クラブ化粧品といえば、中山太陽堂の化粧品としてご存じの方も多いとおもいます(中山太陽堂は年配の方、若い方はクラブコスメチックス)。この中山太陽堂は神戸が発祥の地で、大阪で大きく成長した化粧品会社です。大正から昭和初期に化粧品宣伝の為に広告会社「プラトン社」を創立、雑誌の出版も始めます。この出版社に関東大震災で大阪に戻った直木三十五が入社するわけです。この「プラトン社」の話を纏めたのが淡交社の「モダニズム出版社の光芒」という本です。今週はこの本に従ってすこし歩いてみました。
「…大阪城がすぐのところにあり、坂をくだっていくと天満橋という山手の裏通りに、プラトン社という雑誌社があった。そこから『女性』という月刊婦人雑誌が出ていた。執筆者の顔触れも記事の内容も文学的で、男の読者も多かった。(中略)こんな高度の雑誌が大正年代に、しかも大阪から出ていたのは、出版文化史の上でも特異な事象であろうし、山六郎の仕事はデザインの近代化に一歩を進めたと言うことができよう。(山名文夫)
その当時の『女性』は一冊も手元に残っていないが、実に美しい雑誌で、ビアズレーまがいのさし絵が沢山入っていて、印刷も高級なら紙も上質紙を使い、その当時にしてはケタ外れに贅沢な雑誌だった。(川口松太郎)…」。
この「プラトン社」が設立されたのが大正11年ですから、関東大震災の一年前になります。関東大震災で東京の出版関係は壊滅的な打撃を受け、作家(谷崎潤一郎、川口松太郎 等)も東京から大阪に避難してきましたから、タイミングとしては丁度よかったわけです。
この「プラトン社」は大正11年、初めての雑誌「女性」を出版します。
「…大正一一年一九二二) 年四月、雑誌『女性』 の創刊によって、出版社としてのプラトン社は初めてその存在を世に示した。体裁は菊判、一七六頁、定価五〇銭。表紙は山六郎描く女性像で「覚醒」と題され、着物姿の若い女性が髪を風になびかせながら晴れ晴れと空を仰いでいた。本文用紙は当時の雑誌としては珍しい薄手で光沢のある上質の用紙が用いられ、活字や挿絵が映えていた。
奥付の発行所所在地には、大阪市東区谷町五丁目乙二〇番地と東京市五郎兵衛町二二番地が併記されている。前者は副社長河中作造の自邸であり、後者は中山太陽堂の東京支店の所在地だが、後の号では「東京支局」と改められている。…」。
大阪市東区谷町五丁目乙二〇番地は下記を参照、東京市五郎兵衛町二二番地は現在の中央区八重洲二丁目となります。
★左上の写真の少し先、左側が

「…小山内は彼を頼って大阪までやって来た愛弟子との再会を喜び、さっそくプラトン社の編集記者として塁二社長に推薦するつもりでいた。
しかし、その日はもう一人豊三社長に紹介しなければならない人物が待っていた。師匠を前に目を輝かせている弱冠二四歳の川口と違ってこいつは曲者だ、しかし使い様によっては ── と小山内が思っていたかどうかはわからない。遠慮会釈のないその男は、異様に長い面貌に着流しの素浪人のような風情を漂わせている。「あとにも先にも一度だけ小山内さんに頼みごとをしたのはこの時だけ」という里見クが紹介してきた人物こそ、当時まだ「三十二」を名乗っていた直木三十五であった。…」。
劇的な登場ですね。上記の”愛弟子”とは、”川口松太郎”のことであり、関東大震災で東京から避難してきたメンバーだったわけです。東京の出版関係が関東大震災で壊滅的な打撃を受けていますから、雑誌や本を出版さえすれば売れるわけです。