●「大師河原にあそぶ記」を歩く (上)
    初版2017年1月28日  <V01L03> 暫定版

 今回から村尾正靖(号は嘉陵)の「江戸近郊道しるべ」を少し歩いてみたいとおもいます。六阿弥陀で東京の東北地区を歩いたので、今回は南郊の”大師河原に遊ぶ記”です。”大師”とは川崎大師のことです。


「江戸近郊道しるべ」
<「江戸近郊道しるべ」 講談社学術文庫>
 村尾正靖(号は嘉陵)の「江戸近郊道しるべ」から”大師河原に遊ぶ記”と同じ道を歩いてみました。今回の”大師河原に遊ぶ記”は往復とも一部海路を使っていますが、船は持っておりませんので(笑い)陸路のみにします。

 「江戸近郊道しるべ 講談社学術文庫」から”大師河原に遊ぶ記”です。
「   大師河原に遊ぶ記

 文政元年(一八一八)戊 寅陰暦五月二十六日、夜明け頃、深川紺場(江東区)から、海士が釣りをする小舟を漕ぎ出す。

  蘆の葉をなみにまかせて明わたる大川淀を舟出せるかも

 昨夜吹いた南風のなごりであろうか、波が少しうねっていたが、辰の刻(午前八時)過ぎにはおさまった。しかし、少し曇っているので、沖の山は見えない。高縄手(港区高輪)、八山(港区高輪四丁目)辺りの木立が、絵に描いたように見渡せる。それより先は雲の下になっていて、富士も秩父も見えない。東北の方だけが少し晴れていて、筑波山が見える。筑波の方から風が吹くと、四季を通して漁獲は少ない、と舟人は言う。
 よその海でも同じことがいえるのであろうか。だいたい我が国の四周は、東海は北流し、北海は西流し、西海は南流し、南海は東流す、といわれている。したがって、東北の風は東南の海で潮に逆らうように生じるので、それほど強くは吹かないというものの、天地の気に逆らって穏やかでないので、魚は淵に潜んでいて浮いてこないために、海の幸に恵まれないのであろう。
  高輪沖には碇を下ろした、いろいろな国の船が多数いる。陸から見ると、船端と船端とを接しているかのように見えるのであるが、近くから見ると、船と船との間は三〜五丁、あるいは六、七丁離れている。船の後先を違えて停めており、同じ方向に向いて列をなしているのでもない。遠くから眺めているのとは、えらい違いようである。ここにある船数は、いつも二百艘ほどである、と舟を操っている男が言う。…」

 ”深川紺場(江東区)”と書いていますが、この場所は良く分かりませんでした。釣に行く船の乗場ではないかとおもっています。何方かご存知の方がいらっしゃいましたらご教授ねがいます。又、新暦で4月末頃の日の出は5時頃ですからかなり早い出立です。

写真は講談社学術文庫の「江戸近郊道しるべ」です。現代用語でか書かれたいますので、分かりやすく、散歩の参考になります。

「江戸近郊道しるべ」
<「江戸近郊道しるべ」 平凡社>
 もう一冊の本、平凡社から出版されている「江戸近郊道しるべ」です。基本的には講談社学術文庫版と同じですが、古文に近い書き方で掲載されているので、なにか、原文を読んでいる気がします。今回は、平凡社版の「江戸近郊道しるべ」で歩いて行きたいとおもっています。又、此方は村尾嘉陵が書いた地図も掲載されていますので大変参考になりました。

  「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”大師河原に遊ぶ記”です。
「   大師河原にあそぶ記

 文政元年戊寅五月廿六日、まだしのゝめのころ、深川紺場(江東区)といふ処より、海士のつりする小舟さゝせてこぎ出

  蘆の葉をなみにまかせて明わたる大川淀を舟出せるかも

 よべ吹し南のなごりにや、なみすこしうねりしも、辰の刻(午前八時)過る比は、いとしづかになごみたり、されど少しくもりにたれば、沖の山はみへず、高なわ手(港区高輪)、八山(港区高輪四丁目)あたりの木立、絵にかきたるやうに見わたさる、それよりをちは雲下居て、富士も秩父もみへず、東北のかたのみ少し晴て、筑波山見ゆ、かのかたより風ふけば、四季ともに海のさちなし、と舟人いふ
 よその海にても、しかりやいなや、凡我国の四方、東海は北流し、北海は西流し、西海は南流し、南海は東流すといへり、されば、東北風は東南海にて潮に逆ふが如く、さまで吹ぬも天地の気にさかひておだやかならねば、魚淵にひそまりてうかみあそぶ事なきをもて、漁のさちなきやにありなんかし、高繩の沖に錠おろして、国々の船あまたつどふ、くがよりみれば、ふなばたとふなばた相摩やうになんあるを、ちかよりてみれば、船とふねの間五三丁、あるは六七丁あるもあるべし、ことにあと先たがへちがひに船とめて、列をばなさず、遠よりのぞむとは、いともこと也けり、いつもこゝにある船数弐百艘ばかり、と舟さす男いふ…」

 高なわ手(現在は高輪)とは高縄手道のことで、高台にある、まっすぐな道を意味しています。高輪の岡の中心部を南北に走る二本榎通りが、あたかも高いところに張った縄のようであったからと言われています。又、”八山”は現在の港区高輪3〜4丁目付近の高台のことです。

写真は平凡社版「江戸近郊道しるべ」です。解説は朝倉治彦さんで、内容も詳しく非常に参考になりました。




大師河原・羽田弁天略図(村尾嘉陵 記)



現在の東海道から羽田・大師地図



「第一京浜 大森海岸駅付近」
<舟大森の磯に着たり(荒藺の崎)>
 村尾嘉陵は友人と深川紺場(江東区)から大森の磯(荒藺の崎)に向って船を出します。深川紺場(江東区)という場所が何処にあるのかよく分からないのですが、村尾嘉陵が書いた地図を見ると、永代橋の近くのようです。永代橋の深川側の近くだとおもわれます。

 「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”大師河原に遊ぶ記”です。
「… 永代橋(中央区新川と江東区永代の間にかかる)よりこゝの船まで、弐里程ありと云、遠くとも近くはなしと云り
 猶こぎため行程に、空やゝ晴て、よものどけしき、いふべくもさら也、さめづ(品川区東大井)の汀より、日比(のりやカキを付着させるため海中に立てる枝っきの竹やそだ)といふものを、あまたうえなみて、海の中にいくらもみゆ、是は海苔をとるべき料也けり、又舟二三さして六人引などいふ、あみ引もあり、つりする舟は我さす舟よりは、なを一里二里の沖辺にみゆ、この比は、きすの大なるを獲といへり、南の方に羽田(大田区羽田)の森かすかに見ゆ、大船のかゝりし所よりかしこ迄、三里ばかりもありぬべしとぞいふなる、晴にたれば日の光浪にきらめきて、まばゆくあつきに、笠かたぶけ舷によりて、しばし居眠るうちに、舟大森の磯に着たり
 潮干上りて岸遠浅なれば、下り立てゆくに、潮のきよらかなる、底の石をもかぞへつべし、まさごふみわけて、しばしば行、舟人はいとまこひてわかる、岸にのぞみて茶店あるに人て、足あらひなんどしっゝ、そこを立出、まだ巳の刻(午前十時)のはじめ也けり…
… こゝの磯を荒藺の崎(大田区山王・中央辺)といふ、名所集に、源の家長朝臣
  [続後撰]白浪のあらいの崎のそなれ松かはらぬいろの人ぞつれなきと云古歌を引、前の同書にのす、されど今日はことによくなぎて、あらいの崎も名のみして、よせくる浪もなし、げにも、そなれて、ふりよき松は、かしこ爰にあり
  そなれっる松の操を心にて世の浪風に身をやまかせん…」

 この文政元年の村尾嘉陵は浜町の清水家下屋敷に住んでおり、羽田辺りまでは徒歩で18Km程あり、歩いて4時間程掛るので、一部分船を利用したのだとおもわれます。

写真は第一京浜 大森海岸駅付近です。この先に鈴ヶ森の処刑場があります。この附近一帯(江戸時代は道路の右側は海でした)が荒藺の崎です。明治23年発行の「東京名所図絵」に”荒藺崎(あらゐざき)は同じく鈴森の邊を云う又木原山八景坂ともへ云り”と書かれています。八景坂はJR大森駅西口の前にある天祖神社左の坂道です。かって源義家が鎧を掛けたという松があり、広重の浮世絵(八景坂鎧掛松)に描かれています(大田区教育委員会説明文より)。大森の山王附近から鈴森一体の呼び名だったのではないかとおもわれます。

「磐井神社」
<磐井の神社>
 村尾嘉陵が大森の磯に上がって最初に見たのが磐井神社です。現存します。第一京浜国道が拡張されたため、かなり削られています。当時も東海道に面してあったようです。

 「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”大師河原に遊ぶ記”です。
「 磐井の神社(大田区大森北二丁目)、道の西側に鎮座まします、ひろ前にかへりまふしゝて武運長久とねぎ奉る
  万代に君を祝ひの神垣は松ふく風ものどけかるらし
 こゝのみやしろに、鈴石といふ石あり、大さ二尺ばかり、色青赤し、うてば其音鈴の如し、『遠遊紀行』に、此社に旧有一石転之則其声如鈴、『吾妻紀行』に、道行ぶりにみれば、鈴の森にちかし、入て社を拝す、此石転ずれば石の中に其声颯々たるゆへ、鈴石と号すと、崔下沾凉といふものが書たる『江戸砂子』にのせたり、今日は其石も見ずして去、又社の坤(南東)の隅に烏石祠あり、此石もと麻布善福寺(港区元麻布一丁目)の下三田の方へ行所古川町(港区南麻布二丁目)の三辻にあり、石の班文の形鷹に似たりとて、鷹石と名づく、寛永の頃御鷹野の節、上の御目にとまりしと云よし、右同書にのせたり、然るを我考の書を学び給ひし松下八蔵(松下鳥石、一八七頁参照)といへる人、門人につのりて、この石を数金にかへもとめ、石の名を烏石と改めなづけ、この社の鈴石にあはせまつり、烏石祠を建、南郭服部子選(子遷、一八七頁参照)、其銘をつくりたるを自書して、石側に彫、其碑記は臼杵の人荘田元益〔半五郎と云〕これを撰て、祠頭に建たり、其頃大御所様(徳川吉宗)こゝに成らせられし時、参政本多伊予守忠統(伊勢神戸藩の初代藩主、伊予守、若年寄となる、徂徠門、号猗蘭、宝暦七年没、六十七歳)、八蔵と善をもて御とり合せありしかば、やがてこの石を上覧あそばされしかど、さのみ御ほめもなくて、こは世に名を求る徒のわざなりとばかり、上意ありしとぞ、八蔵もとよりこの石をこゝに祭り、やがて己が号をも烏石と呼、本多予侯にてらひて、其比の鳴嶋道筑〔鳳卿〕(成島錦江、儒者)の如くにあらんとの下心なりしも、上意右の如くなりしかば、大に望を失ひしといふ、…」

 上記の”鈴石”と”鳥石”の話は本当かなとおもって調べて見ました。
 <東京名所図絵>
鈴森八幡宮は西光寺の南不入斗村(いりやまずむら)にあり當社に鈴石烏石(からすいし)あり鈴石は他の石を以て之を撃てば鈴の音を発すと云い石の面は恰も黒漆を以て書きたるが如く天然の烏の形あり境内を笠島と云へり左の方に笠島神社あり…
 西光寺は品川区大井4丁目22−16にあるお寺とおもわれますので、位置的には磐井神社で間違いないとおもいます。又、不入斗村(いりやまずむら)は明治22年(1889)入新井村不入斗となり現在は入新井になります。

写真は現在の磐井神社です。鈴石と烏石は現在もありますが、神社の中です。鳥石は本堂と社務所の連絡通路の中にあります。本堂の左側の通路にカーテンが開いている窓があり、そこから見ることができます(ガラス越しの写真はOKだそうでです)。鈴石は社務所の中にあるので、お願いして見せてもらいます。玄関を入った右側に鈴石がおいてあります。



現在の東海道から羽田・大師地図


明治初期の地図



<和中散>
「和中散販売所」
 村尾嘉陵一行は次に和中散販売所の店の前を通っています。歩いた道は、大森(鈴ヶ森附近)の磯で陸に上がり、そこから東海道を歩いています。磐井神社前を通り、現在の美原通り(旧東海道で旧名は三原通り)を過ぎて、内川橋先から左に入り、羽田道(するがや通り)に入ったとおもわれます。和中散販売所の店は羽田道に入る少し手前にあったようです。

 「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”大師河原に遊ぶ記”です。
「… 和中散(時侯あたり、風邪の妙薬として、江戸では大森の三軒の店で売っていた)といふくすりうる家の前を、少し過て道の東側茶店の傍より、小みちに入て屈曲して、田畑の畔道を行…」
 上記には”大森の三軒の店”とあり、どの店の前を通ったかは書いていません。どの店の前を通ったか、調べてみました。

 「新編武蔵風土記稿」より”和中散売薬所”の項を全文掲載(一部字が潰れて読めないところは”?”としています)
「○和中散売薬所
世に大森和中散ト呼フ頗著名ナリ総テ三家アリ今長左衛門忠治郎久三郎ト云皆海道ノ西側ニ薬舗ヲ開ケリ長左衛門ハ西大森村小名中原町ニ居江戸ヨリ入口ナリ薬舗ノ名ハ志位壽朴ト稱ス由緒書ヲ見ルニ祖先ヲ四位左近太夫賢明トテ永生九年家ヲ襲ヒ攝播二州ノ内ニテ食巴若干領シ攝州西ノ宮ニ住ス天文二十二年六十三歳ニテ死す歿ス或云賢明ヘ後奈艮院御時ノ医師ナリト其子右近太夫賢照ハ天文二十一年家ヲ?天正十八年八月十八日六十五歳ノテ死ス其子善太夫賢夷其子長左衛門淨正十六ニシテ東遷シ當村ニ土着ス其後薬ヲ賣初シ年月ハ詳ナヲス域ハ寛永ノ頃ナリトモ云リ地蔵院宮ノ笨跡ニ軸西宮蛭兒縁起一巻元祖賢明所持ノ短刀刃表七寸四分名信國薙刀〔刃長一尺五寸五分銘定国〕鎗〔刃長一尺二寸包定作〕等ヲ?ス忠治郎ハ東大森村小名谷戸宿ニ居テ三舗ノ中央ナリ先祖ハ梅松庵六郎左衛門ト云抑和中散ハ元和ノ頃ヨリ東海道草津石部ノ中間、江州栗田郡六地蔵村ニテ製剤シ諸病ニ験アルヲ以世ニ行ハレ俗ニ梅木和中散ト呼モノ凡三舗アリ中ニ居モノヲ是齋ト云彼六郎左衛門ハ是齋ノ支子ニテ元禄十年東ニ來テ當所ニ土着シ本家ニ擬シテ品川河?ノ中間ニ薬舗ヲ開キ和中散ヲ寓シコトテ時ノ御代官伊奈半左衛門ニ願ヒ評定所ニテ許可セラレシト云六郎左衛門後ニ受領シテ長谷川大和大掾藤原資信ト云今ニ藥舗ノ家號ハ其名ヲ襲ヘリ享保五年十月二十五日有徳院殿品川邊御放鷹ノ時雨ヲ避給テ其家ニ御休憩アリシテ始トシテ後シハシハ後休息或ハ御膳所ヲ命セラシ文化六年マテ凡二十六度駐驛セラルト云故ニ居宅破損ノ時ハ修理ヲ命セラル店前往還ノ東側持地ノ内ニ二間四方ノ薬師堂アリ本尊ハ長二尺許ノ木像ナリ先祖六郎左衛門本國ニ在時夢中ニ感得ス前立ハ長六寸許此地ニ土着セシ時造立スチ云久三郎ハ南ノ端北蒲田村ニ住ス祖先雲?ハ醫?森某ノ弟子ナリ江州梅木ノ本家ニ所縁アルヲモテ其藥法ヲ受け得シ生徳元年初ヲ西大森村小名南原町ニ薬舗ヲ開キシト云フ享保三年正月二十二日有徳院殿品川邊ノ御遊ニシハシ渠カ家ニ休息セラル其子小左衛門北蒲田村ノ民忠左衛門ニ職ヲ譲リ興テ日リ今ノ所ニ移リシトナリ其子久三郎屋敷中ニ梅樹數椽アリシテ以テ思立近隣ノ梅數多ヲ移シテ植添ケルニソ家號ヲモ梅木堂ト名ツケ呼フ花ノ頃ハ頗壮観ナルヲモテ文政三年二月三日今ノ内府公品川御遊ノ時駐駕セラル」

 <和中散販売所は以下の三ヶ所>
・西大森村小名中原町 「志位壽朴」(江戸に最も近い)
・東大森村小名谷戸宿 「長谷川」(三軒の真ん中にあった)
・南ノ端北蒲田村 「梅木堂」(最初、南原にあった店が、後に北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転し、梅屋敷として有名になった)
 <和中散販売所の現在の場所>
 中原は現在の大森本町二丁目附近
 南原は現在の大森東一丁目附近
 谷戸宿は現在の大森中一丁目付近
 北蒲田村は現在の東蒲田一丁目、梅屋敷

 村尾嘉陵一行が歩いた時期は文政元年(1818)なので「梅木堂」は北蒲田村に移転して居ます(移転前は南原にあり、内川橋の江戸側にあった)。以上から考えると、内川橋手前では西大森村小名中原町にあった「志位壽朴」ではなかったかとおもわれます。大森本町2丁目5-8 オオタカビル(写真左側)の前に和中散販売の看板が建てられています(字が消えてしまっています)。内容は”江戸時代から、大森名産として「海苔」「麦わら細工」とともに「大森和中散」(旅人の道中常備薬)が有名であった。東海道大森に和中散薬所は3軒あり、中原にあった店は江戸に最も近く、宝永年間(1704〜11)から昭和11年(1936)頃まで販売していた”とあり、この看板は中学生が建てたといういことなのですが、この場所に和中散販売店があったかどうかは不明です。和中散販売所は昭和初期まで残っていたようで、 大正14年の職業別電話名簿では、”長谷川忠治郎 和中散薬店 荏原 大森 鶴渡 2177”と一軒のみ記載があります。

写真は江戸名所図会から和中散販売所です。絵からはどの和中散販売所かは不明です。

「羽田道の道標」
<羽田道>
 村尾嘉陵一行は現在の美原通り(旧東海道で旧名は三原通り)を過ぎて内川橋先から左に入り、羽田道に入ったとおもわれます。この道は俗に”するがや通り”と呼ばれ、曲がって10m程行った左側に旅籠駿河屋(現在のカマヤビルのところ)がありました。この羽田道は曲者で、真っ直ぐな道ではありません。東海道は品川から六郷までは本当に真っ直ぐですが、この羽田道は曲がりくねっていました。

 「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、”大師河原に遊ぶ記”です。
「この道すがら、させるながめなし、羽田の人家近く成所に、寺二三宇あり、又そこよりこなたに、浦守稲荷(穴守稲荷、当時は大田区羽田空港二丁目、現在は同区羽田五丁目)の社あり、これも近く都人のまふづるにや、社頭あらたに作りなして、きらきらしふみゆ、
 羽田道については、大田区が建てた道標が何ヶ所かにありましたので、それを頼りに歩いて見ました。

<羽田道(するがや通り)、美原通りから羽田に向って右左と言っています>

1.内川橋南橋詰めを南東(左)に入る(内川橋南東角に道標あり)→そのまま道なりに進む(240m)
2.Y字路を右に進む(角に道標あり)→そのまま道なりに進む(400m)
3.大森東中学校を東(左)に曲がり、60mで南(右)に曲がる→そのまま道なりに進む(300m)
4.突き当たって右に三輪厳嶋神社(弁天神社)が見えますが、東(左)に曲がり、更に60mで南(右)に曲がります(曲がる手前に有名な甘味処の福田屋があります)、そして、85mで東(左)に曲がります→そのまま道なりに進む(160m)
5.旧呑川(緑地になっています)に架かる呑川橋を道なりに150m進んで南(右)に折れ、40mで東(左)に曲がります
6.曲がった先はY字路で道標があります、Y字路を右にいきます→120mで突き当たって南(右)に曲がります
7.120m程で突き当たりますが、東(左)10m程のところにセブンイレブンがあり、その手前を南(右)に曲がります
8.右にカーブしている道を95m程歩くと、五叉路になります、ここを南に曲がります(間違えないように要注意)
9.110mで呑川に架かる末広橋になります→そのまま道なりに進む(150m)→東(左)に曲り53m歩く
10.右角に”五社大明神”があるので、そこを南(右)に曲がる→細い路地を85m進んで次の角を東(左)に曲がる
11.65m進んで南(右)に曲がります→そのまま道なりに進む(600m)、正面に道標が見えてきます
12.道標の右側の細い路地を行くと大鳥居交差点にでます(産業道路)→これから先、羽田道はこの産業道路になっています
−続きは次回です!

写真は内川橋南東角の道標です。左が内川橋、右に東海道から羽田道への分岐があります。道標に”羽田道は、昔の東海道(三原通り)から厳正寺弁天神社浦守稲荷神社、羽田弁天社等をむすぶ細いくねくね曲がった道で、昭和7年に産業道路が出来るまで人々の生活や産業のための大切な道でした。”とも書かれていました。



羽田附近地図



明治初期の地図