kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年6月9日


●水上勉の東京を歩く 戦後編-4- 初版2004年10月16日 <V01L01>

 「水上勉を歩く」東京編の最終回を掲載します。昭和30年代が中心で、その後の水上勉は京都 百万辺交差点近くの思文閣と軽井沢町松並木通り、死去された東御(とうみ)市に移り住んでいます。



<松戸市下矢切駅前のの記念碑>
 東京近郊で水上勉の記念碑が建てられているのはこの場所しかないとおもいます。生前に作られるのは珍しいです。亡くなられたので記念碑が増えてくるとはおもいますが、一番最初に建てられた記念碑としてはこの松戸市下矢切でしょう。「水上勉氏旧居跡 現在矢切駅構内 水上勉氏は、昭和三十二年九月から昭和三十四年十月まで下矢切の地に居住。矢切の豊かな自然に触れ、不遇時代を過ごし直木賞候補作となった「霧と影」(34年8月刊行)を執筆。昭和二十三年「フライパンの歌」刊行以来約十年の沈黙を超え、作家としての……」。と石碑には刻まれています。ここに移り住んだのは昭和32年で、文京区富坂からです。二回目の結婚をしたところで、ここで初めて一軒家を借りることになります。「…富坂二丁目の加藤家から松戸の下矢切へ越したのは鈴木義勝夫妻のお世話だった。当時の下矢切は畑の多い坂上にあって、鈴木夫人の里である式場病院の台地に隣接していた。六畳に四畳半ふた間しかない木造バラックだったが、生まれて初めて一軒家に住めたのでうれしかった。下矢切から国府台まで歩き、バスで市川駅に出、国電で御茶ノ水で降り、あとは地下鉄で繊維経済研究所のある日本橋人形町まで通った。その松戸の一軒家で、私は既製服の行商をしていたので、その暇を見て「霧と影」七百枚を書き上げた。そして、これを当時、柏に住んでいた川上宗薫氏に見てもらい、氏の世話で、河出書房の坂本一亀氏に送ったところ、手直しすれば面白くなる故、出版も可能だと勇気づけられ、都合四回書き直した。四回目ににっこりされた坂本さんの顔は今日も鮮やかである。四回目の原稿も、坂本さんの朱ペンでの訂正が入って、真っ赤だった。「霧と影」は直木賞候補になり、受賞はしなかったが、他社から注文がくるようになった。松戸の家の下に県警の射撃練習場が出来た。私の家は的王あたる崖の上の畑に建っていたので、屋根の樋に散弾がたまるほど、毎日、激しい鉄砲の音がした。…」。繊維経済研究所にはバスで市川駅に出、国電で御茶ノ水で降り、あとは地下鉄で通勤していたと書いています。お茶の水からは地下鉄丸ノ内線ですので、三越前で降りてあとは人形町まで歩いていたようです。しかしながらここでは繊維経済研究所に通ったと書いていますが、既に東京服装新聞社に移って、そこも潰れて洋服の行商を始めていた頃だとおもわれます。どうも前後関係がおかしいです。


左上の写真は北総鉄道矢切駅前にある水上勉氏旧宅跡の碑です。駅のロータリーの所に建てられています。当時の水上勉氏宅はこの駅の裏側の県警の射撃場の上の高台に建っていたようです。射撃場は現在は無く、空き地になっています。水上勉氏旧宅は昭和48年に火災で消失しています。残念ですね、残っていたら記念館になったかもしれません。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。(福武文庫より)

水上勉の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和28年
1953
朝鮮戦争休戦協定
34
3月 人形町の繊維経済研究所に勤める
昭和29年
1954
スエズ動乱
35
4月 東京服装新聞社を起こす
昭和31年
1956
日ソ国交回復
37
3月 富坂二丁目17加藤嘉氏宅に転居
西方叡子と結婚
昭和32年
1957
長嶋茂雄が巨人と入団契約
38
9月 松戸市下矢切123-9に転居
昭和34年
1959
皇太子殿下ご成婚
40
5月 「霧と影」出版
10月 小石川初音町に転居
昭和35年
1960
三池闘争、安保闘争東大生樺美智子が死亡
41
11月 豊島区高松町2-37に転居
昭和38年
1963
ケネディ大統領暗殺
44
9月 世田谷区成城町382に転居
昭和52年
1977
キャンディーズ引退
58
実子 窪島誠一郎と再開
平成3年
1991
多国籍軍がイラク攻撃
72
長野県北佐久郡北御牧村勘六山に別荘を移す
平成16年
2004
85
9月8日 肺炎のため死去

<水上勉の東京地図 -1->


加藤嘉氏宅>
 護国寺前の青柳荘から昭和31年初に文京区富坂二丁目の加藤嘉氏宅に転居てします。加藤嘉氏は映画俳優で有名で、「砂の器」にも犯人の父親役で出演しています。この頃の加藤嘉氏は共産党員で女優の山田五十鈴さんと離婚した後ではないかとおもいます。家が借りられた理由が解ります。この富坂の家も山田五十鈴さんとの家でした。「…窓から礫川小学校のグラウンドが見えていたが、少し説明を加えると、富坂二丁目の加藤家のある地域は高台になっているので、校庭まで六、七メートルの崖が落ち込んでいるのであった。崖の斜面は、夏だとつる草が茂っていた。私は二階の間借り人なので、毎日、この校庭を眺めて過ごした。雄大な眺めだった。盆の底のような低みを占拠した校庭の正面から右手に向かって高台がある。大きな常緑樹の森が続く。伝通院である。 木に隠れて伽藍の屋根は見えないが、空が白く広がるあたりは墓地のはずで、この寺からさらに左手は小石川表町、原町であった。ところどころに樺の巨木が枝を張っている。伝通院から少し坂になった道の左側に竹を編んだ長い塀のあるのが幸田露伴邸、そのさらに左手の低みの家並みの中に野間宏氏邸があるはずで、文学青年の私には、この眺望はいつもまばゆい空の下にあった。…」。と書いています。文京区は文士の町です。文学に関係したさまざまな人たちが住んでいました。伝通院はすぐ近くで、その先に幸田露伴邸がいまもあります。

左上の写真正面を右側に曲がった辺りに加藤嘉氏宅があったとおもわれます。地番の範囲が広くて詳細の場所まで特定できていません。写真の中央の家の左側に礫川小学校が少し見えます。「…私は、富坂二丁目の、ラジオ屋の角をはいったとっつきにある、洋風の清酒な加藤家へはいった。…」。中央大学前の富坂の細い路地から入り、左に曲がり次に右に曲がると礫川小学校の裏側になります。富坂の入り口右側にラジオ屋があったようです。

小石川初音町>
 文京区富坂二丁目から松戸市下矢切に転居し、二年後に富坂二丁目のすぐ傍の小石川初音町に戻ってきます。最初の妻との子供を実家から引き取り、家族三人で生活し始めたころです。「…東京へ越したくなった。娘が礫川小学校をおえ、松戸中学を経て竹早高校へ行きたいというので、初音町のこんにやくえんまの前の酒屋の路地奥に借家を見つけてまた本郷へ越した。こんにゃくえんまは、冨坂に住んだころから馴染んでいたし、初音町は都電の停留所もあって会社へも便利だった。都電通りからこんにやくえんまに至るT字路の商店街で、ほとんど生活物資が買えた。えんま堂の前には市場もあった。路地の奥は、隣家が家主の渡辺さんである。大家は二階家だったが、借家は平屋で、ぜいたくなほどの門があった。門からほとんどひっついて玄関があり、かまちを上がって三畳、右が八畳、奥に八畳があった。突き当たりが風呂場と便所になっていて、この家も私が東京都内で初めて住めた一軒家だった。あとでこの借家には横光利一氏が青年時に僅かな期間だけれど借りておられたと聞いたが、…… 路地入り口の角の柳屋という酒屋は、夕方になるとコップ酒や枡酒を飲む職人さんらが集まった。…」。なにか水上勉は本郷界隈から抜けられないようです。

右の写真のビルの所付近です。実はこのビルが出来て角の柳屋という酒屋や、借家に入る路地がなくなってしまいました。このビルの裏に路地の先が残っていました。開発という名前で、何もかも無くてしまっていますね。こんにゃく閻魔だけが何事も無かったかのように残っています!

豊島区高松町>
 昭和36年7月、「雁の寺」で代四十五回直木賞を受賞します。「…豊島区高松町二丁目へ越したのは、初音町の家が狭かったうえに、大家さんから立ち退きを迫られたからだった。…… 高松町の家は、家内の知人の世話で新築二階建て、五十坪の土地があって土地つき売り家だった。代金二百五十万円も、以前から頼まれているK社の書き下ろし作品を徹夜で書き上げれば前渡ししてもらえるという約束があって、このころから、ぼちぼち自転車操業ともいうべき、借金、仕事、仕事、借金といった悪循環の暮らしが始まりかけていた。むろん、反省もあったけれど、正直、初音町で書きつづけた 「週刊スリラー」誌上の 「巣の絵」が好評だったため、他社からの原稿注文も殺到していたし、高松町の新築の買い取りも夢のような話であったけれど、夜も寝ずに精出しさえすれば現金で買うことも可能に思えた。家内は妊娠していた。新しい子の誕生も考えると、二階建ての日当たりのいい家が望まれた。私はこの年、四十一歳になっていた。その高松町二丁目には、池袋の西口から椎名町行きのバスが出ていた。途中の要町で降りて、すぐ右へ入ると高級住宅街を貫く千川町境の通りがあって、時代小説の大御所、山手樹一郎氏邸の植木の込んだ広い庭を見せる塀がのび、大きな門もあった。そこを過ぎて、しばらく歩いて、右手へ折れると閑散な商店街へ出たが、そこはもう高松町二丁目になっていて、私の家は、右へ折れて、左手にある町医院の角を曲がって、だらだら坂を小学校の運動場の方へ降りる、自動車も一方通行の狭い道の、百メートルほど先であった。…… この当時、一、二冊の書き下ろし推理小説の印税で、そのような家が買えたのである。いまから思うと、結構な時代だった。…」。本が売れるにつれて住む家もだんだん出世していきます。昭和32年は郊外の一戸建て借家、昭和34年は都心の一戸建て借家、昭和35年は山手線外側の五十坪二階建て建売住宅になります。昭和35年の小学校教員の初任給が丁度10,000円でしたから、現在の約1/20として、250万円は5千万円位になります。まあ、池袋の山手通り外側の建売としては妥当なところだとおもわれます。

左上の写真の少し先、右側が水上勉旧宅です。建物はそのまま現存していました。他の方がお住まいなので正面の写真は掲載しておりません。また、上記に書かれている通りに池袋からのバスを要小学校(当時は要町)で降りて、すぐ右に入って歩いていくと右側に時代小説の大御所”山手樹一郎氏邸”がありました。またその先を右に折れて高松町二丁目に入るまでは良かったのですが、その先に町医院がありませんでした。左に曲がるところがわかりません。近所では有名なようで、尋ねたら皆様よくご存じでした。だらだら坂を下った先の小学校は高松小学校でした。

seijyou14w.jpg <成城六丁目>
 昭和38年、ついに成城に自宅を購入します。成城の駅からほど近い場所です。成城には文士のお宅がたくさんあります。成城自体が有名になる前に買われた方が多いのだと思います。「…新しい家は、成城六丁目でも小田急線駅に近く、歩いて三、四分の場所が気に入ったのと、先にも述べたように、ホテルや旅館で仕事をするくせになっていた私には居宅に執着する理由はなかったのだが、こんどの家は庭も広くて階下四部屋、二階二部屋の間取りも気に入った。しかし、成城と聞くと、高級住宅地のイメージがつよく、「おれも偉くなった気がするなあ」といった怖じ気も生じないとはいえなかった。 … 一つは大岡昇平氏の訪問であった。実証派で、しかも成城のことには詳しかった先生は、桜の下にどれどれと佇まれ、「なるほど、らいてう邸の庭続きだ」とおっしゃったことから、その桜を「らいてう桜」と我が家では呼ぶようになった。…」。大岡昇平の成城の自宅は駅かはかなり遠い所にあります。このころは売れに売れて、かなり余裕があったのでしょう。うらやましいな〜!!

右の写真が水上勉宅です。百八十坪もある敷地に、芝生の庭があり、この家の庭が旧平塚らいてう邸の裏庭に通じていたようです。

この後、住まわれていた軽井沢と東御(とうみ)市は別途特集します。

<水上勉の東京地図 -7->

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫
・命あるかぎり贈りたい:山路ふみ子、草思社

 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール