●野口冨士男の鈴ヶ森散歩(ポプラハウス編)
    初版2011年2月5日  <V01L02>  暫定版

 今回は「堀辰雄を歩く」から山下三郎繋がりで野口冨士男を歩いてみました。野口冨士男の本に「いま道のべに」があります。この本には鈴ヶ森(鈴が森)の「ポプラハウス(ポプラの家)」について書かれたところがあり、このアパートは馬込文士村にも登場しています。以前から気になっていたので今回歩いてみました。




「いま道のべに」
<野口冨士男 「いま道のべに」>
 野口冨士男の本名は平井冨士男、明治44年生まれ。慶応幼稚舎から慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学文学部予科に入学しているので、相当裕福な家庭だったとおもわれます(その後は慶応大学は退学して文化学院を卒業している)。しかしながら両親は大正2年(1913)に離婚しており、それなりの苦労はしているとおもいます。
 今回は掲記の「いま道のべに」を参照して鈴ヶ森界隈を歩きながらポプラハウス(ポプラの家)を探してみました。
 まずは野口冨士男の「いま道のべに」から”出発点 ── 大崎”からです。
「…私の正しい意味における文学的第一歩は、この「尖塔」時代から踏み出されたというべきかもしれない。そして、その空間的背景は、高岩肇と寝食をともにしていた「ポプラの家」であった。
 のちにシナリオライターになったほどだから、高岩は映画をよく観ていたが、文学作品もよく読んでいて、年齢も上なら大学生活も一年多く重ねていただけあって、私などより一日の長があった。……
… 高岩と藤沢はその後文学以外の道を歩いたが、田中は戦死しなければ文学に没入して一応の地歩を確立した一人であったろう。山下三郎や私たちの仲間の柳場博二など、開花が早すぎたのではなかったか。才能の点でいえば、山下も、高岩も、田中も、藤沢も、太田咲太郎や二宮孝顕や今川英一も、私よりはるかに上であった。「三田文学」に作品が掲載されたのも、彼等のほうが私よりかなり早い。…」

 上記に書かれている高岩肇とは、”昭和10年(1935)慶応大学文学部英文科を卒業、松竹、新興キネマ東京撮影所を経て、1943年大映東京撮影所脚本部員、1950年以後フリーとなります。第一作は「若き日の凱歌」(1939)、代表作としては「大地の侍」(1956)、「忍びの者」シリーズ、「にっぽん泥棒物語」、「眠狂四郎」シリーズなどで、1964年「にっぽん泥棒物語」でシナリオ賞を受賞しています”。(ウイキペディア参照)
 友人たちなどを考えると野口冨士男は慶応閥となりますので、山下三郎氏との繋がりも分かります。山下三郎氏とは高岩肇経由とおもわれます。

左上の写真は野口冨士男の「いま道のべに」、講談社版です。昭和55〜56年に「群像」に掲載されたものをまとめて出版しています。内容は、自身の若き日の話を東京の町並みと共に書いたものです。実在の名前と地名が書かれていて、かなり面白いです。

「新選 宇野千代集」
<宇野千代 「新選 宇野千代集」>
 野口冨士男が高岩肇と一緒に住んでいた「ポプラハウス(ポプラの家)」については宇野千代も書いていました。
 「新選宇野千代集」に収録されている”ポプラハウス物語”の冒頭の部分です。
「 その小さなアパートはプラタナスの並木のある素情しい二十間道路に沼うた海岸の、とある埋立の中に建ってをりました。通りがかりに道から見ると、くすんだアメリカ紅の低い屋根やぺったりと蔓のはりついてゐる壁の具合や如何かすると近所の料理屋の出前持らしく白い上着を着た背の低い男が裏の小さな潜り戸から出這入りする有様など、そっくり西洋の田舎にある宿屋のやうでありますが、戎朝のこと、沖までボートを漕いで、何の気なしに振り返ると、自分もそこに住んでゐるところ乍ら、へんに玩具のお城のやうだと思はれるところだなと思ひました。二階が三室、階下が三室、みな海に向いて扉のひらいた同じやうな窓を持ってゐます。そしてそれらの窓窓からは、何も植ゑてない一面にぼうぼうと草の生えた庭が見える。庭の外れは高いコンクリートの突堤でありました。
 私はひとりで起きてゐました。隣室にいる瀧は朝から出たつきり、(瀧は私の従弟です……」

 この本が出版されたのは昭和4年9月で、”ポプラ ハウス物語”の最後には”1927”と掲載されていましたので、実際に宇野千代が書いた日付も昭和4年(1927)だとおもわれます。この時期は尾崎士郎と別居して馬込を出た後で、東郷青児と付き合いだしたころです。
 野口冨士男の「いま道のべに」から”出発点 ── 大崎”で、宇野千代について書かれたところを参照します。
「… そのアパートの前作者には高田保と宇野千代の両氏がおられたことを、高岩と私は両氏が転居された後まで寄贈されてきていた雑誌類を玄関先で見受けて知ったが…」
 馬込から考えると鈴ヶ森は近くてよかったのだとおもいます。馬込は大田区(戦前は大森区)で鈴ヶ森は品川区です。

写真は昭和4年発刊の「新選宇野千代集」、改造社版です。短編が61ほど掲載されていて、518ページありました。”ポプラハウス物語”は一番最後に掲載されています。

「立会川駅」
<京浜急行 「立会川駅」>
 「いま道のべに」に書かれているとおりに京浜急行「立会川駅」から”ポプラハウス”に向かって歩いてみました。
 野口冨士男の「いま道のべに」から”出発点 ── 大崎”からです。
「… 高輪を一巡して柘榴坂をくだった私は品川駅前へ出て京浜急行に乗ると、立会川で下車して国道一五号線の第一京浜を横浜の方向へ歩いて行った。そのへんの海は私が居住したころより埋立てで海岸線がさらに遠くなったせいか、駅の近くにある立会川の川幅も以前よりよほどせまくなって、洗濯水を想わせる白っぽい水が静止しているように見える。…」

写真は現在の京浜急行「立会川駅」です。当時、立会川駅の蒲田寄りの駅であった鈴ヶ森駅(現在は廃止)より南側は、大正15年(1926)に一部高架工事が行われましたが、立会川駅から品川よりの高架化が実現したのは、平成3年(1991)です。大井競馬場の最寄りの駅なので商店も多く、競馬開催日ではなかったのですが人通りもそこそこでした。又、上記に書かれたとおり、直ぐ横を立会川が流れていました。

「吊標識」
<吊標識>
 引き続き、「いま道のべに」書かれているとおりに”ポプラハウス”に向かって歩いてみました。
 野口冨士男の「いま道のべに」から”出発点 ── 大崎”からです。
「…国道ぞいの家々も戦前にくらべればよほど高層化して面目を一新しているが、もともと町工場の多かった一帯で内容自体はあまり変っていないと思われる。が、そのところどころに児童遊園のようなものが出来ているのは顕著な変化の一つで、「小田原73km 横浜21kmという吊標識がある地点…」
 「いま道のべに」は昭和55〜56年に書かれていますので、30年程前になります。30年一昔なので、風景は相当変わっているとおもいますが、吊標識や児童公園も書かれたとおりにありました。

写真は立会川駅から第一京浜国道(国道15号線)に出て蒲田方面に少し歩いたところにある吊標識です。吊標識の内容が少し変わって”小田原73km”が無くなって、”横浜21km”、”川崎8km”と”蒲田3km”が掲載されていました。

「鈴ヶ森駅跡」
<鈴ケ森という駅>
 京浜急行の駅は戦前と比べて駅名が変わったり、無くなったりしています。元々、京浜急行は駅の間隔が短くて、プラットホームに立つと次の駅がよく見えています。この鈴ヶ森駅も戦前の昭和17年頃まではあったのですが、大森海岸駅と立会川駅の駅間か短いため、廃止されたのだとおもいます。
 野口冨士男の「いま道のべに」から”出発点 ── 大崎”からです。
「…すぐ前方に、それまで左側を走っていた京浜急行の軌道が次第に登り勾配にさしかかって、左から右へと国道の上をななめに横断している高架橋が見えてくる。高岩と私が住んでいた時分には、その高架橋を右へ渡りきったいちばん高所に鈴ケ森という駅があった。それが廃駅になったのは戦時中かと私に思われるのは、私たちとほぼ同世代で丸岡明とともに「三田文学」の代表的な新進作家であった庄野誠一が敗戦直後そのすぐ先にある大井三業地の中に住んでいて、私がしばしば訪問したころにはすでに廃駅になっていたからである。…」
 昭和40年代の住宅地図にもこの駅の跡が掲載されていました。元々この付近は第一京浜国道と立体交差していましたが、平成3年に品川よりの京浜急行線が高架化されたときに全て作り直されています。庄野誠一については別途掲載したいとおもいます。

写真は現在の第一京浜国道と立体交差している京浜急行線です。当時の鈴ヶ森駅は写真正面辺り、交差点を越えた高架の上にありました。

「鈴ヶ森刑場跡」
<鈴ヶ森刑場跡>
 有名な鈴ヶ森刑場です。江戸時代には千住小塚原刑場と二つあったようです。
 野口冨士男の「いま道のべに」から”出発点 ── 大崎”からです。
「… その高架橋よりほんのすこし手前の左側に、よく「入れされた爽竹桃の植込みがあって、幅のせまい道路をひとつ渡った内ぶところといった場所に、正確には大経寺の境内というべきなのだが、公園風にしつらえられた鈴ヶ森刑場跡の遺蹟がある。文政年間から明治三年の廃止に至る五十年間に、はりつけ二十六人、火あぶり三十五人、獄門が二百十六人あったといわれていて、八百屋お七、天一坊、白井権八、鼠小僧、丸橋忠弥、白木屋お駒などの処刑場であったことは歌舞伎などでもひろく知られているが、丸い石の中央にみろ円形の穴に鉄柱を立てて火あぶりにかけたときの台石である火炎台や、正方形の石の中央に四角い穴のあるはりつけ台石のほか、白井権八の舞台に背景として出てくる文字の端がスーツとのびている「南無妙法蓮華経」の鬚題目をきざんだ石碑ものこっている。…」
 野口冨士男が細かく調べて書いています。よく分かります。

写真は現在の鈴ヶ森刑場跡です。”台石である火炎台、はりつけ台石”、”「南無妙法蓮華経」の鬚題目をきざんだ石碑”はそのまま残っています。

「ポプラの家跡」
<ポプラの家(ポプラハウス)>
 最後が本日のメインテーマである”ポプラの家(ポプラハウス)”です。
 野口冨士男の「いま道のべに」から”出発点 ── 大崎”からです。
「… その一区画を通りぬけると、すぐまたさほど広くない道路がある。それが先刻みてきた土蔵相模のあった旧東海道の延長線上にある街道跡で、その道路を左へ ── わかりやすくいえば立会川のほうへものの一〇メートルほども行くと、右側の屋上に「林ヘラシポリ」という看板があがっている四階建の林鉄製作所という建物がある。その建物とその先の鈴ヶ森中学校のあいだにある横丁の幅員は三、四メートルといったところだろうか。
「此処に違いない」
 横丁の左側につづいている中学校の塀の内側にある並木はポプラで、高岩と私がいたころと同じものでないことは明らかだが、まだ芽吹きをみせていない梢をみあげたとき、私は確信といっていいようなものを感じた。
「ポプラの家」は、恐らく私道だったに相違あるまいが、旧東海道から左側にポプラの樹が一列にならんでいた道を海のほうへむかっていった右側にあって、その奥 ── いちばん海に近い位置にあった玄関のすぐ前は、宇野さんが記しているように《何も植ゑてない一面にぼうぼうと草の生えた庭》というよりはただの空き地になっていて、空き地の端にあるコンクリートの防潮堤の下が墨汁を流したように真黒な海であった。…」

 上記には”右側の屋上に「林ヘラシポリ」という看板があがっている四階建の林鉄製作所という建物がある。その建物とその先の鈴ヶ森中学校のあいだにある横丁の幅員は三、四メートルといったところだろうか”と書かれて、この鈴ヶ森中学校と林鉄製作所の間の路地にポプラハウスがあったと書いていますが、昭和17年の火保図にポプラハウスが掲載されており、この火保図によると、先ほどの路地より一つ蒲田よりの路地にあったようです。

写真の正面、茶色のビルの所(ビルの手前半分位)にポプラハウスはありました。現在の地図と火保図を重ねた地図を掲載しておきます。よく分かるとおもいます。この付近は其程空襲を受けたわけではないのですが、ぽつんぽつんと焼けており、ポプラハウスの所は運悪く焼けてしまっています。戦後の住宅地図を見ると、同じ場所に”ポプラハウス”というアパートを見つけることが出来ました。規模は小さくなっているようですが、名前は同じでした(現在は無くなっています)。


野口冨士男の鈴ヶ森地図



野口冨士男年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 野口冨士男の足跡
明治44年 1911 辛亥革命 0 7月4日 東京市麹町に野口藤作・小トミの長男として生まれる
大正2年 1913 島崎藤村、フランスへ出発
2 両親協議離婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 5 父が渡支したため、養祖父母と静岡へ移住
大正6年 1917 ロシア革命 6 牛込区肴町居住の生母に引き取られる
大正7年 1918 シベリア出兵 7 4月 慶應義塾幼稚舎入学
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 13 普通部に進学、赤坂で父と同居
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 19 5月末 成績不良のため文化学院文学部に中途転校
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
22 3月 文化学院卒業
4月 紀伊国屋出版部に入社
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 24 8月末 紀伊国屋出版部倒産
10月 都新聞入社
昭和11年 1936 2.26事件 25 7月 肺門淋巴腺腫脹のための都新聞社解雇
12月 河出書房入社(翌年2月退社)
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 26 12月 生母・平井小トミとの養子縁組成立、本姓が平井、筆姓が野口となる
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
29 3月 歯科医早川三郎三女・直と結婚
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
33 9月 召集されて横須賀海兵団入団
         
平成5年 1993   82 11月23日 死去