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最終更新日:2006年2月20日


●織田作之助の第三高等学校時代を歩く
   初版04/03/06 
<V02L02> 京都大学教養学部正門の写真を入替

 今週は「小説家の新宿を歩く」を一回休んで、「織田作之助を歩く」でやり残した「第三高等学校時代の京都を歩く」を掲載します。織田作之助を掲載した前回からは、かなり時間が経ってしまいましたが、京都シリーズの第一弾とします。この後、中原中也でも京都を掲載予定です。来週は新宿シリーズで「五木寛之の新宿を歩く」に戻ります。

リプトン>
 織田作之助は何処へ行ってもまず最初に喫茶店にはいります。「…名所旧跡など僕にはなんの刺激も興味も与えてくれない。どこの土地にいっても、まずその土地の喫茶店へ入るだけのことである。喫茶店のない土地へいってもつまらぬのである。僕は都会で生まれ、都会で育ったので、都会的なものにしか興味がない。…」、と書いています。まだ若かったということもあってか、興味の対象が違いますね。第三高等学校時代の京都で織田作之助が度々使っていた喫茶店が「リプトン」です。大谷晃一の「織田作之助」では、「…寺町二条の鎰屋という菓子舗の二階にある喫茶室に上って伽排を注文し、とりすました給仕女を話題にのせる。三条通りの入り口からさくら井屋へはいり、狭い店の中で封筒や便箋を買う女学生をおしのけて、新京極の方の入口へ通り抜ける。京極裏の花遊小路を突き当たつて、正宗ホールでたにしの佃煮をつつきながら飲めぬ酒をちょっと飲んだ。三条通りのリプトンで十銭の伽排を飲む。京極のスターで十五銭のホットケーキを食べる。河原町四条上ルの長崎屋でカステラをつまみ番茶をすする。そこを東へ入つたヴィクターで深刻な顔をしてベートーベンの『交響曲第五・運命』を聞いた。新京極を空しく三往復した。その長身は、人波から抜け出した。京極から下宿へ帰るのに、吉田山へ抜けて行った。以上を小説『青春の逆説』や『影絵』から拾ったが、すべて裏付けのある事実である。このほかに四条の大丸の向かいのこまどり、三条通りのブラジルなどへよく入った。喫茶店にへたり込み、煙草をふかし、ランボーやヴュルレーヌを語り、女の子に目工をつける。青春であった。…」、と当時の織田作之助の喫茶店事情を書いています。上記に書かれている喫茶店で現在残っているのは、三条通りの「リプトン」、京極の「スター」で、その他では「さくら井屋」くらいでした。

左上の写真が三条通りの「リプトン」です。紅茶のポットの写真を掲載しておきます。リプトンのホームページでは、「昭和5年、洋風のものがまだ珍しかった時代。ティハウスリプトンは京都で初めて紅茶を楽しむ店としてオープンしました。以来70余年、「紅茶といっしょにお菓子を楽しむ」そんな、ほっとするひと時をご提供し、これまで多くのお客様にご利用いただいてきました。」、と書かれていますので、出来た年の翌年には通っていたとおもいます。現在、リプトンで人気があるのはオムライスです。私も食べてしまいました(写真を載せておきます)。

【織田作之助】
 織田作之助は大正2年(1913)10月26日、大阪市天王寺区上汐町4丁目27で父織田鶴吉、母たかゑの長男として生まれています。父鶴吉は仕出屋を営んでおり、生活は決して楽ではなかったようです。大正9年(1920)、大阪市立東平野第一尋常高等小学校(現、市立生魂小学校)に入学、大正15年(1926)、成績優秀で大阪府立高津中学校(現、府立高津高等学校)に入学します(町内中があっといったそうです)。昭和6年(1931)、第三高等学校(のちの京都大学教養部)文科甲類に入学します。当時、仕出屋の息子が第三高等学校に入ることなどありえなかったことで、東平野第一小学校は創立以来初めて卒業生から三高生を出したという事で、入学式の日に児童総出で見送るとの申し出があったそうです(こうなると殆ど天才ですね)。三高入学後は、身体を悪くしたりして順調に進まなくなり、出席日数不足で退学となります。その後一時東京へ出ますが、長く続かず結局大阪に戻ります。昭和14年(1939)7月三高時代からの恋人宮田一枝と正式に結婚。昭和15年(1940)2月、「俗臭」が芥川賞候補となり、7月「夫婦善哉」が改造社の第一回文芸推薦作品となり、ここから作家生活にはいります。「猿飛佐助」「土曜夫人」等を発表し昭和21年再び東京に出ますが、三高時代からの胸部疾患が悪化し、翌昭和22年1月死去します。

織田作之助の「第三高等学校時代」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

織田作之助の足跡

昭和6年 1931 満州事変 18 4月 第三高等学校に入学(現、京都大学教養学部)
三高北寮第八番に入寮
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
19 9月29日 父鶴吉、胃癌のため死去
この頃、左京区吉田下大路町に下宿
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
20 10月 青山光二と親しくなる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 21 2月 卒業試験の最中、喀血のため留年
11月 ハイデルベルヒで働く宮田一枝と知り合う
12月 吉田東通りで一枝と同棲を始める
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 22 2月 卒業試験を放棄し、再度留年
5月 左京区下鴨松ノ木町に下宿
昭和11年 1936 2.26事件 23 3月 第三高等学校を退学、上京

第三高等学校>
 仕出屋の息子が大阪府立高津中学校(現、府立高津高等学校)に合格したという事で町中をあっと言わせた織田作之助は、京都の第三高等学校を受験します。一回目は受験に失敗しますが、二回目には合格します。「…高津中学を挙げて、あつと驚いた。作之助がみごとに三高に合格した。高津中学からはふたりだけで、ひとりは大江兵馬。この人はのち札幌地検検事正になった。同級生に憎まれていただけの自尊心の満足はあった、と小説『雨』に書いている。作之助は喜んで家の中を駆け回った。父鶴吉はそれを眺めて、とても高等学校へはようやれん、すべってくれたら奉公にやつたんやのにと、溜息をついた。大家主の野崎や浮田の坊ん坊んがだれも高等学校へ入られへんのに、作ひとりが通って滅相もないと恐縮してしもうた。…」。当時としては、たいへんなことだ:ったのでしょう。やはり”天才、織田作”です。

左上の写真が旧第三高等学校正門、現京都大学教養学部です。長らく工事をしていたのですが終了しましたので写真を掲載します。(04/08/21)

左京区吉田下大路町の下宿>
 織田作之助が入学する前年、三高は大規模なストライキを行います。当時の事を織田作之助の友人、青山光二は、「…全校ストライキは除名二十六名、停学十四名、謹慎多数という大量処分でケリがついたが、除名・停学の四十名のなかに、のちの公安調査庁長官川口光太郎や最高裁判事大塚喜一郎が含まれていたのは歴史の皮肉とでもいうべきだろうか。 ところで、ストライキに敗れた後も、三高生に自由がなくなったわけではなかったが、校内の空気は微妙に一変した。昭和初年の三高は、左翼の温床などといわれ、私が入学した頃も、特高に狙われた生徒がつぎつぎと検挙されたり、学校を追われたりするといった状況で、校内の空気はかなり暗澹としてけわしいものだった。ところが、ストライキ後になると、それがいいことなのかどうかは別として、払拭したように陰惨な気分が校内から薄れ去っていた。この変化を抽象的に私の言葉で言うならば、(学校のなかで)政治の季節が終わって、文芸復興の、あるいはデカダンスの季節が到来していたのである。…」、と書いています。まあ、昔も今もあまりかわらないようです。また、織田作之助は初めて女性を経験します。自らの著「神経」で、「…京都の高等学校へはいった年のある秋の夜、私はばじめて宮川町の廓で一夜を明かした。十二時過ぎから行くと三円五十銭で泊れると聴いたので、夜更けの京極や四条通をうろうろして時間を過し、十二時になってから南座の横の川添いの暗い横丁へ折れて行った。…」、宮川町とは、昔の廓ですね。四条から五条までの鴨川の東岸、疏水に沿った町です。安かったので、学生や店員が多かったそうです。現在の宮川町の写真を掲載しておきます。

右上の写真付近が吉田下大路町です。”神楽坂通りの黒谷に近い下宿”なのですが、よく分かりませんでした。

東一条電停西入ルのハイデルベルヒ>
 織田作之助の最初の妻である宮田一枝と初めてあったのが”東一条電停西入ル”のカフェ「ハイデルベルヒ」でした。「…しゃれた暖炉があり、モーツァルトやフランクの名曲レコードがかかっている。学生町としては高級でハイカラなカフェーだった。…女の子が三人いて、一人はつんと取り澄ましている。派手でエキゾチックな顔立ち、額は広く、眼は冷たく澄み、鼻筋は綺麗に通り、高かった。すらりと伸びた姿態。当時、人気のあつた映画女優逢初夢子の面影があった。…一週間も二週間も通い詰めて、彼女を張った。…そのひとの名は宮田一枝。九年十一月のことだった。生涯かけて、作之助が本当に愛したただ一人のひととの、出会いである。…三日はどして、一枝のハイデルベルヒ脱出事件がおこる。彼女はマスターの徳永に借金があった。徳永は三高生輩と付き合うのを嫌い、離そうとした。フランクに監禁されとんねン、助け出さんならん、と作之助は瀬川に応援を求めた。十二月に入って、寒い夜中だった。二人は徳永夫妻の寝静まるのを待ち、表の道から二階へはしごをかけた。一枝と仲のいい朋輩の慶子を、荷物ともども下ろした。脱出成功である。作之助と瀬川はうれしがった。…作之助は一枝を下宿へ連れ帰つた。三高のすぐ東南の吉田東通り付近に、そのころはいたらしい。一枝との同棲が始まる。…」。”東一条の電停西入ル”とは、東大路通りと一条通りの交差点「東山東一条交差点」を西に入るということで、交差点を東に200m行くと、京都大学正門ですから、反対側の左京区役所側に角から通りの南側三軒目がハイデルベルヒになります。夜逃げか、駆け落ちですか、どう見ても夜逃げですね。

左上の写真の左正面が東山東一条交差点となりますので、写真の右側辺りに「ハイデルベルヒ」があったとおもわれます(クリーニング屋さん辺りか)。第三高等学校と京都帝国大学のすくそばだったわけてす。

銀閣寺路電停の少し西のリッチモンド>
 「…一枝が引き続き稼がねばならない。銀閣寺通電停の少し西のリッチモンドへ再び出た。学生相手の場末のカフェーである。その北向かいに下宿を移した。左京区北白川久保田町。電車道と疎水を隔てて、リッチモンドと向き合っていた。作之助が一枝の行動を監視するためだった。中を見通せるわけでないが、こうでもしないと安心できない。早くも、作之助は嫉妬に身を苛まれねばならなかった。…一枝もひまがあると、向かいの下宿の窓を見る。電灯がついていると、作之助が劇作の勉強をしていると安心した。白崎や瀬川と喫茶店回りをしていたことがわかると、作之助をぎゅうぎゅう言わせた。…」。銀閣寺路電停とは、白川通りと今出川通りの交差点で、東に600mで銀閣寺になります。交差点付近の今出川通りの北側には疎水が流れており、上記に書かれた通りの風景でした。

右の写真が疎水です。左側が織田作之助の下宿があった付近です。写真に写ってはいませんが、疎水の右側に今出川通りがあり、「リッチモンド」がありました。

左京区下鴨松ノ木>
 織田作之助は第三高等学校時代、てんてんと下宿を変わっていきます。第三高等学校北寮からはじまって、左京区吉田下大路町、銀閣寺道電停の手前のスター食堂を南に入った下宿(左京区浄土寺西田町)、百万遍電停から西北へ出町柳駅へいく道筋にあった玄人下宿の二階(左京区田中上柳町)、三高のすぐ東南の吉田東通り、左京区北白川久保田町、左京区下鴨松ノ木でした。第三高等学校時代の最後の下宿が左京区下鴨松ノ木になります。「…作之助はそのころ左京区下鴨松ノ木町××の××方に下宿していた。一枝はそこから四条寺町角のサロン菊水へ通っていた。下鴨松ノ木町は宮田家の下鴨梅ノ木町に近いから、一枝は往き来していたのだろう。夜、白崎と瀬川が下鴨中通りを北へ歩いて行き、作之助の部屋を見上げる。赤い電球がついてると、一枝が酒場を休んで来ているという信号だった。二人は引き返す。…十一年二月二十六日は、京都も大雪であった。作之助と瀬川は、銀閣寺道電停に近い白崎の借家に集まって三度目の卒業試験に取り組んでいた。二・二六事件のニュースが入った。作之助はしかし、事件に何んの関心も示さなかった。…」、大変な時代になっていましたが、最後はがんばって卒業試験をかけますが、結局出席日数が足らず、第三高等学校を退学します。このあと、家族には退学した事を隠し、東大を受験すると偽って東京に出ますが、結局、大阪に戻り、「夫婦善哉」、他を書き出します。戦後、東京に再び出て、太宰治、坂口安吾で戦後の文壇を支えるようになります。

左上の写真は左京区下鴨松ノ木です。下宿先は当時と変わらずそのままお住まいでした。正確に場所が判明したのは此処場所だけでした。(本には住所氏名が書いてあったのですが、個人のため名前は控えさせて戴きました)

次回は織田作之助が歩いた”戦後の京都”を紹介します。

<織田作之助の京都地図>



【参考文献】
・わたしの織田作之助:織田昭子、サンケイ新聞社
・織田作之助:大谷晃一、沖積舎
・資料 織田作之助:関根和行、オリジン出版センター
・青春の賭け:青山光二、中公文庫
・わが文学放浪:青山光二、実業之日本社
・純血無頼派の生きた時代:青山光二、双葉社
・夫婦善哉:織田作之助、大地書房
・カリスト時代:林忠彦、朝日ソノラマ
・青春無頼の詩:織田作之助、大和出版
・夫婦善哉:織田作之助、新潮文庫
 
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