●神戸のポルトガル領事館を探す
   初版2019年1月23日  <V01L01> The Japan Directory で神戸のポルトガル領事館を探す 暫定版
  

 モラエスを一言で説明すれば、“明治から大正にかけて神戸、徳島に住んで日本を紹介したポルトガル人”です。モラエスに関してはかなり昔に「徳島のモラエス」という本を読んだ記憶があり、それ以来ずっと調べて見ようとおもっていました。今回はモラエスを記載するに当って、事前に調査した中での疑問点を掲載します。特にモラエスが明治から大正にかけて在籍した神戸のポルトガル領事館の場所について調べました。


「新田次郎 孤愁」
<孤愁(サウダーデ) 新田次郎、藤原正彦 文春文庫>
 モラエスに関しては認知度はそれほどではありませんが、思いのほか出版されている本が多いです。その中で一番有名なのが新田次郎の「孤愁」です。元々は毎日新聞連載で、この本の“日露戦争”までを新田次郎が執筆していたのに、それ以降を藤原正彦が執筆して一冊の本にしたものです。

 神戸のポルトガル領事館に関しては
「… モラエスは神戸に来て早速領事館設立の準備に取りかかった。神戸ポルトガル領事館 は明治八年に開設され、二年間ほど続けられたが、その後領事は置かず、フランス領事 に事務を委託していた。もともと、ポルトガル領事館は海岸通りにあったが閉鎖以来、 フランス領事の管理となり、米国人商社がこの建物に入っていた。ポルトガル領事館が 再開されると間いたので、米国人は立ち退き、ポルトガル領事館はそのまま返還された が、かなり古い建物で、改築はきかないような状態だった。…」
 とあります。ここでは、ポルトガル領事館は海岸通りにあったと書かれています。

写真は「孤愁(サウダーデ)」新田次郎、藤原正彦共著、文春文庫版です。

「評伝 モラエス」
<評伝 モラエス 「美しい日本」に殉じたポルトガル人 林啓介 角川選書>
 林啓介は徳島の人で、徳島モラエス学会理事長を務められたかたで、徳島に於けるモラエスに関しては一番の方だとおもいます。評伝としてはこの本が一番詳しいとおもわれます。

 神戸のポルトガル領事館に関しては
「… モラエスは海岸通りに手ごろな借家を見つけて引つ越した。家賃は月二十五円五十銭だった。
 副領事館にはマカオ生まれの二世のポルトガル人と通訳のできる竹村一彦という青年を雇ってス タートし、モラエスのきまじめで精力的な活動が始まった。
 副領事館は間もなく領事館に昇格した。モラエスも国王のドン・カルロスニ世から任命状を授与 され、その年の九月二十九日には明治天皇名で神戸大阪領事の認可状を下付された。」

 と書かれています。領事館の場所について記載がありません。又、住まいが海岸通りと書かれています。番地までは記載していませんので、詳細は不明だったのではないかとおもわれます。

写真は評伝 モラエス 「美しい日本」に殉じたポルトガル人 林啓介 角川選書です。

「モラエス案内」
<新 モラエス案内 もうひとりのラフカディオ・ハーン 深沢暁 アルファベータブックス>
 モラレスに関する本で、出版年月が新しい本を探しました。恋の本は2015年出版なので、一番新しい本だとおもいます。何故新しい本を求めるのかと言うと、情報が最新に更新されているはずだからです執筆者の深沢暁さんはポルトガル語の出版物が多いです。。

 神戸のポルトガル領事館に関しては
「… モラエスはその後、一八九九年に神戸・大阪ポルトガル領事館領事に就任しますが、翌年におヨネを落籍します。外国人に落籍されることに、おヨネは躊躇と不安があったはずですが、モラエスの社会的地位と安定した収入、何よりも自分への誠実さから承諾したと思われます。二人は、神戸の生田神社で日本式の結婚式を挙げたと一説では言われています。写真も残されていないためこれが事実かどうかわかりませんが、日本式の式を挙げたとしたら、おヨネの家族の希望と和式の結婚式にモラエスが興味を抱いたからかもしれません。モラエス四十六歳、おヨネ二十五歳の時でした。おヨネとの同棲を機に、モラエスは領事館を外国人居留地にあった神戸の海岸通りから、北の山側に移し、おヨ ネと共に領事館近くの私邸で暮らします。立場上、おヨネはあくまで愛人であり正式の妻ではありま せんでした。モラエスも対面上、おヨネを〈料理女〉と書簡では呼んでいますが、同棲している以上、 現地妻としての地位を与えられたと考えられます。…」
 とあります。領事館の場所については“モラエスは領事館を外国人居留地にあった神戸の海岸通り”と記載しています。又、住まいは“領事館近くの私邸で暮らします”と書かれています。

新 モラエス案内 もうひとりのラフカディオ・ハーン 深沢暁 アルファベータブックスです。

「外国人居留地と神戸」
<外国人居留地と神戸 田井伶子 神戸新聞総合出版センター>
 ポルトガル領事館の詳細な場所を記載した本を探したところ、この本に当りました。年別に表に纏められていて見やすいです。ただ、居留地のみの記載なので、居留地外に移転した場合の記載が無いのが残念です。又、モラエスについても記載があるので参考になりました。

 神戸のポルトガル領事館に関しては
「… 神戸では領事館の設置に尽力し、居留地返還の年 の明治32年に神戸大阪駐在ポルトガル国領事に任 命された。…

▲領事館でのモラエス(写真の注釈です)
明治44(1911)年頃 領事館の所在地は山本通3丁目118番地。現在の神戸外国倶楽部より少し西の、山麓線北側の一画にあたる。

▲モラエスの自宅(写真の注釈です)
大正元〜2(1912〜1913)年(ヨネが亡くなった後)移り 住んだ加納町2丁目24番地の住宅。2階に立つ右側の 和服姿の人物がモラエス。滝道(現在のフラワーロー ド)に面していたため、市電の架線が写っている。」

 モラエスについての記載です。居留地の領事館に関しては居留地の番地別年代別一覧表が掲載されています。
 上記の中で気になるのは、“明治44(1911)年頃 領事館の所在地は山本通3丁目118番地”と書かれていますが、この118については番地ではないのではないかとおもっています。下記にも書きましたが、この頃の神戸は番戸表示(建物番号)で番地表示ではありません。神戸は戦前までは電話番号簿も商工名鑑等も全て番戸表示でした。下記にTHE DIRECTORY OF JAPAN記載の山の手の地図が有りますが、この地図に書かれている番号は番戸ではないかと推測しています。山本通3丁目に118と書かれた場所がありますが、この場所がポルトガル領事館ではないかと推測しています。

「外国人居留地と神戸」 田井伶子 神戸新聞総合出版センターです。良く纏められていて非常に参考になりました。特に居留地での外資系会社の変遷は大変役に立ちました。

「居留地の窓から」
<神戸外国人居留地研究会年報 居留地の窓から 第4号 平成16年>
 もう少し具体的に神戸の領事館についてかかれた本はないかと探したら、“神戸外国人居留地研究会年報 居留地の窓から 第4号 平成16年”の中に、“研究ノート 戦前における神戸・大阪の外国人領事館 楠本利夫”を見つけました。

 神戸のポルトガル領事館に関しては
「(10)ポルトガル領事館
 神戸ポルトガル領事館は、明治8年に開設され、アール・エム・ブラウン(R Ms Brown)か初代領事代理となっだ。この年、ブラウノに代わって領事代理となったンー・アール シンプソン(C R Simpton)の後は領事を置かなかった。
 『神戸はしめ物語展』ては、明冶10年には、領事館は居留32番に「PORTOGAL、Acting ConsulSimpson, C R」とあり、同し32番に「E Fischer & CO, Fischer, Ed 、Yokohama Simpson, C R」とあるので、民間人に領事業務を委託していたと考えられる。 明冶19年には、居留地14番に「Portuguese Consulate H E Roynell, Acting Consul」とあり、同し14番に「エチ・レーネル商会(略)エチ・イ・レーネル」とある.この時点でも、民間に領事業務を委託していたと考えられる。…」

 とあり、ポルトガル領事館の所在地の変遷が書かれています。大変役に立ちました。

神戸外国人居留地研究会年報 居留地の窓から 第4号 平成16年です。

「DIRECTORY」
<THE DIRECTORY OF JAPAN>
 東京の図書館等で調べられることはないかとおもっていたら、以前ユーハイムで横浜の居留地について調べたことを思い出しました。“THE DIRECTORY OF JAPAN”という本で、日本の貿易港での居留地に在籍する外資系会社(一部日本の貿易関係会社も含む)が年別に英語で纏められています。その中にはConsular(領事)も住所付で書かれていました。都市別に纏められており、神戸も書かれていました。

<戦前期の“ジャパン・ディレクトリー”ーその所在調査と歴史研究ー 立脇和夫を参照>
「 (2) The “Japan Gazette”Directory / The Japan Directory
  The “Japan Gazette” Directoryは横浜で日刊英字紙The Japan Gazette (1867年創刊) を発行していたジャパン・ガゼット新聞社(“Japan Gazette” Office, 1867年10月設立。 1904年Japan Gazette Co. と改称)によって1871年(明治4年)に創刊された。
 1879年(明治12年)に, The Japan Directoryと改題され、1923年(大正12年)まで刊行された。今日、そのほとんど(但し、 1871年、1873年、1874年、1921年の各年版を除く)が現存しており、長期間を対象とする研究にとって必要不可欠の史料である。…」

 とあります。この論文が非常に参考になりました。調べた図書館は横浜開港資料館です。コピー版ですが年別にほとんど揃っており(一部抜けあり)、コピーも手軽に行えます。

1925年の「THE DIRECTORY OF JAPAN」の表紙です。一番綺麗だったのでこの年を使いました。

 下記にTHE DIRECTORY OF JAPANに書かれた神戸のポルトガル領事館の変遷を表に纏めています(その他の本での記載も掲載)。居留地については番号で全て場所が判明します。一部の図書で、初期のポルトガル領事館は居留地の海岸通りにあったと書かれていますが、どうも違うようです。32番、50番、14番と変遷してきいますが、海岸通りにはありませんでした。次に移った山本通四丁目五十九番ですが、明治30年発行の「神戸の花」で59番戸と書かれており、建物番号だということがわかります。建物番号は建てた順に番号が付くので順番に並んでいるわけではありません。1906年のTHE DIRECTORY OF JAPANの地図で中山手通4丁目に59を見つける事が出来たのですが町名が違いますので詳細の場所は不明です。山本通三丁目118については上記に書いたとおりです。

 まだ未完成ですので随時更新していきます。

THE DIRECTORY OF JAPANで調べた神戸のポルトガル領事館の推移
和 暦 西暦 神戸 ポルトガル領事館の所在地 記 載 図 書 名
明治7年
1874 記載なし The Japan Directory
明治8年 1875 32番 居留地
(Consul.-Brown,R,M.)
The Japan Directory
明治14年 1881 32番 居留地(明治8年から変らず) The Japan Directory
明治15年 1882 50番 居留地 The Japan Directory
明治16年 1883 14番 居留地 The Japan Directory
明治23年 1890 14番 居留地(明治16年から変らず) The Japan Directory
明治24年 1891 山本通59 The Japan Directory
明治26年 1893 山本通59
山本通四丁目五十九番
The Japan Directory
神戸市案内 : 名区勝地 明26.12
明治27年 1894 山本通59
The Japan Directory
明治30年 1897 76番 居留地(Fr. Consul)
山本通り四丁目五十九番邸(神戸の花)
The Japan Directory
神戸みやげ 明30.3、神戸の花 明30.4
明治31年 1898 90番 居留地(Fr. Consul) The Japan Directory
明治33年 1900 山本通三丁目118
(Consul-Weneeslau de Moraes)
The Japan Directory
明治43年 1910 山本通三丁目118
(Consul-Weneeslau de Moraes)
The Japan Directory
大正2年 1912 山本通三丁目118
(Consul-Weneeslau de Moraes)
The Japan Directory
大正4年 1915 山本通三丁目118
山本通三丁目
The Japan Directory
神戸新大鑑 : 御即位紀念



神戸 居留地地図(1906年 THE DIRECTORY OF JAPAN)



神戸 山の手地図(1906年 THE DIRECTORY OF JAPAN)



神戸 山の手地図の拡大(1906年 THE DIRECTORY OF JAPAN)