<「江戸近郊道しるべ」 講談社学術文庫>
村尾正靖(号は嘉陵)を知ったのは、六阿弥陀詣関連で、当時の六阿弥陀詣の道順を詳細に残していて、非常に参考になったからです。村尾嘉陵とはどんな人なのか興味を引かれ、少し調べて見ました。最初は何を調べたらいいのか分からなかったのですが、「江戸近郊道しるべ」は複数の出版社から発行されており、先ずはそれぞれのあとがきや解説を参考にすることにしました。
「江戸近郊道しるべ 講談社学術文庫」から田中優子さんの”解説 旅する江戸”です。
「…『江戸近郊道しるべ』は、徳川清水家の御広敷用人、村尾正靖(号は嘉陵)という人物が一八〇七年(文化四)〜一八三四年(天保五)までのあいだに、江戸の郊外を旅した記録である。
しかし、『江戸近郊道しるべ』という本が江戸時代に存在したわけではない。刊行もされていない。江戸時代は膨大な量の本が出版された時代だが、同時に、様々な人が日記やメモを書いていた時代でもあった。そのようなものは今日と同じく、商品にはならないので出版はされなかった。そのかわり、人が面白いと思ったものや後世に残したいと思ったものは、写本で伝わった。もちろん、写本すらなく自筆本だけで後世に残る場合もある。…
森銑三によると、村尾嘉陵は一七六〇年(宝暦十)に生まれて一八四一年(天保十二)五月二十九日に没したという。満年齢で八十一歳であった。そこから計算すると、この旅は四十七歳の時に始まって七十四歳まで続けられたことになる。しかし毎日、毎旬、毎月という頻度ではなく、毎年というわけでもなかった。一八一五年(文化十二)までは九年間のあいだに三回しか旅をしていない。一八一六年(文化十三)から急に回数が増え、この年は四回も出かけている。それから七年間は毎年二〜五回出かけ、一八二三年(文政六)からは一〜二回に減る。例外として、一八三一年(天保二)だけは五回も出かけている。この年、嘉陵は七十一歳だ。健脚だったことがわかる。
季節も選んでいる。一月は二回だけで、あとは春と秋に集中している。ただし一月と言っても旧暦であるから、今の二月上旬から中旬のことで、初春になる。このようなことを考えると、武士は暇なのだ、と思うわけにはいかない。五十五歳ぐらいまではめったに出かけられないほど忙しかったとみえるし、旅が江戸近郊に限られ、遠方には出かけていないことも注意を惹く。町人や農民の大山詣りや伊勢詣りが盛んな時代、三卿の広敷用人は時間的にも経済的にも、そのようなことはできなかったのだろう。出張もなかったとみえる。…」。
”徳川清水家の御広敷用人”と書いています。
<徳川清水家とは>
清水徳川家(しみずとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。江戸幕府九代将軍家重の次男重好を家祖とし、徳川将軍家に後嗣がないときは御三卿の他の2家とともに後嗣を出す資格を有した。ただし、清水家の出身で徳川将軍家を継いだ人物はいない(3代斉順の子家茂が14代将軍に就いているが、斉順が清水家を転出した後にもうけた子である)。家格は徳川御三家に次ぎ、石高は10万石。家名の由来となった屋敷地は、江戸城清水門内で田安邸の東、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあった。維新後は、元の下屋敷の一つであった甘泉園(東京都新宿区西早稲田)に邸宅を構えていた。(ウイキペディア参照)
<御広敷用人とは>
江戸時代の江戸幕府大奥や諸藩の大奥・奥方に置かれた男性武士の役職。職務は基本的に将軍や藩主以外の男性の出入りが禁止である大奥と外との取次である。なお、藩によっては広敷用人はなく、別の名前で同じ役職内容の役職が存在する場合がある。また、諸藩の場合は配下に広敷番頭が置かれる藩もある。(ウイキペディア参照)
村尾嘉陵はかなり偉かったようです。その上、かなりの長寿で、年をとってからもかなりの距離を歩いています。
★写真は講談社学術文庫の「江戸近郊道しるべ」です。解説は田中優子さんが書かれており、大変参考になりました。現代の散歩の参考になります。