
直木三十五は明治44年9月、早稲田大学英文学科予科純文芸科に入学します。当初は友人の下宿先である田端に居候していましたが、大阪から女に追いかけられ、結局同棲することになります。二人分の生活費を捻出するため、様々なことを考えます。
「…こ女と二人になってこれで、食えるか、食えぬか? それで、いくらかでも、節約をしようというので、私の考えた事は
(学校は、月謝さえ払えば、商科にいて、文科の講義に出ていたっていいんだろう)
という理論である。それで、月謝の一番安い科をさがしたが、皆一ヶ月四円五十銭で、高等師範部だけが、四円である。
(五十銭でも安い方がいい)
それで、高師部へ入って、生活費五十銭を儲ける事にした。ある日、高師部で何を教えるのだろうと、教室にいると、その時間は内ヶ崎作三郎氏の英語の時間で、田舎の開業医みたいな肥った氏が入ってきて、倣然として、一同を睨み返した。後年、政治家に成るような人だから、高師志望の学生など、高をくくっていたのだろう。私は、一番前の列にいたが
(何んて、生意気な教師だろう)
と反感をもって、こっちも、下から睨みつけていると
「一体、諸君は、英語を何の為に学ぶのかね」
と、喇叭みたいな声を出して、第一日、最初の口を切った。高師部の人々だから、皆おとなしい。黙って、答えない。すると
「おい、君」
真下の僕を、指さした。僕は、かっとなった。
「愚問ですね」
と、答えると共に、脂切って、肥った面がむかむかと、憎くなってきた。正面から、作三郎を呪みつけて、立上ると
「吾々は、小学生じゃありません。何のために学ぶかなどと、そんな質問をしなくてはならぬような幼稚な生徒に、何のために、教えるんですか」
と、やった。作三郎、さっと、真赤になると
「生意気だ」
と、云った。だが、さっきの嘲帆の音のような明朗さがなく、咽喉に何かが引っかかっているような声であった。私は坐った。
「こういう生意気な生徒がいるから、質問したんだ」
私は、立って、教室を出てしまった。…」。
当時のエリートは国立のナンバー高等学校(第一高等学校や第三高等学校等で本人は第六高等学校の入試に落ちている)に入りますから、市立の早稲田大学はお金持ちの坊ちゃん学校で、それ程レベルが高くなかったわけです。それにしても大胆なことを言いますね!!
「…彼の発露する魅力にからくりがあろうなどとは夢にも思わぬ僕は、彼が細君と同棲して戸塚のグラウンド下の四軒長屋の一軒に住むようになると、一段と熱を昂めて愛着した。お互に口を利かず、青空を凝っと眺めているだけでも、ただ彼と一緒にいることが楽しかった。禄すッぽ話もせずに朝の八時頃から夜の一時二時までも、彼の家にごろごろしていたことも度々だった。「鷲尾のやつ、植村の細君に惚れている」という噂も立ったが、事実は大ちがい、僕は細君を好かなかった。炬燵事件を惹起した田中純は嫌いではなかったと思うが、僕は嫌いだった。然し細君とは、しきりに猥談をやった。直木とは美術、それから歴史という話題がいつもあったけれど、細君と話す場合は猥談専門だった。田中と、青野季吉と、古館清太郎とが加わると、猥談は頓に猛烈になった。独身者は田中と僕で、青野にも古館にもすでに妻があった。然し僕は独身でも中学の頃から遊蕩児だったので、女の経験も断然豊富だったし、猥談のうまさもトップだった。直木はその頃、細君以外に女を知らなかったから、聞く一方で、僕の○○の模写ばかりやっていた。…」。
当時の早稲田大学はお坊ちゃん学校かとおもったら、そうではない苦学生もかなりいたようです。家族から期待され、その割には学力が追いつかない学生が多かったのかもしれません。
★左の写真は早稲田大学中央図書館の裏手、
