●水木しげるの足跡をさがして 神戸、西宮編
    初版2013年10月19日  <V01L02> 暫定版

 「水木しげるの足跡をさがして」を続けます。今回は神戸・西宮を歩きます。取材を少し前から行っていたのですが、今回は神戸市立中央図書舘と西宮市立図書館で詳細を調べてきました。水木荘と今津での住まいの詳しい場所が分りました。




「水木しげる伝」
<「水木しげる伝」講談社漫画文庫>
 水木しげるさんの本は漫画、エッセイ、自伝も含めて数多く出版されています。今回は特に自伝を中心に4冊の本を読んでみました。一番頼りになるのが講談社漫画文庫の「水木しげる伝」上、中、下の三巻です。特に下巻には”水木しげる詳細年譜 2004年12月、関東水木会・平林重雄編が掲載されています。

 水木しげるさんの「水木しげる伝」、から”水木しげる詳細年譜(水木しげる伝 下 掲載) 2004年12月、関東水木会・平林重雄編です。
「昭和24年27歳(1949年)
アパートを買う

東京の生活を整理して引き払う。郷里の途中でたまたま一泊した神戸の安宿の女主人が「この家を買わないか」と持ちかけてきた。二階建て十室の安普請のアパートで100万円の借金付だが頭金20万円でとの話で月賦で買うことにする。管理人として父を呼ぶ、父は巣鴨プリズンに入っている兄の嫁を連れてくる。少しして弟も神戸の会社に勤めることとなり同居することになる。…」


上の本は講談社漫画文庫の「水木しげる伝」下巻です。講談社漫画文庫の「水木しげる伝」上、中、下の三巻は元々は2001年発行の「ボクの一生はげげげの楽園だ」を改題したものです。水木しげるさんが79歳の時に描かれたものです。下巻の最後に関東水木会・平林重雄編の水木しげる詳細年譜が掲載されています。

【水木 しげる(みずき しげる、本名:武良 茂(むら しげる)、大正11年(1922)3月8日 - )】
 大正11年(1922)生れ。鳥取県境港で育つ。太平洋戦争時、激戦地であるラバウルに出征し、爆撃を受け左腕を失う。復員後、紙芝居画家となり、貸本マンガを経て漫画家となる。 昭和40年(1965)、「別冊少年マガジン」に発表した『テレビくん』で第6回講談社児童まんが賞を受賞。代表作に『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』などがある。平成3年(1991)、紫綬褒章受章。 1996年、日本漫画家協会文部大臣賞を受賞する。 2003年、旭日小綬章を受章。同年3月、故郷である境港市に水木しげる記念館か開館した。(新潮文庫より)

「ねぼけ人生」
<「ねぼけ人生」ちくま文庫>
 水木しげるさんがもう少し若いときに書かれた本はないかと探してみました。昭和57年(1987)に書かれた「ねぼけ人生」という自叙伝的エッセイを見つけました。水木しげるさん65歳のときの本です。

 水木しげるさんの「ねぼけ人生」からです。
「… 東京では、ぼつぼつタクシーが出廻りだした。僕の所有するリンタクは、七、八台にふえていたが、いつまでもリンタクの時代ではなかった。いったん郷里にでも帰ろうと、身辺を整理し、リンタクを売り払うと、十万円になった。
 東京を発って、神戸で一泊したところ、その安宿を「二十万円でどないだす」と言う。いくらボロ宿でも、二十万円は安すぎるんじやないかと問うと、別に百万円の借金があるんだが、それを肩代わりして、月賦でいいから払い、頭金の形で二十万円だという。ちょうど十万円あることだし、田舎の親父に十万円たしてもらってアパート業でもすればいいと考えて、その安宿を買うことにした。…」

 漫画に劣らずこのエッセイは大変面白いです。筑摩書房ですから、少し手は入っているとはおもいますが、固有名詞や年代はあまり書かれていません、

写真は水木しげるさんのちくま文庫「ねぼけ人生」です。元々は昭和57年(1987)に筑摩書房より発刊されたものを1999年に文庫化したものです。

「…オレは…」
<「ほんまにオレはアホやろか」新潮文庫>
 水木しげるさんの「ねぼけ人生」は昭和57年(1987)に筑摩書房より発刊されていますので、自伝的なことを書いたもう少し古い本はないかと探しました。昭和53年(1978)にポプラ社より出版された「ほんまにオレはアホやろか」を見つけることができました。手元にあるのは新潮社の文庫本なので、初版本と文庫版を見比べてみないと内容が変っている可能性があるのですが、初版本が手元にないので文庫本のみでの内容確認となります。

 水木しげるさんの「ほんまにオレはアホやろか」からです。
「… 長雨があがった日に、逃げるようにして大阪まで汽車に乗った。それでも当時はノンキだったからけっこうたのしかった。ロクなこともなく、副会長とは大阪駅でわかれ、ぼくはいったん神戸まででた。
 とりあえず、旅館ともアパートともつかない宿に一泊すると、またも長雨にたたられてしまった。一泊のつもりが五泊になり、そこの女主人とも口をきくようになると、「どないだす、この家、二十万円で売りたいんやが」
「二十万円とはパカに安いじやないの」
「いえ、ほかに百万円の借金がありまんね。そやけど、それは毎月分割で払ってもろたらよろしいんですわ。つまり、わたいに二十万円、ほれから、百万円を月賦ですわ」…」

 漫画に劣らずこのエッセイは大変面白いです。筑摩書房ですから、少し手は入っているとはおもいますが、前後関係が参考になります。

写真は水木しげるさんの「ほんまにオレはアホやろか」新潮文庫版です。昭和53年(1978)にポプラ社より出版されたのが初版で、平成11年(1999)に社会批評社より、平成14年(2002)に新潮文庫より出版されています。内容を確認する予定です。



「水木荘跡」
<水木荘>
 水木しげるさんは昭和21年3月ラバウルより帰国します。それにしても水木しげるさんは生命力の強い方です。この戦争の中で生き抜くのは並大抵の力ではありません。水木しげるさんの性格によるのかもしれませんが、あまりくよくよ考えず、生きることのみに徹したからだとおもいます。
 水木しげるさんは帰国後3年間ほど東京で過ごしています。その後、実家の境港に戻る途中に神戸に立寄ります。そして宿泊していたアパートの家主と親しくなり、繁華街の新開地に近い水木通二丁目のアパートを購入します。この神戸での出来事が水木しげるさんの人生を変えたようです。

 水木しげるさんの「ほんまにオレはアホやろか」からです。
「…そして、ただちに鳥取に連絡して、父に来てもらった。管理人などの人手もないからである。父は、兄貴の嫁も連れてやってきた。兄貴はスガモ・プリズンに入っているから、その間、内職がわりにアパートの掃除したりするのにいいというわけだ。
 少しして、弟も神戸の会社に勤めることになり、同居することになった。
 アパートは、神戸の兵庫区水木通りにあったから、平凡に「水木荘」と命名した。これが、やがて「武良茂」のペンネーム「水木しげる」のモトになるのである。

 「水木荘」の怪入たち

 このアパートは、外から見ると堂々たる建物だったし場所も便利なところにあったが、もとが安宿なものだから、部屋割りもアパートらしくなく、昼間でも真暗な部屋があったり、流しも共同だったり、その上、一部だが雨もりがひどかったりして、とてもマトモな人の入るようなものではなかった。
 このアパートの住人の一入に紙芝居画家がいて、僕が紙芝居を始めるきっかけになるのだが、他にもアヤシゲな住入がいっぱいいた。
 神戸という町は、港町で人の移動もはげしく、どことなくタイハイの匂いもただよっているから、奇妙な人たちが我が水木荘に流れつくのであろう。そんな人たちの話を少し書いてみることにする。
 二階の一室には、ストリップおばさんが住んでいた。…」


写真は現在のダイヤ通りです。右側が水木通二丁目で、この先の「水木湯」の左隣に「水木荘」がありました。正確には下記の地図を見てもらうと分かりますが、「水木荘」は一筋中に入ったところにありました。現在残っているのは「水木湯」だけとなっています。「水木荘」のところは周りも含めて大きなマンションになっています(下記の地図の赤破線のところ)。兵庫消防署は移転していますが、税務署はそのままです。大きく変ったのは水木通りの南側にあった大開通りです。戦後、拡張が行われ片側5車線の幹線道路に変っています。又、昭和31年の住宅地図によると「水木荘」は24部屋となっています。本では10部屋と書かれていましたが分割して部屋数を増やしたのかもしれません。次の持主は賢かったようです。当時の住所で神戸市兵庫区水木通二丁目6番です。


水木しげるの神戸地図(昭和31年)



水木しげるの神戸地図(現在)


「北野小学校跡」
<神戸市立美術研究所>
 水木しげるさんは神戸「水木荘」から西宮市今津に引っ越した後、本格的に絵を習うために「神戸市立美術研究所」に通い始めます。小磯良平、田村孝之介、小松益喜に習ったようで、一流どころです。
 
 水木しげるさんの「ほんまにオレはアホやろか」からです。
「… ぼくは、それでもヒマを見ては絵の研究所へ通った(一週間四日ぐらいは通った)。
 神戸市立美術研究所といって、北野小学校の校舎を夜間使用しておこなわれていた。小磯良平とか田村孝之介とか小松益喜とかいう人たちが先生になり、石膏デッサンが中心だった。ぼくは、小学校以外まともに卒業した学校はないのだが、この美術研究所に一番長く通ったことになる。…」


 水木しげるさんは真面目に通ったようです。この教師陣なら真面目に通いますし、講義も真剣に聞きますね。得ることが非常に多いとおもいます。小松益喜は堀辰雄の『「旅の絵」を歩く』で登場しています。

写真は現在の北野小学校跡です。門柱の表札は元のままありました。現在は「北野工房」となって、建物をそのまま利用しているようです。場所はトアロードを中山手三丁目の交差点まで上がった先、左にあります。神戸市中央区中山手三丁目17番です。



「パチンコ屋」
<西宮の今津>
 水木しげるさんは昭和28年、神戸の「水木荘」を売払い、西宮市今津に家を購入します。「水木荘」が赤字続きで儲からないと判断し、売り時を見ていたのだとおもいます。アパート経営は上手に行えば儲かるのですが、紙芝居を書き続けての両方は旨くいかなかったとおもいます。

 水木しげるさんの「ほんまにオレはアホやろか」からです。
「… こんなわけで、この天の助けのような話もおシャンになり、とうとうアパートを売ることになった。百万円と値をつけたが買い手がなく、九十五万円にして、キングコングみたいなおばさんに売った。この金も、借金とりがむしるようにとっていき、手もとにのこったのは二十五万円。住む所がなくてはこまるので、この二十五万円で、西宮の今津に、弟の友人(その後テレビ会社の重役)が売りにだしていた家を買った。このあたりは商店街だったので何か店をはじめようかとも思ったが、その資金もない。しかたがないので、そのままにしておいた。…」

写真が現在の今津駅前商店街です。少し先の左側に水木しげるさんの家がありました。左側はパチンコ屋になっており、このパチンコ屋の一角が水木家でした。街灯の上に記念の看板がありますので直ぐに分かります。最寄りの駅は阪神電鉄 今津駅です。各停しか停まりませんので注意して下さい。

「今津駅前商店街」
<今津駅前商店街>
 水木しげるさんの「水木しげる伝 (中)戦中編」のP452に今津駅前商店街の様子がマンガで書かれています(版権で掲載できません)。看板に書かれた名前を見ると、左側には”ほねつぎ”、右側には順に”三菱カラー”、”スイス堂”、”今津**”が読み取れます(多分写真を見て書かれたのだとおもいます)。

 水木しげるさんの「ほんまにオレはアホやろか」からです。
「…  ある日、西郷という人が訪ねてきて、ぼくの家の下をゼヒかりたいという。なにをやられるのですかときくと、パチンコ屋だという。
「パチンコ屋を」
「は、パチンコ屋を」
「ええ、パチンコ屋を」
 などというまのぬけた話しあいのすえに、一階を西郷青年に一か月八千円で貸し、ぼくたちは二階に住むことになった。…
あたらしく店の権利を買ったのは、ダンプの運転手だった。
 ところが、彼は景品を買う金がつづかなかったらしく、一週間ほどで店をしめ、どこかで金のつごうをつけてくると、また二、三千円で開店するという不思議な営業方法。
 そのうち、とうとう店はしまったままになり、九千円の家賃も半年ほどたまる。…
 パチンコ屋の後は整理して、歯医者に貸した。柔道五段と称する大男があらわれて、貸してほしいというから、何にするかと思ったら歯医者だったのだ。
 ついでに歯を二、三本なおしてもらったが、ただだった。…」

 昭和37年の住宅地図と較べてみました(下記の地図参照)。
・ほねつぎ ⇒金沢治療院⇒現在はパチンコ屋
・三菱カラー⇒タマヤ文具(三菱カラーはエンピツ)⇒現在はお好み焼の看板のみ
・スイス堂 ⇒スイス堂時計⇒自転車置場
・今津** ⇒今津米穀店⇒現在は”水晶米”の看板が有るのみ
のことだとおもわれます。
 上記の写真には産経新聞販売店(当時からありました)が一番左に写っています。その右隣が当時はパチンコ屋でその右隣が今津米穀店でしたので、水木しげるさんの家の向い側はだいたい分りました。

 水木しげるさんの「水木しげる伝」、から”水木しげる詳細年譜(水木しげる伝 下 掲載) 2004年12月、関東水木会・平林重雄編です。
「…そこで水木は、他社で描く時にペンネームに東真一郎名を使用していた。このペンネームは、西宮時代に階下を貸していた歯科医の名が東で、それに兄の長男の真一郎の名を合わせたものだった。…」

 ここで、”西宮時代に階下を貸していた歯科医の名が東”と書かれています。この東という歯医者を住宅地図で探してみました。”たまや文具店”の向い辺りに”東歯科”と書かれているのを見つけることができました。

写真は現在の今津駅前商店街、水木しげる家の向い側を撮影したものです。この写真と上記から、”お好み焼 蛸八”の看板のある家と、”ぐりる池田”の看板のある家の向い側辺りに水木しげる家が在ったものとおもわれます。現在は一帯がパチンコ屋になってしまっています。ただ、街路灯に”ゲゲゲの鬼太郎 水木しげる邸跡”との看板が丁度その位置になるようです。

 改版予定です!


水木しげるの今津駅前商店街地図(昭和37年)


水木しげるの西宮地図(現在)


水木しげる年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 水木しげるの足跡
大正11年 1922 ワシントン条約調印 0 3月8日 大阪府西成郡粉浜村(大阪市住吉区東粉浜3丁目)で父武良虎二母琴江の次男として生まれる
(本名武良茂生)
昭和4年 1929 世界大恐慌 7 4月 1年遅れで境尋常小学校に入学
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 13 4月 境小学校高等科に入学
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突
中原中也歿
15 3月 境尋常小学校高等科卒業
大阪・谷町の石版印刷の図案職人見習いとして就職
寺田町の中村版画社に入社
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
16 大阪の上本町にある精華美術学院に入学
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
17 1大阪府池田にある大阪府立園芸高校を受験(不合格)
守口の松下電器産業の工場
西淀川区の毎日新聞配達所に住み込み
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
18 日本工業学校採掘科に合格
甲子園ロに家
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 19 日本大学付属大阪中学の夜間部に入学
         
昭和21年 1946 日本国憲法公布 24 3月 ラバウルより帰国
         
昭和24年 1949 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 27 神戸で二階建てのアパートを購入
昭和25年 1950 朝鮮戦争 28 アパートを「水木荘」と命名、紙芝居を書き始める
         
昭和28年 1953 朝鮮戦争休戦協定 31 神戸のアパートを売却し西宮市今津に家を購入
         
昭和32年 1957 コカ・コーラの販売開始
ソ連が世界初の人工衛星
長嶋茂雄が巨人に入団 
35 紙芝居に見切りを付けて単身上京