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最終更新日:2018年06月07日


●水上勉の東京を歩く 戦後編-1- 初版2004年8月7日 <V01L03>

 今週から「水上勉の東京を歩く」の戦後偏を掲載します。水上勉の戦後はすべて東京で過ごす事になりますが、遍歴が凄くて何回になるか分かりません。掲載回数を気にせずにいきたいとおもいます。



< 私版 東京図絵>
 以前も書きましたが、水上勉は私小説を数多く書いており、特に昭和50年以前に書かれたものは経緯の前後関係がよく分からないものがあります。今回は平成6年6月5日から朝日新聞朝刊の東京版と多摩版に毎週日曜日掲載された「東京図絵」を参考にしながら歩いてみました。また、昭和63年6月に日本経済新聞「私の履歴書」に連載したものも参考にしております。その他では、「冬の光景」、「冬日の道」、「文壇放浪」も参考にしました。「…水上さんの作品の群れに親しんでいてふと気がつくのだが、「東京」は、「若狭」 や「京都」 に比べると、存外、存在感が希薄なのである。「甘い水」 や「苦い水」がさまざまに流れていたに違いない東京のあれこれを、いま、印象深く書きとめておく。それは、もしかすると、この人物の生きてきた歴史の、やや空白になっている部分を埋める、結構、大事な仕事になるのではないか。そう思ったのである。そして、当然、その文章は、東京という大都会が戦中から戦後にかけて刻んだ時間を伝える大切な証言になるはずであった。…」、は「東京図絵」の最後に「心楽しい伴走記」として村上義雄が書いたものです。戦前戦後の混乱した時代背景の中で水上勉自身の位置づけを的確に示しながら、私小説を書いているため、多くの読者が興味を持って読む事かできるのだとおもいます。

左上の写真が昭和15年に上京してから平成6年頃の成城までの東京を描いた「私版 東京図絵」です。水上勉はこの本を書くときにその当時住んでいたり勤めていた所を実際に歩いて回ったそうです。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。(福武文庫より)

水上勉の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
26
4月 東京大空襲(新宿から甲州街道沿いが被災)
9月 代用教員の退職願
10月 妻の叔父の経営する神田鍛冶町の封筒工場に転居
10月 虹書房 。「新文芸」を発刊
昭和21年
1946
日本国憲法公布
27
3月 長女蕗子(ふきこ)誕生
秋 京都の谷崎潤一郎宅(前の潺湲亭)を訪ねる
昭和22年
1947
織田作之助死去
東京都が22区となる
中華人民共和国成立
28
春 虹書房つぶれる
世田谷区北沢の文潮社に入社
昭和23年
1948
太宰治自殺
29
7月 「フライパンの歌」を文潮社より出版
10月 浦和市白幡町に転居
冬 文潮社を去る
昭和24年
1949
田中英光自殺
湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞
30
5月 岸町 調宮神社から一町ばかり離れた所に転居
本郷弓町の巴楽館に転居
農学部前の豊荘アパートに転居
真砂町坂口病院の一室に転居

<水上勉の東京地図 -1->


神田鍛冶町 虹書房>
 水上勉は終戦後間もなくの昭和20年10月、妻とともに疎開先の若狭から上京します。「…九月十五日に退職願を出し、十月に上京し、M女の叔父にあたるO氏が経営する神田鍛冶町の封筒工場の二階に入った。東京は二牛鬼ぬ間にまったく様変わりしていた。どこも焼け野原だった。昭和二十年三月から五月の大空襲で、見事に焼けたのである。鍛冶町の封筒工場も数少ない焼け残り路地の一戸だった。十七年の春初めの早稲田空襲から、私が軍隊に取られ、田舎で代用教員をするうちに東京は再三の空襲を受けていたのである。名古屋や大阪の空襲や水戸の艦砲射撃をうけたニュースは伏見の部隊にいても噂で聞こえたが、東京空襲の実態は焼け跡の街を見てはじめてわかった。神田の省線駅近くは今川橋までまる見えで、無残な焼け跡だった。…」。旧神田区で焼け残ったのは駿河台、淡路町、鍛冶町の一部で、水上勉はこの焼け残った鍛冶町の封筒工場の二階に住むことになります。しかも東京に戻ってきてすぐに長女蕗子が生まれます。「…やがて、この工場の紙を利用してO氏の友人である小幡、藤原両氏が加わって虹書房が生まれた。私の友人、山岸一夫氏が繊維新聞記者をしながら企画運営に参加。私は使い役を務めた。「新文芸」創刊の奥付け発行名義人に私の名が出るのもこの経過である。…創作は栃木県の疎開先、烏山に在住だった丹羽文雄氏の 「夢想家」、青森県金木町におられた太宰治氏の 「苦悩の年鑑」が郵便で送られてきた時の感動は忘れられない。…」。この封筒工場のO氏が資金をだして設立したのが虹書房でしたが、わずか2年で行き詰まってしまいます。このO氏の出版業への情熱が無くなったのと、競争激化のためでした。それにしても太宰治の「苦悩の年鑑」を掲載していたとは凄いですね!

左上の写真の少し先の左側にO氏の封筒工場がありました。道の正面に見えるのがJR神田駅です。駅の手前は小さな飲み屋街です。

文潮社>
 虹書房が左前になったため次に勤めたのが世田谷区北沢の文潮社でした。「…世田谷の東北沢に文潮社を設立された池沢文雄氏に拾われた。「創造」の編集長をやめて文芸出版を始められたのである。私は浦和から東北沢へ通った。途中の渋谷駅前も焼けていた。だが、東北沢の池沢さんの近所は焼け残っていて、下北沢の商店街も健在だった。住宅街に「名月」という宿があった。普通の住居を連れ込み風の宿に改造した年配夫婦の経営であった。ここが宇野先生の口述宿となった。季刊「文潮」に「西片町の家」をもらえたのもここでの筆記だった。正宗白鳥先生が軽井沢から上京され、この宿に泊まって、「不徹底なる生涯」を口述されたのもその年であった。田中英光さんも自叙伝全集太宰治編で時々泊まられたと思う。下北沢駅前に焼酎を売る屋台店があった。英光さんとよくご一緒したことがあった。夕刻頃、四十がらみの親爺さんと英光さんに意見の食い違いが生じた。突然、英光さんがカウンターの板を両手で持ち上げると、車ごと屋台が傾いた。六尺男の大力だった。一升瓶や何やかやが音を立てて割れた。英光さんは親爺さんに怒鳴り散らしておいて駅の改札口へさっさと歩いていく。下北沢駅は階段がすぐであった。その階段へ英光さんの巨体が隠れるのを追いかけた。やがて、一緒に電車に乗った。…」。文潮社は世田谷区東北沢となっていますが、住所に東北沢はなく、京王線の駅で東北沢駅があるのみです。しかし文潮社の住所を調べてみると、世田谷区北沢二丁目173(旧住所)とあり、現在の住所では世田谷区代沢三丁目24番地付近となります。東北沢は何処なのでしょうか。”住宅街に「名月」という宿”については不明です。田中英光については秋以降に特集する予定です。

右の写真のが下高井戸駅京王井の頭線のガードから南方向を撮影したものです。右側に下高井戸駅南口があります。”下北沢駅前の焼酎を売る屋台”はこの辺りにあったのでしょうか。

浦和市白幡町>
 長女が生まれましたが相変わらず収入は不安定で、妻はダンスホールでアルバイトを始めます。「…M女が日本橋の白木屋デパートの七階にあった進駐軍向けダンスホール「白木クラブ」に勤めたのは、虹書房の倒産直後であった。長女も生まれていたのに、私には甲斐性がまったくなかった。…」。まったく困ったものですね。この妻のアルバイトが以前に掲載した「水上勉の明大前を歩く」で書いた妻の駆け落ちにつながります。やっぱり妻の方が収入が多いと時代を問わず離婚の原因になるようです。妻のアルバイト先の"日本橋白木屋デパート”は後に”東急百貨店日本橋店”になり、現在は建て直されて”コレド日本橋”になっています。神田鍛冶町の封筒工場の二階は建て直しのため出て行かなければならなくなります。「…妻は、同僚からもらった紙切れを私にわたした。浦和市白幡町一四八番地内島徹方としてあった。「大きなお百姓さんでね、二階建ての母屋があって、中仙道に面した大きな構えだそうよ。そこの離れについてる土蔵なのよ」と要は見てきたようなことを云って、さかんにすすめた。私は翌朝、その紙切れをもって神田駅から大宮ゆきの省線にのり、浦和駅で降りると、地図をたよりに白幡町をたずねていった。ずいぶん歩かねばならなかった。北口を降りて、ガードをくぐって、住宅街をぬけたが歩いても歩いても中仙道へ出なかった。ようやく、広い道へ出ると、そこらあたりは、もう岸家がぼつぼつとみえて、古い家が梅林にかこまれてあったり、大きな酒屋があったり、土蔵が道へ背中を向けていたりした。白幡町に着いた時は、さらにそこらあたりは、農家ばかりなのに驚いた。一四八番地の内島家は、中仙道に面して在った。私はその家の表札と母屋の建物をみて、こんな大きな家が間貸しするのだろうか、と首をかしげた。…」。”浦和市白幡町一四八番地内島徹方”は実在します。内島徹方という名前は仮称ですが水上勉の一家が間借りした土蔵が裏にそのまま残っていました。

左上の写真正面です。前の道は中山道で、手前が日本橋方面になります。現在は家は多くなっていますが、やはり田舎という感じです。

調宮神社近く>
 浦和市白幡町には親子三人で暮らしていたのですが、妻の縁戚の同居で7名となり窮屈な生活となります。「フライパンの歌」を文潮社より出版してお金を得たこともあり、新居を探します。「…私は浦和市内の知人や、顔見知りを廻って、どこかに土地を貸してくれる者がいないかと聞き歩いた。そんな私に、耳よりな話が入った。岸町の調宮前に、お百姓の地主さんがいて畑地なら貸さないでもない、という情報だった。……その畑は調宮神社から一町ばかり白幡の方へ歩いた北側にあった。行ってみてわかったが、いくらかそこは低地になっていた。しかしまわりの人家が離れているので陽あたりはよい。千坪近い畑は生気のないほうれん草がまばらにうえてあるだけで畝もくずれ、野っ原のように、荒れている。 「北の方側の少しでしたら、お貸ししますよ。たくさんは……困りますがね。事情をきけばお気の毒ですから……三十坪もあればいいんでしょう。それぐらいでしたら、好きな所を切りとってお使い下さいよ」……岸町のこの畑は、白幡の内島家より駅に近い。二十分ぐらいは節約出来た。…」。浦和市白幡町からすぐで便利だったのでしょう。ここに平屋の家を建てます。しかし妻はあいかわらす白木屋のダンスホールのアルバイトを続け、印刷屋の男と駆け落ちしてしまいます。(「水上勉の明大前を歩く」を参照)

右の写真の交差点付近が上記に書かれている低地となります。調宮神社は写真の左側向こうになります。詳細の住所が分かりませんので、写真の交差点を左に曲がった右当たりになるとおもわれます。

次回は昭和24年以降を掲載します。

<水上勉の東京地図 -5->
<水上勉の東京地図 -6->

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫
・命あるかぎり贈りたい:山路ふみ子、草思社


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