kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年2月20日


●中上健次の新宿を歩く
  初版2005年3月5日
  二版2008年9月7日
<V01L02> ジャズ・ヴィレッジ(ジャズ・ビレッジ)の場所を修正

 今週は「小説家の新宿を歩く」で中上健次を特集してみました。ビートたけし、五木寛之、ドリフターズ、村上龍ときましたので、ビートたけしと村上龍の関係から次はやはり中上健次となります。野坂昭如なども何処で特集したいなとおもっています。

<岬>
 中上健次は昭和50年下期の芥川賞を「岬」で受賞します。「地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴きつづける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを想った。姉が、肉の入った大皿を持ってきた。……「飲みなあれ」と、彼の真むかいに坐った光子が、酔った声を出す。「たまに、親方の事を、忘れて、ドンチャン騒ぎしょうれ」「あかん、あかん」姉は、笑を浮かべたまま首を振った。「かまんのにい」光子は、よいしょ、と胡坐を組む。桃色のフリルのついたパンティが彼に見える。それを察して、隣に坐った亭主の安雄が、「かくせ、かくせ」とわらいながら、光子のまくれあがったスカートをひっぱる。光子は、「減るもんでなし、みせたるぐらい、かまんやないのう」と安雄の体を腕でこづく。「言うとくけど、安雄、わしは、美恵ちゃんと違うからな。ちょっと知られた女やからな。これくらいなんやあ」……」。純文学ですから、なかなかの書き出しです。これからどうなるのだろうと、ページをおもわず捲ってしまいます。”フリルのついたパンティ”よりも”光子のまくれあがったスカートをひっぱる”と書かれた方が次はどうなるんだろうと創造が進みますね(ちょっと不謹慎かな!)。中上健次は芥川賞候補に三度ノミネートされ、四度目にやっと受賞しています。次の年の昭和51年2月には村上龍(23歳)が「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞しています。「…読者に想像してもらえるかどうか分からぬが、当選した時はよい、落選した時のあの厭な気持ちだ。いままで周囲が、絶対大丈夫ですよ、選考委員の誰々さんがいいと言っていましたよ、と甘い言葉をささやいてくれ、本人もたとえその言葉の内にチクリと刺す辛味が湿っていても、そんな辛味を耳にとめぬようになっているのである。候補は一カ月前から決っている。期間内に発表された新人の小説は、文学振興会により選び出される。方々に配っていたアンケートを参考にしたり、選考委員の推薦があったりする。候補の通知が来るのが一カ月前、そのすぐ後、選考会当日どこにいるのか教えろ、と葉書を同封してくる。新聞に候補が発表されるのが、だいたい一週間前である。正直、ソワソワする。そのソワソワ度は、候補一回目より二回目、二回目より三回目と強くなる。当の本人、ソワソワすることなどバカげた事だと判っているが、やはり腰が浮いてくる。私、「十九歳の地図」で一回目の候補になった時、その当日は海水浴に行っていた。帰ってきて、背中がとリヒリするので裸になって飯を食っていると、電話がかかってくる。文藝春秋の担当編集者、くそまじめな声で、「この度は、残念でした」と言う。ああ、そう、とうなずいて、電話を切って飯を食いつづけ、その時は、そりゃあそうだろうと一人で納得していた。三島由紀夫でも生きているなら、理解してくれ説得してくれるかもしれないが、とつぶやいた事を憶えている。二度目が「鳩どもの家」。有力候補とかつがれたが、また落選。三度目が「浄徳寺ツアー」、最有力とおだてられ、またまた落選。太宰のように手紙まで書いてメソメソ言いはしないのは自分の意地、ツッパルだが、三度も落されていると、正直、ムカッ腹が立つ。四回目に「岬」でもらってムカッ腹はおさまったが、選考委員の川端康成に否定されて、一方で、刺してやると言い、一方で、すがりつく、太宰の気持ちは充分にわかる。発表を待つまでの緊張感、電話のベル、文藝春秋社員の、低い声。………」。中上健次が芥川賞を貰いたかったとはおもいませんが、受賞はうれしかったようです。芥川賞で太宰治が川端康成にクレームのつけたのは有名ですが、まさか中上健次がそのことを持ち出すとはおもいもよりませんでした。やっぱり、芥川賞が欲しかったのかな!!

【中上健次】
昭和21(1946)年、和歌山県新宮市生れ。県立新宮高校卒業後、羽田国際空港事業株式会社等に勤務。51年、「岬」で第74回芥川賞を受賞。戦後生れの純文学作家の旗手として活躍した。著書に「枯楓(芸術選奨新人賞受賞)、「千年の愉楽」「日輪の巽」「奇蹟」「讃歌」「軽蔑」等がある。平成4年8月12日急逝。 (文春文庫「岬」より)

左上の写真は中上健次の芥川賞受賞作、「岬」の文庫版です。

中上健次の東京 年表(一部推定)

和  暦

西暦

年    表

年齢

中上健次の足跡

昭和40年
1965
アメリカ軍北爆開始
名神高速道路開通
谷崎潤一郎没
19
2月 大学受験のため上京
3月 和歌山県立新宮高校卒業
4月 早稲田予備校入学
初夏ジャズ・ビレッジに通い始める
昭和42年
1967
紅衛兵
オールナイトニッポンの放送開始
21
10月 第一次羽田闘争参加
11月 第二次羽田闘争参加

ジャズ・ヴィレッジ(ジャズ・ビレッジ)跡>
 2008年9月6日 場所を修正
 中上健次は新宮高校卒業後、大学を目指し上京します。しかし、予備校へは通わず、新宿通いを始めます。「…ふと私は、昔、ジャズ狂だった頃を思い出す。時代は、六〇年代の後半、世の中何もかも熱をはらみ、若い者の力で動いていると思っていた頃、その思いが錯覚だったとは考えたくないし、ジャズは狂ったようにあった。ジャズ・ビレッジ。ビレッジ・ゲイト。ポニー。ニュー・ポニー。木馬。ディグ。一〇八号連続ピストル射殺魔と騒がれた十九歳の少年がボーイとして働いていたのが、ビレッジ・バンガード。それらの店で毎日毎日ジャズをきいていた。ひょんなことで行った六七年の六・一五のデモ。機動隊にサンドイッチになり新橋ガード下まで来てやっとその規制をやぶって投石をする勢いになったが、ジャズ狂連中と物見遊山の気持ちで初めて出かけたデモはみじめだった。十・八第一次羽田は一緒に行く連中がなく、一人でノコノコ出かけ、群れにはぐれて、羽田の高速道路の入口付近で、機動隊と追い駆けっこをした記憶がある。そのデモで、死者が出たのは後で知った。そのデモから一カ月後、十一・一二の時は、ジャズ狂連中六人ほどで集会にもぐり込み手渡された角材持って、ひとまず駒場に行き、朝、電車に乗り込み、羽田にむかった。どこで降りたのか覚えていない。大鳥居近辺で機動隊と衝突し闘い巧者の機動隊に角材の列はバラバラに分断された。感傷で言うのでほないが、正直、その辺りの事はすべて面白かった。デモも面白かった。ジャズも、映画も、詩もそうだった。二十になったかならなかった頃、すでにもう小説は書いていたが、私は、小説より他にもっと自分の気質にあったものがあるのではないかと、……」。昭和40年前半はジャズ喫茶全盛の頃です。若者のエネルギーが外に向かって発散されていた時代でした。”面白かった”と書いているのも分かりますね(携帯電話やインターネット時代はどうしても内向きになります!)。第一次羽田闘争が昭和42年10月8日で佐藤首相の南ベトナム訪問阻止のため羽田空港入口付近で機動隊と衝突しています。第二次羽田闘争は1月後の11月12日で佐藤首相の訪米阻止のため京急蒲田駅から大鳥居駅付近で機動隊と衝突しています。この頃から昭和45年頃までがベトナム反戦(昭和50年4月サイゴン陥落)を中心とした学生運動の最盛期で、沖縄返還(昭和47年5月)やよど号ハイジャック(昭和45年3月)等が起こり、学生運動は分裂、縮小していきます。

左上の写真の左側、少し先がジャズ・ヴィレッジ(ジャズ・ビレッジ)跡です。「…丁度その頃、代々木にアパートを借りていたので、新宿の歌舞伎町にあったジャズ・ビレッジへは電車をつかわずに歩いて行くのが日課だった。まず代々木駅に出て、それから小田急線の踏切りを越えて南口に歩き、南口から橋を渡り紀伊国屋の横を抜けて歌舞伎町に入る道筋だった。…」。代々木のアパートからジャズ・ヴィレッジ(ジャズ・ビレッジ)に毎日通っていたようですが、代々木のアパートは場所が不明です。

左の写真の右から3軒目がヴィレッジ・ゲートです。左側に「喫茶王城」がありました。現在はカラオケになっています。この左手前は歌舞伎町公園です。ヴィレッジ・ゲートはこの喫茶王城の真ん前にありました。昭和40年代は純喫茶が新宿にはたくさんありました。ジャズ喫茶の場所は昭和43年6月号のスイングジャーナル誌からです。この雑誌にはビレッジ・バンガードの広告が掲載されており、その中に上記の店の地図が掲載されていました。

DIC跡>
 中上健次が東京に出て、初めて訪ねたジャズ喫茶が新宿西口のDIGでした。「…学校が嫌いだった。当然の事ながら家出をしたくなる。だがそれもやらなかった。なにしろあらゆる事がめんどうくさく、今、そんな高校生なら一体なにやってるんだとどなるだろうと苦笑するほど、落第スレスレの成績、スレスレの時間数、ちょっとばかりの反抗、ちょっとばかりの遵法精神とやらで、うまく高校時代を生きのびた。時間数大丈夫、点数もスレスレで大丈夫、取り敢えず念の為と全部の教科担任に単位をどうかよろしくと、頭を下げて廻り、卒業式にも出席せず、さして親しくなかった連が東京へ行くのに合わせてまるで一泊旅行に出かける姿で汽車に乗った。家出ではなかったが家出同然だった。もちろんポケットに母からもらった大学受験の費用は入っている。着いたその日、新宿のDIGでジャズを聴き、次の日、一人でふらふら新宿をうろつき、音の鳴る方に歩き、「ジャズ・ビレッジ」を知ったのだった。…」。やっぱり、最後はジャズ・ヴィレッジ(ジャズ・ビレッジ)になるようです。風月堂でも書いていますが、田舎から出てきた者には、DIGや風月堂よりはジャズ・ヴィレッジ(ジャズ・ビレッジ)が合うようです。DIGを知らないひとは昭和40年代を語れません。

右の写真の「アカシア」の上に「DIG」がありました。現在はDIG自体が無くなって、別の場所でDUGとなっています。この経緯については別途掲載します。「アカシア」については「ビートたけしの新宿を歩く」、DUGについては「村上春樹風 大晦日の過ごし方」を参照してください。

風月堂跡>
 ビートたけし、村上龍も通った風月堂です。当然、中上健次も通っていたようです。「…【中上】 俺、昔、新宿でフーテンしてた時代からいやだったんだね。風月堂ってあったでしょう。ジャズビレッヂってのがあって、二派があったんだな。風月の連中はチャラチャラしたのが多くて、それが結局、福生に流れて行ったんだよ。福生でハウスを借りたりね。俺らはジャズビレで、チソビラグループで。風月のやつを、まあ、カツあげしに行くとか、そういう形だったんだよね。【村上】 カツあげしに行ったの〜【中上】 本当だよ、それは。だから、風月に行けば、ほんとに嫌われ者って感じで、また来たってわけで。(笑)だから、そういう二派があって、結局その流れなんだよ、福生行ったのは。まあ、君は直接行ったかもしれんけど。ハウスなんかに住んでるというのは、風月の連中が新宿つまんなくなって向こうへ移ったという感じなんだよ。俺、許せんと思うのは、あいつら外人と絶えずつき合ってんだな。で、くっつき回ってるって感じで、なんだ、あいつらって、そういうのあったんだなあ。…」。村上龍との対談の中で、風月堂を語っています。私の感覚では、地方から出てきてすぐに風月堂の会話に溶け込めない。以前にも書きましたが会話の質が高かった(東京的な会話というか、昔から東京に住んでいる連中の会話となる!)。ジャズ・ビレッジは話の内容は前衛的なのですが、地方出が多くて、会話のテンポが合うのです。何年か東京に住んでいると風月堂風の会話ができるようになります。

左の写真の右側辺りに風月堂がありました。現在は大塚家具ショールームのビルになっています。当時は写真右の角にラーメン屋、次が鉄板焼き、角から三軒目に風月堂がありました。因みに左隣は吉野寿司だったとおもいます。

次回は「ビートたけしの梅島を歩く」を掲載する予定です。


中上健次の新宿地図



【参考文献】
・岬:中上健次、文春文庫
・19歳の地図:中上健次、河出文庫
・破壊せよ、とアイラーは言った:中上健次、集英社文庫
・中上健次VS村上龍:角川書店
・中上健次 文藝別冊:河出書房新社
・文藝 1997 冬:河出書房新社
・中上健次事典:高澤秀次、恒文社
・中上健次全集:中上健次、集英社
・琥珀色の記録〜新宿の喫茶店:新宿歴史博物館
 
 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール