●直木三十五の東京を歩く (下)
    初版2008年10月12日  <V01L02>  

 今週は「直木三十五を歩く」の第六回を掲載します。今回が最終回となります。昭和2年、再び上京します。関東大震災で大阪に帰郷して僅か6年でした。東京に戻ってからは菊池寛の文藝春秋社に世話になりますが、病状が悪化し昭和9年1月死去します。


「富岡の新居跡」
富岡の新居>
 直木三十五は一生で唯一、自身で家を建てたのかこの富岡の新居でした。全て借家住まいの直木三十五でしたが、やはり死を意識したのか、横浜市金沢区富岡東(現在の住所)にある慶珊寺の裏山の土地を借りて自宅を建てます。
「…昭和八年五月、直木は富岡海岸に近い慶珊寺を訪ねた。そして、この寺と周囲の環境がいたく気に入った。境内に家を建てたいと住職佐伯隆瑞に申し入れ、結局寺の北側後方の高台、当時畑だった千三百三十五坪を借り受けることになった。借地代は、一年一坪五銭だった。年額六十六円七十五銭の手付金を入れると、早速東京から大工がやってきて工事が始まった。
 設計は、直木自身である。建坪四十八坪。書斎、次の間、茶の間、子供部屋、女中部屋の五室。「出来あがってみたら不便な個所が多くて滑稽だよ」と菊池寛にいわせたその家は、まず玄関がない。幅三尺三寸の入り口があって、それが廊下に直接繋がっている。一説に「借金取りが入りにくいように設計された」といわれているが、真偽は不明である。…」

 昭和8年4月、京浜電気鉄道(現在の京浜急行)が湘南電気鉄道への乗り入れができるようになり、東京からの交通の便が良くなります(昭和16年に京浜電気と湘南電気は合併し後の京浜急行となります)。時期的にはピッタリです。

左上の写真は”富岡の新居前”に作られた「直木三十五文学碑」です。この右側に”富岡の新居”があります。現在は個人のお宅なので直接の写真は控えさせていただきました。入り口から見ると”富岡の新居”はまだ健在のようです。交通の便は京急富岡駅から約1Km 、徒歩15分の距離です。
「…慶珊寺は彼が家を新築するために広い敷地を借りた寺であり、現在その裏山には、ほぼ原形をとどめた旧宅と、昭和三十五年に建てられた文学碑が、”藝術は短く 貧乏は長し”ある。…」
 ”芸術は短く、貧乏は長し”は直木三十五の人生そのものですね。慶珊寺は直木三十五でも有名ですが、孫文が大正2年8月、横浜に上陸した場所でも有名で、孫文先生上陸之地記念碑がお寺の右側に建てられています。慶珊寺の左側の坂を上っていくと、”直木三十五文学碑”となります。

【直木三十五(なおき・さんじゅうご)】
 明治24年(1891)2月12日現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。早稲田大学文学部英文学科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。1929年、『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。時代小説を多く執筆し『黄門廻国記』は月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は50本近くある。昭和9年(1934)2月24日43歳で死去。翌年の昭和10年(1935)、文藝春秋社長菊池寛により芥川賞と共に直木賞が設置された。(ウィキペディア参照)



直木三十五の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 直木三十五の足跡
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
0 2月12日 大阪市南区内安堂寺町通二丁目に生れる。父植村惣八、母しずの長男。本名 植村宗一
明治29年 1896 水力発電所が京都に完成 5 4月 大阪市立桃園尋常小学校附属幼稚園入園
南区内安堂寺町通二丁目三十七に転居
明治30年 1897 金本位制実施 6 4月 大阪市立桃園尋常小学校入学
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 10 1月 弟清二誕生
3月 大阪府大阪市立桃園尋常小学校卒業
4月 大阪府大阪市立育英第一高等小学校入学
明治38年 1905 ポーツマス条約 14 3月 大阪市立育英第一高等小学校卒業
4月 大阪府立市岡中学校入学
明治43年 1910 日韓併合 19 3月 大阪府立市岡中学校卒業
3月 岡山第六高等学校文科一部乙を受験
東区谷町六丁目の薄病院薬局でアルバイトをする
11月 奈良県吉野郡白銀村奥谷尋常小学校の代用教員となる
明治44年 1911 辛亥革命 20 3月 奥谷尋常小学校の代用教員を辞す
8月 早稲田大学を受験
9月 早稲田大学英文学科予科純文芸科入学
藤堂杢三郎と東京府下田端一四九で下宿
明治45年
大正元年
1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
21 初夏 悌子寿満上京
秋 悌子寿満子と東京市牛込区下戸塚三二四番地で同居
大正5年 1916 世界恐慌始まる 25 3月 長女木の実生まれる
5月 寿満子 読売新聞社に婦人記者として入社
10月 寿満子 同社退社
大正7年 1918 シベリア出兵 27 8月 神田豊穂らと「杜翁全集刊行会」(日本橋区本材木町)(のちの春秋社)を設立
鷲尾浩(雨工)と冬夏社を設立
麹町三番町二十八番地に転居
大正12年 1923 関東大震災 32 9月 関東大震災のため家族と共に大阪額田に転居
プラトン社に勤務
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
34 3月 牧野省三と「聯合映画塾術家協会」を設立
夏頃 プラトン社を退社
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
36 6月 「聯合映画芸術家協会」を解散
上京し麹町下六番町10番に転居
昭和6年 1931 満州事変 40 麹町区紀尾井町三に転居
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
41 6月 寿満と別居
木挽町の文藝春秋社倶楽部に転居
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
42 6月 寿満と離婚。
12月 神奈川県金沢区富岡町一九八二番地の新居完成
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 43 2月9日 帝大医院整形外科に入院。
2月14日 呉内科に移る
2月24日 結核性脳膜炎のため死去
2月25日 木挽町文藝春秋社倶楽部で通夜
2月26日 内幸町大阪ビル文藝春秋社で告別式
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 - 菊池寛、芥川賞、直木賞を発表



「麹町下六番町十番地」
麹町下六番町十番>
直木三十五は昭和2年、再び上京します。借金取りに追われた毎日で、ここでも住居を転々とします。
「…昭和二年六月、「聯合映画塾術家協会」 を解散、直木は三年ぶりに東京に戻った。奈良から送った十五個の家財道具一式は田端駅で債権者たちに差押えられ、競売にかけられた。家族四人は、しばらくの間、着の身着のままで本郷の菊富士ホテルに身を寄せる。
 ……一家は間もなく麹町下六番町に引越し、東京での生活が復活した。麹町は震災前に住み慣れた町であるが、今度の家は有島生馬の借家、直木の前には生馬の弟里見醇が住んでいた。…」

 本郷菊富士ホテルは有名ですね。宇野浩二の紹介で入居できたようです。文藝春秋社がこの有島武郎邸を借りていたのが大正15年(昭和元年)から昭和2年9月までですから、丁度入れ違いです。

左上の写真に写っているマンションの所が麹町下六番町十番です。有島武郎が波多野明子と心中したのが大正12年ですから、しばらくたっています。直木三十五はこの後、紀尾井町の現在の文藝春秋社付近に転居しています。

「文藝春秋社倶楽部跡」
文藝春秋社倶楽部>
 昭和4年10月、文藝春秋社は京橋区木挽町八丁目一番に「文藝春秋社倶樂部」を設けます。社友、直木三十五の執筆所を兼ねた三階建ての日本家屋でした。直木三十五は離婚後、この「文藝春秋社倶樂部」に住み続けます。
「…昭和四年十月、京橋区木挽町、いまの新橋演舞場近くに設けられた「文聾春秋社倶楽部」である。文聾春秋社の倶楽部であるから当然社員の集まる場所なのだが、同時に直木の仕事部屋であり、また彼の愛人宅でもある。三階建ての日本家屋で、直木と織恵、それに菊池三人の共同名義になっていた。玄関には三人の名前を連ねた表札が掛かっていた。…」

右上の写真が京橋区木挽町八丁目一番です。この一画すべでが一番で、詳細の場所が分かりませんでした。推定ですが写真の写っている所ではないかとおもっています。現在の住所で銀座八丁目14番です。

「内幸町大阪ビル跡」
内幸町大阪ビル>
 直木三十五は昭和9年2月、結核性脳膜炎のため死去します。結核が進行し転移したものとおもわれます。文藝春秋社倶樂部でお通夜の後、内幸町大阪ビル内の文藝春秋社で告別式を行います。
「…直木三十五氏の葬儀は二十六日午後二時から麹町区内幸町大阪ビルの旧館で神式を以て盛大に行はれた。花環の贈り主は新聞社、雑誌社、劇団、映画、俳優、航空会社、陸軍省新聞班、画家、料理屋等種類の多い事はさながら故人生前の広はんな活躍舞台を如実に物語っているやうで、実子の木の実さんや菊池寛、久米正雄、山本有三、佐々木茂索氏など文芸春秋社同人を始め五百余名の直木フアンの会葬もあって全く『大衆文芸葬』とでもいふ悲しい賑やか
さであった。葬儀と告別式を行って式は午後三時終了、埋葬地は多分多摩墓地になる予定である」…」

 文藝春秋社は昭和2年5月 麹町区内幸町大阪ビル 2階211号室に移転します。これは麹町下六番町一○番地の有島武郎邸の費用や新劇協会への援助などが重なり資金的に苦しくなったためでした。このあと、昭和3年5月に文藝春秋は株式会社化します。資本金五万円、社長菊池寛で、年六分の配当をしていたようです。

左上の写真は内幸町大阪ビルの記念碑です。現在は建て直されています。



直木三十五 東京地図



「お墓」
お墓>
 直木三十五のお墓は最初、多磨霊園に埋葬する予定だったようですが、結局、新居の土地を借りた慶珊寺にお墓を造ります。
「… 昭和九年に直木は没し、最初は当山の隣寺である慶珊寺(真言宗御室派) に埋葬された。
……昭和二十二年に墓は未亡人佛子須磨子の意向で長昌寺に移された。「故直木三十五之墓」と刻まれた自然石の墓石の裏には、「昭和十六年六月廿四日植村昂生建之」とあり、没後七年以上経ってから長男昂生によって建立されている。…」

 どう言う訳か、再度お墓を移転しています。慶珊寺から近くの長昌寺に移されています。

右上の写真は現在のお墓です。長昌寺の裏側にお墓がありました。

「直木三十五を歩く」は今回で終了します。まだまだ不十分ですので順次改版していきます。



直木三十五 横浜地図