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最終更新日:2007年2月21日

●織田作之助の夫婦善哉を歩く -3-
  初版2007年2月17日 
<V01L02> 
 「これぞ大阪シリーズ」の三テーマ目です。今週は織田作之助の「夫婦善哉(めおとぜんざい)を歩く」の最終回です。天牛書店の紹介と夫婦善哉その他をストーリーに沿って歩きます。

<「われらが古本大学」 天牛新一郎>
 大阪の古本屋さんの中では天牛書店が有名です(全国的にもですね!)。終戦前には古本屋では大阪で一番大きいお店になっています。織田作之助とも親交があったようです。天牛新一郎さんが書かれた「われらが古本大学」を読んでみます。「…無名時代から、天牛さんのお店にはよく来ていたということですが。(天牛)→ええ。あのお方も三日とあけずうちへ来て、本買うてくれはりました。そして読んだら、「天牛さんとってや」言うて、また売ってくださいましてね。「文芸」という雑誌に出た小説『夫婦善哉』に、私の店の二階のことが載っておりまして、どなたが書いてくれはったんやろうと思ておりました。それからしばらくしたらまた、本をたくさん包んで売りにおいでになった。よう買うたり売ったりするお方やなあと思いながら、「あの、規則でございますので、お所とお名前を書いてくださいませ」と言いました。それで書いていただいたんが”織田作之助”。所が高野線の北野田とありまして、それからえらい心安うなりました。…… 私の店が焼けて、一間間口、奥行二間の小さな店でまた始めました時にも、織田作之助さんが一番に飛んで来はって、「天牛さん、えらいことになりましたな」 て言うてくれはりました。それで、「天牛さん、浄瑠璃好きでんな」言うて、『文楽の人々』という本に「天牛新一郎さんへ」と書いて、その本をくださったことを覚えております。…」。織田作之助とは相当親しかったようですね。戦前の天牛書店は日本橋南詰東入南側(道頓堀通の境筋を越えた南側あった)にありましたが、昭和20年3月13日の大阪大空襲で焼けてしまいます。この天牛書店の商売の仕方が当時としては斬新で、古本で売った本をそれなりの価格で買い戻してくれていたようです。「…店へおいでになるお方には片っ端から、「どうぞお買いくださいませ。お読みになりましたら、一割引でちょうだいいたします。十銭で買うていただいた本は九銭でお引き取りします」 いうような具合に、お客さんがうるさがるほど繰り返し言うておりました。…」。今のレンタルのような商売の仕方ですね。九割の下取り方式は当時としては画期的な方式だったとおもいます。昭和15年に発売された「夫婦善哉」は、「…たしか定価が五十銭でございまして、私の売り値は三十五銭ぐらいでした。…」、のようで、新本は七割位で売っています。

左上の写真が天牛新一郎さんの「なにわ塾叢書27 われらが古本大学 大阪・みなみ・天牛書店」ブレーンセンター版です。天牛新一郎さんが直接書いているわけではなくて、お話しされたのを本にされたようです。

【織田作之助(おださくのすけ)】
 大正2年(1913)10月26日、大阪市の仕出し屋の家に生れる。三高時代から文学に傾倒し、昭和12年(1937)に青山光二らと同人誌『海風』を創刊。自伝的小説「雨」を発表して注目される。昭和14年(1939)「俗臭」が芥川賞候補、翌年「夫婦善哉」が『文芸』推薦作となるが、次作「青春の逆説」は奔放さゆえに発禁処分となった。戦後は「それでも私は行く」をいち早く夕刊に連載、昭和21年(1946)には当時の世俗を活写した短編「世相」で売れっ子となった。12月ヒロポンを打ちつつ「土曜夫人」を執筆中喀血し、翌年1月死去。(新潮文庫より)

戦前の天牛書店>
 上記にも書きましたが織田作之助の「夫婦善哉」にも天牛書店は登場しています。、「…蝶子と柳吉はやがて浄瑠璃に凝り出した。二ツ井戸天牛書店の二階広間で開かれた素義大会で、柳吉は蝶子の三味線で「太十」を語り、二等賞を貰った。景品の大きな座蒲団は蝶子が毎日使った。…」。天牛書店はかなり有名だったのだとおもいます。

左の写真正面右側に戦前のお店がありました。昭和20年3月13日の大阪大空襲で焼けてしまいます(大阪市南区日本橋南詰東入南側、現在のワシントンプラザの所)。このお店を開いた時のことを天牛新一郎さんは「われらが古本大学」で語っています。「…そろそろ店を大きくしたいと思っておりましたところ、筋向かいの「たけだ・いとや呉服店」というのが、百貨店に押されて店を閉じました。これはミナミでも一番財産家でございました。財産というても、二百五十万ほどでしたんですが。それで、そこの家をお借りしようと思て、番頭の太助さんがちょいちょい本を見に来てましたんで、「お宅のお店を借していただくことはできませんか」 と聞いてみたんです。そしたら、「いっぺん旦那に言うてみるわ」いうことで返事を待っておりましたところ、「天牛さんとこやったら貸したげる」ということで早速許可が下りましたんで、そこをお借りすることになりました。…」。この日本橋南詰東入南側のお店の前は、路を挟んだ反対側の日本橋南詰東入浜側にありました。大正12年、古本の商売が繁昌してきたため向かい側の大きな店に移ったのです。「…二階は百畳も敷けるような広さでございましたんで、父親が、「二階を席貸しにしたらどうやろ」と言いだしました。それで二階を席貸しにして、浄瑠璃などを月のうち十回もやらしてもらうようにしましたら、それがまたよくはやりまして、どんどんお客さんが来てくださいます。 家賃が三百円でしたんですが、二階だけで月四百円ぐらいあがってくる。下の本屋もどんどんはやってくる。もうお金がたまってたまって、東大阪のほうに空家がぎょうさんございましたのを、父親がまいりまして、ポロ家ではありますが百軒あまり買うてくれました。大きな話ですが、事実でございます。…」。ここに書かれている”二階を席貸しにして、浄瑠璃などを月のうち十回もやらしてもらうようにしました”が上記に書かれている織田作之助の「夫婦善哉」につながってきます。商売の方はよっぽど儲かったのですね。

二ツ井戸>
 天牛書店の日本橋南詰東入の最初は”二ツ井戸”の郵便局前に開いた露店だったようです。「…そこで、古本屋でもしたいと言いましたら、父が早速、道具の市か何かで古本を買うてきてくれました。一番初めに買うてきてくれたのが、博文館発行の『女学世界』という雑誌で、五十冊ありました。「お父つぁん、これなんばぐらいで売ったらええやろ」と父と相談しまして、一冊五銭に決め店に出しました。場所は、二ツ井戸の郵便局の前が、わりかた広うございましたんで、そこで店を出しましたんです。それがまたたく間に半分も売れてしまいましたので非常に喜んで、父がせんぐり、ほうぼうから古い本を集めてきてくれました。…」。明治40年ころのお話ですから、商品を集められさえすれば(今の言葉で仕入れが出来れば)売れた時代だとおもいます。

右上の写真の左側辺りお店を出したのだとおもいます。写真の道を真っ直ぐ歩くと道頓堀通で、戻ると高津神社の階段の所になります。戦前は可なり人通りの多い道だったとおもいます。写真の右側が高津郵便局跡で、左側に”二ツ井戸”がありました(大阪では美味しい水で有名だったようですが明治5年には取り払われますが、”粟おこし”の「津の清」が店の前に再建していましたが現在はその「津の清」も無くなっています)。大正4年、天牛書店はこの二ツ井戸の露店から日本橋南詰東浜側にお店を持ちます。

<現在の天牛書店>
 大阪大空襲でお店は焼けますが、戦後、難波新地を初めとして自安寺跡、角座左前とお店を移りながら大きくしていきます。「…難波新地五番丁にある「スーパーサカエ」の店先が貸店になっているのを見つけてきました。…… 場所は旧歌舞伎座の前の市電の停留所のそばで、なかなか艮い場所でありました。そこは、「妙見さん」で知られた自安寺の跡.で、空襲で焼けてからお寺は京都へ避難しておりました。…… 今度見つけた家は、角座前のたばこ屋さんで、バラックで三間間口ほどありました。…」。現在の天牛書店は天神橋通りと江坂にあります。現在でもビルの名前が残っている角座左前の天牛ビルの写真を掲載しておきます。(現在は無くなっているが写真のすばらやの看板の左隣)

左上の写真が天神橋通りの天牛書店です。天神橋3−7−28です。皆様、古本は天牛書店で買いましょう。インターネットもやっています。

二ツ井戸付近地図




飛田大門跡(とびただいもん)>
 「夫婦善哉」に戻ります。商売が上手くいかない蝶子と柳吉は飛田遊廓の入口に関東煮のお店を開きます。「…ふと関東煮屋が良いと思いつき、柳吉に言うと、「そ、そ、そらええ考えや、わいが腕前ふるってええ味のもんを食わしたる」ひどく乗気になった。適当な売り店がないかと探すと、近くの飛田大門前通りに小さな関東煮の店が売りに出ていた。現在年寄夫婦が商売しているのだが、土地柄、客種が柄悪く荒っぽいので、大人しい女子衆は続かず、といって気性の強い女はこちらがなめられるといった按配で、ほとほと人手に困って売りに出したのだというから、掛け合うと、案外安く造作から道具一切附き三百五十円で譲ってくれた。…」。この関東煮屋は道頓堀東詰の”たこ梅”をモデルにしているようです。

左上の写真が飛田大門跡です。左右に大門跡の柱が残っています。右側にある交番は昔のままです。この近くの路地で蝶子と柳吉は関東煮の店を開きます。昔の遊廓の建物も少し残っていました。

実費医院>
 柳吉は体調を崩し、病院通いを始めます。「…柳吉にそろそろ元気がなくなって来たので、蝶子はもう飽いたのかと心配した。がその心配より先に柳吉は病気になった。まえまえから胃腸が悪いと二ツ井戸の実費医院へ通い通いしていた、…… 島の内の華陽堂病院が泌尿科専門なので、そこで診てもらうと、尿道に管を入れて覗いたあげく、「膀胱が悪い」十日ばかり通ったが、はかばかしくならなかった。みるみる痩せて行った。診立て違いということもあるからと、天王寺の市民病院で診てもらうと、果して違っていた。レントゲンをかけ腎臓結核だときまると、華陽堂病院が恨めしいよりも、むしろなつかしかった。命が惜しければ入院しなさいと言われた。あわてて入院した。…」。上記に書かれている”実費医院”は現在でもありました。高津病院となっていました。高津神社の階段を下りたところです。島之内の”華陽堂病院”は現在はありません。当時は南警察署の裏にあったようです。天王寺の”市民病院”は大阪市立大学付属病院のことかなとおもいます。

右上の写真が現在の高津病院です。写真の右側の道は当時は有りませんでした。

夫婦善哉>
 最後に”夫婦善哉”を紹介して終わります。「…柳吉は「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか」と蝶子を誘った。法善寺境内の「めおとぜんざい」へ行った。道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びた阿多福人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提灯がぶら下っているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。おまけに、ぜんざいを註文すると、女夫の意味で一人に二杯ずつ持って来た。碁盤の目の敷畳に腰をかけ、スウスウと高い音を立てて啜りながら柳吉は言った。「こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯|山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」蝶子は「一人より女夫の方がええいうことでっしゃろ」ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。蝶子はめっきり肥えて、そこの座蒲団が尻にかくれるくらいであった。…」。戦前の夫婦善哉については「夫婦善哉を歩く-1-」を参照してください。「織田作之助の大阪」や「鱧の皮」でも紹介していますが、今回は現在の夫婦善哉を紹介します。

左上の写真は現在の”法善寺””夫婦善哉”で出される善哉です(写真で一人前です)。戦前の夫婦善哉とは経営者は変わっていますが、出される善哉は同じです。是非とも一度は御夫婦で食べられればとおもいます。

織田作之助の大阪地図


【参考文献】
・道頓堀 川/橋/芝居:三田純市、白川書院
・大阪の歴史62(道頓堀特集):大阪市史編纂所
・大阪春秋 33、112:大阪春秋社
・都市大阪 文学の風景:橋本寛之、双文社出版
・モダン道頓堀探検:橋爪節也、創元社
・モダン心斎橋コレクション:橋爪節也、国書刊行会
・大阪365日事典:和多田勝、東方出版
・夫婦善哉:織田作之助、創元社、大地書房、新潮文庫
・関西名作の風景 正、続:大谷晃一、創元社
・百年の大阪 1〜4:大阪読売新聞社、浪速社

参考図書


























参考DVD






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