<野口冨士男 「いま道のべに」>
野口冨士男の本名は平井冨士男、明治44年生まれ。慶応幼稚舎から慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学文学部予科に入学しているので、相当裕福な家庭だったとおもわれます(その後は慶応大学は退学して文化学院を卒業している)。しかしながら両親は大正2年(1913)に離婚しており、それなりの苦労はしているとおもいます。
今回は掲記の「いま道のべに」を参照して鈴ヶ森界隈を歩きながらポプラハウス(ポプラの家)を探してみました。
まずは野口冨士男の「いま道のべに」から”出発点
── 大崎”からです。
「…私の正しい意味における文学的第一歩は、この「尖塔」時代から踏み出されたというべきかもしれない。そして、その空間的背景は、高岩肇と寝食をともにしていた「ポプラの家」であった。
のちにシナリオライターになったほどだから、高岩は映画をよく観ていたが、文学作品もよく読んでいて、年齢も上なら大学生活も一年多く重ねていただけあって、私などより一日の長があった。……
… 高岩と藤沢はその後文学以外の道を歩いたが、田中は戦死しなければ文学に没入して一応の地歩を確立した一人であったろう。山下三郎や私たちの仲間の柳場博二など、開花が早すぎたのではなかったか。才能の点でいえば、山下も、高岩も、田中も、藤沢も、太田咲太郎や二宮孝顕や今川英一も、私よりはるかに上であった。「三田文学」に作品が掲載されたのも、彼等のほうが私よりかなり早い。…」
上記に書かれている高岩肇とは、”昭和10年(1935)慶応大学文学部英文科を卒業、松竹、新興キネマ東京撮影所を経て、1943年大映東京撮影所脚本部員、1950年以後フリーとなります。第一作は「若き日の凱歌」(1939)、代表作としては「大地の侍」(1956)、「忍びの者」シリーズ、「にっぽん泥棒物語」、「眠狂四郎」シリーズなどで、1964年「にっぽん泥棒物語」でシナリオ賞を受賞しています”。(ウイキペディア参照)
友人たちなどを考えると野口冨士男は慶応閥となりますので、山下三郎氏との繋がりも分かります。山下三郎氏とは高岩肇経由とおもわれます。
★左上の写真は野口冨士男の「いま道のべに」、講談社版です。昭和55〜56年に「群像」に掲載されたものをまとめて出版しています。内容は、自身の若き日の話を東京の町並みと共に書いたものです。実在の名前と地名が書かれていて、かなり面白いです。