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最終更新日:2006年6月9日


●水上勉の東京を歩く 戦後編-2- 初版2004年9月4日 <V01L01>

 今週は「水上勉の東京を歩く」の戦後偏 -2- を掲載します。今日も曇り空で撮影日和ではなかったのですが人形町界隈を歩いて写真を撮ってきました。水天宮から小伝馬町に向かって歩くと、左側は空襲でも焼け残った地域で良く探すと昔ながらの家を見つけることができます。



<私の履歴書>
 「…ざっくばらんに、わが半生を思いつくまま書いてきたけれど、四十二歳で制限枚数がきてしまった。読んでもらえばわかるように、ぼくは立命館大学に半年ほど入学しただけで学校にゆけなかった。あとは生活苦と病気との闘いだった。……昭和十四年に結核のおかげで丙種となり、徴兵はまぬがれたものの昭和十九年に応召、父と同じ馬卒をつとめた。…何の教育もうけず、カンナ屑の中で犬ころのように育てられた子が、京都の由緒ある寺院でくらせる縁を拾い、まがりなりにも宗門立の中学で、英語も数学も、水墨画の授業もうけ、五年間学問が出来た。若狭の谷の陽かげ地のねじくれた一本の雑木が、禅宗寺で、お行儀を習い、経文を習い、やがて脱走後、どうやら生きてこれた、その暦の根のあたりを、このたびこの履歴書を書きながらふりかえってみたが、ずいぶんと世話をうけた人々の顔がうかんでつきなかった。日ごろはまったく忘れている人も、たくさん登場した。…もちろん、小説も嘘八百を書いたのがあるし、事実をなるべくまげないように書いたものもあるので、そうときまらぬけれど、いずれにしても、そのどっちにもぼくという人間が出てしまうことからのがれるわけにゆかなかった。…」。水上勉の「私の履歴書」を読んでみると、本当に人の人生というものはわからないなと感じます。戦後すぐの文学界は太宰治、織田作之助そして水上勉 のような病によって戦争に行かなかった人たちによって形成されます(行けなかったのか、行きたくなかったのかは分かりますよね)。しかし彼らの多くは長く生きることができなかったようです。その中で唯一残ったのが水上勉でした。

左上の写真は昭和63年6月1日から6月30日まで日本経済新聞「私の履歴書」に連載したものを大幅に加筆修正して本にしたものです。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。(福武文庫より)

水上勉の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和24年
1949
田中英光自殺
湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞
30
5月 岸町 調宮神社から一町ばかり離れた所に転居
本郷弓町の巴楽館に転居
農学部前の豊荘アパートに転居
真砂町坂口病院の一室に転居
昭和25年
1950
朝鮮戦争
31
護国寺前の青柳荘一号室に転居
昭和26年
1951
サンフランシスコ講和条約
32
10月 妻と協議離婚
昭和27年
1952
太宰治自殺
33
3月 長女蕗子を若狭の実家に預ける
昭和28年
1953
朝鮮戦争休戦協定
34
3月 人形町の繊維経済研究所に勤める
昭和29年
1954
スエズ動乱
35
4月 東京服装新聞社を起こす

<水上勉の東京地図 -1->


本郷弓町の巴楽館>
 昭和24年、妻はあいかわらす白木屋のダンスホールのアルバイトを続け、印刷屋の男と駆け落ちしてしまいます。その中で長女をかかえた水上勉は森川町の宇野浩二宅での口述筆記や、文潮社の嘱託で食いつないでいきます。「…浦和から本郷森川町へ通うのには、省線を王子で降り、飛鳥山の裏から市内電車の日本橋行きが出ていたので、それに乗り換えて、駒込経由、東大農学部か正門前で降りて宇野邸へ通った。先生の筋肉痛はますますひどくなったので、私の筆記は役に立ったのだった。昭和二十四年のことであったから、口述筆記の作品は「恩ひ川」「思ひ草」「西片町の家」などであったと思う。「西片町の家」は本郷西片町で宇野先生が広津和郎氏と同居された時の様子を、例によって座布団や道具を描写しながら生活を浮かびあがらせる方法だった。江口換氏がその家をよく訪ねてこられたこと、また、広津氏には女性が訪ねてきたことなどが克明に語られていた。私は口述のため帰りが遅くなるので、浦和から東青柳町へよんでいた娘を故郷若狭へ預け、ひとり身になったのを機会に宇野先生の紹介で弓町の邑楽館、農学部前の豊荘アパート、真砂町坂口病院の一室など転々したが…」。ここに書かれている「娘を故郷若狭へ預け」の時期が正確ではありません。長女を若狭に預けたのは小学校に入学する年ですから昭和27年になります。「弓町の邑楽館、農学部前の豊荘アパート、真砂町坂口病院」を転々としたのは上記の通り昭和24年のはずなので、前後関係の時期が一致しません。真砂町の坂口病院は現存していますが、農学部前の豊荘アパートは場所不明でした。

左上の写真左側の空き地に本郷弓町の巴楽館がありました。丸ノ内線本郷三丁目駅からすぐのところです。丸ノ内線の池袋−お茶の水間が開通したのが昭和29年1月ですから、水上勉が巴楽館にいたころはまだ地下鉄はありませんでした。

護国寺前の青柳荘一号室>
 南浦和から本郷に通うには遠すぎるため、護国寺前の青柳荘に転居します。「…間もなく護国寺前の青柳荘二号室にいた山岸一夫さんが雄司ケ谷の一戸建てへ引っ越して空いたので、そのあとへもぐり込んだ。…… 青柳荘の一号室は入ってすぐの突き当たりにあって、左脇が共同便所、共同炊事所になっていた。向かいは、近くの派出所へ勤める警視庁巡査が細君と二人の子の六畳四人暮らし。二号室には碁の強い遊び人がいた。どこかへ勤めている様子だが、しょっちゅう休んで、ひとり碁を打っていた。六十近いお婆さんが炊事一切をしていて私にとても親切だった。… まだ娘を若狭へ連れてゆかない前に、私は東青柳町で一年ほど娘と暮らした。…」。この青柳荘は駆け落ちした妻に最初に紹介された下宿(大塚坂下町)のすぐ近くです。護国寺前よりは少し音羽幼稚園寄りです。このアパートは昭和40年代まであったようです。

右の写真の左から三つ目のビル付近が青柳荘が建っていた所とおもわれます。右側が護国寺前交差点となります。

坂下町診療所>
 昭和十四年、20歳の時に受けた兵隊検査では結核のおかげで丙種となり、戦争へは行かずに済んだのですが、病気の方は直っていませんでした。「…ある日、大塚仲町から護国寺の方へ降りてくる途中でふらふらっと倒れた。市電の敷石は将棋盤ぐらいのが敷き詰めてある。その隙間へとろりと口から出た血が吸い込まれた。徴兵検査の時、軍医が結核だと太鼓判を押したその病気が再発していた。繊維経済研究所に組合があり、その係の女性の世話で、当時、池袋の日出町 (現在の南 池袋と東池袋にまたがる一帯) へ通じる坂下町通りにあった坂下町診療所で検診を受け、抗生物質のパスとマイシンを多量にもらった。週に一度、護国寺前の青柳荘から歩いて通う ようになった。名は忘れたが、三十前後の医師が二人交代で私を診察してくれ、年配の看護婦さんが惜しげもなく薬の包紙に大さじ一杯ほどの散薬(パス)をくれた。…」。当時の坂下町診療所は現在 大塚診療所となっていました。水上勉は戦前から戦後にかけて坂下町通りに縁が深いです。

左上の写真正面です。不忍通りから坂下町とはいり、700m位歩いて路地を左に入った右がわです。戦前に下宿していた「大塚坂下町の封筒屋」の少し先になります。

東京服装新聞社>
 昭和28年から30年に架けて働いていたのが人形町の繊維経済研究所と堀留の東京服装新聞社です。繊維経済研究所についてはいろいろありますので別途特集したいとおもっています。「…私と山岸は、そのころから繊研を辞める相談をして、新しい週刊新聞をおこすことにした。東京服飾新聞という。堀留の、丸正の前にあった四階建てのビルの一室を借りて、主として、二次メーカーを中心に、流行ファッションの記事を掲載した。私は企画課長という名刺を刷って、内実は、広告取りを裏業にして、堀留や岩本町を歩いた。さらに、二次メーカーの手づるで、大阪や浜松の生地メーカー、あるいは十日町や足利の着物メーカーにまで訪問先をひろげて、諸方をまわった。キャラバンセーターの社長寺田源二郎氏、サイ印紳士服の社長召田伊三雄氏の二人は、私にとって恩人といわねばならない。文学を忘れて、人のきらう広告取りに一生懸命になれたのも、そうした人情社長とのつきあいが、私を勇気づけていたからである。…」。東京服飾新聞の場所を探すのにちょっと苦労しました。「冬日の道」では”堀留の、丸正の前にあった四階建てのビル”と、「文壇放浪」では”繊維業界月刊誌の編集をした頃に、和田さんが堀留二丁目の東武ビルにあった私たちの仕事場”とあります。現在は移転していますが丸正は日本橋堀留町1-11-1にあり、その丸正ビル前の東武ビルは丸正ビルの前ではなくて、少し離れた日本橋堀留町1-2-11にありました(堀留町二丁目でもなかった)。現在はイトーピア日本橋SAビルになっています。

右の写真の正面黒田ビルの左隣がイトーピア日本橋SAビルです。昔の地図を見ると東武ビル(倉庫)となっていました。

次回は昭和30年以降を掲載します。

<水上勉の東京地図 -7->
<水上勉の東京地図 -8->

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫
・命あるかぎり贈りたい:山路ふみ子、草思社


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