●直木三十五の大阪を歩く (中)
    初版2008年6月14日  <V01L01> 

 今週は「直木三十五を歩く」の第二回目を掲載します。直木三十五は大阪府立市岡中学校を卒業後、岡山の第六高等学校を受験しますが、試験を受けずに帰って来てしまいます。知り合いの薄病院でアルバイトの後、奈良の奥谷尋常小学校で代用教員を始めます。


「吉野郡白銀村奥谷」
<奥谷尋常小学校の代用教員>
直木三十五は大阪府立市岡中学校を卒業後、岡山の第六高等学校を受験しますが、数学に自信がなく試験を受けずに帰って来てしまいます。その後、知り合いの薄病院でアルバイトの後、奈良の奥谷尋常小学校で代用教員を始めます。奥谷は物凄いところでした。
「…遊んでいても仕方無いし、遊んでいられる身分でもないので、薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員になる事になった。赴任地は、大和国吉野郡白銀村、白銀尋常小学校というのである。五條の町から、山へ入ること三里半、銀峯山の中腹に建っている学校である。月給十一円五十銭。私の受持ったのは三四年生の男女である。二部教授。教員は、校長、その次、女教員、私と四人。校長は、校内に宿泊し、女教員は村の人で、私と、同僚とが、山の崖っぷちに立っている小屋に等しい二間の家──二間と云っても、上り口と、その次と、六畳に二畳の家に住んでいた。食べるものは、芋、干魚、豆腐、寒い山の上なので、冬になると芋が凍っている。豆腐は固くて、五六町上の村まで買いに行くのであるが、藁で縛ってくれる。持って帰ってもこわれないから、えらい豆腐だったと、今でも感心している。…」
”よく、まあ、こんなところに働きに来たなあ!”という感じです。当時の住居表示で奈良県吉野郡白銀村、現在の住居表示で、奈良県五條市西吉野町奥谷です。五條市内なのですが、上記にも書いていますがJR和歌山線五條駅 から三里半、14Km(一里=4Km)、明治43年ですからバスもなく、五條駅からただ山道の登りを歩くのみです。 下記の地図を参照してください。

「奥谷尋常小学校跡」
左上の写真は奥谷のバス停留所です。現在は道も良く、五條駅から車では15分、7〜8Km程です。当時は、道なき道をひたすら三里半(三時間?)歩いたのだとおもいます。昔の人は歩くのが平気だった?。

左の写真は奥谷尋常小学校跡です。近くの小学校に吸収合併されたようです。本当に凄いところにあります。先程の奥谷のバス停留所までは道も広く、走りやすかったのですが、その道から脇道に入ります。車のすれ違いができないような細い道を登っていくと、奥谷尋常小学校跡になります。
「…学校が土曜になると、山の上から三里半五條の町へ走るのである。丁度、それで汽車に間に合って、大阪着が八時、月曜の朝早く家を出ると、学校の授業に一時間おくれてつく。その一時間は、唄歌の時間にして、時間表を変更し、同僚に頼んでおくのである。十二円五十銭であるが、初めての月給だし私にとっては大金なんだから、嬉しかった。家は無家賃、芋や、菜は、生徒がくれるから、一ケ月五円もあれば十分である。残りが小道になるから、雪ちゃんに、その頃流行っていたリボンを買ったり ── リボンと、週二度の汽車の往復、私はその金で、いろいろの物を買おうと、空想していたが、山を下り、山へ上るだけと、リボンとで、丁度月給が一杯であった。私は、女に無駄金を使って、友人に 「君は、馬鹿だ」 と、今でも叱られるが、この時分から、そうであったらしい。…」。
 この奥谷尋常小学校の直ぐ上に宗円寺 というお寺があります。このお寺を目印に探されたら直ぐに分かりますが、大きな車ではここまで登れませんので要注意です。また、この奥谷尋常小学校跡にヤマモモの巨木 がありました。天然記念物でこの木に直木三十五も登ったそうです。記念碑 に詳しく書かれていましたので掲載しておきます。

【直木三十五(なおき・さんじゅうご)】
 明治24年(1891)2月12日現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。早稲田大学文学部英文学科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。1929年、『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。時代小説を多く執筆し『黄門廻国記』は月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は50本近くある。昭和9年(1934)2月24日43歳で死去。翌年の昭和10年(1935)、文藝春秋社長菊池寛により芥川賞と共に直木賞が設置された。(ウィキペディア参照)



直木三十五 奥谷尋常小学校地図



直木三十五の大阪年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 直木三十五の足跡
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
0 2月12日 大阪市南区内安堂寺町通二丁目に生れる。父植村惣八、母しずの長男。本名 植村宗一
明治29年 1896 水力発電所が京都に完成 5 4月 大阪市立桃園尋常小学校附属幼稚園入園
南区内安堂寺町通二丁目三十七に転居
明治30年 1897 金本位制実施 6 4月 大阪市立桃園尋常小学校入学
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 10 1月 弟清二誕生
3月 大阪府大阪市立桃園尋常小学校卒業
4月 大阪府大阪市立育英第一高等小学校入学
明治38年 1905 ポーツマス条約 14 3月 大阪市立育英第一高等小学校卒業
4月 大阪府立市岡中学校入学
明治43年 1910 日韓併合 19 3月 大阪府立市岡中学校卒業
3月 岡山第六高等学校文科一部乙を受験
東区谷町六丁目の薄病院薬局でアルバイトをする
11月 奈良県吉野郡白銀村奥谷尋常小学校の代用教員となる
明治44年 1911 辛亥革命 20 3月 奥谷尋常小学校の代用教員を辞す
8月 早稲田大学を受験
9月 早稲田大学英文学科予科純文芸科入学



「薄病院跡」
東区谷町六丁目の薄病院>
 谷町六丁目の交差点から南に250m程下った西側に薄病院がつい最近までありました。母方の弟さんの友人ということで、直木三十五は良く面倒を見てもらっていたようです。
「…この母に、一人の弟があった。養子に行って、新井姓を名乗り、孝次という名であったが、これが秀才で、大阪谷町の薄病院の院長、大阪府会議長の薄恕一氏と、親友であり、早世して、非常に惜しまれたが、その為、この薄氏と親しくなり、殆ど育つか、育たぬか分らなかった私が、とにかく、四十三まで、生きて来られたのは、この人が居られたからである。…」
 直木三十五は岡山の第六高等学校の受験を失敗した後、この薄病院でアルバイトをしています。その時に、この病院に勤めていた女性から愛を告白されています(「死ぬまでをかたる」からですので本当かどうかは分かりませんが!)。特に何も無かったのですが、結局ふられて、ほろ苦い青春時代ではなかったのかとおもいます。

左上の写真は谷町筋谷町七丁目から北西側を撮影したものです。左側のアーケードが空堀商店街です。薄病院は写真正面のやや高いビルの手前にありました。現在は駐車場になっていました。直木三十五の住居から直ぐ近くになります。

「願宗寺跡」
悌子寿満の実家 願宗寺>
 直木三十五は早稲田大学時代に結婚します。本当かどうかは分かりませんが、21歳まで童貞だった(本人が書いているが信じられない)直木三十五が、大阪から追いかけてきた女性に迫られて、仕方がなく結婚したと書いています。ほとんど信じられませんね。
「…予科の学生生活も半年以上を経過し、東京にようやく慣れた明治四十五年初夏のある日、ひとりの女が藤堂と暮らす田端の下宿に転がりこんできた。のちに宗一の妻となる佛子寿満である。彼女は、宗一の市岡中学時代の友人井上市次郎の叔母にあたる。岡山高等学校受験に失敗した一昨年、同じ浪人仲間の市次郎を訪ねるうちに知り合った。ひとしきり挨拶をすませたあと、彼女が肝心の用件を切り出した。「ここに置いてもろていい?」「え? し、しかし、寝るところが、ここよりほかにありませんが」なにしろ女は京町堀小町といわれた美人、しかも六歳も年上である。「そりゃええわ。一緒に寝るわ。藤堂さんも一緒でしょ」藤堂も市次郎の友人で寿満とは旧知の仲である。布団を借りてきて、その晩は三人川の字に なって寝た。寿満は、明治十八年生れの二十七歳。堂島高等女学校を卒業している。現在の靭公園からさほど遠くない京町堀の願宗寺で生れ育った。住職玄龍の妹である。願宗寺は、いまは跡形もないが、当時は足利尊氏と縁の深い真宗西本願寺派の有力寺としてなかなか羽振りがよかった。 関西大学の前身「関西法律学校」発祥の地としても知られている。…」
  何も無かった女性が、それ程親しくもない男性を追いかけて東京まで訪ねるとは到底おもえません。話を面白くするためのフィクションだとおもいますが、直木三十五にも迫れる要件(当然あちらの方ですが)があったのだとおもいます。

右上の写真が願宗寺跡の記念碑です。もっとも、願宗寺跡の記念碑ではなくて、関西大学の前身「関西法律学校」発祥の地の記念碑です。当時の住居表示で大阪市西区京町堀上通三丁目36番地、現在の住居表示で京町堀二丁目3番です。この付近は空襲ですっかり焼けてしまって、昔の面影はまったくありません。

次回から「直木三十五の東京」を歩きます。



直木三十五 大阪地図