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最終更新日:2006年6月9日


●水上勉の東京を歩く 戦後編-3- 初版2004年9月11日 <V01L02>

 水上勉さんが平成16年9月8日、午前7時16分、肺炎のため長野県東御(とうみ)市の仕事場で死去されました。心からお悔やみ申し上げます。「水上勉を歩く」をなるべく早く完成させたいとおもいます。



<霧と影>
 水上勉が「フライパンの歌」の次に書いた本が繊維経済研究所時代の経験を基に書いた「霧と影」です。この「霧と影」が作家として自立するきっかけとなった本とおもわれます。直木賞作家の江崎誠到が「繊維経済研究所での出会い」というタイトルで水上勉との繊維経済研究所での出会いを詳しく書いています。「水上勉の文学的自叙伝、「冬日の道」のなかに、ちらりと私のことが出ている。中央区蛎殻町の繊維経済研究所の一室で私に会ったことがあるというくだりである。 私の記憶では、昭和二十八年の暮か二十九年はじめころのことである。一度ではなく、何度か顔を合わせている。実を言えば、私はそのとき繊研の編集室で会った人物が水上勉であったことに永く気づかなかった。それは、彼が直木賞を受賞したあともしばらくつづいている。おかしな話だが、それでいて繊研で会った水上勉のことほかなり正解に覚えているのである。当時私は共産党員であり、潜行幹部の財政をまかなう通称トラック部隊の一員であった。繊研はその部隊の一拠点であり、私は繊研の社員でほないが、一時そこの細胞に所属していた。そんな関係で、繊研の雑誌の編集部に就職した水上勉と顔を合わせる機会があったわけである。…」。上記に書かれていた水上勉の「冬日の道」での江崎誠到氏は、「…トラック部隊事件が起きたのは、昭和三十一年の五月だったか。広告取りの私には、上層部の中で、どんなことが行なわれていたか知らない。目にうつったのは、研究所の一課長が、新会社を起こして、社長におさまったことぐらいである。私に、くわしい事情はわかるはずもなかったか、そのころ、この研究所の一室で、江崎誠到氏と会っている。…」。と書かれています。両者とも昔のことを良く覚えています。私など、単に見かけた人だけの人など覚えていません。観察力が余程鋭くないとだめです。トラック部隊については下記に簡単に説明しておきます。

<トラック部隊事件>
 昭和32年8月22日の朝日新聞朝刊を見ると、「日共の地下資金工作、『トラック部隊』手入れ、けさ東京・大阪十数カ所」のタイトルで一面に大きく掲載されています。朝日新聞に書かれた内容を少し記載すると、「当局の捜査によれば日共内の暗号で「トラック部隊」と呼ばれているこの資金調達工作は、去る二十五年六月、日共幹部が第一次追放をうけ、地下活動が行われるようになってから「日米反動資本家からの収奪と政府の官金収奪は階級闘争である」との行動綱領のもとに活発になり、あらゆる手段で資金の獲得が行われたという。この一例として昨年五月、警視庁捜査二課と東京久松署の手で摘発された株式会社「繊研事件」は、逮捕された元全逓中央委員村井繁が社長となり、去る二十九年八月同社を設立、業界新聞を発行するなどで一年半の間に中小企業者から紙類や繊維品を買い込み、それを投売りし一億数千万円の取込み詐欺をした…」。となっています。

左上の写真はこの「トラック部隊」を題材にして書かれた「霧と影」の文庫本です。「霧と影」は昭和34年8月に出版されており、繊維経済研究所に勤めたのが昭和28年、上記の朝日新聞記事が昭和32年ですから、4年間の経験がこの本の元になっています。「…はじめこの作品は「箱の中」という題名で、川上さんと坂本一亀さんに読んでもらったのだった。川上さんはおもしろいといってくれたが、坂本さんは先ず、題名に首をかしげられ、題材はおもしろいけれど文章がダメだといわれた。私はさっそく松戸へ帰って、書き直しにかかった。ニケ月ほどで、八百枚を書き直し、題名も「霧と影」とあらためて、河出書房に坂本さんをたずねた。いつも坂本さんは駿河台の喫茶店で待つよう指定された。 四回書き直した「霧と影」を持って河出書房をたずねた時も、文章のたるんだところを坂本一亀さんに指摘された。坂本さんが関心をもって下さった内容は、繊維界で見聞した共産党のトラック部隊事件が下敷きになっている。…」。と「文壇放浪」に自ら書いています。四回も書き直していますからすごいですね。この作品は直木賞候補になっています。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。(福武文庫より)

水上勉の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和24年
1949
田中英光自殺
湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞
30
5月 岸町 調宮神社から一町ばかり離れた所に転居
本郷弓町の巴楽館に転居
農学部前の豊荘アパートに転居
真砂町坂口病院の一室に転居
昭和25年
1950
朝鮮戦争
31
護国寺前の青柳荘一号室に転居
昭和26年
1951
サンフランシスコ講和条約
32
10月 妻と協議離婚
昭和27年
1952
太宰治自殺
33
3月 長女蕗子を若狭の実家に預ける
昭和28年
1953
朝鮮戦争休戦協定
34
3月 人形町の繊維経済研究所に勤める
昭和29年
1954
スエズ動乱
35
4月 東京服装新聞社を起こす
昭和34年
1959
皇太子殿下ご成婚
39
5月 「霧と影」出版

<水上勉の東京地図 -1->


メリヤス会館跡>
 昭和28年3月、友人の山岸一夫の紹介で人形町の繊維経済研究所に勤めます。「…山岸の口ききで、繊維経済研究所にはいり、月刊「繊維」 の編集にたずさわったのは間もなくである。山岸は、同研究所の新開の編集長に赴任してきた。月刊誌といっても、広告に依存する雑誌でもあったので、山岸に教えられて、繊維業界を歩いて、広告をとった。当時は一割が広告マンの報酬だった。たとえば、五万円の広告だと五千円の収入である。婦人服や紳士服業界が、自己チョップを売り出して、好景気をよんでいたときで、堀留や岩本町のかいわいに林立する洋服メーカー、毛糸編み物のメーカーをたずねて、広告契約に走りまわった。この仕事は、定収入がないので、不安定だったが、しかし馴れてくると、お得意先も固定してくる。ふつうの月給マンよりも、勢力次第で甘味もあるので楽しかった。私は毎日、研究所に通いつめた。…」。最初はなにも知らずに勤めていたようです。それとなかなか良い商売です。10%貰えるなら私だって頑張ります。当時の繊維経済研究所は日本橋芳町一丁目のメリヤス会館内にありました(繊維経済研究所の正式名称は日本繊維経済研究所?)。親子丼で有名な「玉ひで」のすぐ近くです。

左上の写真正面のビルの所に繊維経済研究所が入っていたメリヤス会館がありました。昭和30年代の地図を見るとメリヤス会館と書いてありますのでまちがいないとおもいます。現在は変わってしまっているようです。朝日新聞のトラック部隊の記事ではメリヤス会館は日本橋茅場町1-6となっていましたが、これは間違いで当時の住所で日本橋芳町1-6です。番地は同じなので単に間違ったのだとおもいます。現在の住所では日本橋人形町1-5付近で、日本橋小学校(当時は東華小学校)の前です。

三笠ビル跡>
 繊研事件は繊維経済研究所ではなくて、株式会社繊研事業部で起こっています。研究所の一課長が、株式会社繊研事業部という新会社を作ったのです。名の通った繊維経済研究所と同じような名前を使って信用させたのだとおもいます。「…トラック部隊事件が起きたのは、昭和三十一年の五月だったか。広告取りの私には、上層部の中で、どんなことが行なわれていたか知らない。目にうつったのは、研究所の一課長が、新会社を起こして、社長におさまったことぐらいである。私に、くわしい事情はわかるはずもなかったか、そのころ、この研究所の一室で、江崎誠敦氏と会っている。江崎氏がどうして、織研に関係されたのか、つまびらかに知らないが、私はちょうど月刊誌「テキスタイルジャパン」の編集へまわされて、やはり、そこへ挿入する広告を担当することになったのだった。新編集部へ出向くと、江崎氏がおられた。だが、語をする時間はなく、氏も急いでおられて、すぐ、どこかへ去られた。これっきりしか、会っていないのだから・江崎氏が用紙の関係できておられたような気もするぐらいで、記憶はそう鮮明ではない。つまりは、江崎氏がよく出入りしておられたころと、私と時機がすれ違っていたのかもしれない。氏が繊研へ顔をみせられなくなってから、その事件は起きている。新会社は、いわゆる取り込み詐欺といわれてもいいような危険な営業ぶりだった。ストックをもった中小問屋を泣かせて解散したのである。常識のあるものなら不思議な気がした。…」。株式会社繊研事業部が入っていたのがメリヤス会館のすぐ近くの三笠ビルでした。繊維経済研究所と株式会社繊研事業部は人的にはいろいろ関係があったようです。一番最初に警察沙汰になったのは昭和31年5月23日でした(トラック部隊として大きな事件になる一年前です)。当時の朝日新聞夕刊を見ると、「会社を設けて詐欺、二人組捕まる 被害数千万円?」、とあり、この会社が”株式会社繊研事業部”だと新聞には書いてありました。

右の写真の右から二つ目のビル付近に株式会社繊研事業部が入っていた三笠ビルがありました。右側が麻業会館で、このビルは昔のままで当時左側に三笠ビルがありました。

日本繊維新聞社跡>
 友人の山岸一夫が勤めていたのが日本繊維新聞社です。「…虹書房の同志だった山岸一夫が、「繊維へはいってみないか」と誘った。彼は日本繊維新聞の記者だった。戦前から繊維界にいたので、その方のベテランだ。私は彼に履歴書をわたし、就職先を頼んだ。二、三日して山岸は、私にモデルの仕事はどうだと持ち込んできた。かんたんなことですむ。スポンサーの背広を着て、写真に納まってくれればそれでいいんだよ。私はモデルときいて、びっくりした。よく話をきいてみると、山岸の新聞社が発行するグラビア雑誌に、既製服メーカーの紹介欄があって、たとえば「清正印学生服」「キング印紳士服」といった銘柄の宣伝に、その社の製品を着用した写真が必要なのだそうだ。私は金がほしかったからそれに応じることにした。まだ、この時代は、男性モデルという職種はなかったのである。 暑い夏の一日、山岸の車にのせられて、両国橋へいった。橋のたもとで待たされて、三十分ほどすると、山岸は、べつの単にカメラマンをのせていて、何者もの冬の背広を積んでいた。それを路傍で一着ずつ着替えてくれ、といった。場所は両国橋。人通りもはげしい。車もひっきりなしに通る。炎天下で冬服を着るのである。 「こんなところで着替えるのかえ」 「ああ早くしてくれよ、カメラが次を急ぐんだ」 私は車のかげにかくれて、ステテコ一枚になり、まだだれも袖を通したことのない重たい紳士服を着たり脱いだりした。当時は六十四サイズもないころだから、大中小である。そのなかの寸法のあうのを着て、橋の欄干にもたれ、タバコを喫って、ポーズをとらされる。隅田川の遠景をバックに十着ぐらいは着たろうか。この写真はやがて、「服飾ファッション」という季刊雑誌のグラビアを飾った。私は、護国寺のアパートで、山岸がまだ印刷のにおいのする新雑誌をもってきたのをみた。いや、もう、はずかしいというか、何というか。いやらしい男がそこに撮られている。…」。現在も日本繊維新聞社はあり、本社は日本橋小船町に移っているようですが、当時は日本橋本町1-7付近にありました。

左上の写真正面付近に当時の日本繊維新聞社がありました。現在はホテルヴィラホンテーヌ日本橋になっていました。

旧小山印刷(現 小山歯科医院)>
 当時、水上勉がよく通った印刷屋が江東区森下町の小山印刷でした。「…流行や新製品の生地の情報をもらって小山印刷の校正室、といっても畳敷き六畳ぐらいの和室だったが、そこで記事を書いて階下の植字部へ下ろした。中老の植字工が眼鏡の片方のつるがとれたのを、毛糸で結んでかけ、奥の目を光らせ、鉛の活字を指紋の消えた指先で素早く捉えて函に入れ、これも紐くくりで棒ゲラにしたのが刷れるのを二階で待っていて、その日のうちに大組みにして校了、鉛版にしたのを刷りあげる。……最近、あたりを歩いてみた。森下町は、戦争中にちょっと働いた秤工場のある菊川町に近かった。懐かしい町であった。やはり改正道路とでもいうのか、通りが広くなっているので、昔の道を探すのに骨が折れた。昔の電車道から二筋目を入った角地の建物へまっすぐ行ってみたら、通りの姿もちがってい?けれど小山歯科医院と看板があがって、印刷屋が歯医者さんになっている。同じ小山姓なので、ひょっとしたら昔をご存じかと寄ってみたら、看護婦さんが出ていらして探訪の目的をいうと待合室に通された。ご主人の小山主之氏は、私たちが働いたころの印刷会社社長、小山正男長のお孫さんであった。お爺さんが戦火をくぐって守られた印刷屋が戦後早々につぶれた由で、正男氏のご子息主公民が医師となり、さらに孫の主之氏があとを継いだとおっしやるのだった。…」。「戦争中にちょっと働いた秤工場のある菊川町」とは、守谷製衡所で、小山印刷からは300m位の距離です。

右の写真の右側が小山歯科医院です。森下町界隈は空襲ですっかり焼けてしまっていますが、下町の風情があっていいですね。

次回は昭和30年以降を掲載します。

<水上勉の東京地図 -8->

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫
・命あるかぎり贈りたい:山路ふみ子、草思社


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