「 大草実君が
「直木さん、九月号から一つ、前半生記と云うような物を、書いてくれませんか」 と云ってきた。私は、今年四十二年六ケ月だから「前半生」と同一年月、後半生も、生き長らえるものなら、私は八十五歳まで死なぬ事になる。これは多分、編輯局で、青年達が「直木も、そう長くは無いらしいから、今の内に、前半生記みたいなものを、書かしては何うだろう」
と、云って、決まった事にちがいない。そして、大草実は(長くて一年位しか保つまいから、丁度、これの終る頃くたばる事になると、編輯価値が素敵だ)
と、考えたのであろう。
全く私は、頭と、手足とを除く外、胴のことごとくに、病菌が生活している。肺結核、カリエス、座骨神経痛、痔と ── 痔だけは、癒ったが、神経痛の為、立居も不自由である。カリエスは、大した事がなく、注射で、癒るらしいが、肺と、神経痛は、頑強で、私は、時々、倶楽部の三階の自分の部屋へ、替って上る事がある。私が、平素の如く、健康人の如く、歩き、書き、起きしているから、大した事であるまいと、人々は見ているらしいが、五尺五寸の身長で、十一貫百まで、痩せたのだから、相当の状態にちがいない。…」。
「この人 直木三十五」に掲載されている直木三十五の「死までを語る」の書き出しです。「死までを語る」は直木三十五自身の人生を、かなり詳細に書いているので、歩くのにはとても参考になりました。大阪生まれの作家は、織田作之助、梶井基次郎を初めとして結核で、長生きしませんね。川端康成だけが長生きしています(自殺しましたが)。
★左の写真は大阪の地域雑誌「大阪春秋」です。歴史も古く、有名な雑誌なのですが、何回も廃刊しそうになっては継続しています。現在は新風書房より季刊で発行されています。ほとんど新風書房の福山社長の趣味で継続しているのではないかとおもっています。また、新風書房の福山社長は、執筆もされており、大阪春秋120、121号に直木三十五の生家の場所について推理されています。
「…今回は弟清二が兄の死後、改造社の編集者から頼まれ「直木三十五全集月報」に書いた「少年時代の兄」から推理する。この月報は、全集第1回配本の「付録・第1号」として出されたもので、昭和九年四月一日発行となっている。死後2ヵ月しか経っていない。「兄の生まれた家は、僕には明瞭な記憶がない。ただそれは谷町筋だったことは確かである。これは兄も「死までを語る」 の中で、砲兵隊が大砲を曳いて通ったことを書いている通りである。たぶん内安堂寺町通りを少し南へ入った東側のところだと思ふ。」三十五は「死までを語る」 で 「谷町六丁目交差点の、内安堂寺町側、谷町舘の左側、丁度、乗客が電車を待つ為に立つ所がそうであった」と書き「大阪物語」では「私は、谷町六丁目の停留所 ── 内安堂寺町の所から、上本町のほうへ行く電車への乗り場 ── あの小さな菓子屋と理髪屋の軌道の所で生まれたのだ」と書いている。清二は「内安堂寺町通りを少し南へ入った東側」としているが、内安堂寺町通りは東西の通りなのでおかしく「谷町筋を少し南へ行った東側」の意味だと思われる。…」。
直木三十五の生誕の地は谷町六丁目交差点の付近なのですが、市電が開通したり、道路が大幅に拡張されたりして詳細の場所がよく分からなくなっていましたが、新風書房の福山社長も疑問におもわれていたようで、直木三十五、清二兄弟の書き残した文章で推測されています。