●「上目黒村に遊ぶ記」を歩く
    初版2017年2月18日  <V01L02> 暫定版

 今回も村尾正靖(号は嘉陵)の「上目黒村に遊ぶ記」です。浜町の下屋敷から麻布、広尾を抜けて恵比寿から上目黒、中目黒方面を歩いています。一寸した散歩ですね!


「江戸近郊道しるべ」
<「江戸近郊道しるべ」 講談社学術文庫>
 村尾正靖(号は嘉陵)の「江戸近郊道しるべ」から”上目黒村に遊ぶ記”に書かれた道と同じ道を歩いてみました。今回の”上目黒村に遊ぶ記”は都心から比較的近い目黒の富士講を歩きます。上目黒の”元富士”、中目黒の”新富士”を順に回ります。

 「江戸近郊道しるべ 講談社学術文庫」から”上目黒村に遊ぶ記”です。
「   上目黒村に遊ぶ記
 文政三年(一八二〇)辰陰暦三月四日、この頃、右大将の君(清水徳川家第五代斉彊)の、麻疹もようやく回復した。花も咲き始めたという。こっそりと郊外への旅をして、滅入っている心を和ませようと、今日はよく晴れ渡った日になったので、不意にあてもなく家を出る。
 まず麻布までやって来た。人の行く所はことごとく煩わしい気がする。花が咲いているかどうかは分からないが、まだ花見に行ったことのない所に行ってみようと、仙台坂(港区南麻布一丁目と元麻布一丁目の境を東に下る坂)を登り、天真寺(南麻布三丁目)の裏手にある南部殿の屋敷(現有栖川宮記念公園)前を下って、広尾の町に出、祥雲寺(渋谷区広尾五丁目)の前を左に折れて寺に沿って少し行くと、毛利讃岐守殿の屋敷がある。この辺りも広尾の町である。…」

 上記に”右大将の君(清水徳川家第五代斉彊)”と書かれていますが、斉彊が生まれたのは文政3年(1820)4月28日(旧暦)です。清水徳川家四代当主 徳川斉明の養子となったのが文政3年(1820)なので生まれて直ぐに養子になっています。しかしながら、上記を書いた日付は”文政三年(一八二〇)辰陰暦三月四日”なので、斉彊(文政3年(1820)4月28日生まれ(旧暦))はまだ生まれていません。よく分かりません?、前書きに”平凡社東洋文庫版の『江戸近郊道しるべ』における浅倉治彦氏の仕事に全面的に負っている”と書かれています。

写真は講談社学術文庫の「江戸近郊道しるべ」です。現代用語でか書かれたいますので、分かりやすく、散歩の参考になります。

「江戸近郊道しるべ」
<「江戸近郊道しるべ」 平凡社>
 もう一冊の本、平凡社から出版されている「江戸近郊道しるべ」です。基本的には講談社学術文庫版と同じですが、古文に近い書き方で掲載されているので、なにか、原文を読んでいる気がします。今回は、平凡社版の「江戸近郊道しるべ」で歩いて行きたいとおもっています。又、此方は村尾嘉陵が書いた地図も掲載されていますので大変参考になりました。

  「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”上めぐろ村に遊ぶ記”です。
「   上めぐろ村に遊ぶ記
         文政三年辰三月四日
 この比、右大将の君(清水徳川家第五代斉彊)の、あかもがさなやませたまふも、やうやうさはやがせ給ふに、花もやゝさきぬといへば、人しらず、いなかわたらひして、このごろの思ひくんじたる心をもなごめばやと、けふしも、とみに晴にたれば、ゆくりなくやどを出て、かたもさだめず、まづ麻布までは来にけり、なべて人のゆく所は、うるさき心ちして、花の有無はしらねど、まだ見ぬかたにと、せんだい坂(南麻布一丁目と元麻布一丁目の境を東に下る坂)をのぼりに、天真寺(港区南麻布三丁目)のうら南部どのゝやしき(現有栖川記念公園)前をくだりに、広尾の町に出、祥雲寺(渋谷区広尾五丁目)の前をひだりに折て、寺にそふて行〔こ
こも広尾の町のうち也〕、やゝ行て、毛利讃岐守殿のやしきあり、…」

  上記に”文政三年(一八二〇)辰陰暦三月四日”と書いてありますから、村尾嘉陵が住んでいたところは浜町の清水家下屋敷となります。上記には麻布から書かれていますが、浜町下屋敷から麻布一ノ橋までは6.5Km程ありますから1時間半程掛っている計算になります。

<写真掲載>
せんだい坂(南麻布一丁目と元麻布一丁目の境を東に下る坂)
天真寺(港区南麻布三丁目)
南部どのゝやしき(現有栖川記念公園)前をくだり
祥雲寺(渋谷区広尾五丁目)

写真は平凡社版「江戸近郊道しるべ」です。解説は朝倉治彦さんで、内容も詳しく非常に参考になりました。



現在の東京南部地図



現在の麻布附近地図


明治初期の地図



「恵比寿南交差点」
<こゝの茶店>
 村尾嘉陵一行は浜町の下屋敷から麻布、広尾を抜けて恵比寿へ向っています。恵比寿を過ぎた後、道が分かれるところにある茶屋で休んでいます。この茶屋が何処にあったのか探してみました。

 「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”上めぐろ村に遊ぶ記”です。
「…少しゆけば下渋谷の橋わたりて〔左のかたに森つしま守殿のやしきあり〕、左右町なみを行、五七丁行ば、右は世田谷、左はめぐろ不動(竜泉寺、目黒区下目黒三丁目)、祐天寺(同区中目黒五丁目)にも行道あり、こゝの茶店のかどに、さくら一本あり、折しも雨のうちそゝぎければ、しばしたちよりて
  さくら咲木の下かげの雨やどりうしとやいはんうれしとやいはん
 亭のあるじに、このあたり花ありやとゝふに、さくらはこゝらには侍らず、上めぐろ村に近比富士を二所(東富士は中目黒二丁目、西富士は上目黒一丁目)まで築たるを、せめて、それをだに行て見給へかし、そこには、やがて花も植なんとは聞たれどまだき、今は山のみはらしよきのみ也、と聞ゆれば、…」

 ”町なみを行、五七丁行ば、右は世田谷、左はめぐろ不動(竜泉寺、目黒区下目黒三丁目)、祐天寺(同区中目黒五丁目)にも行道あり”と書かれているので、渋谷川の渋谷橋から分岐まではGoogle Mapで測定してみると450mでした。

写真は現在の恵比寿南交差点です。右は旧大山道で代官山の旧山手通り方面、左の細い道は祐天寺、目黒不動方面の道となります。茶屋はこの附近にあったものとおもわれます。左の細い道を行くと、次の交差点で分岐があり角に古い道標があります。
 渋谷区教育委員会の説明看板がありました。
「           恵比寿南三丁目11番17号
 道 し る べ
 江戸時代中期の安永八年(一七七九)に建てられたこの道しるべは、中央に南無阿弥陀佛、その右側にゆうでん寺道、左側には不動尊みちとかいてあります。ゆうてん寺道とは、目黒方面から別所坂を登り麻布を経て江戸市中へ通じる最短距離の道、本動尊みちどは、目黒不動へと続く道のことです。そして台座には道講中と刻まれています。このことから、単に道路の指導標というだけではなく、交通安全についても祈願し造られたものであると考えられます。この地域は江戸時代、渋谷広尾町と呼ばれた小規模な町並みが存在していただけでした。町並みから外への道は、人家も少ない寂しいところであったため、このような宗教的意味をもった道しるべが必要だったのでしょう。
            渋谷区教育委員会」

 ”左はめぐろ不動(竜泉寺、目黒区下目黒三丁目)、祐天寺(同区中目黒五丁目)”が正しいことがわかります。

「西富士跡附近から」
<西富士>
 恵比寿南交差点附近にあったとおもわれる茶屋からどちらに向うのかとおもったら、世田ケ谷道(大山道)へ向っています。代官山方面に向うわけです。

 「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”上めぐろ村に遊ぶ記”です。
 「…其おのこに道とひて、こゝのかどより西に横折て、世田ケ谷道てふ山畠の繩手を行、十三四丁ばかりにして民家二三戸ある所にいたる、そこにて、南の方をみれば、富士の築山二三丁が間に見わたさる
 この築山は、過し文化七年にきづきしと云、山の高さ凡四丈ばかり、九折の道をつけて巓にのぼる、山の南の裾に、直にたちのびたる松一木あり、この外に何一ツ木なし、巓より望めば、坤に士峯、其左に大山、西北に遠きは秩父(埼玉県秩父市)、近きは府中、二子、登戸(神奈川県川崎市)の辺山々、乾(北西)に武甲山、なべてみな真白に雪ふりつみ、てる日の影にうつろひて、花とも見なさる、こゝの民の四五人して、猶土をはこび、みちをならしなどするあり、この外絶て一人の来るをみず、仙元の祠は南に向て立せ給ふ、其東に山の番小屋あり…」

 恵比寿南交差点から代官山方面に向い、鎗ヶ崎交差点を右に曲り、直ぐにある代官山交番前交差点を左に曲がります。細い道で、曲がった後、右側に旧浅倉家住宅(見学が出来ます)があります。又、直ぐにY字路があり、角に道標があります。
 渋谷区教育委員会の説明看板がありました。
「   地蔵・道しるべ
                 猿楽町30番
 地蔵尊が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。
 この地蔵尊は、文政元(一八一八)年の造立で、その台座正面には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂または暗やみ坂どいい、この坂を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道二四六号線)に達します。また、堂前を東へ進むと並木橋に達します。
 江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう゜
             渋谷区教育委員会」

 今は右側の道(目切坂)しかありませんが当時は左側の道もありました(下記の村尾嘉陵記の地図を参照)。道を少し進むと、渋谷区教育委員会の説明看板があります。
「  目黒元富士跡         上目黒1−8
 江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
 マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは1 2mもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2ー1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新冨士」としてそれぞれの風景が描かれています。 元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2−16−21)へ移されました。                                                 
              平成22 年12月        目黒区教育委員会」

 ”元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2−16−21)へ移されました”と書いてありましたので大橋の氷川神社を訪ねてみました。境内の石祠や講の碑の写真撮影をしてきました。

 村尾嘉陵一行は元富士に登ってから左側に降りる道を下って中目黒方面に向ったとおもわれます(東横線を跨ぐため、道が無くなったとおもわれます)。現在はこの目切坂を下ると目黒川の手前に出ますので、左に曲り中目黒の別所坂上(中目黒2ー1)の「新富士」に向います。

写真は西富士跡附近から南西方面を見たものです。残念ながら富士山は見えません。西富士の高さは四丈なので約12m位で、4階位の建物の高さです。歌川広重の「目黒元不二」、「目黒新冨士」を掲載しておきます。



上目黒村富士西東両峯列時略図(村尾嘉陵 記)

「別所坂児童遊園から」
<東峯の富士>
 目黒元富士から目切坂を下ると目黒川の手前に出ますので、左に曲り中目黒の別所坂上(中目黒2ー1)の「新富士」に向います。目黒学院高校を過ぎて別所坂を登ります。

 「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”上めぐろ村に遊ぶ記”です。
「… 山をみなみへ下れば、岨に又九折の途あるを下り、田の畔の細道を東にゆけば、東峯の富士の麓にいたる、こゝも九折のみちをのぼりはつれば、上の平らに富士を築く、山の高さ西峯に同じ、こは去年所の民力をあはせて築き成といへども、西峯にくらぶれば猶いまだ具足せず、こゝにも祠あり、又南面して立せたまふ、眺望又叫峯に同じといへども、やゝ次たる心ちせらる、西東両峯なべて麓の田を下し瞰、乾は道玄坂(渋谷区道玄坂一、二丁目の間)の下より、巽(南東)は行人坂(目黒区下目黒一丁目、雅叙園前を目黒川に下りる)のあたりにいたるべし、田を隔て向ひに畔の細みち一条あり、こなたにも又岨の下に一すぢのみちあり、みな乾より巽に行、祐天寺、めぐろ不動、みなこの道よりすと云…」

 別所坂を登りきった所に、渋谷区教育委員会の説明看板があります。
「目黒区みどりの散歩道◎目黒川コース
目黒の新富士≠ニ新富士遺跡
この辺りは、昔から富士の眺めが素晴らしい景勝地として知られたところ。江戸後期には、えぞ・千島を探検した幕臣近藤重蔵が、この付近の高台にあった自邸内に立派なミニ富士を築造。目切坂上の目黒元富士≠ノ対し、こちらは新富士≠フ名で呼ばれ、大勢の見物人で賑わった。
 平成3年秋、この近くで新富士ゆかりの地下式遺溝が発見された。遺溝の奧からは石の祠や御神体と思われる大日如来像なども出土。調査の結果、遺溝は富士講の信者たちが新富士を模して地下に造った物とわかり「新富士遺跡」と名づけられた。今は再び埋め戻されて、地中に静かに眠る。」


 又、マンションの横の道を戻ると別所坂児童遊園があり、園内に石碑と渋谷区教育委員会の説明看板があります。
「           新富士   中目黒−1
 江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつくられ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。
 この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、新富士と呼ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文政2 (1819)年、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが良く。江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(『遊歴雑記』)と書かれるほどであった。
 新富士は昭和34年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙法蓮華経」(「文政二己卯年六月建之」とある)・「小御嶽」・「吉日戊辰」などの銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
    平成18年10月    目黒区教育委員会」


写真は現在の別所坂児童遊園から南西をみたものです。絶景です。ただ、丹沢山系や富士山が見えるはずなのですが、冬の天気の良い日に2回程行ってみましたが見えませんでした、残念です。



現在の恵比寿から中目黒付近地図



「渋谷金王八幡宮」
<渋谷金王(こんのう)>
 村尾嘉陵一行は中目黒の別所坂上から浜町(現在の箱崎)に向って帰途につきます。帰りの道筋は渋谷の金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)下の渋谷川の橋を渡って川沿いに戻ったようなのですが、中目黒の別所坂上から渋谷方面には目黒元富士に戻らなければなりません。最初は目黒元富士と新富士を逆に回ったのではないかともおもいました。

 「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”上めぐろ村に遊ぶ記”です。
「… 思ふに、飛鳥山(北区王子一丁目)の眺望と志村(板橋区)の台、熊野権現の山(北区王子本町一丁目)より北望平田を下し瞰、遠山をのぞみみると、こゝのながめと、互に三ながら甲乙なし、山水にあそぶ事をこのむもの、一度は行ても見よかし、かへさには渋谷金王(渋谷区渋谷二丁目)下の板ばしをわたり、川のふち通りをもとの道に出て、日くるゝ比やどにかへる、金王の辺より富士まで、凡十八九丁ありやなしや
     渋谷のかへるさに
  道のべのっらつら椿たれみょと下てるばかり花の咲らん
     川の岸に山吹さきたり
  たちかへりみれどあかぬかも行水の心にとまる岸の山吹
     行ての道にまれに花あるもこよなし
  さはにみるながめはあれどかなたこなたI木ふたきの花もなっかし」

 ”かへさには渋谷金王(渋谷区渋谷二丁目)下の板ばしをわたり、川のふち通りをもとの道に出て、日くるゝ比やどにかへる”と書いてあります。やはり中目黒の別所坂上から三田用水沿を歩いて目黒元富士に戻り、そこから代官山経由で渋谷方面に行ったようです(推定)。渋谷金王(渋谷区渋谷二丁目)下の金王下橋を超えて右に曲り、渋谷川沿いを広尾から麻布経由で帰ったようです。

写真は現在の渋谷金王八幡宮です。金王下橋は新並木橋の直ぐ横にある旧並木橋のこととおもいます。現在の金王橋はかなり渋谷駅川にあり、金王下橋とは違います。



明治初期の地図