●直木三十五の東京を歩く (中)
    初版2008年8月9日  <V01L01>  

 今週は「直木三十五を歩く」の第四回を掲載します。明治44年の早稲田大学予科入学から、大正12年9月の関東大震災までを掲載します。早稲田大学入学後、東京まで女に追いかけられ、同棲をはじめますが、生活苦のため学費を払えず、結局卒業できませんでした。


「早稲田大学」
早稲田大学>
 直木三十五は明治44年9月、早稲田大学英文学科予科純文芸科に入学します。当初は友人の下宿先である田端に居候していましたが、大阪から女に追いかけられ、結局同棲することになります。二人分の生活費を捻出するため、様々なことを考えます。
「…こ女と二人になってこれで、食えるか、食えぬか? それで、いくらかでも、節約をしようというので、私の考えた事は
(学校は、月謝さえ払えば、商科にいて、文科の講義に出ていたっていいんだろう)
 という理論である。それで、月謝の一番安い科をさがしたが、皆一ヶ月四円五十銭で、高等師範部だけが、四円である。
(五十銭でも安い方がいい)
 それで、高師部へ入って、生活費五十銭を儲ける事にした。ある日、高師部で何を教えるのだろうと、教室にいると、その時間は内ヶ崎作三郎氏の英語の時間で、田舎の開業医みたいな肥った氏が入ってきて、倣然として、一同を睨み返した。後年、政治家に成るような人だから、高師志望の学生など、高をくくっていたのだろう。私は、一番前の列にいたが
(何んて、生意気な教師だろう)
 と反感をもって、こっちも、下から睨みつけていると
「一体、諸君は、英語を何の為に学ぶのかね」
 と、喇叭みたいな声を出して、第一日、最初の口を切った。高師部の人々だから、皆おとなしい。黙って、答えない。すると
「おい、君」
 真下の僕を、指さした。僕は、かっとなった。
「愚問ですね」
と、答えると共に、脂切って、肥った面がむかむかと、憎くなってきた。正面から、作三郎を呪みつけて、立上ると
「吾々は、小学生じゃありません。何のために学ぶかなどと、そんな質問をしなくてはならぬような幼稚な生徒に、何のために、教えるんですか」
 と、やった。作三郎、さっと、真赤になると
「生意気だ」
 と、云った。だが、さっきの嘲帆の音のような明朗さがなく、咽喉に何かが引っかかっているような声であった。私は坐った。
「こういう生意気な生徒がいるから、質問したんだ」
私は、立って、教室を出てしまった。…」

 当時のエリートは国立のナンバー高等学校(第一高等学校や第三高等学校等で本人は第六高等学校の入試に落ちている)に入りますから、市立の早稲田大学はお金持ちの坊ちゃん学校で、それ程レベルが高くなかったわけです。それにしても大胆なことを言いますね!!

「西早稲田パークタワー」
左上の写真は”早稲田大学大隈講堂”です。昔と変わらず、雰囲気が良いです。直木三十五は悌子寿満子が大阪から出てきてしまったため、やむを得ず早稲田大学近くに住まいを見つけます。
「…彼の発露する魅力にからくりがあろうなどとは夢にも思わぬ僕は、彼が細君と同棲して
戸塚のグラウンド下の四軒長屋の一軒に住むようになると、一段と熱を昂めて愛着した。お互に口を利かず、青空を凝っと眺めているだけでも、ただ彼と一緒にいることが楽しかった。禄すッぽ話もせずに朝の八時頃から夜の一時二時までも、彼の家にごろごろしていたことも度々だった。「鷲尾のやつ、植村の細君に惚れている」という噂も立ったが、事実は大ちがい、僕は細君を好かなかった。炬燵事件を惹起した田中純は嫌いではなかったと思うが、僕は嫌いだった。然し細君とは、しきりに猥談をやった。直木とは美術、それから歴史という話題がいつもあったけれど、細君と話す場合は猥談専門だった。田中と、青野季吉と、古館清太郎とが加わると、猥談は頓に猛烈になった。独身者は田中と僕で、青野にも古館にもすでに妻があった。然し僕は独身でも中学の頃から遊蕩児だったので、女の経験も断然豊富だったし、猥談のうまさもトップだった。直木はその頃、細君以外に女を知らなかったから、聞く一方で、僕の○○の模写ばかりやっていた。…」
 当時の早稲田大学はお坊ちゃん学校かとおもったら、そうではない苦学生もかなりいたようです。家族から期待され、その割には学力が追いつかない学生が多かったのかもしれません。

左の写真は早稲田大学中央図書館の裏手、西早稲田パークタワーです。この当りに上記に書かれている”戸塚のグラウンド下の四軒長屋”がありました。現在は全く面影がありません。四軒長屋がマンションにかわっていました。時代の変化なのかもしれません。

【直木三十五(なおき・さんじゅうご)】
 明治24年(1891)2月12日現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。早稲田大学文学部英文学科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。1929年、『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。時代小説を多く執筆し『黄門廻国記』は月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は50本近くある。昭和9年(1934)2月24日43歳で死去。翌年の昭和10年(1935)、文藝春秋社長菊池寛により芥川賞と共に直木賞が設置された。(ウィキペディア参照)



直木三十五 東京地図 -2-



直木三十五の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 直木三十五の足跡
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
0 2月12日 大阪市南区内安堂寺町通二丁目に生れる。父植村惣八、母しずの長男。本名 植村宗一
明治29年 1896 水力発電所が京都に完成 5 4月 大阪市立桃園尋常小学校附属幼稚園入園
南区内安堂寺町通二丁目三十七に転居
明治30年 1897 金本位制実施 6 4月 大阪市立桃園尋常小学校入学
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 10 1月 弟清二誕生
3月 大阪府大阪市立桃園尋常小学校卒業
4月 大阪府大阪市立育英第一高等小学校入学
明治38年 1905 ポーツマス条約 14 3月 大阪市立育英第一高等小学校卒業
4月 大阪府立市岡中学校入学
明治43年 1910 日韓併合 19 3月 大阪府立市岡中学校卒業
3月 岡山第六高等学校文科一部乙を受験
東区谷町六丁目の薄病院薬局でアルバイトをする
11月 奈良県吉野郡白銀村奥谷尋常小学校の代用教員となる
明治44年 1911 辛亥革命 20 3月 奥谷尋常小学校の代用教員を辞す
8月 早稲田大学を受験
9月 早稲田大学英文学科予科純文芸科入学
藤堂杢三郎と東京府下田端一四九で下宿
明治45年
大正元年
1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
21 初夏 悌子寿満上京
秋 悌子寿満子と東京市牛込区下戸塚三二四番地で同居
大正5年 1916 世界恐慌始まる 25 3月 長女木の実生まれる
5月 寿満子 読売新聞社に婦人記者として入社
10月 寿満子 同社退社
大正7年 1918 シベリア出兵 27 8月 神田豊穂らと「杜翁全集刊行会」(日本橋区本材木町)(のちの春秋社)を設立
鷲尾浩(雨工)と冬夏社を設立
麹町三番町二十八番地に転居



「読売新聞社跡」
読売新聞社>
 直木三十五は早稲田大学の四円/月の学費が払えず、除籍されます(早稲田大学風の呼び方?)。ただ、卒業写真には紛れ込んで写っています。卒業後の生活は仕送りが無くなり、苦しさが増しますが、直木三十五は相変わらず働き口が見つかりません。結局、奥様の寿満子さんが働きだします。
「… 保高が
「君の細君、文章が書けるかね」
 と云ってきてくれた。
「文章って、手紙位なら」
「実は、婦人記者が一人いるが、勤めるか。木の実ちゃんがあって、駄目かも知れんが、困っているなら」
 女房が
「やります、保高さん、何んな事でも」
「しかし子供が」
「子供は、僕が育てる」
「そうかね。月給は十八円で、電車のパスが二冊出るんだ。そして別に手当が五円だけれど──」
「結構だわ、保高さん、頼んで頂戴」
 女房は、必死であった。
 (見っともない、騒ぐな)
 と、私は一寸、睨みつけたが、うまく行ってくれと、心の中では祈っていた。この時の読売婦人欄の主幹が、前記の前田晃氏、上司小剣氏も在社された頃である。
「青野も、保高もいるし、やってみろ。一カ月でもいいや、十八円ありや助かるからな」
「そう、じゃ、社へ明日来てくれますか」
「伺います」
 ……ミルクの調合も上手であるし、時々大家の婆さんが見にきて
「泣かない子ね」
 と云ったが、私の子守は天才的に上手であった。それから十月の三十日まで、子供には風邪一つ引かさなかった。真夏には、湯屋へ行って、三時間位、親子二人裸で、この揺籠をゆりつつ、暮らしていた記憶がある。
 その内、子供が、母親の乳と、顔とを覚えるようになった。当時、江戸川が電車の終点であったが、夕方になると私は、子供に早く母親の顔を見せてやりたいので──決して、私が女房の顔を早く見たいのではない──江戸川の堤を、子供を抱いて、終点へと行くのである。雨の日には傘をもって──それは嘘であるが、私を考えさせる目が、十月まで半年つづいた。…」

 直木三十五は生まれて直ぐの子供の面倒を良く見ますね。普通の男性なら嫌がります。性格が辛抱強いのかれしれません。

左上の写真は京橋から銀座一丁目方面を撮影したものです。当時の読売新聞社は銀座一丁目の右側角(三菱東京UFJ銀行)にあり、その後三丁目(ブランタンの所)に移り、現在は大手町となるわけです。

「現在の春秋社」
杜翁全集刊行会(のちの春秋社)>
 無職では食えないため、様々な職業につきますが長続きしません。日本薬剤師会に就職するが半年しか持たず、美術研究会、新興美術社と続きますがやっぱり長続きしません。人に仕えることは性にあわないようなので、そこで自ら出版社を起こします(お金が無いので出資はしない)。
「…出版をやり始めた仲間は神田豊穂、加藤一夫、古館、直木、僕。
 春秋社と冬夏社の仕事がそれだ。当時のことを書くと数百枚で足りない。ほんの輪郭しか語れない。資本は春秋社が二万円。冬夏社は五万円。合併するつもりで名づけた名称だったし、十人たらずの株主も共通だった。株式会社の登記はしたが、実体は春秋社は神田の、冬夏社は僕の個人の店のようなものであった。直木は創立者として、無出資に拘わらず、取締役のなかに加えられた。れいの魅力が働いたのだろう、三番町の社屋には直木夫婦が住込むことになった。トルストイとユーゴーの全集が相当の成績を収めた。だが加藤がまず直木と仲が悪くなって社から出るし、古館も退社してしまった。やがて神田と直木との間が面白くなくなりかけた。
直木の月給は百五十円、だが家賃は要らず (女中一人の給金だけは直木が持ったと憶えている)、交際費はかなり充分とれたし、三四十円で美術雑誌の編韓をしていた時の思いをすれば、甚だ結構なわけなのを、集金に行って京都で芸者の馴染をこしらえたため、急に金が要るようになり、社からの前借りが、忽ち五百円か千円かに嵩んだ。そこで神田が顔をしかめ出した。
神田は、直木以上に貧乏した経験もあり、細心で凡帳面なたちだったから、「直木にはもう貸さない」といい出した。その頃、木村毅が月給六十円かで社に働いていた。木村は神田の相談相手になって直木を排斥した。僕は 「千や二千いいじゃないか。儲けた時のボーナスから引けば何でもない」といった。僕は元来、酒好きで、遊び癖がついていて、人の顔さえ見れば待合へ引張って行きたい方であった。自分で金づかいが荒いから、直木のその間題のごときは平気だった。「春秋社が貸さないなら、冬夏社が貸す」僕はそういって、その話を打ち切った。僕は神田君の出版業者としての資質は信じていたし、自分と神田君の間は円満であったに拘わらず、直木を兎や角う云われると、腹が立った。…」

  直木三十五は金遣いが荒いようです。若いころに遊んだ経験が無いため、遊びの限度をしりません。とことんいってしまうタイプなのでしよう。

右上の写真は現在の「春秋社」です。残っているとはおもいませんでした。直木三十五が関係した冬夏社等の他の会社は全て倒産したようです。

「麹町三番町二十八番地」
麹町三番町二十八番地>
 この家は「春秋社」の社屋でしたが、直木三十五が家族と共に住んでいました。関東大震災までこの家で住んでいたようです。
「…それは大正十年から十一年にかけての頃だった。
 彼は人間社の仕事がうまく行かず、ロマン・ローラン全集の発行が意の如くならず、まいり切っている頃だった。自分は彼をたずねて行くに従い、彼が行詰りのどん底にいる事がだんだん解って来た。
 自分はその時分、文学をやるのが厭になっていた。物を書く気もせず、読む気もせず、そして文学で時めいている連中に会う気もせず、下宿にぽつねんとしていたが、どうしたわけか、ぽしゃっている直木にだけは毎日会いたくなった。
 午後三時頃になると、もうそろそろ直木も起きた頃かと思って、自分は本郷の下宿から彼をたずねて行く。
 三番町の通の東郷元師邸から少し市ヶ谷見附に寄ったところの右側のある路地の突き当りに彼の家はあった。
 小さな庭の縁側から上って、障子を開けると、そこの八畳の真ん中に、大きな四角い火鉢があり、その火鉢を囲んで、いつでも三、四人乃至五、六人の男達が坐っている。それはみんな債鬼なのである。
 印刷屋、紙屋、製本屋、かと思うと、小間物屋、呉服屋 (銀座の越後屋) 等々々。
 その八畳の向うに何畳かの部屋があり、その部屋の奥に四畳半だか六畳だかの部屋が更にある。
 直木はその一番奥の部屋に寝ている。而も大胆不敵なる彼は、此方の八畳に債鬼を待たせながら、その八畳から彼の寝ている部屋まで、唐紙も障子も閉めさせずに、見通しにして、悠々と寝ているのである。唯彼の寝ている夜具のところだけ、屏風がまわしてある。1日分は債権者達と一緒に四角い火鉢に当りながら、彼の細君に向って、「まるでお通夜と云う感じですね」と笑った事がある。
 債権者達は奥の方の屏風を眺め、時計を眺めしながら、彼の起きて来るのを、首を長くして待っている。時々彼の細君に向って、「まだお起きにならないのでしょうか?」と不平そうに云う。…」

 出版社が上手くいかず、借金取りが毎日来ていたようです。それでも、昔はノンビリしたものです。場所的には市ヶ谷駅に近く、帯坂の横で便利の良い所です。

左上の写真は帯坂の南側から東側を撮影したものです。写真左側電柱の所が帯坂で、その横のビルが水道会館です。麹町三番町二十八番地は水道会館のビルの右隣になります。路地を入ったところと書かれていますので、少し中に入った所だったようです。

次回の「直木三十五を歩く」は、関東大震災で東京を離れ、大阪を歩きます。