●「大師河原にあそぶ記」を歩く (下)
  初版2017年2月11日
 二版2017年3月6日 <V01L01> 平間寺(川崎大師)の戦前の写真を追加 暫定版

 今回は前回に引き続いて村尾正靖(号は嘉陵)の”大師河原に遊ぶ記”です。羽田から平間寺(川崎大師)迄と、六郷の渡しから東海道を下って浜町まで帰る道筋を歩きます。


「江戸近郊道しるべ」
<「江戸近郊道しるべ」 講談社学術文庫>
 村尾正靖(号は嘉陵)の「江戸近郊道しるべ」から”大師河原に遊ぶ記”と同じ道を歩いてみました。今回の”大師河原に遊ぶ記”は往復とも一部海路を使っていますが、船は持っておりませんので(笑い)陸路のみにします。

 「江戸近郊道しるべ 講談社学術文庫」から”大師河原に遊ぶ記”です。
「… 大師河原はすべて三千石の地である。街道から海端までの長さは一里という。元禄期(一六八八〜一七〇四)に浅野長矩の臣、大石良雄の徒がしばらくここに隠れ住んでいた時、石の地蔵尊を一体造り、夜遅くに、品川東海寺(品川区北品川三丁目)の畔にある寺に納め、仏果を得ようとした。いまだにその場所がどこであるのかが明らかにされていない。昔は、その地蔵の堂を修理するための勧進をしようと、夜に市を歩いて資金を集める者がいたと聞くが、夜更けにこの地蔵を持ってきたのであろう。夜深地蔵と呼ぶという。近年、この寺が火事に遭ったというが、地蔵がどうしたのかは分からない。その寺の門前で傘を張っている者が、油紙が風に飛ぶのを押えるために丸い石を拾ったのを、人が見ていて、「これは地蔵の御首ではないか、これこそが夜深地蔵の証拠である」と、その石を地蔵の身体に造り添えた。そして、堂を造るために勧進したという。その寺の名前は忘れてしまった。このこと、思い付くままに書き記す。…」
 上記に”浅野長矩の臣、大石良雄の徒がしばらくここに隠れ住んでいた時”と書いていますが、東京紅団の「軽部五兵衛屋敷跡」、「討入り直前散歩」によると
<元禄15年(1702)>
・10月7日 大石内蔵助良雄、京都を立つ
・10月26日 川崎平間村の軽部宅に仮寓
・11月5日 大石内蔵助一行は日本橋石町公事宿小山屋に逗留
とあり、元禄15年(1702)10月26日から11月5日の間と考えられます。
 逗留していた場所は神奈川県川崎市幸区平間の軽部五兵衛宅です。もともと軽部五兵衛は浅野家江戸屋敷の出入り農民(苗字帯刀を許されている)で、赤穂浪士の援助者として知られています。現在の軽部五兵衛宅跡は住宅供給公社の団地になっており、向いの称名寺に軽部五兵衛寄進の赤穂浪士の遺品等があるそうです。

写真は講談社学術文庫の「江戸近郊道しるべ」です。現代用語でか書かれたいますので、分かりやすく、散歩の参考になります。

「江戸近郊道しるべ」
<「江戸近郊道しるべ」 平凡社>
 もう一冊の本、平凡社から出版されている「江戸近郊道しるべ」です。基本的には講談社学術文庫版と同じですが、古文に近い書き方で掲載されているので、なにか、原文を読んでいる気がします。今回は、平凡社版の「江戸近郊道しるべ」で歩いて行きたいとおもっています。又、此方は村尾嘉陵が書いた地図も掲載されていますので大変参考になりました。

  「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”大師河原に遊ぶ記”です。
「… 大師河原すべて三千石の地也、海道より海端まで長さ一里ありと云、元禄のいにしへ、 浅野長矩の臣大石良雄が徒、しばしこゝにかくれ住し時、石の地蔵尊一躯を作り、夜深くもて行て、品川東海寺(品川区北品川三丁目)のほとり、ある寺に納め、仏果を得んが為にすと、予いまだ其処を詳にせず、昔時其地蔵の堂修理せんと勧化するもの、夜近市をありきて、募縁をなすものゝいふをきくに、夜深くかの地蔵をもて行し故、夜深地蔵と呼となん、近比其寺やけたり、地蔵もいかゞ成しや、しられず、豸るに其寺の門前に、傘はるものあり、油ひきたる紙の風にちるを圧赱て、丸き石を拾ひ得しに、人来りみて、こは地蔵のみぐしなり、是ぞ夜深地蔵のかたしろなるべしとて、石もて其躰をつくりそへ、やがて堂をさへ作るとて、勧化すとなん、其寺の名わすれたり、この事思ひ出しまゝ書つく…」
 上記に”浅野長矩の臣大石良雄が徒、しばしこゝにかくれ住し時、石の地蔵尊一躯を作り、夜深くもて行て、品川東海寺(品川区北品川三丁目)のほとり、ある寺に納め”とあり、何処の寺かと探したのですが不明でした。

写真は平凡社版「江戸近郊道しるべ」です。解説は朝倉治彦さんで、内容も詳しく非常に参考になりました。




大師河原・羽田弁天略図(村尾嘉陵 記)



現在の東海道から羽田・大師地図



「現在の穴守稲荷」
<浦守稲荷(穴守稲荷)>
 ”浦守稲荷(穴守稲荷、当時は大田区羽田空港二丁目、現在は同区羽田五丁目)”と下記には書いてあるのですが、村尾嘉陵が書いている” 大師河原・羽田弁天略図”では羽田の手前に書いてあり、” 大師河原・羽田弁天略図”の浦守稲荷は大田区大森南3丁目27にある浦守稲荷のことではないかとおもわれます。

 「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”大師河原に遊ぶ記”です。
「…少し過て道の東側茶店の傍より、小みちに人て屈曲して、田畑の畔道を行、この道すがら、させるながめなし、羽田の人家近く成所に、寺二三宇あり、又そこよりこなたに、浦守稲荷(穴守稲荷、当時は大田区羽田空港二丁目、現在は同区羽田五丁目)の社あり、これも近く都人のまふづるにや、社頭あらたに作りなして、きらきらしふみゆ…」
 新編武蔵風土記稿には”稲荷社 〔年貢地三畝〕座頭橋の邊にあり。祠は二間四方”と書かれている稲荷社のことではないかとおもわれます(座頭橋は現在の呑川橋のこと)。ただ、羽田附近からは振り返えらないと見えませんので、まだ位置関係が少しおかしいです。又、江戸時代の穴守稲荷は”新田開拓を行った鈴木家の土地にある、小さな祠であった(ウイキペディア参照)”とありますので、羽田道からは小さくて見えなかったとおもわれます。「新編武蔵風土記稿」の羽田村、羽田漁師町を調べて見ましたが、いくつか書かれている稲荷社のどれかが分かりませんでした(有名ではなかった)。

 ” 大師河原・羽田弁天略図”にはもう一つ、”羽田社”が書かれています。これは現在の羽田神社(現在は自性院の隣にあります)のこととも考えられるのですが、” 大師河原・羽田弁天略図”に”六郷渡場より羽田弁天に一里 弁天より大師河原渡まで十四丁あり”と書かれていますので、弁財天が正解とおもわれます。実際の距離は1.8Km程です。

写真は現在の穴守稲荷神社です。昔は羽田空港内にありましたが戦後、羽田空港地区の米軍接収によって現在地に移転しています。羽田空港内には弁天橋傍に大きな鳥居が残っています(昔は駐車場の中にありました)。

「現在の弁財天」
<弁才天の祠>
 江戸時代は穴守稲荷神社より有名だったのが羽田の弁財天です。「新編武蔵風土記稿」の羽田村、羽田漁師町の項にもかなりの量が書かれていました。この弁財天も元々は羽田空港内にあり、終戦後の米軍の接収により現在の場所に移っています。今では穴守稲荷神社と神社の大きさが逆転してしまっています。

 「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”大師河原に遊ぶ記”です。
 「…しばしば行て羽田の町の中程に出、少しゆけば、道のかたへに、石の傍示あり、大師河原渡し道とほりつく、猶町を東に行はつれば堤あり、其上をつたひ行ば、堀きりあり、そこに橋をわたす、古き船の底板もて、かり橋とす、橋のきはに募縁の僧在て、橋つくる料を勧化す、銭少しあたへて、そこを向へわたりて、蘆茅のみ生たる荒磯の細道を行過れば羽田の森、弁才天の祠(大田区羽田六丁目)南面して、しづもります
 石の鳥居、同燈籠もあり、過し昔し、我考のこゝにいざなひ給ひし時は、磯ぎはに石がきもなかりしに、今は石垣高く築立、社壇も五六年こなたに造り出しとみへて、またあらたにて、石がき一壇高くっき上、其上に拝殿をつくり、本社は土蔵づくりにす、社の東側に小房を構ふ、僧一人あり、房の庭に常夜燈あり、沖より入船の目あてとすと云…」

 ”道のかたへに、石の傍示あり、大師河原渡し道とほりつく”とある道標は龍王院の中にある”是右 石観音弘法大師道”と書かれた道標のことかなともおもったのですが”渡し”とは書いていないので違うみたいです。又、”石の鳥居、同燈籠もあり、……、房の庭に常夜燈あり”と書いており、江戸名所図会に”羽田弁財天社”の掲載があり、同じように描かれていました。

 「新編武蔵風土記稿」の羽田村、羽田漁師町より
「…辨天社 東町の内要嶋にあり其所を鷹取ともいへり山を金生と稱す社は三間四方南向なり神體は如意寶珠にて海中より出現せり此如意寶珠は昔上の宮にありしを後此處に宮居をたてゝあがめ祭りしよりこゝをは下の宮と呼り上の宮と稱するものは此所より遥に隔りて別当龍王院の境内にあり此神體の事は上の宮におさむる縁起にのす其條について見るへし又前立に辨天の像あり木の座像にて長二尺許脇に十五童子たてり是は尤近き頃のものなり境内に鳥居二基たてり一は柱間二間にて西向なり前に多摩川の流を掘入小橋をわたせり一は柱間七尺同じ向なり昔は此より南の方へさして六十間あまりの大門道あり其半に石の鳥居ありしが年々霖雨の頃河のほとり凡六七十間かほと欠入しかは今は其鳥居も立へき地なけれは其儘河のほとりに横たはれり何の頃か海岸を石にたてたゝきしかは今は川欠の患もなしと云祭礼は正月五月九月十四日に行へり…」
 村尾嘉陵一行は”大師河原渡し道”(羽田の渡し)で大師へは行かず、もう少し東の”そこに橋をわたす、古き船の底板もて、かり橋とす、橋のきはに募縁の僧在て、橋つくる料を勧化す”の橋(現在の弁天橋か)を渡って辨天社に向っています。「新編武蔵風土記稿」によると、村尾嘉陵一行が向ったのは辨天社の下の宮のようです。上の宮は途中にあった龍王院にあるそうです。

写真は現在の羽田多摩川弁財天です。ここも穴守稲荷神社と同じく、終戦後進駐軍の羽田空港接収に伴って羽田空港内から現在地に移されています。下記に戦前の地図が有りますので、場所を見て下さい。



昭和18年の羽田地図



現在の東海道から羽田・大師地図


明治初期の地図



「平間寺(川崎大師) 戦前」
<平間寺>
 2017年3月6日 戦前の写真を追加
 村尾嘉陵一行は羽田の渡しを渡らず、玉川弁財天から船をチャーターして直接 平間寺(川崎大師)へ向います。羽田の渡しは少し戻らなければならないので、直接向った方が早かったのだとおもいます。

 「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”大師河原に遊ぶ記”です。
「… 茶店に舟さす男あり、銭少しあたへて、岸より舟にのる、大師がはらの渡しまで十四五丁が程のりて行、やがて、かしこより上る、川の堀切にそひ、くろのほそ道などつたひて、平間寺(川崎大師、神奈川県川崎市川崎区大師町)門前に出、この道半里ばかりあり、大師にまふでゝ、かへりなんとせしに、今開帳曳と、人のしらせ聞ゆるに、鐘楼のかたへの茶店に休てまつ、しばし有て堂に鐘なる、すはやとて人々参る、内陣に入て拝す、尊像は三尺余もありぬべし、なべてくろく、衣紋のひだなんどのくまぐに、白きところもあり、それは海底にありし時、貝の附たる也と、かたへの人いふ、げにも厳然として、金剛遍照の姿をみつべし、当時大師自家の像を作り出らるゝ事数多、みな末世の俗を教化せんがためなるべし、但、来り拝して身の災厄をまぬがれ、よき事あらせんと願ふは、なべての世の人みなしかり、又賢をみてひとしからん事を思ひ、尊像を拝して大師金剛の心を想像し、己れに自得する徒もありぬべし、ともにこれ大師の利益にして、其浅深は、拝する人の心にありとやいはん、唐の丹霞衲士は寒夜に仏像を打くだきて薪とし、身をあぶりしとぞ、こは形に着して心を忘るゝが為になしたるゑせ事なれど、大かたの人のなし得ぺきにはあらじ、格をはなれて格に合、道をすてゝ、道に入、凡僧のしる所にあらず、又弁ぜざるべからぬすぢになん、災厄除の符あまたこひ得て、まかでぬ…」
 ”羽田弁財天社”から”大師がはらの渡し(羽田の渡し)”の川崎側まで乗船しています。首都高羽田線の東京側の土手西側に”羽田の渡し”の記念碑がありました(正面の写真旧大師橋の橋柱)。”羽田の渡し”がこの辺りにあったものとおもわれます。平間寺(川崎大師)では運良く、ご開帳で本尊を見ています。

写真は戦前の平間寺(川崎大師)です。鐘楼堂が左側にあります。現在はもっと左に移っています。私もお正月には必ず初詣に行きます。凄い人出で一時間以上待ちます。現在の写真も掲載しておきます。



現在の羽田、川崎付近地図



「六郷のわたし跡」
<六郷のわたし>
 村尾嘉陵一行は平間寺(川崎大師)から浜町(現在の箱崎)に向って帰途につきます。帰りの道筋は川崎から六郷の渡しを渡って東海道を江戸に向うようです。

 「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”大師河原に遊ぶ記”です。
「… 大師河原のうち、海道へ出るみちのかたはらに、榜示あり、石観音道とほりつく、今日は行てに見て打過、それよ本海道をもどりに、六郷のわたしをこえて、熟路につく
 六郷には、昔は橋あり、近比馬琴といふものゝ書たる書に、元禄十七年の春、由之軒政房といふ者の書たる『誰袖梅』と題せるものに、六郷のわたし三月より九月までは土橋懸るとしるし、又宝永の比の道中記には、六郷の橋の図あり、これ、かり橋なるべし、『大和名所図鑑』六郷橋の図には闌干あり、かり橋にあらざるに似たりとのす
 靖考に、府中(東京都府中市)の辺も玉川に九月より三月迄、かり橋を懸る所二ヶ所あり、これも闌干あり、九月より末は水冷やかに、人かちわたりにくる七む、又水勢も夏秋と異にして、大に干落石をもてなり、六郷も府中のかり橋と同例にて懸七をいこゝは川はゞもやゝ広く、行来の人馬もことに多ければ、かり橋にては危きをもて、其かみより止たるなるべし
 申の半刻一(午後五時)ばかり、八山にかへりつきぬ、こゝより又舟にのる、かへさは南の風よき程にそよふきて、舟に帆かけたれば、其缺き事いふべくもなし、ともづなときし比、すでに東天に星みへたりしに、永代橋の上り場につきても、まだ酉の刻(午後六時)の初めなり、凡二里ばかりの間を、瞬目にはせつきぬ…」

 ”海道へ出るみちのかたはらに、榜示あり、石観音道とほりつく”と書いてあったのでまだあるかと探してみました。大山門の手前左側にそれらしき道標がありました。”従是 石観音道 七町従是 石観音道”の記載があります。石観音堂は平間寺(川崎大師)から南に950m(Google Map計測)程行ったところにあり、寺の前に大師道の道標がありました。

 村尾嘉陵一行は平間寺(川崎大師)から大師道を歩いて川崎に向い、六郷の渡しを渡って江戸に戻ります。このまま東海道を下ったようで、(上)で説明した、”和中散”の3軒の前も通ります。最初は北蒲田村花屋敷の「梅木堂」、次に東大森村小名谷戸宿 「長谷川」、最後は来るときに前を通った西大森村小名中原町 「志位壽朴」です。

 全て歩かず、八山附近から船に乗って永代橋まで乗船し、直ぐ近くの清水家下屋敷がある浜町まで戻っています。

写真は現在の六郷の渡しに向う旧東海道です。正面は六郷橋で、手前側が旧東海道で正面は大師道になります。ですから、正面から手前に来て、右に曲がって六郷の渡しに向います。この写真の正面辺りには道標、右側には有名な万年屋という茶屋があったそうです。万年屋の記念碑(川崎市教育委員会)が立っています。又、道標は平間寺(川崎大師)の境内に移されています。撮影しようとしたら、痛んでいたのか道標は木製の蓋をされていました。実物を見れず残念です。



羽田附近地図



明治初期の地図