●水木しげるの足跡をさがして 大阪編 下
    初版2012年9月1日 
    二版2012年11月3日 <V01L02> 大阪毎日新聞 新聞販売店求人欄を追加(9日、神戸版も追加) 暫定版

 「水木しげるの足跡をさがして 大阪編 下」です。前回は昭和12年の大阪は谷町の小さな石版印刷屋の住み込みを始めたときから、昭和14年の大阪府立園芸高校受験までを掲載しました。今回は昭和16年の日本大学付属大阪中学の夜間部に入学迄を掲載します。その後の昭和18年には召集令状で入隊しています。




「公式ガイドブック」
<「水木しげる記念館 公式ガイドブック」>
 水木しげるさんの生れ故郷、境港を訪問してきました。お気付きの方がいるかもしれませんが、「立原道造の松江」と一緒に廻ってきました。境港には水木ロードがあり、水木しげる記念館があります。この辺りは別途特集する予定です。今回は水木しげる記念館の公式ガイドブックを参考にしました。このガイドブックに書かれている年譜、記念館に掲載されている年譜も参考にしました(出所は同じとおもいますが、最新情報に修正されている可能性があるためです)。
 水木しげる記念館の「公式ガイドブック」、からです。
「 私は落第生でしたから、上品で上手な言葉が出てきません。なにしろ、「境のモンですけん」
 まあ、みてくださいというところです。
 昔は、といっても七、八十年前のことですが、電気を節約されていたせいか、暗いところが多く、お化けもたくさん住んでいました。
 私の説によると、「電燈がお化けを消した」と思います。…」

 「公式ガイドブック」に掲載されている年譜は「水木しげる伝 下巻」の年譜と同じ関東水木会・平林重雄編でした。私が見た限りは「公式ガイドブック」の年譜と水木しげる伝 下巻の年譜とは一カ所だけ相違がありました(昭和12年から16年まで)。水木しげる記念館に掲載されている年譜は水木しげる伝 下巻の年譜と全く同じでしたので、「公式ガイドブック」の年譜とは相違があることになります。

上の本は「水木しげる記念館 公式ガイドブック」です。私は以前から所持していましたので、2003年度版です。「水木しげる伝 下巻」は2004年出版ですので、私の所持している「公式ガイドブック」より後の出版となります。

【水木 しげる(みずき しげる、本名:武良 茂(むら しげる)、大正11年(1922)3月8日 - )】
 大正11年(1922)生れ。鳥取県境港で育つ。太平洋戦争時、激戦地であるラバウルに出征し、爆撃を受け左腕を失う。復員後、紙芝居画家となり、貸本マンガを経て漫画家となる。 昭和40年(1965)、「別冊少年マガジン」に発表した『テレビくん』で第6回講談社児童まんが賞を受賞。代表作に『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』などがある。平成3年(1991)、紫綬褒章受章。 1996年、日本漫画家協会文部大臣賞を受賞する。 2003年、旭日小綬章を受章。同年3月、故郷である境港市に水木しげる記念館か開館した。(新潮文庫より)

「ほんまにオレは…」
<「ほんまにオレはアホやろか」新潮文庫>
 水木しげるさんの「ねぼけ人生」は昭和57年(1987)に筑摩書房より発刊されていますので、自伝的なことを書いたもう少し古い本はないかと探しました。昭和53年(1978)にポプラ社より出版された「ほんまにオレはアホやろか」を見つけることができました。手元にあるのは新潮社の文庫本なので、初版本と文庫版を見比べてみないと内容が変っている可能性があるのですが、初版本が手元にないので文庫本のみでの内容確認となります。
 水木しげるさんの「ほんまにオレはアホやろか」からです。
「…
 靴をはかずに新聞配達

 また、新聞の求人欄を見つめることになった。すると、目についたのが新聞配達である。
 新聞を配って歩くだけで(子どものころはガキ大将だったし、水泳だのかけっこだのは得意だから、歩くことぐらい何でもない)めしが食え、しかも、住みこみだから、父がジャワへ行った後の住居の心配もいらない。
 こんないいことはないと、新聞配達をやることにきめた。
 配達所の場所は西淀川区の塚本の駅前となっている。駅前だけではわかりにくいと思ったが、人に聞けばわかるだろうと、電車で塚本駅まで行くと、だれに聞かなくてもすぐわかった。わかるはずだ。当時の塚本駅のあたりは沼や池があるだけで、目につくものといったら「毎日新聞」というカンバンだけ。…」

 漫画に劣らずこのエッセイは大変面白いです。筑摩書房ですから、少し手は入っているとはおもいますが、固有名詞や年代はあまり書かれていません、又、前後関係が参考になります。

写真は水木しげるさんの「ほんまにオレはアホやろか」新潮文庫版です。昭和53年(1978)にポプラ社より出版されたのが初版で、平成11年(1999)に社会批評社より、平成14年(2002)に新潮文庫より出版されています。内容を確認する予定です。

「ユリイカ」
<「ユリイカ 特集※水木しげる」青土社>
 有名になると「ユリイカ」が必ず特集します。ただ、この本は水木しげるさんの出征後の話が中心で、戦前の話は書かれていません。漫画家としての水木しげるさんを特集しているようです。年譜は関東水木会・平林重雄編の略年譜が掲載されていました。
 水木しげるさんの「水木さんの幸福論、私の履歴書」からです。
「綱集後記 水木さんのご両親はどんな方だったんだろうと考える。丈夫で、元気に遊び回って、よく食べてよく寝て、学校に二時間目から登校する水木さんを、そのままに育てたお父さんとお母さん。高価だった油絵具を買い与え、好きな絵を好きなだけ描かせた。水木さんが出征して、ラバウルで危機に瀕しているまさにそのとき、日本でその霊波を感じ、「しげるーっ、生きてもどれ一っ!」と山に向かって叫んだ。息子を二人も兵隊に出しているんだと、防空演習に参加しなかった。写真を拝見すると、水木さんの描くマンガにそっくりだ。お二人とも頑強な胃を持ち、長生きされたという、そのご両親に思いか巡る。(爺)」
 編輯後記だけにご家族のお話が掲載されていました。。

写真は「ユリイカ」2009年9月発行、第37巻第10号(通巻511号)です。内容は大変面白いです。勉強にもなりますので一読をすすめます。

 下記に「水木しげる詳細年譜」、「ほんまにオレはアホやろか」、「ねぼけ人生」、「私の履歴書」の昭和12年から昭和16年までの比較を掲載しておきます。


水木しげるの大阪での足跡
和 暦 水木しげる伝
水木しげる詳細年譜(2004)
平林重雄編
ほんまにオレはアホやろか
ねぼけ人生(1982)
水木しげる著
水木さんの幸福論(2004)
私の履歴書
水木しげる著
昭和12年 3月 境尋常小学校高等科卒業
大阪の石版印刷就職(二ヶ月)
中村版画社に入社
大阪は谷町の小さな石版印刷屋の住み込み
中村版画社に移る
松下電器の守口工場(14年?)
大阪・谷町の「田辺版画社」という石版印刷所で住み込み
大阪の寺田町にある「小村版画社」に転じた
昭和13年 大阪の上本町にある精華美術学院(専門学校)に入学 大阪の上本町に精華美術学院 大阪の上本町に「精華美術学校」
昭和14年 農芸学校を受験(不合格)
松下電器の守口工場(2日)
西淀川区の毎日新聞配達所に住み込む
大阪府立園芸高校受験(不合格)
塚本というところで新聞配達員
大阪府池田にある大阪府立園芸高校を受験(不合格)
守口の松下電器産業の工場
今のJR福知山線塚口駅前の新聞販売店
昭和15年 日本鉱業学校採掘科に合格
甲子園口に家
日本工業学校採掘科に合格
甲子園ロに家
工業学校の採鉱科を受け、合格
中之島洋画研究所に通う
昭和16年 日本大学付属大阪夜間中学入学
中之島洋画研究所
中之島洋画研究所
日本大学付属大阪中学の夜間部に入学
私立の夜間中学に入学



「塚本駅東口前」
<塚本駅前の毎日新聞販売所>
 2012年11月3、9日 大阪毎日新聞 新聞販売店求人欄を追加
 水木しげるさんは守口の松下電器産業の工場をクビになって次の就職口を探します。この辺りのお話は、「水木さんの幸福論、私の履歴書」と食い違っています。「ほんまにオレはアホやろか」からは上記に記載しましたので参照してください。
 ココでは水木しげるさんの「ねぼけ人生」を掲載します。
「… 入試にも落ちて、どうしようかと、ぼんやりと毎日新聞を見ていると、淀川の塚本という所で新聞配達員募集と出ている。さっそく出かけ、駅を降りると、目の前が新聞屋。そこの親父が駅から出てくる人を眺めていた。その目と僕の目がピッタリと合うと、同時に双方から微笑がおこった。試験があるのではないかと心配していたが、これで採用が決まってしまった。こうして、住み込み配達員の仲間入りをしたのである。…」
 「水木さんの幸福論、私の履歴書」では”住み込んだのは、今のJR福知山線塚口駅前の新聞販売店だった。”と書かれています。年譜、「ねぼけ人生」、「ほんまにオレはアホやろか」は”配達所の場所が西淀川区の塚本の駅前”となっています。少し調べてみました。最初、毎日新聞販売店で調べてみると塚本駅東口前に毎日新聞販売店(右から二軒目付近)を見つけることが出来ました(現在はありません、駅前から北に80m)。塚口駅前の新聞販売店は見つけることができませんでした。ただ、「ほんまにオレはアホやろか」には”当時の塚本駅のあたりは沼や池があるだけで、目につくものといったら「毎日新聞」というカンバンだけ”とかかれています。「ねぼけ人生」には”駅を降りると、目の前が新聞屋”と書かれています。当時の塚本駅付近は人家と工場がたくさんあり、沼や池はありませんでした。塚口駅前は人家は無く沼や池があったとおもいます。もう少し調べてみる必要がありそうです。因みにJR福知山線塚口駅前の写真も掲載しておきます。

 大阪毎日新聞の求人欄で塚本駅前の新聞販売店の求人を探して見ました。大阪府立園芸高校を受験したり、松下電器産業に働きに行ったりしていますので、大阪府内に住まいがあり、時期は昭和14年の2月から4月頃と想定し、大阪毎日新聞大阪版の求人欄で探しました。昭和14年3月1日付朝刊の求人欄で塚本駅前の大阪毎日新聞販売店の求人を見つけることができました。内容は水木しげるさんが書いた通りでした。

 当時の住まいが兵庫県内なら神戸版ですので大阪毎日新聞神戸版も見てみました。残念ながら求人欄は大阪版と全く同じでした。昭和14年2月〜4月の求人欄には塚本駅前の大阪毎日新聞販売店の求人が、3月25日、4月1日と、この期間で三回掲載されていました。JR福知山線塚口駅前の新聞販売店の求人は見つけることが出来ませんでした。

写真は現在の塚本駅東口前をプラットホームから撮影したものです。当時の毎日新聞販売店は塚本駅前通りの看板の前を左に80mのところにありました。目の前ではありませんね?

「近畿大学附属高等学校」
<日本工業学校採掘科>
 水木しげるさんはあくまでも「東京美術学校(現・東京芸術大学)」を目指していたようです。大阪府立園芸学校の不合格を肥やしにして、「日本工業学校採掘科」合格を目指しています。 
 水木しげるさんの「ほんまにオレはアホやろか」からです。
「…  そんな日々を送っていたある日、新聞で、日本工業高校・採鉱科というのが生徒を募集しているのを見つけた。この学校を二年で終えると、数え年で二十一歳、それから東京の美術学校に行けば行けないこともない。
 さっそく試験を受けると、なんと入れた。
 入ってみると、鉱山の穴ほり技術を教える学校だから、鉱石の角度がどうのこうのと、うんざりするような授業ばかり。この学校も、石炭増産という国策上の目的があり、そのために試験も有名無実だったのかとわかったころには、いねむりの連続の毎日。
 先生はチョークをなげつけるが、そんなものでは目がさめない。つぎには黒板ふきがとんでくる。まだ目がさめない。あきれた生徒たちが爆笑する声で、やっと目がさめるというしまつ。…」

 ここでは”日本工業学校採掘科”と書きましたが、本によって違います。「ほんまにオレはアホやろか」、「ねぼけ人生」、「水木しげる記念館 公式ガイドブック」の年譜は”日本工業学校採掘科”、「水木しげる伝」の詳細年譜、「ユリイカ」の略年譜は”日本鉱業学校採掘科”となっています。追求するつもりはないのですが、多分、パソコンに入力するときに、かな漢字変換で”工業”を”鉱業”と間違えて入力してしまったのではないかとおもいます。因みに「私の履歴書」では”工業学校の採鉱科”となっていました。
 ”日本工業学校採掘科”が本当にあったのか調べてみました。「戦前・戦中期の大阪の工業各種学校(沢井実)」という資料の中に”日本工業学校採掘科”を見つけることができました。日本工業学校は昭和14年(1939)1月設立、採掘科は昭和14年(1939)9月設置となっていますので、昭和15年の入学と合っています。”日本鉱業学校”という学校は見つけることができませんでした。

写真は現在の近畿大学附属高等学校です。日本工業学校→大阪理工科大学附属高等学校→近畿大学附属高等学校となっています。


水木しげるの大阪地図 -3-



「朝日新聞大阪本社」
<中之島洋画研究所>
 親類はありがたいものです。本人の性格を見抜いて忠告をしてくれます。普段はは煩わしいものなのですが、時によりありがたくなることもあるわけです。 
 水木しげるさんの「ほんまにオレはアホやろか」からです。
「… こうして読書にふけっていると、ごろごろして本ばかり読んでいるという、ウワサが親類のものの耳にはいり、心配まじりの忠告がでる。
 「しげるさんも、絵かきになりはるのやったら、大阪には『中之島洋画研究所』いうのがあるから、そこ行かはったらええのに」
 たしかに、ごろごろしているわけにもいかないので、洋画研究所に通うことになった。
 研究所には毎日通い、石膏デッサン、家へ帰れば油絵の風景画をかく。しかし、もう二、三年で戦争に行かなければならないという予感があるがら、好きなはずの絵にも身が入らない。死んでしまうがもわがらないのに絵どころではないような気がするのだ。…」

 信濃橋洋画研究所(後の中之島洋画研究所)は大正13年(1924)に小出楢重、鍋井克之らが信濃橋交差点の北西角にあった日清生命ビルディングの4階に開設した洋画の研究所です。後援者として大阪の財界人がなっており、根津清太郎も加わっていました。信濃橋交差点の北西角に記念碑が建てられています。

写真は朝日新聞大阪本社ビルです。信濃橋洋画研究所は昭和6年(1931)に信濃橋から中之島朝日新聞大阪本社ビルに移転します。移転に伴って中之島洋画研究所に名前が変ります。後援者の一人であった上野精一(後の朝日新聞社主)が朝日新聞の役員だったからとおもわれます。

「大阪学園大阪高等学校」
<日本大学付属大阪中学の夜間部>
 2回も学校生活に失敗しながら、懲りずに3回目にチャレンジします。ぶらぶらしていると直ぐに召集令状がきてしまいます。文化系学生でも召集猶予の制度がありましたが、昭和18年になると召集猶予が解除されます。水木しげるさんは昭和17年に赤紙で乙種合格、昭和18年に召集令状で鳥取歩兵第四〇連隊に入隊となります。
 水木しげるさんの「ほんまにオレはアホやろか」からです。
「…早く美術学校に行かなきや、軍隊にとられてしまう。それには、中学(現在の高校にあたる)なり、あるいはそれと同等の学校を出なければならない。しかし、前の鉱山の学校は中退だし、どこか入らなければならない。考えこんでいると、新聞に、日本大学付属大阪夜間中学が開校されるとでている。
 朝ならねむいが、夜なら頭がサエるたちだから大丈夫だと、受験してみたら、これまた受かった。戦争も近づき、学校どころではなく、まして、夜間中学にまで行く人はなおのことすくないので、ぼくでも受かったのたろう。
 入ってみると、たしかに夕方からはじまるので遅刻はない。こいつあラクだと喜んだ。喜びついでに、まさか夜中の教練(学校でやる軍隊の練習で、当時はこれも授業の一つだった)はやるまいと思ったら、これは案に相違してふつう以上にきびしくやる。配属将校(教練のために学校へ派遣されている軍人)がやけにはばをきかしていて、当時の言葉でいう非常時のニオイがつよい学校なのだ。…」

 昭和16年に日本大学付属大阪中学の夜間部入学ですから18年の入隊まで2年間は退学もせず学校生活を続けることができたわけです。召集がされるのがいやだったので学校生活を続けられたわけです。

写真は現在の大阪学園大阪高等学校です。戦前は日本大学大阪中学校の名称で日本大学系列でしたが昭和19年に日本大学より独立し、財団法人大阪学園を設立、現在に至っています。


水木しげる年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 水木しげるの足跡
大正11年 1922 ワシントン条約調印 0 3月8日 大阪府西成郡粉浜村(大阪市住吉区東粉浜3丁目)で父武良虎二母琴江の次男として生まれる
(本名武良茂生)
昭和4年 1929 世界大恐慌 7 4月 1年遅れで境尋常小学校に入学
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 13 4月 境小学校高等科に入学
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突
中原中也歿
15 3月 境尋常小学校高等科卒業
大阪・谷町の石版印刷の図案職人見習いとして就職
寺田町の中村版画社に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
16 大阪の上本町にある精華美術学院に入学
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
17 1大阪府池田にある大阪府立園芸高校を受験(不合格)
守口の松下電器産業の工場
西淀川区の毎日新聞配達所に住み込み
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
18 日本工業学校採掘科に合格
甲子園ロに家
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 19 日本大学付属大阪中学の夜間部に入学