直木三十五は大阪府立市岡中学校を卒業後、岡山の第六高等学校を受験しますが、数学に自信がなく試験を受けずに帰って来てしまいます。その後、知り合いの薄病院でアルバイトの後、奈良の奥谷尋常小学校で代用教員を始めます。奥谷は物凄いところでした。
「…遊んでいても仕方無いし、遊んでいられる身分でもないので、薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員になる事になった。赴任地は、大和国吉野郡白銀村、白銀尋常小学校というのである。五條の町から、山へ入ること三里半、銀峯山の中腹に建っている学校である。月給十一円五十銭。私の受持ったのは三四年生の男女である。二部教授。教員は、校長、その次、女教員、私と四人。校長は、校内に宿泊し、女教員は村の人で、私と、同僚とが、山の崖っぷちに立っている小屋に等しい二間の家──二間と云っても、上り口と、その次と、六畳に二畳の家に住んでいた。食べるものは、芋、干魚、豆腐、寒い山の上なので、冬になると芋が凍っている。豆腐は固くて、五六町上の村まで買いに行くのであるが、藁で縛ってくれる。持って帰ってもこわれないから、えらい豆腐だったと、今でも感心している。…」。
”よく、まあ、こんなところに働きに来たなあ!”という感じです。当時の住居表示で奈良県吉野郡白銀村、現在の住居表示で、奈良県五條市西吉野町奥谷です。五條市内なのですが、上記にも書いていますがJR和歌山線五條駅 から三里半、14Km(一里=4Km)、明治43年ですからバスもなく、五條駅からただ山道の登りを歩くのみです。 下記の地図を参照してください。
★左の写真は奥谷尋常小学校跡です。近くの小学校に吸収合併されたようです。本当に凄いところにあります。先程の奥谷のバス停留所までは道も広く、走りやすかったのですが、その道から脇道に入ります。車のすれ違いができないような細い道を登っていくと、奥谷尋常小学校跡になります。
「…学校が土曜になると、山の上から三里半五條の町へ走るのである。丁度、それで汽車に間に合って、大阪着が八時、月曜の朝早く家を出ると、学校の授業に一時間おくれてつく。その一時間は、唄歌の時間にして、時間表を変更し、同僚に頼んでおくのである。十二円五十銭であるが、初めての月給だし私にとっては大金なんだから、嬉しかった。家は無家賃、芋や、菜は、生徒がくれるから、一ケ月五円もあれば十分である。残りが小道になるから、雪ちゃんに、その頃流行っていたリボンを買ったり ── リボンと、週二度の汽車の往復、私はその金で、いろいろの物を買おうと、空想していたが、山を下り、山へ上るだけと、リボンとで、丁度月給が一杯であった。私は、女に無駄金を使って、友人に 「君は、馬鹿だ」 と、今でも叱られるが、この時分から、そうであったらしい。…」。
この奥谷尋常小学校の直ぐ上に宗円寺 というお寺があります。このお寺を目印に探されたら直ぐに分かりますが、大きな車ではここまで登れませんので要注意です。また、この奥谷尋常小学校跡にヤマモモの巨木 がありました。天然記念物でこの木に直木三十五も登ったそうです。記念碑 に詳しく書かれていましたので掲載しておきます。