●水木しげるの足跡をさがして 大阪編 上
    初版2012年8月25日  <V01L03> 暫定版

 水木しげるさんの「水木しげる伝」を読み、その後で「水木さんの幸福論、私の履歴書」の読みましたら、少し違うところがあるのに気が付きました。特に15歳(昭和12年)から19歳(昭和16年)の頃で、境港から大阪に移り住んだころです。少し調べてみました。




「水木しげる伝」
<「水木しげる伝」講談社漫画文庫>
 水木しげるさんの本は漫画、エッセイ、自伝も含めて数多く出版されています。今回は特に自伝を中心に4冊の本を読んでみました。一番頼りになるのが講談社漫画文庫の「水木しげる伝」上、中、下の三巻です。特に下巻には”水木しげる詳細年譜 2004年12月、関東水木会・平林重雄編が掲載されています。
 水木しげるさんの「水木しげる伝」、から”水木しげる詳細年譜(水木しげる伝 下 掲載) 2004年12月、関東水木会・平林重雄編です。
「昭和12年15歳(1937年)
就職するも
3月境尋常小学校高等科卒業後、父は神戸に勤務し、大阪に金持ちの親類もあったので就職の為大阪に出る。大阪の石版印刷の図案職人見習いとして就職するも、のんびりとした性格に合わず2ヵ月でクビとなる。大阪の親類の紹介で中村版画社に入社したがここもすぐにクビになる。しばらく親類宅に居候し、絵本の習作を描くが体調をくずして帰省する。医師の診断では黄症だといわれる。…」

 講談社漫画文庫の「水木しげる伝」上、中、下の三巻だけを読んでいると、とても面白いのでいいのですが、何冊か読み進んでいくと細かいところの違いが気になり出します。困ったものです。そこで少し調べてみることにしました。

上の本は講談社漫画文庫の「水木しげる伝」下巻です。講談社漫画文庫の「水木しげる伝」上、中、下の三巻は元々は2001年発行の「ボクの一生はげげげの楽園だ」を改題したものです。水木しげるさんが79歳の時に描かれたものです。下巻の最後に関東水木会・平林重雄編の水木しげる詳細年譜が掲載されています。

【水木 しげる(みずき しげる、本名:武良 茂(むら しげる)、大正11年(1922)3月8日 - )】
 大正11年(1922)生れ。鳥取県境港で育つ。太平洋戦争時、激戦地であるラバウルに出征し、爆撃を受け左腕を失う。復員後、紙芝居画家となり、貸本マンガを経て漫画家となる。 昭和40年(1965)、「別冊少年マガジン」に発表した『テレビくん』で第6回講談社児童まんが賞を受賞。代表作に『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』などがある。平成3年(1991)、紫綬褒章受章。 1996年、日本漫画家協会文部大臣賞を受賞する。 2003年、旭日小綬章を受章。同年3月、故郷である境港市に水木しげる記念館か開館した。(新潮文庫より)

「ねぼけ人生」
<「ねぼけ人生」ちくま文庫>
 水木しげるさんがもう少し若いときに書かれた本はないかと探してみました。昭和57年(1987)に書かれた「ねぼけ人生」という自叙伝的エッセイを見つけました。水木しげるさん65歳のときの本です。
 水木しげるさんの「ねぼけ人生」からです。
「…
 学校も就職もつとまらない

 小学校の成績はきわめて悪く、上の学校は受けることさえ教師が禁じたほどだった。試験で最も重視される算数がカラッキシだめだったのである。
 遊んだり絵を描いたりしながら高等小学校(これは試験がない)に通い、それを卒業すると、就職することになった。僕の父は神戸で勤めていたし、大阪にはわりと金持ちの親類もいた。境港よりはいいということで、大阪は谷町の小さな石版印刷屋の住み込みになった。朝五時にたたき起こされてボロ自転車の掃除をやらされたりしたが、寝不足でぼおっとしているものだから、兄弟子の下駄に油をひっかけるやら、うつぶせになって新聞を読んでいた親方の頭を踏みつけるやらで、一ヶ月もしないうちにクビになった。…」

 漫画に劣らずこのエッセイは大変面白いです。筑摩書房ですから、少し手は入っているとはおもいますが、固有名詞や年代はあまり書かれていません、又、前後関係が参考になります。

写真は水木しげるさんのちくま文庫「ねぼけ人生」です。元々は昭和57年(1987)に筑摩書房より発刊されたものを1999年に文庫化したものです。

「水木さんの幸福論」
<「水木さんの幸福論」日本経済新聞社>
 2003年8月1日から31日まで日本経済新聞に水木しげるさんの「私の履歴書」が連載されています。「私の履歴書」は日経新聞がかなりしっかりと裏をとりますので、先ずは正しいとおもって間違いはないとおもいます。
 水木しげるさんの「水木さんの幸福論、私の履歴書」からです。
「… 5 就職するも、すぐクビに

 いよいよ卒業を迎えた。たった一人でふるさとを離れて働きに出る私のことを、母は不惘だったのだろう。兄は町で一、二を争う秀才で、弟もすこぶる成績が良がった。最後まで勉強せず、とうとう高等小学校だけで社会に出る次男坊が歯がゆくもあり、心配でもあったのだと思う。上の学校に行って立派な会社に入るという世俗的な出世コースがらは外れてしまうのだ。…」

 一番固有名詞が登場するのがこの「私の履歴書」ですが、新聞掲載の都合か、他の新聞社の名前は出てこず、”市立の夜間中学”のように固有名詞を避けているとおもわれる所もありました。固有名詞を避けているのは裏が取れていないからかもしれません。

写真は日本経済新聞社の「水木さんの幸福論」です。この中には、「私の履歴書」、「鬼太郎の誕生 第T話」等が掲載されています。

 下記に「水木しげる詳細年譜」、「ねぼけ人生」、「私の履歴書」の昭和12年から昭和16年までの比較を掲載しておきます。


水木しげるの大阪での足跡
和 暦 水木しげる伝
水木しげる詳細年譜(2004)
平林重雄編
ほんまにオレはアホやろか
ねぼけ人生(1982)
水木しげる著
水木さんの幸福論(2004)
私の履歴書
水木しげる著
昭和12年 3月 境尋常小学校高等科卒業
大阪の石版印刷就職(二ヶ月)
中村版画社に入社
大阪は谷町の小さな石版印刷屋の住み込み
中村版画社に移る
松下電器の守口工場(13年?)
大阪・谷町の「田辺版画社」という石版印刷所で住み込み
大阪の寺田町にある「小村版画社」に転じた
昭和13年 大阪の上本町にある精華美術学院(専門学校)に入学 大阪の上本町に精華美術学院 大阪の上本町に「精華美術学校」
昭和14年 農芸学校を受験(不合格)
松下電器の守口工場(2日)
西淀川区の毎日新聞配達所に住み込む
大阪府立園芸高校受験(不合格)
塚本というところで新聞配達員
大阪府池田にある大阪府立園芸高校を受験(不合格)
守口の松下電器産業の工場
今のJR福知山線塚口駅前の新聞販売店
昭和15年 日本鉱業学校採掘科に合格
甲子園口に家
日本工業学校採掘科に合格
甲子園ロに家
工業学校の採鉱科を受け、合格
中之島洋画研究所に通う
昭和16年 日本大学付属大阪夜間中学入学
中之島洋画研究所
中之島洋画研究所
日本大学付属大阪中学の夜間部に入学
私立の夜間中学に入学



「谷町四丁目交差点」
<谷町の石版印刷所>
 水木しげるさんは昭和12年3月、境尋常小学校高等科(鳥取県境港市立境小学校)を卒業します(この辺りは別途掲載予定)。他の兄弟達は成績優秀で中学校に進んでいますが、水木しげるさんは絵ばかり描いていたりしたため、両親は学業には向いていないと判断し、就職を勧めます。就職先は大阪の印刷屋でした。父親に連れられて大阪の谷町にある小さな石版印刷屋に向い、住み込みとして働き始めます。
 水木しげるさんの「水木さんの幸福論、私の履歴書」からです。
「… 大阪・谷町の「田辺版画社」という石版印刷所で住み込みで働き始めると、伸びやがな気持ちはたちまちにして吹き飛んでいった。町ながの民家だった。六畳の板の間に机が六つ、台所は四畳半だった。五、六人の作業員がいた。朝五時にたたき起こされて、ぼーつとしたまま醤油がかかった漬物だけをおかずに飯をかき込んで、まず配達に使う、古ぼけた二台の自転車の手入れを始める。期待していた図案の仕事ではなく、印刷物に残っている墨をぼろきれで落とす作業をさせられた。自転車で配達もする。道がよく分がらないうえ、交通巡査の手信号の意味が理解できず、始終車にひかれそうになった…」
 大阪・谷町(現 大阪市中央区谷町)の石版印刷屋については、「水木しげる詳細年譜」では”石版印刷”、「ねぼけ人生」では”石版印刷屋”、「私の履歴書」では”田辺版画社”となっています。固有名詞は”田辺版画社”だけなので、大阪商工名鑑、大阪電話番号簿で調べたところ、”田辺版画社”では見つけることができず、谷町の印刷屋では”彰英館”、”石黒印刷所”、”福本印刷所”の3社を見つけることができました。石版印刷というキーでは分かりませんでした。再度調べたいとおもっています。

写真は現在の谷町四丁目交差点を南東の方角に撮影したものです。谷町筋は道路が拡張されて昔の面影は全くなく、又、谷町は天満橋から南に2.5Km、九丁目まである細長い町ですので、詳細の番地が分からないとお手上げです。

「中村版画社跡」
<寺田町の小村版画社>
 水木しげるさんは谷町(現 大阪市中央区谷町)の石版印刷屋を僅か二ヶ月でクビになります。のんびりした性格のため大阪人からすると、かったるいのかもしれません。次に勤めたのが寺田町の石版印刷屋でした。 
 水木しげるさんの「水木さんの幸福論、私の履歴書」からです。
「… 叔父のツテで、大阪の寺田町にある「小村版画社」に転じた。今度は社員が五、六十人もいる立派な会社だった。見習い社員には印刷字体の練習が課せられたが、ここでも仕事はもっぱら使い走り。よくやらされたのがジンク版の運搬だった。印刷に使う亜鉛板で、長さが一メートル半ほどあって、自転車の荷台にくくりつけて運ぶのだ。やっと少し地理を覚え、ゆとりが出てくると、活気にあふれる大阪の街の様子や風俗が面白くてたまらない。
 うまそうなにおいがすると、すぐに自転車を止めて見てまわる。薄給なので買い食いはほとんどできないが、探索を始める。なにしろ体はでかいが、まだベビイに毛が生えた程度の青年である。太鼓を作るおじさんの家の前で職人芸をずっと眺めたり、鍛冶屋さんがトンカントンカンと鉄を鍛えるのを飽かずに見物したり、ちんどん屋の後を付いて回ったりしていたのだから、たまらない。当然、苦情が殺到して、「遅いで、こら」と怒鳴られてばかり。…」

 大阪・寺田町の石版印刷屋については、「水木しげる詳細年譜」では”中村版画社”、「ねぼけ人生」では”中村版画社”、「私の履歴書」では”小村版画社”となっています。ココでは昭和12年の大阪商工名鑑で調べたところ、”小村版画社”では無く、”中村版画社”で見つけることができました。場所も寺田町ではなく、住吉区天王寺町3514番地です。ただ、大阪環状線の寺田町駅から東に300mの距離でした。推定ですが、「水木しげる詳細年譜」が正しいのではないかとおもっています。”大阪・寺田町”は寺田町駅のことではなかったのかとおもいます。

写真の正面、駐車場の向こう側が住吉区天王寺町3514番地、現在の住居表示で阿倍野区天王寺町北二丁目15番です。因みに寺田町駅は昭和7年(1932)に当時の城東線の天王寺駅 - 桃谷駅間に開業しています。


水木しげるの大阪地図 -2-



「泡盛精華美術学院跡」
<精華美術学院>
 二社の石版印刷屋とも直ぐにクビになります。丁稚奉公は水木しげるさんには向いていなかったようです。両親は水木しげるさんが得意な絵が学べる美術学校に入れようとします。 
 水木しげるさんの「水木さんの幸福論、私の履歴書」からです。
「… 「もう職探しはやめて絵の勉強を」という父の言葉に、私は躍り上がった。願ってもない展開である。父の気が変わらないうちにと思って、さっそく美術学校選びを始めた。試験のあるところはどうせ受かりっこないとはじめからあきらめて、無試験の学校を血眼で探し回った。
 すると大阪の上本町に「精華美術学校」という学校があることが分かった。入学試験はない。喜び勇んで父と一緒に下見に出かけた。今、京都にある精華女子短大とはまったく関係ない。立派なのは名前と校門に掲げた看板だけ。建物は掘っ立て小屋のような貧弱さで、何だか心細くなったが、せっかく来たので事務室を訪ねてみた。…」

 水木しげるさんが無試験で入学した「精華美術学院」について調べてみました。昭和12年の「大阪府学校案内」に天王寺区上本町九丁目95として掲載されていました。因みに校長は松村景春です。大阪の美術学校一覧も掲載しておきます。

写真の正面のマンション一帯が天王寺区上本町九丁目95番、現在の住居表示で天王寺区上本町九丁目2番です。空襲ですべて焼けてしまっていますのでなにも残っていません。もう少し少し調べる必要があるようです。

「大阪府立池田高等学校」
<大阪府立園芸高校>
 水木しげるさんは「東京美術学校(現・東京芸術大学)」に入りたかったようです。受験資格を得るために入学が簡単な学校を選びますが、結局口が災いして不合格になります。
 水木しげるさんの「水木さんの幸福論、私の履歴書」からです。
「… 絵で飯が食えたらなあ、という思いがだんだんと強まってきた。東京美術学校(現・東京芸術大学)に進んで本物の画家になりたいという大きな夢が膨らんできた。あこがれは募るばがりだった。
 だが、私は高等小学校卒だから、芸大の受験資格がない。そこで、卒業しても受験資格がもらえない専門学校の精華美術学校を辞め、大阪府池田にある大阪府立園芸高校を受験することにした。ここを無事に卒業できれば、芸大が受けられると思うと夢が広がった。問題は大の勉強嫌いの私が園芸高校に受かるかどうかである。
 自信は全然なかった。でも、まるで天の助けみたいな幸運な出来事があった。時節柄、まったくちんぷんかんぷんの英語が試験科目から消えたのは分かるが、この年だけ数学も国語もなかった。科目は何と国史(日本史)たけ。これは大助かりだ。ごく短い時間ながら、ねじり鉢巻きで猛勉強に励み、参考書をほとんど丸暗記して試験に臨んだ。
 本当にこのときは奇妙についていた。神様が味方してくれたのだ、と思う。前の日に学校に下見に行って、とびっきりの朗報を仕入れたのだ。やはり下見に来た受験生が学校の関係者と知り合いで、いろいろな情報を蓄えていた。何と五十人の定員に対して受験するのは五十一人だという。一人でも欠席者がいれば、全員合格の可能性だってある。「たぶ
ん、誰も落ちんやろう(落ちないだろう)」。彼は自信たっぶりに言い切った。私は「やったあ!」と飛び上がるほどうれしかった。…」

 東京美術学校に入学するには、受験資格があっても、凄い競争率ですから、実技能力がそうとう高くないと合格は難しかったとおもいます(1920年代以降は西洋画科の入試倍率が8倍以上、日本画も5倍以上になっています)。因みに、西洋画科の志願者の試験科目は木炭画のみの一科目で、学科試験は無かったので水木しげるさんにはピッタリだったかもしれません。

写真が現在の大阪府立池田高等学校です。大阪府立園芸高校は現在も存続しており、当時の名称は”大阪府立園芸学校”で、高校の名称は付いていませんでした。昭和16年まで現在の大阪府立池田高等学校の地にあり、水木しげるさんが受験した2年後に大阪府池田市八王寺に移転しています。

 次回に続きます。


水木しげるの大阪地図 -3-


水木しげる年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 水木しげるの足跡
大正11年 1922 ワシントン条約調印 0 3月8日 大阪府西成郡粉浜村(大阪市住吉区東粉浜3丁目)で父武良虎二母琴江の次男として生まれる
(本名武良茂生)
昭和4年 1929 世界大恐慌 7 4月 1年遅れで境尋常小学校に入学
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 13 4月 境小学校高等科に入学
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突
中原中也歿
15 3月 境尋常小学校高等科卒業
大阪・谷町の石版印刷の図案職人見習いとして就職
寺田町の中村版画社に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
16 大阪の上本町にある精華美術学院に入学
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
17 1大阪府池田にある大阪府立園芸高校を受験(不合格)
守口の松下電器産業の工場
西淀川区の毎日新聞配達所に住み込み
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
18 日本工業学校採掘科に合格
甲子園ロに家
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 19 日本大学付属大阪中学の夜間部に入学