●直木三十五の大阪を歩く (下)
    初版2008年9月13日  <V01L01>  

 今週は「直木三十五を歩く」の第五回を掲載します。すこし時間が空いてしまいましたが、今週は関東大震災のため、大阪に戻った直木三十五を歩きます。実家近くの谷町にあったプラトン社に入社し雑誌の出版を手がけますが、結局、長続きせず、昭和2年には東京に戻ります。


「プラトン社」
<モダニズム出版社の光芒>
 クラブ化粧品といえば、中山太陽堂の化粧品としてご存じの方も多いとおもいます(中山太陽堂は年配の方、若い方はクラブコスメチックス)。この中山太陽堂は神戸が発祥の地で、大阪で大きく成長した化粧品会社です。大正から昭和初期に化粧品宣伝の為に広告会社「プラトン社」を創立、雑誌の出版も始めます。この出版社に関東大震災で大阪に戻った直木三十五が入社するわけです。この「プラトン社」の話を纏めたのが淡交社の「モダニズム出版社の光芒」という本です。今週はこの本に従ってすこし歩いてみました。
「…大阪城がすぐのところにあり、坂をくだっていくと天満橋という山手の裏通りに、プラトン社という雑誌社があった。そこから『女性』という月刊婦人雑誌が出ていた。執筆者の顔触れも記事の内容も文学的で、男の読者も多かった。(中略)こんな高度の雑誌が大正年代に、しかも大阪から出ていたのは、出版文化史の上でも特異な事象であろうし、山六郎の仕事はデザインの近代化に一歩を進めたと言うことができよう。(山名文夫)

 その当時の『女性』は一冊も手元に残っていないが、実に美しい雑誌で、ビアズレーまがいのさし絵が沢山入っていて、印刷も高級なら紙も上質紙を使い、その当時にしてはケタ外れに贅沢な雑誌だった。(川口松太郎)…」

 この「プラトン社」が設立されたのが大正11年ですから、関東大震災の一年前になります。関東大震災で東京の出版関係は壊滅的な打撃を受け、作家(谷崎潤一郎、川口松太郎 等)も東京から大阪に避難してきましたから、タイミングとしては丁度よかったわけです。

「谷町五丁目乙20番地」
左上の写真は淡交社の「モダニズム出版社の光芒」です。著者は小野高裕、西村美香、明尾圭造の三名となっていました。

この「プラトン社」は大正11年、初めての雑誌「女性」を出版します。
「…大正一一年一九二二) 年四月、雑誌『女性』 の創刊によって、出版社としてのプラトン社は初めてその存在を世に示した。体裁は菊判、一七六頁、定価五〇銭。表紙は山六郎描く女性像で「覚醒」と題され、着物姿の若い女性が髪を風になびかせながら晴れ晴れと空を仰いでいた。本文用紙は当時の雑誌としては珍しい薄手で光沢のある上質の用紙が用いられ、活字や挿絵が映えていた。
 奥付の発行所所在地には、大阪市東区谷町五丁目乙二〇番地と東京市五郎兵衛町二二番地が併記されている。前者は副社長河中作造の自邸であり、後者は中山太陽堂の東京支店の所在地だが、後の号では「東京支局」と改められている。…」

 大阪市東区谷町五丁目乙二〇番地は下記を参照、東京市五郎兵衛町二二番地は現在の中央区八重洲二丁目となります。

左上の写真の少し先、左側が大阪市東区谷町五丁目乙二〇番地となります。この番地は直木三十五生誕の地、谷町六丁目交差点のすぐ側になります(北に50m程歩いた右側が上記の写真の場所)。現在も谷町五丁目となります。この場に直木三十五が表れるわけです。
「…小山内は彼を頼って大阪までやって来た愛弟子との再会を喜び、さっそくプラトン社の編集記者として塁二社長に推薦するつもりでいた。
 しかし、その日はもう一人豊三社長に紹介しなければならない人物が待っていた。師匠を前に目を輝かせている弱冠二四歳の川口と違ってこいつは曲者だ、しかし使い様によっては ── と小山内が思っていたかどうかはわからない。遠慮会釈のないその男は、異様に長い面貌に着流しの素浪人のような風情を漂わせている。「あとにも先にも一度だけ小山内さんに頼みごとをしたのはこの時だけ」という里見クが紹介してきた人物こそ、当時まだ「三十二」を名乗っていた
直木三十五であった。…」
 劇的な登場ですね。上記の”愛弟子”とは、”川口松太郎”のことであり、関東大震災で東京から避難してきたメンバーだったわけです。東京の出版関係が関東大震災で壊滅的な打撃を受けていますから、雑誌や本を出版さえすれば売れるわけです。

「西道頓堀入り口」
福田屋>
 直木三十五は大阪でも遊びます。一人ではなく川口松太郎という友人が居ました。
「…明けて大正一三年の正月、直木と川口は道頓堀に近い九郎衛門町の福田屋というお茶屋で飲んでいた。折しも宮中の慶事で街には奉祝に浮かれた人々が思い思いの仮装をまとって練り歩き、大賑わいの最中であった。そこへ、直木
の愛人・香西織江が芝居の中の仕丁に扮してやってきた。すでに酔いの回った香西と若い芸妓につかまった二人は、夜の街に引きずり出され、「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」 の掛け声に乗って踊る群集に巻き込まれる。長襦袢に赤い襷を身につけてはしゃぐ川口の横で、直木は世にも悲しそうな顔をして「踊る阿呆に見る阿呆」とつぶやきながら踊った。二人が群集の輪を抜け出して店に戻ったところへ、これまたできあがった小山内が北の新地の芸妓を連れてやってくる。小山内の提案で、堀江と曾根崎を周ることになった一同はタクシーに乗り込むが、運転手もまたできあがっていて淀屋橋まで来たところで電柱に衝突、「大当たりだア」と自分で喜んでいる。運転手も含めた五人は街角の洋食屋に入りさらに杯を重ね、直木がまた「踊る阿呆に見る阿呆」と歌う横で小山内がストーブをたたきながら「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」とはやしたてたと川口は書いている。…」


「福田屋跡」
右上の写真は西道頓堀の入り口です。御堂筋の東側から西道頓堀入り口を撮影したものです。「芥川龍之介の大阪を歩く」でも谷崎潤一郎の奥様になった松子さんが芥川龍之介に会いに来る場面で登場しています。

右側の写真、左端のビルの所、西道頓堀パーキングの手前のビルの所が福田屋跡になります。現在の住所で道頓堀二丁目2番地、道頓堀川南、御堂筋西側です。当時は御堂筋がまだ無く、道頓堀からそのまま繋がっていました。大正14年の電話番号簿に掲載されていましたので場所は正確です。この福田屋が有名なのは谷崎潤一郎と松子さんが始めてあった場所だからです

「堂島ビルディング」
堂島ビルディング>
 「プラトン社」は大正14年4月、谷町五丁目から中ノ島のすぐ北側、堂島ビルディングに移ります。
「…大正一四(一九二五)年四月、大阪市北区の堂島ビルディング (通称「堂ビル」) 四階に移転したプラトン社は、『女性』、『苦楽』 (五月号) 誌上に次のような社告を出した。
 『女性』は高級婦人雑誌として又純文芸雑誌として『苦楽』は上品で面白い高級家庭娯楽雑誌として何れも斯界の最高権威となりました、偏に江湖各位の御援助に困る所と深く感謝致します。就いては社務益々繁多となり従来の事務所にては頗る狭陰を感じますので左記の所へ三月二十日移転しました。今後一層内容の充実を計り御脊顧に酬い度いと存じます。
 かつて商都大阪の中心・米会所のあった堂島河畔を現在も見下ろす「堂ビル」 の五階フロアは中山文化研究所の施設で占められ、夜ともなれば屋上の「クラブ白粉」、「クラブ石鹸」 の広告塔が光り輝いて川面に映えていた。…」

 直木三十五は大正14年の夏頃にプラトン社を辞して(客員という名目では「プラトン社」に残っていた)”連合映画芸術家協会”という映画の企画制作団体を設立します。牧野省三に唆されたわけです。

左上の写真は現在の堂島ビルディングです。ビルは当時と変わっていませんが、外壁だけは新しくなっているようです。手前の道は御堂筋です。

【直木三十五(なおき・さんじゅうご)】
 明治24年(1891)2月12日現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。早稲田大学文学部英文学科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。1929年、『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。時代小説を多く執筆し『黄門廻国記』は月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は50本近くある。昭和9年(1934)2月24日43歳で死去。翌年の昭和10年(1935)、文藝春秋社長菊池寛により芥川賞と共に直木賞が設置された。(ウィキペディア参照)



直木三十五 大阪地図



直木三十五の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 直木三十五の足跡
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
0 2月12日 大阪市南区内安堂寺町通二丁目に生れる。父植村惣八、母しずの長男。本名 植村宗一
明治29年 1896 水力発電所が京都に完成 5 4月 大阪市立桃園尋常小学校附属幼稚園入園
南区内安堂寺町通二丁目三十七に転居
明治30年 1897 金本位制実施 6 4月 大阪市立桃園尋常小学校入学
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 10 1月 弟清二誕生
3月 大阪府大阪市立桃園尋常小学校卒業
4月 大阪府大阪市立育英第一高等小学校入学
明治38年 1905 ポーツマス条約 14 3月 大阪市立育英第一高等小学校卒業
4月 大阪府立市岡中学校入学
明治43年 1910 日韓併合 19 3月 大阪府立市岡中学校卒業
3月 岡山第六高等学校文科一部乙を受験
東区谷町六丁目の薄病院薬局でアルバイトをする
11月 奈良県吉野郡白銀村奥谷尋常小学校の代用教員となる
明治44年 1911 辛亥革命 20 3月 奥谷尋常小学校の代用教員を辞す
8月 早稲田大学を受験
9月 早稲田大学英文学科予科純文芸科入学
藤堂杢三郎と東京府下田端一四九で下宿
明治45年
大正元年
1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
21 初夏 悌子寿満上京
秋 悌子寿満子と東京市牛込区下戸塚三二四番地で同居
大正5年 1916 世界恐慌始まる 25 3月 長女木の実生まれる
5月 寿満子 読売新聞社に婦人記者として入社
10月 寿満子 同社退社
大正7年 1918 シベリア出兵 27 8月 神田豊穂らと「杜翁全集刊行会」(日本橋区本材木町)(のちの春秋社)を設立
鷲尾浩(雨工)と冬夏社を設立
麹町三番町二十八番地に転居
大正12年 1923 関東大震災 32 9月 関東大震災のため家族と共に大阪額田に転居
プラトン社に勤務
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
34 3月 牧野省三と「聯合映画塾術家協会」を設立
夏頃 プラトン社を退社
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
36 6月 「聯合映画芸術家協会」を解散
上京し麹町下六番町10番に転居



「近鉄額田駅」
近鉄額田駅>
 関東大震災後、一家で大阪に戻ってきた直木三十五は近鉄沿線の「額田」に住みます。
「… この頃の直木は大軌(現在の近鉄)奈良線の額田に妻と二人の子供を呼んで住んでいたが、いくら書いても愛人と
お茶屋につぎ込んでいたので生活は相変らず苦しく、何か家財道具があるとたちまち差し押さえをくらうため、お化け屋敷として誰も住まなかった山の中の大きな家で、ほとんど家具のない生活を送っていたという。それでも、「貧乏は長し芸術は短し」と自ら嘆じた彼の短い人生の中では比較的平穏な時期であった。…」

 近鉄の上本町から奈良線の各停で30分ほどです。生駒山の麓になります。

左上の写真は近鉄奈良線の「額田駅」です。朝早く撮影したので少し色がよくありませんでした。直木三十五はこの額田の中で一回転居しています。詳細の場所は不明です。

この後、直木三十五は東京に戻ります。