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最終更新日:2006年6月9日


●水上勉の生誕の地 若狭を歩く
  初版2004年12月11日
  二版2007年10月7日 
<V01L01> 写真等の追加更新

 今週は「水上勉を歩く」に戻って、残っていた生誕の地の「若狭を歩く」を掲載します。水上勉は大正8年3月福井県大飯郡本郷村岡田で父 覚治、母 かんの次男として誕生しています。


若狭本郷駅>
 水上勉の生誕の地である福井県大飯郡本郷村岡田と聞いてもあまりビンときません。何処かわかりませんね。若狭というと京都の日本海側とすこしわかります。この若狭の名前と地名を合わせて若狭本郷という駅の名前を付けたようです。「わが故郷、福井県大飯郡本郷村にある小浜線の駅だが、町村合併でいまは大飯町と村が昇格したけれど、駅の名は昔の「わかさほんごう」である。平べったい駅舎の改札口を出ると、すぐプラットホームになっていて、上下線の待合わせる機関車の前を走りぬけて、向かいのホームへわたることになっている。私が生まれてはじめて汽車に乗ったのもこの駅である。いまはかなりな老木となったが、子供のころは苗木に毛の生えたぐらいの若桜がホームに植えられていて、春がくると、いちめんに花がこばれ、その向こうに青戸の入江とよぶ海がひろがっていた。あれは、たぶん六つか七つだった。母につれられてこの駅で汽車にのり、青葉山にある松尾寺へ詣でた日、石炭を焚く汽車の煤けた窓に顔押しっけて、外げしきのうしろへ走るのを眺めていたら、野道が眼の下のレールにへばりつくぼど接近したかと思うと、急にはなれて、弓字なりに海岸へ逃げたり、踏切をつくって山裾へまわりこんだりするのが面白かった。大正十二年に開通した線路だから、ばくの四歳の時にここを汽車が走ったわけである。レールは、入り組んだリアス式海岸よりに、まっすぐ糸をひいたようにつけられたので、旧道がそんなふうにまがりくねって残った。…」。”平べったい駅”だったのが、なんといっていいのかわかりませんが写真のような駅になっていました。いったいどうなっているのでしょうか、若狭というイメージと駅のイメージが合いません。センスというものがあるのか疑ってしまいます!!二見浦駅でも書きましたが、なにか勘違いしているのではないでしょうか!!

左上の写真が若狭本郷駅です。とんがり帽子はなんなんでしょう。若狭というイメージを大切にしてほしかったです。 小浜線の新舞鶴(現在の東舞鶴)から小浜まで小浜線が全通したのは大正11年(1922)12月です。現在の本郷小学校は佐分利川の側にありますが当時は若狭本郷駅のすぐ側にあったようです。「…この本郷小学校の本校は当時、駅前通りから、左手へ入って、線路に密着した田圃の中に、コの字に建っていたのである。のち、この校舎は、佐分利川河口の現在地へ移転し、建物はマルチョン印の醤油屋に売却された。…」。右の写真は若狭本郷駅から東方面を撮影したものです。醤油屋さんの詳細の場所がわかりませんでした。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)


水上勉の若狭年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

大正8年
1919
松井須磨子自殺
0
3月8日 福井県大飯郡本郷村岡田で父 覚治、母 かんの次男として生誕
大正14年
1925
治安維持法
日ソ国交回復
6
4月 本郷尋常小学校野尻分教場に入学
昭和4年
1929
世界大恐慌
10
4月 4年生途中から本郷尋常小学校本校へ転校
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
11
2月 京都の相国寺瑞春院へ小僧に出される、京都 室町尋常小学校へ転校
昭和19年
1944
マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
25
4月 若狭の実家に疎開、青郷国民学校高野分校に勤める
5月 召集令状 京都伏見中部第四三部隊に配属
7月 除隊
8月 召集解除
昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
26
10月 上京


<水上勉の若狭地図 -1->



水上勉 生誕の地>
 上記にも書きましたが水上勉の生誕の地は福井県大飯郡本郷村岡田です。「大正八年三月八日に、福井県大飯郡本郷村字岡田に生まれた。若狭湾にのぞんだ村から狭い谷を半里ばかりはいった六十戸たらずの部落だった。父は三十二歳。母二十二歳。二歳の兄がいた。祖母は六十九で、もう腰がまがっていて、娘じぶんに小豆のサヤで眼を突いたのがもとで全盲になっていた。幼少時に見た記憶しかないのだが、外歩きは竹杖をはなさず、家のなかでは這い歩きしていた。私と兄とは、この盲目の祖母に背負われて育った。父は大工職人だったが、弁舌家で理屈をいわせれは村のだれにも負けなかったと言われるはどだったので、村のだれからもきらわれ、仕事は部落でせずに、駅のある本郷村や、汽車で行かねばならない、小浜、高浜へ出かけ、めったに家にいたことがなかった。家にいなくても、金さえ持ち帰ってくれれば、母は苦労しなくてすんだろうが、生活費はおろか、電灯代まで払い遅れたので、私が四歳の時、祖母が死んだ年、電灯は無くなった。腰にべソチをつるした工夫がふたりきて、家の前まで引き込み線できていた電柱を抜きとると、軒下にさしこまれていた線を切って帰った。白い陶磁製の絶縁棒が二本のこされてコードの切れはしがトカゲの尾みたいに長らく残っていたのをおぼえている。…」。相当貧しかったようです。岡田の村を訪ねてみましたが、小さな村でしたが現在では立派な家が多くて昭和初期の貧しい村というイメージは全くありませんでした。当たり前ですね!

左上の写真の露地の先に水上勉の実家があります(現在も親族の方がお住いのようですので直接の写真は控えさせていただきました)。ただ現在の実家は水上勉が生まれた家ではありません。岡田の中でかなり昔に一度転居しています。「…村の人は乞食谷といったが、正式にはどう呼ぶのか今も知らない。私の生まれた家はその谷のわきを登ったもう一つの小谷のとば口にあった。六十三軒ある部落と少しはなれていた。そのため電柱もきていなかったので、昭和十九年まで無灯だった。弄ぶき入母屋の軒に表口だけ錆トタソが一枚のびていた。間ぐち三間、奥行きはさて、五間ぐらいあったかどうか。大戸をあけると土間があり、上りはなのひくい板間に竃が二つならぴ、薪置き場から一段高くなった居間へあがると、そこに囲炉裡があった。炉端から板の間がのびて奥の障子に至り、その左に六畳の部屋が一つある。畳を敷いた部屋はそれしかなく、あとは納戸と呼ばれた三畳の板間と土間のわきの四畳ぐらいあった変型板の間に蓬を敷いた寝所である。そこに父母、兄弟妹五人が暮した。私は二ばんめ。九歳の時にこの家を出た。それが昭和四年だから、ざっと五十年前になる。…」。水上勉の昔の実家が何処にあったか詳細の場所は分かりませんでしたが、岡田の一番奥の場所の写真を掲載しておきます。

<西安禅寺>
 「…村の菩提寺は、西安寺といい、臨済宗相国寺派だった。母方の祖母のいる上の町の通りを、山へ向かって一町ばかり歩くと、石段があって、登りつめた高台広場に、本堂と庫裡がかやぶき屋根の下につながっていた。広場には大きな百日紅がつるつるの枝をさしのべ、そのわきに鐘楼があった。和尚さまは竹田真乗といい、部落の素封家亀右工門の次男で、少年時に高浜町(一つ駅向こうの海岸町) にある長福寺に弟子入りし、京都相国寺の僧堂で雲水をつとめ、修行終えると西安寺の住職になった人である。…」。水上勉が「わが六道の闇夜」で村の西安禅寺のことを上記のように書いています。後に京都の相国寺塔頭瑞春院に小僧で出されるときに世話をしたのがこの西安禅寺の和尚でした。「…大雪の日だった。二月十八日。私は、西安寺の和尚さまと父につれられて京へ向かった。岡田部落から本郷まで一里近い雪道だったが、京へゆけば、こんなワラ靴は履かないですむといいながら履かされた深靴をはき、父のトンビの仕立て直しであったマントを着ていた。和尚、父、私、そのうしろを蓑を着た母がついてきた。部落のロまで、弟や文左エ門の祖母、作左エ門の人たちが見送ってくれた。この時に、文左エ門の祖母がくれた餞別が五十銭銀貨二枚。佐分利川の土堤に出て、ふりかえると、粉雪の中に、いつまでも、祖母たちが手を振っているのが見えた。私は今日も、この別れの日を抱いて暮らしている。…」。11歳のときの親との別れですから”この別れの日を抱いて暮らしている”はかなりのものだったのでしょう。なにかわかりますね。

右上の写真が西安禅寺です。上の文書に書かれている通り”石段があって、登りつめた高台広場に本堂”はありました。写真のとおりです。

若州一滴文庫>
 水上勉しの実家から少し離れたところに水上勉氏の蔵書約2万冊を納めた「若州一滴文庫」があります。「我々の郷土の大飯町には、当町出身の作家、水上勉氏の設立による文化施設「若州一滴文庫」があります。この若州一滴文庫は、水上勉氏の蔵書のうち約2万冊を収納し、広く閲覧に供され、また、文学作品に使用された30名以上の現代画家の装丁、挿絵の原画約200点、ならびに佐分利在住の竹細工師、岸本一定氏が製作された竹人形100体余り、それに取り付ける500点を越える面も収蔵され、当町唯一ともいえる文化、芸術の情報発信地であります。…」。この「若州一滴文庫」は特定非営利活動法人(一滴の里)でNPO設立趣旨書に上記のように書かれています。

左上の写真が「若州一滴文庫」の正面です。設備も整っていて、入場料はとられますが説明の方がついてくれて丁寧に説明して頂けます。。

本郷小学校>
 水上勉が通っていた小学校が本郷尋常小学校でした。最初は分校に通っていたようですが途中で本校に変わっています。「…あれは、小学三年生、つまり私が京都へ出る直前のことだったかと思う。アメリカから人形が到着するというので、本郷尋常高等小学校の全生徒が、駅前広場、といっても桜の植わった砂利道と貯木場の空地に集まった日のことである。いい天気だった。私たちは、まだ野尻分教場にいたはずだから、その日は、本校の(駅前通りにあった)子らに合流すべく、朝早くに家を出て、いったん分教場に集合し、先生に引率されて駅前へきたのだと思う。…… 私たちの行列は、線路に沿うて建っている学校まで、長くつづいた。この本郷小学校の本校は当時、駅前通りから、左手へ入って、線路に密着した田圃の中に、コの字に建っていたのである。のち、この校舎は、佐分利川河口の現在地へ移転し、建物はマルチョン印の醤油屋に売却された。…」。分校の場所はわかりませんでした。本校は上記に書いてある通りに駅の傍にあったようです。現在は佐分利川傍に立派な校舎があります。

右の写真が現在の本郷小学校です。あまりに立派なのでビックリしました。

青郷国民学校高野分校>
 昭和19年4月、水上勉は夫婦で東京から疎開してきます。「…ぼくは昭和十九年の四月から二十年の九月まで、福井県と京都府の境にある青葉山中腹の高野分教場につとめていた。昔でいう代用教員で、当時の役職名は助教といった。給料は、たしか、記憶にまちがいなければ、八円五十銭ぐらいだったかと思う。高野、今寺という二部落の低学年、四年生までの子をあずかっていた。四学級を一教室で教える複々式だった。…… 教室は四間四方ぐらいあったか。疎開してきた子らが急にふえたので、机と椅子を置くとすし詰めに近かったのをおばえている。その教室のわきに二畳の職員室と十六畳ぐらいの板の間(これが雨天体操場だった)と、土間をへだてて六畳と四畳半ぐらいの台所つきの宿舎があった。瓦ぶき切妻一棟で、さて校庭はテニスコートの半分に足らぬぐらいの広さだったろうか。山の中の中腹の田園を埋めたて、全戸数四十戸あるかなしかの部落の親たちが、積雪の多い冬季の低学年児童の本校通学の不便をきらって、このような分校を建設したという。歴史は古いらしかった。…」。この分校に行くには国道26号線の青郷駅近くから折れて高野の方に向かいます。こんな所に分校があるのだろうかとおもいながら車を走らせたところ、丘の上にまだ分校がありました。鉄筋コンクリートの立派な校舎になっていましたが名前は青郷小学校高野分校と、当時のままでした。

左上の写真は現在の青郷小学校高野分校です。左の写真は青郷小学校本校です。石柱は昔のままのようです。青郷駅から直ぐのところに青郷小学校本校はあります。「…私は、東京で新聞記者をしていたのをやめて、この分校の麓の駅から三つ目の駅の若狭本郷の生家から通った。朝六時起きで、汽車で青郷に降り、本校に立ち寄ってから、山を登るのであった。分教場へ着くころは、始業時間の三十分ぐらい前になった。子供らはきていて、勝手に校庭であそんでいた。…」。水上勉は疎開していた若狭本郷駅から青郷駅までは小浜線に乗り、青郷駅近くにある青郷小学校本校によってから高野にある分校に向かっています。

「水上勉を歩く」は最後に軽井沢と勘六山房を掲載して終わる予定です。


<水上勉の若狭地図 -2->


【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫
・命あるかぎり贈りたい:山路ふみ子、草思社

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