<「江戸近郊道しるべ」 講談社学術文庫>
村尾正靖(号は嘉陵)の「江戸近郊道しるべ」から”大師河原に遊ぶ記”と同じ道を歩いてみました。今回の”大師河原に遊ぶ記”は往復とも一部海路を使っていますが、船は持っておりませんので(笑い)陸路のみにします。
「江戸近郊道しるべ 講談社学術文庫」から”大師河原に遊ぶ記”です。
「… 大師河原はすべて三千石の地である。街道から海端までの長さは一里という。元禄期(一六八八〜一七〇四)に浅野長矩の臣、大石良雄の徒がしばらくここに隠れ住んでいた時、石の地蔵尊を一体造り、夜遅くに、品川東海寺(品川区北品川三丁目)の畔にある寺に納め、仏果を得ようとした。いまだにその場所がどこであるのかが明らかにされていない。昔は、その地蔵の堂を修理するための勧進をしようと、夜に市を歩いて資金を集める者がいたと聞くが、夜更けにこの地蔵を持ってきたのであろう。夜深地蔵と呼ぶという。近年、この寺が火事に遭ったというが、地蔵がどうしたのかは分からない。その寺の門前で傘を張っている者が、油紙が風に飛ぶのを押えるために丸い石を拾ったのを、人が見ていて、「これは地蔵の御首ではないか、これこそが夜深地蔵の証拠である」と、その石を地蔵の身体に造り添えた。そして、堂を造るために勧進したという。その寺の名前は忘れてしまった。このこと、思い付くままに書き記す。…」。
上記に”浅野長矩の臣、大石良雄の徒がしばらくここに隠れ住んでいた時”と書いていますが、東京紅団の「軽部五兵衛屋敷跡」、「討入り直前散歩」によると
<元禄15年(1702)>
・10月7日 大石内蔵助良雄、京都を立つ
・10月26日 川崎平間村の軽部宅に仮寓
・11月5日 大石内蔵助一行は日本橋石町公事宿小山屋に逗留
とあり、元禄15年(1702)10月26日から11月5日の間と考えられます。
逗留していた場所は神奈川県川崎市幸区平間の軽部五兵衛宅です。もともと軽部五兵衛は浅野家江戸屋敷の出入り農民(苗字帯刀を許されている)で、赤穂浪士の援助者として知られています。現在の軽部五兵衛宅跡は住宅供給公社の団地になっており、向いの称名寺に軽部五兵衛寄進の赤穂浪士の遺品等があるそうです。
★写真は講談社学術文庫の「江戸近郊道しるべ」です。現代用語でか書かれたいますので、分かりやすく、散歩の参考になります。