<西富士> 恵比寿南交差点附近にあったとおもわれる茶屋からどちらに向うのかとおもったら、世田ケ谷道(大山道)へ向っています。代官山方面に向うわけです。
「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”上めぐろ村に遊ぶ記”です。
「…其おのこに道とひて、こゝのかどより西に横折て、世田ケ谷道てふ山畠の繩手を行、十三四丁ばかりにして民家二三戸ある所にいたる、そこにて、南の方をみれば、富士の築山二三丁が間に見わたさる
この築山は、過し文化七年にきづきしと云、山の高さ凡四丈ばかり、九折の道をつけて巓にのぼる、山の南の裾に、直にたちのびたる松一木あり、この外に何一ツ木なし、巓より望めば、坤に士峯、其左に大山、西北に遠きは秩父(埼玉県秩父市)、近きは府中、二子、登戸(神奈川県川崎市)の辺山々、乾(北西)に武甲山、なべてみな真白に雪ふりつみ、てる日の影にうつろひて、花とも見なさる、こゝの民の四五人して、猶土をはこび、みちをならしなどするあり、この外絶て一人の来るをみず、仙元の祠は南に向て立せ給ふ、其東に山の番小屋あり…」
恵比寿南交差点から代官山方面に向い、鎗ヶ崎交差点を右に曲り、直ぐにある代官山交番前交差点を左に曲がります。細い道で、曲がった後、右側に旧浅倉家住宅(見学が出来ます)があります。又、直ぐに
Y字路があり、角に道標があります。
渋谷区教育委員会の説明看板がありました。
「 地蔵・道しるべ
猿楽町30番
地蔵尊が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。
この地蔵尊は、文政元(一八一八)年の造立で、その台座正面には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂または暗やみ坂どいい、この坂を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道二四六号線)に達します。また、堂前を東へ進むと並木橋に達します。
江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう゜
渋谷区教育委員会」
今は右側の道(目切坂)しかありませんが当時は左側の道もありました(下記の村尾嘉陵記の地図を参照)。道を少し進むと、渋谷区教育委員会の
説明看板があります。
「 目黒元富士跡 上目黒1−8
江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは1
2mもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2ー1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新冨士」としてそれぞれの風景が描かれています。 元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2−16−21)へ移されました。
平成22 年12月 目黒区教育委員会」
”元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2−16−21)へ移されました”と書いてありましたので
大橋の氷川神社を訪ねてみました。境内の
石祠や講の碑の写真撮影をしてきました。
村尾嘉陵一行は元富士に登ってから左側に降りる道を下って中目黒方面に向ったとおもわれます(東横線を跨ぐため、道が無くなったとおもわれます)。現在はこの
目切坂を下ると目黒川の手前に出ますので、左に曲り中目黒の別所坂上(中目黒2ー1)の「新富士」に向います。
★写真は西富士跡附近から南西方面を見たものです。残念ながら富士山は見えません。西富士の高さは四丈なので約12m位で、4階位の建物の高さです。歌川広重の「
目黒元不二」、「
目黒新冨士」を掲載しておきます。