●村尾嘉陵を歩く
    初版2017年1月14日  <V01L03> 暫定版

 村尾正靖(号は嘉陵)と言っても分からないとおもいますが、徳川清水家(御三卿)の御広敷用人で、文化4年(1807)〜天保5年(1834)までの間に、江戸の郊外を旅したことを記録に残しており、これが現代に「江戸近郊道しるべ」として出版されています。そこで、村尾嘉陵について少し調べて見ました。


「江戸近郊道しるべ」
<「江戸近郊道しるべ」 講談社学術文庫>
 村尾正靖(号は嘉陵)を知ったのは、六阿弥陀詣関連で、当時の六阿弥陀詣の道順を詳細に残していて、非常に参考になったからです。村尾嘉陵とはどんな人なのか興味を引かれ、少し調べて見ました。最初は何を調べたらいいのか分からなかったのですが、「江戸近郊道しるべ」は複数の出版社から発行されており、先ずはそれぞれのあとがきや解説を参考にすることにしました。

 「江戸近郊道しるべ 講談社学術文庫」から田中優子さんの”解説 旅する江戸”です。
「…『江戸近郊道しるべ』は、徳川清水家の御広敷用人、村尾正靖(号は嘉陵)という人物が一八〇七年(文化四)〜一八三四年(天保五)までのあいだに、江戸の郊外を旅した記録である。
 しかし、『江戸近郊道しるべ』という本が江戸時代に存在したわけではない。刊行もされていない。江戸時代は膨大な量の本が出版された時代だが、同時に、様々な人が日記やメモを書いていた時代でもあった。そのようなものは今日と同じく、商品にはならないので出版はされなかった。そのかわり、人が面白いと思ったものや後世に残したいと思ったものは、写本で伝わった。もちろん、写本すらなく自筆本だけで後世に残る場合もある。…
 森銑三によると、村尾嘉陵は一七六〇年(宝暦十)に生まれて一八四一年(天保十二)五月二十九日に没したという。満年齢で八十一歳であった。そこから計算すると、この旅は四十七歳の時に始まって七十四歳まで続けられたことになる。しかし毎日、毎旬、毎月という頻度ではなく、毎年というわけでもなかった。一八一五年(文化十二)までは九年間のあいだに三回しか旅をしていない。一八一六年(文化十三)から急に回数が増え、この年は四回も出かけている。それから七年間は毎年二〜五回出かけ、一八二三年(文政六)からは一〜二回に減る。例外として、一八三一年(天保二)だけは五回も出かけている。この年、嘉陵は七十一歳だ。健脚だったことがわかる。
 季節も選んでいる。一月は二回だけで、あとは春と秋に集中している。ただし一月と言っても旧暦であるから、今の二月上旬から中旬のことで、初春になる。このようなことを考えると、武士は暇なのだ、と思うわけにはいかない。五十五歳ぐらいまではめったに出かけられないほど忙しかったとみえるし、旅が江戸近郊に限られ、遠方には出かけていないことも注意を惹く。町人や農民の大山詣りや伊勢詣りが盛んな時代、三卿の広敷用人は時間的にも経済的にも、そのようなことはできなかったのだろう。出張もなかったとみえる。…」

 ”徳川清水家の御広敷用人”と書いています。
 <徳川清水家とは>
 清水徳川家(しみずとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。江戸幕府九代将軍家重の次男重好を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。ただし、清水家の出身で徳川将軍家を継いだ人物はいない(3代斉順の子家茂が14代将軍に就いているが、斉順が清水家を転出した後にもうけた子である)。家格は徳川御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷地は、江戸城清水門内で田安邸の東、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあった。維新後は、元の下屋敷の一つであった甘泉園(東京都新宿区西早稲田)に邸宅を構えていた。(ウイキペディア参照)
 <御広敷用人とは>
 江戸時代の江戸幕府大奥や諸藩の大奥・奥方に置かれた男性武士の役職。職務は基本的に将軍や藩主以外の男性の出入りが禁止である大奥と外との取次である。なお、藩によっては広敷用人はなく、別の名前で同じ役職内容の役職が存在する場合がある。また、諸藩の場合は配下に広敷番頭が置かれる藩もある。(ウイキペディア参照)

 村尾嘉陵はかなり偉かったようです。その上、かなりの長寿で、年をとってからもかなりの距離を歩いています。

写真は講談社学術文庫の「江戸近郊道しるべ」です。解説は田中優子さんが書かれており、大変参考になりました。現代の散歩の参考になります。

「江戸近郊道しるべ」
<「江戸近郊道しるべ」 平凡社>
 もう一冊、平凡社から「江戸近郊道しるべ」が出版されています。基本的には講談社学術文庫版と同じです。ただ、此方の方が記載内容が多いです。”六阿弥陀詣”も此方の方しか記載がないです。又、解説も記載内容が豊富で、村尾嘉陵に関する参考図書が分かりました。

  「江戸近郊道しるべ 平凡社」から、朝倉治彦さんの解説です。
「     四
 著者村尾嘉陵の伝記については、森銑三の「嘉陵紀行の著者村尾正靖の墓」(『森銑三著作集』第九巻所収)によって知られる。これ以外に、加えるべき新知見を持だないので、左に抜抄させて頂く。…
     五
 最後に、柳田国男の『退読書歴』中の「百年前の散歩紀行」の首尾を抜いて置く。…」

 参考図書の一冊目は
・「嘉陵紀行の著者村尾正靖の墓」(『森銑三著作集』第九巻所収)
 二冊目は
・「百年前の散歩紀行」:筑摩書房版【定本 柳田國男集】第23巻/退読書歴
(上記の”退読書歴”は間違いで、正しくは”讀書雑記”です)

写真は平凡社版「江戸近郊道しるべ」です。解説は朝倉治彦さんで、内容も詳しく非常に参考になりました。

「森銑三著作集」
<「森銑三著作集 第九巻」中央公論社>
 村尾嘉陵に関する参考図書の一冊目は中央公論社の「森銑三著作集 第九巻」です。ただ、伝記が書かれている訳ではなくて、たまたま見つけた村尾嘉陵のお墓の裏に書かれていた経歴を参考にして書いています。私も村尾嘉陵のお墓を見つけました。

  「森銑三著作集_第九巻」 ”嘉陵紀行の著者村尾正靖の墓”からです。
「… なほいろいろ見てゐる内に、いくらか気分は直つたものの、それでもまだ何やら物足らぬ。日はまだ高い。泉岳寺を出てから。私はまたやたらに歩き廻つて、いつか古川橋まで來た。それを渡つて左へ少し行くと、西n宸ニいふ寺がある。這入ると墓地が本堂の左手から、裏手右手と三方を取り卷いてゐて、その右手になるところに、側面に「村尾氏」と刻つだ墓が四つ列んでゐるのが目についた。
 この春、『績日本紀考證』の著者村尾元融の傳を雑誌『奉公』に發表してからこちら、村尾の苗字には私は特に敏感になつてゐる。元融の墓や、その父董覺の墓などは、前述の功運寺にあつたのであるが、現在の下落合の同寺の墓地にはそれが失はれてゐる。先刻功運寺から移された渡邊活道の墓碑を見たところだつたものだから、私はその村尾氏の墓を見るなり、それが元融の村尾氏のものではないかと思つた。しかし、その内の合葬の墓の背面の文に據ると、その村尾氏は清水の家臣とされて居り、元融の村尾家とは違ふことが分つた。それと同時にまた私は、これは『嘉陵紀行』の著者の村尾正靖の村尾家ではなかつたかと思つて見た。正靖が清水家に仕へてゐたことは、『嘉陵紀行』のどこかにも記されてゐたやうに思ふ。しかし合葬の墓の文には正靖のことは見えない。
 四つの墓の表面の法名を丹念に調べたが、正靖らしい人はゐない。それらを正靖一家の墓と定めるのは、少し覺つかなくなつて來だ。
  私は村尾氏の墓を断念して、その先まで行つて見たが、これといふ墓もなかつた。仕方なしに歸らうとして、來た道の裏側を引き返すと、右の側面に「村尾氏」とした、先とは別の墓が、間一基を隔てゝ立つてゐるのに気が附いた。通りがかりに見ると、背面に「正、天保十二年辛丑年五月二十九日」とある。おやと思つて表へ廻ると、「正靖居士睛雲信士」とあるではないか。村尾正靖の墓がこゝにあつたのである。裏の天保十二年五月二十九日は勿論その歿日であらう。私は大悗びに悦んだ。
 その墓は臺石が二段になつて居り、棹石は幅一尺、高さ二尺五寸ほどの、皿形をした、縁のある、さゝやかなものである。正面の法名の下に墓の字があつたらしいが。その邊は横に廣く剥落して居り、右の脇に「何々法尼」左に「何々童女」とある上部もまた剥落してゐる。それにしても、中央の正靖の法名が無事だつたのは天祐ともいふべきである。
       四
 村尾氏はやはり正靖の村尾氏であつた。そのことが確實になつたので。更に先の合葬の墓の文を讀み直して見ると、村尾氏は清和源氏で、山名氏の枝流にたり。本国は但馬國だつたこと、その先を山名師氏といひ、その子孫は世々周防の岩国に住したが、師氏十二世の孫村尾權右衛門誠正が壮年にして江戸に到つて、清水家に仕へたこと、その法名を瑞雲院釋僣龍居士といふことなどが記されて居り、終りに、「大正十二年三月改修。山名左衛門權佐師氏十七世孫當家六代村尾文男記之」とある。して見ると權右衛門誡正が村尾氏の初代になり。この人が正靖の祖父くらゐになるらしい。墓の正面には「村尾氏之墓」とあつて、上に杏葉の紋がついてゐる。
 村尾氏の四つの墓をまた見直すと、左から二番目に「瑞雲院釋潛龍居士、春暁院釋妙暉信女」と法名を二行に刻してゐるのが、すなはち誠正夫妻の墓であつた。左側面に「安永七戊戊歳二月十八日」とあるのが誠正の歿日で、右側面に「明和五戊子歳二月十六日」とあるのは、その妻の歿日であらう。
 右誠正夫妻の墓の右隣に、法名を三つ刻した墓があつて、涼月院玉林妙照法尼といふが天明八年十一月二十日に、東淵院釋常心居士といふが、寛政六年正月十四日に歿してゐることが知られる。この東淵院が正靖の父らしい。正靖の母は、その墓に桂仙院釋素月信女とある入らしいが、その歿日は刻されてゐない。
 村尾正靖は今から百年あまり前に、今日大東京に編入された舊江戸の近郊を丹念に踏査しては、精密な紀行を書いて置いてくれた人である。大東京の成つた記念の催しの行はれてゐる最中に、その正靖の墓を發見したといふことは、何か偶然ならぬものがあるやうにも感ぜられる。
 とかうする内に、あたりは薄暗くなりかけた。私は改めて正靖の墓を一拜して西n宸辭し。市電に依つて歸 途に就いた。
 三宅常安の墓は見られなかつたが、村尾正靖の墓を見出したのは、私には大きな獲物だつた。出れば何かしら得るところがあるものだ。これだから墓石の探索は止められぬ。── 祭禮気分の燈火の明るい街を走る電車の内で、私はこんなことを思つてゐた。…」

 村尾嘉陵のお墓は上記に書かれている通り西nにありました。ただ”側面に「村尾氏」と刻つだ墓が四つ列んでゐる”のと”右の側面に「村尾氏」とした、先とは別の墓が、間一基を隔てゝ立つてゐる”の計5基のお墓があったはずなのですが、残っていたのは1基のみでした。残っていたのは上記に書かれていた”合葬の墓”のみでした。裏面に刻まれていたので間違いはないとおもいます。

 墓石の裏に刻まれていた文
「村尾氏本姓清和源氏竜而山名氏之枝流本國但馬他其先者出于山名左衛門權指師子孫住于周防岩國師氏十二世村尾權左衛門誠正壯年出岩國到東武奉仕于徳川宮内卿清水殿代々為清水家臣当家者岩國村尾家之分流而誠正法名瑞雲院釋潜龍居士為祖也
                        山名左衛門權佐師氏十七世孫
大正十二年三月改修                  當家六代 村尾文男記之」


【森銑三(もり せんぞう、明治28年(1895) - 昭和60年(1985))】
 愛知県碧海郡刈谷町に出生。高等教育を経験しなかったにもかかわらず、図書館臨時職員、代用教員、雑誌社勤務など様々な職につきながら、独学で文学・国史の研究にいそしみ、図書館・資料館等に保管された資料の発掘と、それらを元に人物伝や典籍について精密に記した膨大な量の執筆活動を通じ、近世日本の文化・文芸関係の人物研究の分野で多大な業績を残した。
 20歳の時(1915)刈谷町の図書館に採用され、村上忠順旧蔵書(村上文庫)の整理や、古版本・古写本などの分類目録の作成にたずさわる。その後、母校の後身である亀城尋常高等小学校の代用教員となる。31歳となった1925年、東京・上野にあった文部省図書館講習所(現:筑波大学情報学群知識情報・図書館学類)に入学する。このころ、隣接する帝国図書館の蔵書を乱読する。翌年講習所を卒業し、東京帝国大学史料編纂所の図書係となる。編纂所退職後、名古屋市立図書館長・阪谷俊作と知り合い、目白の尾張徳川家の邸宅にあった蓬左文庫の主任となる。在任中に『渡辺崋山』『佐藤信淵 疑問の人物』を発表。従来の説を覆し、学会の物議を醸す。1942年、蓬左文庫を退職し、帝国図書館や、加賀豊三郎(加賀翠渓)の書庫に日参しながら執筆に専念する。1943年、50歳の時、随筆集『月夜車』を出版。太平洋戦争が激化する中、図書館での抄録を資料とし、本郷区駒込動坂町の自宅で整理する、という研究方法をとっていた森は疎開をしたくてもできないまま、1945年4月13日の東京大空襲により自宅を焼かれ、膨大な研究資料を失う。1970年から1972年にかけて、『森銑三著作集』全13巻を刊行。1972年に読売文学賞を受賞。1985年、脳軟化症のため死去。愛知県刈谷市の正覚寺森家墓地に葬られる。のちに知人や教え子によって、藤沢市の万福寺に分骨され、夫妻の墓が建てられた。1992年から1995年にかけて、『森銑三著作集 続編』全17巻刊行。(ウイキペディア参照)

写真は中央公論社発行の「森銑三著作集 第九巻」です。非常に面白い著作集です。これから他もじっくり読んでいこうとおもいます。

「定本 柳田國男集」
<「定本 柳田國男集 第23巻」 筑摩書房>
 村尾嘉陵に関する参考図書の二冊目は筑摩書房の「定本 柳田國男集 第23巻」です。内容に関しては少しガッカリしました。人物的なことはほとんど書かれていませんでした。村尾嘉陵の著述について述べているだけです。

  「定本 柳田國男集 第23巻」 ”讀書雑記 百年前の散歩紀行”です。
「     百年前の散歩紀行
 今から丁度百年程前、清水家の御廣敷番に村尾正靖といふ六十ばかりの老人があった。この老人は頗る旅行好きで風流な人であったが、勤めが忙がしいので長旅の出來ない處から、いつも休みの日には日歸りの旅行を試みた。旅行などゝ大袈裟に云ふょりも、草鞋履きの遠足と云った方がいゝ記なのである。
 何しろ江戸を中心とした日歸りのことだから、行く所と云っても大抵高は知れてゐるが、それでも足の達者な人で、時によっては一日に十五六里も歩く。同じ場所へ三度も四度も遊んだ紀行文もある。八十餘歳の高齢にまで達した人だが、亡くなる近くまで年々春秋の紀行がある。その中でも面白いのは、春の初めに府中へ行って甲州境の連山の雪を望み、山中の生活を懷かしがっだ一文である。そこには鼻紙に書いた見取圖を本の中へ哀し出してある。
 この人は周防の岩國の産で若い時から江戸に來てゐて、初め濱町に住んでゐたのが後に三番町へ轉じたゞけで、別に遠國へ旅行した經驗もなかった。一度浅間山の煙が見たいと思ってゐた處、或人の話に中仙道の桶川まで行けば見えるとの事なので、わざわざそこまで出掛けて行った。をりしも秋の初めっ方、樹の葉が繁くてどこからも山が見えない。こりゃその男が嘘をつぃたのかと思ひ思ひ、段々と歩いて上尾の宿を外れた畠の中の塚の上まで來ると始めて浅間の煙が見えた。所が歸りに蕨から川口の方へ來る途中、畦路に立って後ろを振返って見たら、既にこゝからも浅間の見えることが分った。
 その頃川口の町の南北はまだ廣い原野であって、一里も雑木林の中へ入らうものなら、鹿などが隹んでゐたと書いてある。その川口町の近村なる新曾の妙顯寺に子安の釋迦堂といふのがあった。この老人は早く男の子に逝かれて了ひ、末の娘は二人共他へ縁付いてゐた。娘が始めて産をする時に、立願の爲に釋迦堂に参詣した紀行などもある。
 或年の秋の末に一僕を伴って新井の薬師の北を歩いたをりの文章がある。江古田の村には金満家が多い。靜かなひっそりした村で、路傍の草叢には蟋蟀が鳴いてゐる。村の中程に茶店があった。そこに休んで雑談をじてゐると、主人の老婆が老人の持ってゐる椰子の實の水筒をひどく稀らしがり、自分でわざわざ酒を買って來て、先づ老人からその盃で一つ乾した後自分にも飮ましてくれと望んだ。
 或年の春、江戸の近郊の寺々の花を觀て歩いたことがある。今の早稽田から大久保邊にかけては廣い原績きであった。澁谷から目黒を過ぎ、白金を經て高輪の某寺まで來た。本堂の縁に腰を掛けて靜に花を觀てゐると、跡から自分よりは稍〻年下の老人がやって來て、色々と話をしかけた。この老人は信州松代在の人で、子と孫が合せて數十人ある、至って仕合せな人であった。総領が家に在って豊かに農事を營んでゐる外に、息子の中には高名な和向もあれば、江戸に出て立派な金持になってゐる者もある。旅行でもして氣楽に餘生を逞らうといふ人であった。
 この信州の老人は、田舎者が何といふことなしに江戸の町をぶらぶら歩くのは、目立って可かぬと思ったので、駒込の花を見て浅草へ行くのに、一荷の干大根を買ひ込んで、それを路々賣りながら歩いた。浅草に着いた頃、大根は皆賣れて五百文ばかりの金になったのを、寺内の乞食共に分けてやって來たと云ふ。
 嘉陵の紀行はその數が四十程ある。見て歩いた寺々の花も今は多く枯れてしまった。櫻を植ゑたり、牡丹を栽培したり、立派な泉水を造ったりして、江戸の風雅人を喜ばしてゐた近在の百家は、大抵は見る彭もなく衰へ果てゝ居るやうである。『嘉陵紀行』を讀んで自分の見聞した所と比べて見ると、僅か百年の間に江戸は勿論、近郊の靜な田舎までが、驚くべき變遷をしたといふことが分る。…」

 全文を掲載しています。柳田国男らしい評言で書いています。

写真は筑摩書房発行の「定本 柳田國男集 第23巻」です。



村尾嘉陵関連地図



「武道館」
<清水家上屋敷(北の丸)>
 村尾嘉陵が勤めていた清水徳川家(しみずとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三家から一つ下の御三卿のひとつです。また当家は江戸幕府9代将軍家重の次男重好を家祖とし、宝暦3年(1753)に賄料3万俵を与えられ、1757年に御守(家老)2名が付けられ、1758年に清水門内に邸地を与えられています。これが上屋敷になります

 「森銑三著作集_第九巻」 ”嘉陵紀行の著者村尾正靖の墓”からです。
「… 歸つてから『江戸叢書』所収の『嘉陵紀行』と、墓石に依つて新たに知り得たところとを併せて、正靖の傳を立てゝ見ると、大體つぎのやうになつた。
 村尾正靖、字は伯恭、通稱は源右衛門、喜陵と號す。清水家の士にして。御廣敷用人たり。始め濱町の賜舍に住し、後麹町三番町に移る。人となり愼密にして醞藉、遊行を好み、暇あれば杖を郊外に引く。その探訪の概を記せるものすべて五篇、名づけて『嘉陵紀行』といふ。今『江戸叢書』卷の一に収めらる。正靖、寶暦十年に生れ。天保十二年五月二十九日に歿す。年を享くること八十二なり。産布四の橋西n宸ノ葬られ、謚して正靖居士晴雲信士といふ。…」

 村尾嘉陵は上屋敷には住めず、浜町の下屋敷に住んでいますが、上屋敷にも滞在していたようです。

 「江戸近郊道しるべ 講談社学術文庫」からです。
「  谷原村長命寺道くさ
 文化十二年(一八一五)亥歳の陰暦九月八日四時(午前十時)頃、清水(江戸城清水門内、嘉陵が仕えている清水家があった)を出て、小久保清右衛門の家に立ち寄る。清右衛門は昼食をごちそうしてくれた。畑の芋を掘って、あたたかいご飯を出してくれた。断りがたくていただく。しばらくすると九つ(十二時)の鐘が鳴る。一緒に行くのは佐藤新右衛門、いなば新助、中川富之丞で、清右衛門が案内役である。
 四家町(豊島区雑司が谷二丁目から目白一、二丁目)を過ぎて東北の方をかえりみれば、森の中に大行院(鬼子母神別当、豊島区雑司が谷三丁目)の屋根が見える。今日の眺望はここに極まれり、である。西北を望めば安藤対馬侯の屋敷(文京区大塚二丁目、現お茶の水女子大学)があり、その左側が鼠山(新宿区下落合四丁目辺りの台地)である。小径を登っていけば南面が打ち開かれていて、落合(新宿区上・中・下落合)の方のこずえが見える。南西の端の方に木立が見えるが、そこが落合薬王院(新宿区下落合四丁目)の森だと、近くにいた翁が言う。…」

 ”文化十二年(1815)亥歳の陰暦九月八日四時(午前十時)頃、清水(江戸城清水門内、嘉陵が仕えている清水家があった)を出て、小久保清右衛門の家に立ち寄る”と書いていますので、上屋敷にも滞在していたとおもわれます。ひょっとしたら、朝早く浜町の下屋敷を出て、上屋敷で同行するメンバーと落ちあい、それから出かけた可能性もあります。

写真は北の丸公園の武道館です。この辺り一帯が清水徳川家の上屋敷跡となります。北の丸は田安家と清水家で東西に分けて上屋敷がありました。北の丸の北側の門が田安門で、東の門が清水門です。

「日本橋蠣殻町二丁目附近」
<清水家下屋敷(浜町)>
 村尾嘉陵が住まいとしていたのが浜町の清水家下屋敷でした。この屋敷の正確な場所が分からなかったのですが、嘉永6年(1853)の鎧之渡柳原両国箱崎辺絵図に清水殿の記載(東京都立図書館のアーカイブ)がありました。又、津山松平藩が浜町の御三卿清水家の屋敷地を安政2年(1855)に拝領が決まり、翌3年に引き渡されたときの図面が津山郷土博物館にあり、そこからも分かりました(ADEACデジタルアーカイブシステム)。

 「江戸近郊道しるべ 講談社学術文庫」からです。
「   半田稲荷詣の記
 文化十四年(一八一七)丑の陰暦六月十五日、半田稲荷(葛飾区東金町四丁目)に詣でようと、朝食後、浜町(中央区日本橋浜町)の家を出て、大川橋を渡り、小梅(幕府領、化政期に六十余軒、墨田区向島・押上の辺り)の水戸殿の屋敷(向島一丁目)の脇から一本道を用水に沿って東に行くと、道の傍らに標示がある。「右江戸大川橋へ三十丁、左新宿(水戸・佐倉街道の分岐点、葛飾区新宿一〜四丁目)、松戸(千葉県松戸市)へ二里」と記してある。
 ここに小径があり、「南に行くと木下川薬師(葛飾区東四つ木一丁目)、北に行くと梅若山王(梅若山王権現、現在の木母寺、墨田区堤通二丁目)へ行く」とある。
 ここを過ぎてなお行くと、四つ辻がある。東に行くと新宿、南斜めに用水の橋を渡って、水の南側の縁を行くと、市川(千葉県市川市)に出る。後方の左の方角、西北の方が橋場(台東区橋場)へ行く道だという。…」

 ”朝食後、浜町(中央区日本橋浜町)の家を出て”と書いていますので、住まいは浜町とわかります。

写真は中央区立有馬小学校です。この1区画と右隣の2区画全てが清水家下屋敷跡となります。現在の住居表示で中央区日本橋蠣殻町二丁目10,11、16となります。

「九段南3丁目7番付近」
<三番町>
 最後は三番町です。村尾嘉陵は浜町から三番町に移っていますが時期がはっきりしません。文政11年(1827)には三番町から出立と書いていますから、この頃に移ったとおもわれます。丁度、4代当主 斉明 (11代将軍家斉の子)が 文政10年(1827)に19歳で夭折していますので、これと何らかの関係があるのかもしれません。

 「森銑三著作集_第九巻」 ”嘉陵紀行の著者村尾正靖の墓”からです。
「… なほ村尾正靖のことは、村尾元融の方の一族の醫學博士村尾圭介氏もかねがね注意せられて居り、正靖が平山行蔵とも交際があつて、行蔵が異風の行装をするのを異見したこと。正靖の子は榮蔵といひ、その三番町の邸には榮蔵屋敷の稱のあつたことなどの話を、先囘伺つた時にせられた。さうしたことどもを改めて思出した。…」
 ここでは”正靖の子は榮蔵といひ、その三番町の邸には榮蔵屋敷”と書いていますので、三番町で村尾榮蔵を探してみました。江戸切絵図の東都番町大絵図(安政再販)で調べて見ると、ありました、”村尾榮蔵”の記載があります。現在の住居表示で、千代田区九段南3丁目7−10附近、靖国通り、靖国神社南門交差点の南西辺りです。江戸時代の三番町通は今の靖国通りなので、家はこの辺りにあったようです。

 「江戸近郊道しるべ 講談社学術文庫」からです。
「   千束の道しるべ
 文政十一年(一八二八)戊子陰暦七月二日、中延村の八幡宮(旗岡八幡神社、品川区旗の台三丁目)を拝そうと、辰の半刻(午前九時)頃に三番町の自宅(千代田区九段南二丁目)を出る。晦日から昨日まで、東南の風が吹き荒れ、昼夜幾度となく雨を交えて吹いていたので外に出る気にはならなかったが、今日は朝からよく晴れ、昨日のなごりの風が吹いているとはいうものの、西南に変わり、それほど強くないので、日中はかえって涼しいだろうと思い立ったのである。しかし、雲の流れはなお早く、もしや雨が降ることもあるかもしれないと、自らで爪占いをし、天火同人の四爻であることから、雨の降るおそれはない、と草鞋を履き、笠を付けて出かけた。
 平川天神(千代田区平河町一丁目)の前から虎ノ門に出て、金比羅権現(金刀比羅宮、港区虎ノ門一丁目)の前を過ぎ、西の窪(虎ノ門五丁目)から、赤羽橋(同区東麻布一丁目)に至り、聖坂(同区三田三、四丁目の境を北東に下る)を登り、白金台の町を行く。二本榎(同区白金台二丁目)から西に折れ、猿町(同区白金台二丁目)の坂を下り、雉子の宮(品川区東五反田一丁目)を拝す。この社は岡の上に西向きに立っており、なんの神を祀っているのかは分からない。…」

 ”文政十一年(一八二八)戊子陰暦七月二日、中延村の八幡宮(旗岡八幡神社、品川区旗の台三丁目)を拝そうと、辰の半刻(午前九時)頃に三番町の自宅(千代田区九段南二丁目)”とあり、三番町の自宅は千代田区九段南二丁目と書いてあります。村尾嘉陵と息子の榮蔵が住んだ場所が違えば千代田区九段南二丁目かもしれませんが、文政の頃の切絵図がないため確認がとれません。村尾嘉陵は息子の榮蔵と同居していたと考えるのが妥当とおもえ、江戸時代の三番丁通りに面した千代田区九段南3丁目7−10附近が正しいと考えます。


写真は現在の靖国通り、靖国神社南門交差点の南西辺りを撮影したものです。写真正面やや左附近に榮蔵屋敷がありました。

 清水徳川家はこの他に、旧芝離宮恩賜庭園、新宿区西早稲田 甘泉園附近に下屋敷がありました。



江戸切絵図(東都番町大絵図)