
直木三十五は一生で唯一、自身で家を建てたのかこの富岡の新居でした。全て借家住まいの直木三十五でしたが、やはり死を意識したのか、横浜市金沢区富岡東(現在の住所)にある慶珊寺の裏山の土地を借りて自宅を建てます。
「…昭和八年五月、直木は富岡海岸に近い慶珊寺を訪ねた。そして、この寺と周囲の環境がいたく気に入った。境内に家を建てたいと住職佐伯隆瑞に申し入れ、結局寺の北側後方の高台、当時畑だった千三百三十五坪を借り受けることになった。借地代は、一年一坪五銭だった。年額六十六円七十五銭の手付金を入れると、早速東京から大工がやってきて工事が始まった。
設計は、直木自身である。建坪四十八坪。書斎、次の間、茶の間、子供部屋、女中部屋の五室。「出来あがってみたら不便な個所が多くて滑稽だよ」と菊池寛にいわせたその家は、まず玄関がない。幅三尺三寸の入り口があって、それが廊下に直接繋がっている。一説に「借金取りが入りにくいように設計された」といわれているが、真偽は不明である。…」。
昭和8年4月、京浜電気鉄道(現在の京浜急行)が湘南電気鉄道への乗り入れができるようになり、東京からの交通の便が良くなります(昭和16年に京浜電気と湘南電気は合併し後の京浜急行となります)。時期的にはピッタリです。
★左上の写真は”富岡の新居前”に作られた「直木三十五文学碑」です。この右側に”富岡の新居”があります。現在は個人のお宅なので直接の写真は控えさせていただきました。入り口から見ると”富岡の新居”はまだ健在のようです。交通の便は京急富岡駅から約1Km 、徒歩15分の距離です。
「…慶珊寺は彼が家を新築するために広い敷地を借りた寺であり、現在その裏山には、ほぼ原形をとどめた旧宅と、昭和三十五年に建てられた文学碑が、”藝術は短く 貧乏は長し”ある。…」。
”芸術は短く、貧乏は長し”は直木三十五の人生そのものですね。慶珊寺は直木三十五でも有名ですが、孫文が大正2年8月、横浜に上陸した場所でも有名で、孫文先生上陸之地記念碑がお寺の右側に建てられています。慶珊寺の左側の坂を上っていくと、”直木三十五文学碑”となります。