●水木しげるの足跡をさがして 境港編
    初版2013年10月12日  <V01L02> 暫定版

 山陰地方を旅する機会がありましたので水木さんの故郷、境港を歩いてきました。今回は車で廻ったのですが、途中でパンクしてしまい、十分に廻ることが出来ませんでした。次回の訪問で完璧にしたいと思いますので今回は、境港の雰囲気を楽しんで頂ければとおもいます。




「水木しげる伝」
<「水木しげる伝」講談社漫画文庫>
 水木しげるさんの本は漫画、エッセイ、自伝も含めて数多く出版されています。今回は特に自伝を中心に4冊の本を読んでみました。一番頼りになるのが講談社漫画文庫の「水木しげる伝」上、中、下の三巻です。特に下巻には”水木しげる詳細年譜 2004年12月、関東水木会・平林重雄編が掲載されています。
 水木しげるさんの「水木しげる伝」、から”水木しげる詳細年譜(水木しげる伝 下 掲載) 2004年12月、関東水木会・平林重雄編です。
「大正11年誕生(1922年)
水木しけるの誕生と先祖の話
3月8日 当時父が働いていた大阪府西成郡粉浜村(現:大阪市住吉区東粉浜3丁目)で父武良虎二、母琴江の次男として生まれる。本名武良茂生後1ヵ月で母と共に鳥取県境港市人船町に帰郷する。兄弟に兄宗平(2歳年上)弟幸夫(2歳年下)がいる。…」


上の本は講談社漫画文庫の「水木しげる伝」下巻です。講談社漫画文庫の「水木しげる伝」上、中、下の三巻は元々は2001年発行の「ボクの一生はげげげの楽園だ」を改題したものです。水木しげるさんが79歳の時に描かれたものです。下巻の最後に関東水木会・平林重雄編の水木しげる詳細年譜が掲載されています。

【水木 しげる(みずき しげる、本名:武良 茂(むら しげる)、大正11年(1922)3月8日 - )】
 大正11年(1922)生れ。鳥取県境港で育つ。太平洋戦争時、激戦地であるラバウルに出征し、爆撃を受け左腕を失う。復員後、紙芝居画家となり、貸本マンガを経て漫画家となる。 昭和40年(1965)、「別冊少年マガジン」に発表した『テレビくん』で第6回講談社児童まんが賞を受賞。代表作に『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』などがある。平成3年(1991)、紫綬褒章受章。 1996年、日本漫画家協会文部大臣賞を受賞する。 2003年、旭日小綬章を受章。同年3月、故郷である境港市に水木しげる記念館か開館した。(新潮文庫より)

「ねぼけ人生」
<「ねぼけ人生」ちくま文庫>
 水木しげるさんがもう少し若いときに書かれた本はないかと探してみました。昭和57年(1987)に書かれた「ねぼけ人生」という自叙伝的エッセイを見つけました。水木しげるさん65歳のときの本です。
 水木しげるさんの「ねぼけ人生」からです。
「…
 学校も就職もつとまらない

 小学校の成績はきわめて悪く、上の学校は受けることさえ教師が禁じたほどだった。試験で最も重視される算数がカラッキシだめだったのである。
 遊んだり絵を描いたりしながら高等小学校(これは試験がない)に通い、それを卒業すると、就職することになった。…」

 漫画に劣らずこのエッセイは大変面白いです。筑摩書房ですから、少し手は入っているとはおもいますが、固有名詞や年代はあまり書かれていません、

写真は水木しげるさんのちくま文庫「ねぼけ人生」です。元々は昭和57年(1987)に筑摩書房より発刊されたものを1999年に文庫化したものです。

「水木さんの幸福論」
<「水木さんの幸福論」日本経済新聞社>
 2003年8月1日から31日まで日本経済新聞に水木しげるさんの「私の履歴書」が連載されています。「私の履歴書」は日経新聞がかなりしっかりと裏をとりますので、先ずは正しいとおもって間違いはないとおもいます。
 水木しげるさんの「水木さんの幸福論、私の履歴書」からです。
「  1 大食いの健康児

 一九二二年(大正十一年)三月八日、私は今の大阪市住古区で生まれた。木名は武良茂。二つ上の兄・宗平がいて次男坊だ。二年後に弟の幸夫が誕生して三入兄弟である。父の亮一は大阪で勤め人をしていたが、気に染まなかったらしく、共同経営者とともに農機具を輸入販売する会社を興すことになり、妻子をいったん故郷の鳥取県境町入船町(現・境港市)に帰した。私が二歳ぐらいのときだった。
 だが父は、その後間もなく、見事に事業に失敗して帰郷。新たな職を得て、一家はここに落ち着くことになる。だから私は少年時代をこの町で過ごした。育った家は今でも、海沿いの昔のままの場所にある。…」

 一番固有名詞が登場するのがこの「私の履歴書」ですが、新聞掲載の都合か、他の新聞社の名前は出てこず、”市立の夜間中学”のように固有名詞を避けているとおもわれる所もありました。固有名詞を避けているのは裏が取れていないのからかもしれません。

写真は日本経済新聞社の「水木さんの幸福論」です。この中には、「私の履歴書」、「鬼太郎の誕生 第T話」等が掲載されています。



「境港駅」
<境港駅>
 水木しげるさんの実家の最寄駅は境港駅です。明治35年(1902)- 官設鉄道の境駅として開業していますから、相当古いです。江戸時代には早くから鳥取藩の御番所がおかれ文化年間以降には御廻米役所や鉄山融通会所も設けられ安来の鉄を諸国に分配する千石船の往来に賑わっていたようです。明治以後は日本海国内航路の要衝として栄えています。ただ、古くからの海上交通の要所、風待ちの港として有名な美保関が近くにあり、明治・大正以降に漁港として栄えてきたと云った方が良いとおもいます。

<境港駅(ウイキペディア参照)>
明治35年(1902)- 官設鉄道の境駅として開業。御来屋駅 - 米子駅 - 境駅間で開業した区間の終着駅としての開業である。駅の場所は現在の位置とは異なり、やや東よりに所在した。
明治42年(1909)- 線路名称制定。境線の所属となる。
大正 8年(1919)- 境港駅に改称。
平成 7年(1995) - 現在の場所に駅舎を新築。

写真は現在の境港駅です。水木しげるさんが生まれた大正11年頃の駅舎は、現在の駅前のロータリー辺りにあったようです。平成 7年に現在の場所に移転しています。駅前には水木しげるさんご本人の銅像がります。

「水木しげるロード」
<水木しげるロード>
 ”水木しげるロード”は平成5年(1993)に”ゲゲゲの鬼太郎”や”ねずみ男”等の銅像23体の設置をもってオープンした境港駅から東に本町アーケード商店街まで800m続くロードです。 開設当時は像の一部が壊され盗まれるなどといった事件が発生したものの、これらの騒動が全国規模で報道されたのがきっかけとなり県外での知名度が高まります。その後、徐々に像の数を増やしていき、平成9年(1997)には目標であった80体が完成。平成17年(2005)には広く出資を募り、16体の寄贈を受けます。その後も平成18年(2006)に120体、平成22年(2010)には139体に達し、平成24年(2012)にはスポンサー公募による11体と水木しげる記念館内に3体が新設され、合計153体となっています。(ウイキペディア参照)

写真は境港駅から”水木しげるロード”を少し東に行ったところから撮影した”水木しげるロード”です。駅前から銅像があり、水木しげる記念館まで続いています。


水木しげるの境港地図 -1-



「水木しげる記念館」
<水木しげる記念館>
 「水木しげる記念館」は平成15年に水木しげるロードの東の端、本町アーケード内に開館します。水木しげるロードができてから10年経過していました。もう少し早く開館したらとおもいますが資金集めもままならなかったようです。 

<水木しげる記念館>
 当館は水木しげるの画業および関連事業の集大成として、水木自身が世界中から集めた妖怪関連のコレクションや独自に制作したオブジェの展示などを中心に水木しげると妖怪の世界を展示・紹介する博物記念館です。
 当初は平成8年(1996)に記念館の創設が提唱され、平成11年(1999)4月のオープンを目指していましたが境港市の財政難により凍結されます。その後、水木しげるロードの集客力が当初の予想を大きく上回る規模となります。観光客数の増加に対応すべく、係る観光地域の中核を成す記念館の必要性が強まります。そうして平成15年(2003)3月8日、水木しげるの誕生日をもって水木しげる記念館が本町アーケード内にて開館します。初日の来館者数は1,747人でした。平成24年(2012)3月8日、オープン以来初めて館内がリニューアルされ、新たな展示物などが追加されます。多分、水木しげる記念館所属だとおもいますが、”猫娘”と”ねずみ男”のぬいぐるみが水木しげるロードを歩いていました。

写真は水木しげる記念館の正面入口です。「水木しげる記念館」の建物の中に一ヶ所だけ写真撮影がOKの場所がありました。平日でしたが団体客が多かったです。出雲大社ツアーから廻ってくるようです。出雲大社、松江城、水木しげる記念館、鳥取砂丘がコースのようです。この近くの市営日ノ出町駐車場で車がパンクしてしまい大変でした。

「水木しげるさんの実家」
<水木しげるさんの実家>
 水木しげる記念館から北東に800m位歩くと水木しげるさんの実家です。家は建て直されて、「水木プロダクション 中国支部」の名前が入った看板が掲げられていました。何方も住んでおられないようです。目の前が境水道です。

 水木しげるさんの「水木さんの幸福論、私の履歴書」からです。
「… 家の前の上ぼこりの小道を渡ると、もう石積みの護岸があって、境水道が流れている。約三百メートル隔てた向こう側が島根半島だ。そこには深い緑に覆われて不思議な雰囲気をかもし出す高尾山がある。夜になると、ぽつんとともる灯が境水道の海面ににじむ。そして高尾山からコン、コーンとキツネが鳴く声が聞こえてくることがあった。自然がたっぶり残っていて、闇は深く、辺りは妖怪的雰囲気に満ち満ちていた。…」

写真が現在の水木しげるさんの実家です。綺麗なお家でした。目の前に桟橋があり、その向こうには境水道、島根半島となります。

「母琴江さんの実家」
<母琴江さんの実家>
 水木しげるさんのお母さん武良布枝さんの実家にも寄ってみました。実家は大きな酒屋さんでした。棚に並んでいる日本酒を見て、ついつい一本買ってしまいました。「ゲゲゲの夫婦酒(生家限定酒)」無濾過無加水吟醸酒です。

 水木しげるさんの「水木さんの幸福論、私の履歴書」からです。
「… 母、琴江との結婚のてんまつも面白い。大阪にいるとき、祖父から境港に良縁があるとの知らせ。父は面倒なので「ヨロシクタノム」と電報を打った。適当に断ってくれという意味だったが、祖父は乗り気だと勘違いした揚げ句、自分が代理として見合いの席に臨んで、大いに気に入ってしまい、とんとん拍子で話がまとまった。そんなこととは夢にも思っていなかった父は「決めたぞ」と言われて大慌てしたものの、すでに後の祭りだったとか。父の「何とかなる主義」は、三兄弟の中で私に最も色濃く遺伝している。…」
 水木しげるさんの奥様である武良布枝さんは昭和7年(1932)島根県安来市大塚町の酒屋に生まれています。現在の布枝さんの実家は兄の飯塚藤兵衛さんが酒店を営んでいます。私はお会いしました。

写真が現在の布枝さんの実家である酒屋さんです。”「ゲゲゲの女房」の生家”の看板がありました。山陰本線安来駅から伯太川沿いに南に7Km強の距離です。車でないと無理です。

「境港市立境小学校」
<境尋常小学校>
 水木しげるさんは昭和4年4月、一年遅れで境尋常小学校(境港市立境小学校)に入学します。昭和12年3月、境尋常小学校高等科を卒業するまでで8年間通っています。他の兄弟達は成績優秀で中学校に進んでいますが、水木しげるさんは絵ばかり描いていたりしたため、両親は学業には向いていないと判断し就職を勧めたようです。

 水木しげるさんの「水木さんの幸福論、私の履歴書」からです。
「  3 一年遅れで小学校入学

 小学校入学を一年遅らせた甲斐もなく、私は寝たいだけ寝て、思い切り食ぺ、脇目もふらずに好きなことだけに熱中する、変わった子どもであった。
 とにかく、我ながら感心するほどの朝寝坊である。なにしろ、趣味が多くてどうしても夜更かしになるから、よけいに起きるのがゆっくりになる。食い意地が人一倍張っているので、朝飯をたっぷり食べてから悠々と出かける。兄や弟は遅刻しそうになると、朝飯抜きで飛び出していくが、私の場合は学校に間に合うように行くよりも、飯をたっぷり食うことの方が大事なのだ。我が道を行く、我が物を食う。我が物どころか、兄や弟の分まで食ぺてしまった。…」

 小学校時代のエピソードが沢山あるのですが写真を撮りきれていませんので、改版で対応する予定です。

写真が現在の境港市立境小学校です。戦前の地図で確認したところ、場所は変っていませんでした。

 改版予定です。

水木しげる年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 水木しげるの足跡
大正11年 1922 ワシントン条約調印 0 3月8日 大阪府西成郡粉浜村(大阪市住吉区東粉浜3丁目)で父武良虎二母琴江の次男として生まれる
(本名武良茂生)
昭和4年 1929 世界大恐慌 7 4月 1年遅れで境尋常小学校に入学
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 13 4月 境小学校高等科に入学
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突
中原中也歿
15 3月 境尋常小学校高等科卒業
大阪・谷町の石版印刷の図案職人見習いとして就職
寺田町の中村版画社に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
16 大阪の上本町にある精華美術学院に入学
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
17 1大阪府池田にある大阪府立園芸高校を受験(不合格)
守口の松下電器産業の工場
西淀川区の毎日新聞配達所に住み込み
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
18 日本工業学校採掘科に合格
甲子園ロに家
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 19 日本大学付属大阪中学の夜間部に入学