●直木三十五の東京を歩く (上)
    初版2008年7月14日  <V01L02> 

今週は「直木三十五を歩く」の第三回を掲載します。直木三十五は岡山にある第六高等学校の受験に失敗、奈良の奥谷尋常小学校で代用教員を勤めていましたが、明治44年、早稲田大学予科を受験するため上京します。


「雑司ケ谷、鬼子母神」
雑司ケ谷、鬼子母神>
 直木三十五は明治44年3月、奥谷尋常小学校の代用教員を辞めて、早稲田大学予科を目指します。第六高等学校の入試に失敗し、国立の高等学校は無理と悟ったのでしょう。当時の早稲田大学予科は現在とは違い、簡単に入学できたとおもいます。
「…この女は私を獲ようとして、大阪から出てきたのである。しかし、何事もなかった。翌日
「市ちゃんとこへ行きましょうか」
「うむ」
そして、二人は、植木屋さんの離れで、市ちゃんと三人で寝た。

その暁、私は、無残にも、取り返しのつかぬ事を、されてしまったのである。
荷物をもってくるから」
と、云って、須磨子は、大阪へ帰ってしまった。私は汚された身を、袴でつつんで、おもしろくない講義を聞きに行っていたが、その内
「家との事が、中々面倒で ── あんた、いつ帰る」
と、いう手紙がきた。そして、この手紙の終りに、何んと「旦那様」と、書いてあった。
うれしいような、馬鹿にされたような──こんな言葉は車屋と、乞食の使う言葉で、使われる奴は、五十歳以上というように感じていた私は、その手紙を披げて、にやにや笑いながら
(矢張り、征服したのかな)
とも、感じた。…」

 「死ぬまでを語る」からです。上手に、面白おかしく書いています。ほとんどフィクションではないかとおもいます。”その暁、私は、無残にも、取り返しのつかぬ事を、されてしまったのである”は本当に面白いですね。

「鬼子母神先のお寺」
左上の写真は”雑司ヶ谷法明寺子母神堂”です。この境内の真ん中に元禄年間から続いているという駄菓子屋さん(写真左側の川口屋さん)があり、かなり有名です。鬼子母神のお告げがあって作るようになったと言われています“すすきみみずく”を販売しています。一つどうでしょうか、魔除けに効果があるそうです。角(つの)のつかないの字(調べたのですが鬼の字の上についている角のない漢字がないのて色を赤字にしてそのまま使います)を用い「雑司ケ谷子母神」と尊称しているそうです。

左の写真は鬼子母神を右にぬけた先です。”鬼子母神の境内を抜けると、もう一つ寺がある。その側に、植木屋があった。”と下記に書かれていましたので鬼子母神を抜けた先のお寺を探しました。写真の先に法明寺があります。推定ですがこの付近に植木屋があったのだとおもいます。
「…雑司ケ谷、鬼子母神の境内を抜けると、もう一つ寺がある。その側に、植木屋があったが、ここに、佛子須磨子の姉の子が、自炊して、早大へ通っていた。ここへ、一日、須磨子が現れた。井上市次郎というその甥さん── だが六つ齢下の甥さんは
「何んや、喧嘩したんか」
と、大きい眼を、もっと、大きくして聞いた。
「はあ、もう、大阪へ帰れへんつもり」 
須磨子は、兄の玄竜という人と、余り仲がよくなかった。大学生位までは、美人の妹というものをもっていると、いろいろ利益や、興味が、多いものであるが、生活などが、うまく行かないのに、二十七にもなる妹をもっていると、何んなにそれが、美しくとも、古い女房の、美しさと同じで、少しも、よくは感じないものである。
「植村は」
「田端にいよる」…」。

 この鬼子母神付近から早稲田大学までは2Km弱の距離です。20〜30分位ですので学生が歩くのには丁度良い距離ではないでしょうか。

【直木三十五(なおき・さんじゅうご)】
 明治24年(1891)2月12日現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。早稲田大学文学部英文学科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。1929年、『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。時代小説を多く執筆し『黄門廻国記』は月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は50本近くある。昭和9年(1934)2月24日43歳で死去。翌年の昭和10年(1935)、文藝春秋社長菊池寛により芥川賞と共に直木賞が設置された。(ウィキペディア参照)



直木三十五 東京地図 -1-



直木三十五の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 直木三十五の足跡
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
0 2月12日 大阪市南区内安堂寺町通二丁目に生れる。父植村惣八、母しずの長男。本名 植村宗一
明治29年 1896 水力発電所が京都に完成 5 4月 大阪市立桃園尋常小学校附属幼稚園入園
南区内安堂寺町通二丁目三十七に転居
明治30年 1897 金本位制実施 6 4月 大阪市立桃園尋常小学校入学
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 10 1月 弟清二誕生
3月 大阪府大阪市立桃園尋常小学校卒業
4月 大阪府大阪市立育英第一高等小学校入学
明治38年 1905 ポーツマス条約 14 3月 大阪市立育英第一高等小学校卒業
4月 大阪府立市岡中学校入学
明治43年 1910 日韓併合 19 3月 大阪府立市岡中学校卒業
3月 岡山第六高等学校文科一部乙を受験
東区谷町六丁目の薄病院薬局でアルバイトをする
11月 奈良県吉野郡白銀村奥谷尋常小学校の代用教員となる
明治44年 1911 辛亥革命 20 3月 奥谷尋常小学校の代用教員を辞す
8月 早稲田大学を受験
9月 早稲田大学英文学科予科純文芸科入学
藤堂杢三郎と東京府下田端一四九で下宿



「本郷五丁目の下宿屋」
久米正雄の家へ行く途中の下宿屋>
 奥谷尋常小学校の代用教員を辞めて初めて上京したのが明治44年春でした。東京を初めて見て人生観が変わったのではないでしょうか。
「…最初の上京で、宿は、本郷の元の久米正雄の家へ行く、右側の第二何とか館というのであった。この時に、中学入学以来初めての写真をとったが、これも、差押えでなくなってしまった。黒木綿の紋付羽織に、白の長い胸紐、今では、暴力団の外に見られない書生風俗であった。男振りもよかった。
この時の上京は、── 上京してみたくて堪らないので、父へ、下宿の安い所を捜すつもりだし、南も行ったし、藤堂も行ったし、早く行って、準備しておく必要があるという口実であった。…」

 友達が上京しており、本人も上京したくてたまらなかったでしょう。当時は明治44年ですから、よく分かります。この下宿は下宿代が高いので止めたようです。

左上の写真は久米正雄宅跡 の手前50m位です。推定ですがこの付近の下宿屋に宿泊したのではないかとおもわれます。現在でも東京大学の学生向け下宿がたくさんありました。写真の左右とも下宿です。久米正雄宅跡はこの先の右側になります。現在の住所で文京区本郷五丁目21番です。

「夏目漱石の旧居」
夏目漱石の旧居>
 東京帝国大学に近い本郷五丁目の久米正雄宅付近は下宿代が高かったようです。東大の赤門から150m位の近さなので、下宿代が高いのは当たり前です。そこで直木三十五はもっと安い下宿を探します。
「…今春陽会の会員である洋画家藤堂杢三郎が、早くから上京して、駒込蓬莱町の下宿にいた。郁文館中学の左隣りで、これも、第二何んとか館という名である。久米氏の近くのは月二十円で、高級であるが、ここへくると月十六円で、二十五円学資をもらうと、十分にやって行けた。
この下宿へ落ちついたが、下宿から、中学の庭を透して見える、小汚い生垣の、傾いたような家が、夏目漱石氏の旧居で「猫」は、あすこで書いたんだよ、と、藤堂が説明してくれた。
汚い下宿であったが、その旧居が見えるのが、誇りのような気がして、そこにいた。
そして、いかに、二十五円より安くて生活すべきかを、藤堂とも話をした。
「飯が焚けるか」
「焚ける」
「上手か」
「上手だ」
と、いうような会話から、間借りをして、自炊するのが安い、という事になって、私は、使命を果し、大阪へ戻った。…」

  どうやら、少し安い下宿を捜し当てたようです。藤堂杢三郎が下宿していたのは郁文館中学校の所ですから、第一高等学校(旧制)、東京帝国大学から北に1Km弱の距離です。

右上の写真は夏目漱石の旧宅です。現在は記念碑が二つ建てられていました。写真の小道の先に現在の郁文館高等学校の校舎が見えます。藤堂杢三郎の下宿から運動場を挟んで夏目漱石の旧宅が見えたようですので、校舎の位置が変わっているのと、下宿の場所は反対側になるとおもわれます。

「東京府下田端」
東京府下田端>
 直木三十五が明治44年9月に早稲田大学英文学科予科純文芸科に入学し、下宿したのは田端近くでした。藤堂が駒込から下宿を移ったのでやむをえず、一緒に付いてきたようです。
「…私は、田端の、小杉未醒氏の所の近く、泥川沿いの戸叶という家の離れに、藤堂と二人で自炊していた。
藤堂は太平洋画会へ通っていたし、私は早大文科の予科にいたのである。室生犀星氏が、この藤堂と友人で、びっこの詩人と二人、よく、室生氏を訪問に行っていたらしい。
この戸叶方へ、須磨子が来て、当分、東京に居るつもりとか、少しはお金がある、とか(これは、二十円の債券を何枚かもっていたのである。勿論、後には、生活費になった)。だが、近頃の時代とちがって、婦人の職業と云えば交換手か、看護婦しかない頃であるから
「置いてもろていい?」
と、いうより外に、家出娘の生活法はない訳である。
「ええ、よろしい」
とにかく、対手は、六つ齢上の二十七歳、こちらは、童貞の二十一歳であるから、礼を正しく、言葉を丁寧に
「しかし、寝るところが、ここよりはかに、ありませんから」
「そりゃええわ、一緒に寝るわ。藤堂さんと三人でしょう」
「はい」
皆、中学同期の出身であるから、仲がよかった。私は身体が、ふわふわとなったように感じたが、それは、こんな美しい人が、自分のような者を手頼って来てくれた、という事に対しての感謝で、劣情などの如きは神様に食わしてしまえと
「布団を、じゃ、借りてきて」
「ええ」…」

 直木三十五がこの年まで童貞だったかどうかは疑問ですが、うら若き?美人の女性が同じ部屋に泊まれば大変です。悶々として寝られなかったでしょう。早稲田大学からは相当遠くなったとおもいます。直線で4Kmありますから歩くと小一時間です。

左上の写真は北区田端三丁目の谷田川通りです。この付近には有名な文士たちが下宿しており、写真左側の建物付近には竹下夢二が、正面の区民センターの裏には小林秀雄が、少し先の左側には萩原朔太郎が住んでいました。直木三十五の下宿は写真左側の路地を少し入った右側になります。上記に書かれている”小杉未醒(小杉放庵)”は洋画家で、写真正面の田端区民センターのところに住んでいました。また”泥川沿い”とは谷田川通りの名前があるように写真の道の左側に小川?が流れていました。

次回も「直木三十五」の東京を歩きます。