今週は「小説家の新宿を歩く」で中上健次を特集してみました。ビートたけし、五木寛之、ドリフターズ、村上龍ときましたので、ビートたけしと村上龍の関係から次はやはり中上健次となります。野坂昭如なども何処で特集したいなとおもっています。
<岬>
中上健次は昭和50年下期の芥川賞を「岬」で受賞します。「地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴きつづける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを想った。姉が、肉の入った大皿を持ってきた。……「飲みなあれ」と、彼の真むかいに坐った光子が、酔った声を出す。「たまに、親方の事を、忘れて、ドンチャン騒ぎしょうれ」「あかん、あかん」姉は、笑を浮かべたまま首を振った。「かまんのにい」光子は、よいしょ、と胡坐を組む。桃色のフリルのついたパンティが彼に見える。それを察して、隣に坐った亭主の安雄が、「かくせ、かくせ」とわらいながら、光子のまくれあがったスカートをひっぱる。光子は、「減るもんでなし、みせたるぐらい、かまんやないのう」と安雄の体を腕でこづく。「言うとくけど、安雄、わしは、美恵ちゃんと違うからな。ちょっと知られた女やからな。これくらいなんやあ」……」。純文学ですから、なかなかの書き出しです。これからどうなるのだろうと、ページをおもわず捲ってしまいます。”フリルのついたパンティ”よりも”光子のまくれあがったスカートをひっぱる”と書かれた方が次はどうなるんだろうと創造が進みますね(ちょっと不謹慎かな!)。中上健次は芥川賞候補に三度ノミネートされ、四度目にやっと受賞しています。次の年の昭和51年2月には村上龍(23歳)が「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞しています。「…読者に想像してもらえるかどうか分からぬが、当選した時はよい、落選した時のあの厭な気持ちだ。いままで周囲が、絶対大丈夫ですよ、選考委員の誰々さんがいいと言っていましたよ、と甘い言葉をささやいてくれ、本人もたとえその言葉の内にチクリと刺す辛味が湿っていても、そんな辛味を耳にとめぬようになっているのである。候補は一カ月前から決っている。期間内に発表された新人の小説は、文学振興会により選び出される。方々に配っていたアンケートを参考にしたり、選考委員の推薦があったりする。候補の通知が来るのが一カ月前、そのすぐ後、選考会当日どこにいるのか教えろ、と葉書を同封してくる。新聞に候補が発表されるのが、だいたい一週間前である。正直、ソワソワする。そのソワソワ度は、候補一回目より二回目、二回目より三回目と強くなる。当の本人、ソワソワすることなどバカげた事だと判っているが、やはり腰が浮いてくる。私、「十九歳の地図」で一回目の候補になった時、その当日は海水浴に行っていた。帰ってきて、背中がとリヒリするので裸になって飯を食っていると、電話がかかってくる。文藝春秋の担当編集者、くそまじめな声で、「この度は、残念でした」と言う。ああ、そう、とうなずいて、電話を切って飯を食いつづけ、その時は、そりゃあそうだろうと一人で納得していた。三島由紀夫でも生きているなら、理解してくれ説得してくれるかもしれないが、とつぶやいた事を憶えている。二度目が「鳩どもの家」。有力候補とかつがれたが、また落選。三度目が「浄徳寺ツアー」、最有力とおだてられ、またまた落選。太宰のように手紙まで書いてメソメソ言いはしないのは自分の意地、ツッパルだが、三度も落されていると、正直、ムカッ腹が立つ。四回目に「岬」でもらってムカッ腹はおさまったが、選考委員の川端康成に否定されて、一方で、刺してやると言い、一方で、すがりつく、太宰の気持ちは充分にわかる。発表を待つまでの緊張感、電話のベル、文藝春秋社員の、低い声。………」。中上健次が芥川賞を貰いたかったとはおもいませんが、受賞はうれしかったようです。芥川賞で太宰治が川端康成にクレームのつけたのは有名ですが、まさか中上健次がそのことを持ち出すとはおもいもよりませんでした。やっぱり、芥川賞が欲しかったのかな!!
【中上健次】
昭和21(1946)年、和歌山県新宮市生れ。県立新宮高校卒業後、羽田国際空港事業株式会社等に勤務。51年、「岬」で第74回芥川賞を受賞。戦後生れの純文学作家の旗手として活躍した。著書に「枯楓(芸術選奨新人賞受賞)、「千年の愉楽」「日輪の巽」「奇蹟」「讃歌」「軽蔑」等がある。平成4年8月12日急逝。 (文春文庫「岬」より)
★左上の写真は中上健次の芥川賞受賞作、「岬」の文庫版です。
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