●直木三十五の大阪を歩く (上)
    初版2008年5月24日  <V01L02> 

 やっと今週から直木三十五の特集を掲載することができました。取材は昨年中に終わっていたのですが掲載がのびのびになっていました。今週から5〜6回で掲載します。他のテーマと平行して掲載していますので少し時間が掛かるとおもいます。


「この人 直木三十五」
<この人直木三十五>
直木三十五は文藝春秋の直木賞で有名です。直木賞は大衆文学作品に対する賞で、菊池寛が直木三十五を記念して昭和10年に芥川賞と共に創設した賞です。掲載される雑誌が「オール讀物」ですから、大衆文学作品そのものです。直木三十五を知るには植村鞆音さんの「この人 直木三十五」がもっともよいとおもいました。植村鞆音さんは直木三十五の弟清二さんの長男なので当然なのかもしれません。
「 大草実君が
「直木さん、九月号から一つ、前半生記と云うような物を、書いてくれませんか」 と云ってきた。私は、今年四十二年六ケ月だから「前半生」と同一年月、後半生も、生き長らえるものなら、私は八十五歳まで死なぬ事になる。これは多分、編輯局で、青年達が「直木も、そう長くは無いらしいから、今の内に、前半生記みたいなものを、書かしては何うだろう」 
と、云って、決まった事にちがいない。そして、大草実は(長くて一年位しか保つまいから、丁度、これの終る頃くたばる事になると、編輯価値が素敵だ)
と、考えたのであろう。
全く私は、頭と、手足とを除く外、胴のことごとくに、病菌が生活している。肺結核、カリエス、座骨神経痛、痔と ── 痔だけは、癒ったが、神経痛の為、立居も不自由である。カリエスは、大した事がなく、注射で、癒るらしいが、肺と、神経痛は、頑強で、私は、時々、倶楽部の三階の自分の部屋へ、替って上る事がある。私が、平素の如く、健康人の如く、歩き、書き、起きしているから、大した事であるまいと、人々は見ているらしいが、五尺五寸の身長で、十一貫百まで、痩せたのだから、相当の状態にちがいない。…」

 「この人 直木三十五」に掲載されている直木三十五の「死までを語る」の書き出しです。「死までを語る」は直木三十五自身の人生を、かなり詳細に書いているので、歩くのにはとても参考になりました。大阪生まれの作家は、織田作之助、梶井基次郎を初めとして結核で、長生きしませんね。川端康成だけが長生きしています(自殺しましたが)。

「大阪春秋」
左上の写真は植村鞆音さんの「この人 直木三十五」です。サブタイトルの「芸術は短く、貧乏は長し」は直木三十五の人生そのもののようにおもえます。このサブタイトルは直木三十五本人の作ではなく、「哲学乱酔」に出てくる言葉「恋は短く、貧乏は長し」をもじったようです。

左の写真は大阪の地域雑誌「大阪春秋」です。歴史も古く、有名な雑誌なのですが、何回も廃刊しそうになっては継続しています。現在は新風書房より季刊で発行されています。ほとんど新風書房の福山社長の趣味で継続しているのではないかとおもっています。また、新風書房の福山社長は、執筆もされており、大阪春秋120、121号に直木三十五の生家の場所について推理されています。
「…今回は弟清二が兄の死後、改造社の編集者から頼まれ「直木三十五全集月報」に書いた「少年時代の兄」から推理する。この月報は、全集第1回配本の「付録・第1号」として出されたもので、昭和九年四月一日発行となっている。死後2ヵ月しか経っていない。「兄の生まれた家は、僕には明瞭な記憶がない。ただそれは谷町筋だったことは確かである。これは兄も「死までを語る」 の中で、砲兵隊が大砲を曳いて通ったことを書いている通りである。たぶん内安堂寺町通りを少し南へ入った東側のところだと思ふ。」三十五は「死までを語る」 で 「谷町六丁目交差点の、内安堂寺町側、谷町舘の左側、丁度、乗客が電車を待つ為に立つ所がそうであった」と書き「大阪物語」では「私は、谷町六丁目の停留所 ── 内安堂寺町の所から、上本町のほうへ行く電車への乗り場 ── あの小さな菓子屋と理髪屋の軌道の所で生まれたのだ」と書いている。清二は「内安堂寺町通りを少し南へ入った東側」としているが、内安堂寺町通りは東西の通りなのでおかしく「谷町筋を少し南へ行った東側」の意味だと思われる。…」。
 直木三十五の生誕の地は谷町六丁目交差点の付近なのですが、市電が開通したり、道路が大幅に拡張されたりして詳細の場所がよく分からなくなっていましたが、新風書房の福山社長も疑問におもわれていたようで、直木三十五、清二兄弟の書き残した文章で推測されています。

「谷町六丁目交差点」
谷町六丁目交差点>
 清二さんが改造社の「直木三十五全集月報(昭和9年発刊)」に書いた「少年時代の兄」を探してみました。平成3年に示人社から発刊された「直木三十五全集」の別巻に改造社の「直木三十五全集月報」がまとめて掲載されていました。
「…兄の生れた家は、僕には明瞭な記憶がない。たゞそれは谷町筋だったことはたしかである。これは兄も「死までを語る」の中で、砲兵隊が大砲を曳いて通ったことを書いてゐる通りである。多分内安堂寺町通り(大阪では南北の通りを筋、東西の通りを通りと呼ぶのが普通である)を少し南へ入った東側のところだと思ふ。谷町筋は後に電車が通るやうになって道路を擴張したから、家は勿論原形を失ったし、第一築港玉造線が通って、所在そのものが不明たなった。多分今の谷町六丁目の交叉点の東北隅あたりがそのあとだらうと思ふ。兄が四五歳の頃に、こゝから西の方一町ばかりの内安堂寺町二丁目三十七番屋敷に引越したが、そのあと、この家には糊屋が入った。僕は引越してから四五年して生れたので、兄とは生地がほんの少しだが違ってゐる。僕がまだごく幼い頃、そのことを知ってゐて、兄に向つて、「糊屋の子、瑚屋へ去ね」と悪たれ口をついたことが屡々あったやうに覚えてゐる。…」
 直木三十五の生誕の地は上記をまとめると、谷町六丁目交差点の北より真ん中やや東側となるのではないかとおもいます。大阪春秋に掲載された地図 も掲載しておきます。地図に掲載された7の付近とおもわれます

右の写真が谷町六丁目交差点の写真です。交差点南東側から北側を撮影しています。立体交差になっていて、複雑な交差点ですが、写真左側のビルは三井住友銀行、正面の道は立体交差の谷町筋南行きです。直木三十五の生家跡は写真の交差点を越えた正面緑地帯付近ではないかとおもいます。

【直木三十五(なおき・さんじゅうご)】
 明治24年(1891)2月12日現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。早稲田大学文学部英文学科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。1929年、『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。時代小説を多く執筆し『黄門廻国記』は月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は50本近くある。昭和9年(1934)2月24日43歳で死去。翌年の昭和10年(1935)、文藝春秋社長菊池寛により芥川賞と共に直木賞が設置された。(ウィキペディア参照)



直木三十五 生誕の地 大阪地図 -1-



直木三十五の大阪年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 直木三十五の足跡
明治24年 1891 大津事件
露仏同盟
0 2月12日 大阪市南区内安堂寺町通二丁目に生れる。父植村惣八、母しずの長男。本名 植村宗一
明治29年 1896 水力発電所が京都に完成 5 4月 大阪市立桃園尋常小学校附属幼稚園入園
南区内安堂寺町通二丁目三十七に転居
明治30年 1897 金本位制実施 6 4月 大阪市立桃園尋常小学校入学
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 10 1月 弟清二誕生
3月 大阪府大阪市立桃園尋常小学校卒業
4月 大阪府大阪市立育英第一高等小学校入学
明治38年 1905 ポーツマス条約 14 3月 大阪市立育英第一高等小学校卒業
4月 大阪府立市岡中学校入学
明治43年 1910 日韓併合 19 3月 大阪府立市岡中学校卒業
岡山第六高等学校文科一部乙を受験



「内安堂寺町通二丁目三十七」
内安堂寺町通二丁目三十七>
直木三十五(本名:植村宗一)は明治29年、桃園尋常小学校付属幼稚園に入学、同じ年に生誕の地から西に300m離れた南区内安堂寺町通二丁目三十七に転居します。
「…引越してからの家には、大正十一年に改築されるまで、家族が住んでゐた。兄にしても幼稚園時代から、中学を卒業するまで、この家で生活したので、関係は最も密接だった筈である。その間取は兄の紀憶は少し違ってゐるので、奥の間が四畳半、茶の間が三畳、店がやはり三畳だつたと思ふ。尤も店には土間があって、その土間が裏へ扱けて隣家の裏と一緒になって居り、そこから更に家主の家の裏にまで抜けてゐた。それだから家主の山口家(これは町内切っての物持であるが、四十年来親類のやうに世話になってゐる)とも、裏から随分往来したのである。…」
 空襲では南北で、この安堂寺町通り南側から空堀通り付近まで、東西で、谷町筋東側から松屋町筋の東側までが焼け残っています(和楽路屋昭和21年大阪戦災地図より)。ですから直木三十五が引っ越した付近も焼け残ったわけです。

左上の写真の正面の入り口のところが直木三十五の住んでいた路地になります。この入り口の前で写真を撮っていましたら、お住まいの方が入れてくれて、路地の写真 を撮らせてくれました。直木三十五の自宅跡は無くなっていますが、面影がすこしありました。

「直木三十五の記念碑」
直木三十五の記念碑>
 内安堂寺町通二丁目三十七のすぐ近くに直木三十五の記念碑が建てられていました。坂の途中にあります。
「…この「のばく」── 私の家のうしろが、丁度「のばく」と、崖になっている高見であるが、この下に、今大阪の落語界で、大立者と称されている九里丸が住んでいた。 九里丸の話によると、彼の四軒長屋は、出世長屋で、四軒とも、相当の人物になったと、その名まで挙げていたが、私は、関係がないので、九里丸の外に知らない。 この人の父が、大阪中を風摩した、東西屋(チンドン屋) の元祖九里丸で、大阪奇人伝中の一人である。夜になると、囃し子の稽古をするので、私達子供は「のぱくの狸が、又囃しとうる」 と、云っていた。この長屋と、一度、上下で、石合戦をした事があった。私は、もう尋常二三年位で、誰にも劣らぬ乱暴者になっていたので、石を投げていたが、その一つ−−−誰のかが、九里丸長屋の赤ん坊に当ったため、親父が出てきたので、一目散に逃げ出し、家の中へかくれていた事があった。…」

右上の写真の楠木の下に直木三十五の記念碑 があります。坂を下ると長堀通りとなります(長堀通りは当時はありませんでした)。上記に書かれている四軒長屋は坂の下の左側になります。長堀通りから直木三十五の自宅跡付近の写真 を掲載しておきます。

「桃園尋常小学校の跡地」
桃園尋常小学校の跡地>
直木三十五は小学校から成績が良かったようです。
 「…小学では、秀才で、大抵一位か、二位であった。今、何うして、こんなに字が拙くなったのか知らぬが、御手本を見て、真似する字は、私が第一で、丁度、三年生の時、書の上手なのを、雨天運動場へ掲げるようになったが、真先に、私のが出た。父は、寺子屋しか知らぬから、字が上手だと、何より喜んで、この時も、すぐ、薄氏の所へ自慢に行ったらしい。所がである、同じ三年の時、菅原道真の事が、読本に出ていた。その中に「遷され」という字があったが、先生から、聞かれても、誰も答えられない。「植村」 と、最後の指名が、いつもの如く私へ来た。「流されです」 と、答えると「意味は同じだが、うつされと読む」 と、先生が云った。それまで、級中第一の自負心をもっていた私は、この間違いが、叩きのめされたように堪えた。それ以来、いかなる場合にも、知っている、という合図の為に揚げる手を、決して揚げなくなってしまった。…」
 残念ながら直木三十五が通った小学校は統廃合でなくなっていました。

左上の写真が桃園小学校跡地の桃園公園です。綺麗な公園になっていました。桃園幼稚園は反対側にそのままありました。

「育英高等小学校の跡地」
育英高等小学校の跡地>
当時は尋常小学校4年、高等小学校4年(後で2年)であり、たしか、高等小学校の途中で中学受験ができたようにおもえます。
  「… 高等小学へ行くようになってから、教科書以外の本を買ってもらえるようになった。それも、一冊一月がかりで、だましたり、悲観したり、母から半分もらって、残りをねだったり、相当苦心を必要とした。…
… 高等小学の記憶は、尋常よりも少い。その代り、少しずつ、乱暴者になりかけていて、こういう記憶がある。 それは、この当時まで、大阪には、堂島高等女学校より外に、女学校が無かったが、京都に、清水谷高等女学校ができた。この女学生が、学校の前を通るが、雨天運動場へ出ると、すぐ前が、外堀通なので「あいつ、別嬪やな」 とか
「左向け左っ、こらっ、鼻ペちゃ、向かんか」
とか、私の外、二三人がやり出して、とうとう、雨の日には、女学生達、向う側を傘でかくれて通るようになった。所が、一日、金曜日の訓話の日、校長が「本校の生徒の中に、品性を重んじない者がおって」 と、やり出して、とうとう、窓側へ、近づけないように、雨の日には、生徒の中から監視が立つ事になった。…」

 高等小学校に入学するのが10歳の時ですから、生意気盛りです。

右上の写真は現在の大阪府立南高等学校です。育英高等小学校の跡地に建てられた学校です。写真の通りは骨屋町筋とおもわれます(あまり詳しくありません)。

「府立市岡高等学校」
市岡中学校(現 府立市岡高等学校)>
直木三十五は中学校へ通い始めます。
 「…中学は、市岡中学である。出来てから、四年目で、校長は、坪井仙太郎と云った。市内には、北野と、天王寺と、市岡の三つである。新しいし、遠いから、競争者も少いだろうと、ここへ願書を出した。市岡という所は、西瓜の名産地で、今こそ町になっているが、田園の真中に、学校が一軒あるきり、前は、尻無川まで見えるし、右は、築港まで一目である。水道が引けたり、電燈がついたりしたのも、その頃であるから、市内電車など無論ない。築港、松島間に一線あるきり ── 私の家は、大阪の東の端近く、学校は市内を離れて、西の方までが、田圃の中、二里以上三里近くもあろうか。入学した成績は、一級四十人中、尻から十六番目。父に叱られて、次の学期に、上から十四番目になったが、それが、私の最高レコードで、卒業の時には尻から八番目であった。十三歳の時に、腸チブスになって、それ以来、すっかり、健康体になった私は、とうとう中学五年間、一日の休みもなしに、この遠い道を歩いて通った。二年生時分から巡航船という、河々を通る石油発動機の船ができ、車夫が、この船を襲撃して大騒動を起したりしたが、速力がのろいし、迂回するので。余り乗らなかった。乗る金もなかった。発育盛りなので、洋服が、すぐ小さくなる。しかし、それに応じて買えぬので、いつも、寸づまりの、手首のうんと出た洋服を着て、ぼろぼろの靴に、破れた帽子をかむっていた。 当時、何ういうのか、美少年を愛する事が、中学で流行していたので、破帽破靴の風は、豪健と見るや、わざわざ破る者さえ出来たので、私は、ますます平気になって可成り、先生から注意された事もあった。違いから、弁当をもって行くが、アルミニウームは、もう使っていた。電燈、水道と同時代に、こいつも一般化されたらしい。この弁当の菜が、油揚げ、湯葉と、きまっていた。湯葉も、薄い普通のではない。湯葉を竹にかける時、竹につく滓の厚く、固くなって、竹のかたのついた奴である。私が、骨屋町へ無くなると買いに行った。「又、湯葉か」 と、隣りの友人が、箸でつついたので、そいつの弁当を叩き落とした事があった。中学五年間、この油揚げと、湯葉で一貫した。…」
 織田作之助のところで書きましたが、当時の大阪で商売人の息子が中学校に入学するのは、よほどのことがないと無理だったとおもいます。成績もかなり良かったのだとおもいます。ただ、上記に書いてある通り、北野、天王寺が圧倒的で市岡中学はすこしレベルが落ちたとおもいます。

左上の写真が現在の大阪府立市岡高等学校です。当時と場所は変わっていません。

この後、直木三十五は奈良で代用教員を経験し、東京の早稲田大学に入学します。


直木三十五 大阪地図