掲載しておきます。笹田和子さんは声楽家として有名になられ宝塚市に住まわれています。

次回は戦前の東京に戻ります。

<織田作之助の大阪地図>



【参考文献】
・わたしの織田作之助:織田昭子、サンケイ新聞社
・織田作之助:大谷晃一、沖積舎
・資料 織田作之助:関根和行、オリジン出版センター
・青春の賭け:青山光二、中公文庫
・わが文学放浪:青山光二、実業之日本社
・純血無頼派の生きた時代:青山光二、双葉社
・夫婦善哉:織田作之助、大地書房
・カリスト時代:林忠彦、朝日ソノラマ
・青春無頼の詩:織田作之助、大和出版
・夫婦善哉:織田作之助、新潮文庫
・続 関西名作の風土:大谷晃一、創元社
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