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最終更新日:2006年2月19日

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●第一回 蓬莱町から動坂目赤不動まで 初版2000年6月24日 <V01L02>

今週は水上勉(みずかみつとむ)の「私版 東京図絵」 散歩の第一回目として蓬莱町から動坂目赤不動までを紹介します。



 「二十一歳の四月はじめ(1940年)に上京した。父が駒込蓬莱町勝林寺を染井に移築する仕事をしていたからである。この機会を逸しては上京できまい、と思ったのだった。」は水上勉の「私版 東京図絵」の最初の書き出しです。水上勉は21歳の春(昭和15年)に、若狭から東京に出稼ぎに来ていた父の元に出てきます。兵役検査で肺病のため丙種となり、兵隊にもいけず、母親に布団袋と柳行李をチッキ(昔の鉄道用語で手荷物という意味で私なんぞは意味が分かります)にしてもらい、敦賀、米原経由で父の飯場がある東京駒込の蓬莱町へ出てきたわけです。

mizukami1.jpg 現在の駒込蓬莱町の飯場は「東京図絵」では「ところで、この稿を書くにあたって、今年(1994年)四月半ば、蓬莱町を訪ねてみたくなった。行ってみると、質屋の母屋は失せていて、勝林寺跡は駐車場になり、土蔵だけが残っていた。・・・市電通りに面して、今日では浩妙寺という寺が土塀に囲まれてあるが、この寺と駐車場との間にアスファルトの道路が一筋あり、土蔵はその道路に接しているのだった。・・・・浩妙寺の前の不動産屋がビルになっていた。」とあります。現在の文京区向丘2丁目付近で、東大前から農学部前を通り、右手に浩妙寺(現存していました)を見た手前あたりです。現在も駐車場(右の写真で、手前の通りは本郷通りです)ですが土蔵はもうありませんでした。浩妙寺前の不動産屋さんは左の写真の新井不動産屋さんのことだと思います。「東京図絵」を読むと昭和15年ころの駒込蓬莱町の様子が手に取るように分かりますね、時代は大政翼賛会が出来た年で軍国主義へまっしぐらの時代だったと思います。

dozaka2-w.jpg 水上勉の父が東京で下宿していたのは動坂のクリーニング屋の二階でした。「東京図絵」では「父が建てた目赤不動は、動坂の途中にあった。詳述しておくと、この町は駒込林町に隣接して、市電停留所は、神明町と坂下町の中間の動坂下である。動坂下へは、蓬莱町から歩いて十分ぐらいはかかったろうか。父の泊まっていたクリーニング屋は、市電通り(池之端通り)から動坂を登りつめたあたりの左側にあった。目赤不動はその途中の左手である。」と父の泊まっていたクリーニング屋さんと目赤不動堂が動坂にあったはずなのですが、残念ながら目赤不動堂は昭和20年の東京空襲で焼けてしまっており(水上勉は父の立てた目赤不動堂の焼け跡をしっかり見ています。)、動坂の左手は土ごと削り取られてビルが立ってしまっており、クリーニング屋さんも無くなってしまっています。(左の写真は動坂下から動坂上左側を撮ったものです。)

<動坂(不動坂・堂坂)>
 「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。」(『江戸名所図会』) 「動坂は田畑村へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動の像在り、是目赤不動の旧地なり、よりて不動坂と称すべきを 上略せるなりといふ」(『御府内備考』)。坂上の北側には目赤不動尊の旧跡といわれています日限地蔵堂がありました。この動坂にあった目赤不動尊を三代将軍家光が、現在の本駒込1丁目の南谷寺に移しています。明治26年(1893)このお堂を修理中、地下から土器や石器が出ています。人類学者坪井正五郎氏が、コロポックル説か らその遺物を鑑定した。昭和49年発掘された駒込病院敷 地内の動坂遺跡(縄文式)とつながるものである。(「ぶんきょうの坂道」より)
<コロボックル>

 目赤不動堂については動坂下近くの和菓子屋さんに詳しく聞いており「お不動さんは駒込のお寺へ移っていますよ。この坂を登ってゆきなさったら徳源寺というお寺があります。そこで聞いてごらんなさい。さあ、コロボックル、そんな石が立ってましたかなァ」と言われています。そのあと日限地蔵堂が移されている徳源寺を訪問しコロボックルを探し出しています。(右の写真が徳源寺のコロボックルで、写真の左手奥の山門近くに日限地蔵堂がありす)


<勝林寺>
 水上勉の父が移築した染井の勝林寺については「染井の勝林寺へも戦後早々に訪れたことがあった。」と書かれています。勝林寺には田沼意次や太地喜和子さんのお墓があり、かなり有名なお寺です。(左の写真が勝林寺です)

<水上勉の就職>
 上京して父と喧嘩した水上勉は、知り合いの紹介で富士見町にあった日本農林新聞に就職しています。最初の下宿は鶴巻町の岩梅館で二カ月ほどいて、榎町の春秋荘に越しています。(ここに約一年)このアパートには谷崎終平(谷崎潤一郎の弟)さんがおられたようです。


<水上勉(1919〜)>
1919年3月8日、福井県に生まれる。1961年『雁の寺』で直木賞を受賞、一躍有名となる、その後は旺盛な創作力で、『飢餓海峡』『五番町夕霧楼」『越後つついし親不知』(1962年)、『越前竹人形』(1963年)と、傑作を続けて発表し、文壇に不動の地位を築いています。

動坂付近地図


【参考文献】
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会

【交通のご案内】
・新井不動産付近:営団南北線「東大前」より 徒歩1分位
・動坂:JR山手線「田端駅」下車 徒歩10分位
・勝林寺:JR山手線「巣鴨駅」下車 徒歩15分位

【見学について】
・新井不動産付近:東京都文京区向丘2丁目付近
・動坂:東京都文京区本駒込4丁目と千駄木4丁目の間
・勝林寺:東京都豊島区駒込7-4

第二回以降はは気が向いたらやりますので、あてにしないでください。

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