kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年6月9日


●水上勉の信濃を歩く 初版2005年5月8日 <V01L01>

 今回が本当の「水上勉を歩く」の最終回です。水上勉は軽井沢で別荘を購入、此方で日々の仕事を行います。その後、軽井沢から長野県北佐久郡北御牧村勘六山に別荘を移し住んでいました。



<信濃デッサン館日記>
 水上勉の長男、窪島誠一郎氏が長野県上田市郊外塩田平に小美術館「信濃デッサン館」を創ります。その時のことを随筆として書いたのがこの「信濃デッサン館日記」です。この随筆集に沿って歩いてみました。「…「信濃デッサン館」が、長野県上田市独鈷山ふもとの、真言宗前山寺山門そばにたつことになり、その収蔵作品の公開展が、五十三年十一月二十五日から三カ月間、東京世田谷の故柳田国男邸で開催のはこびである。企ては私の心に練られてきた年来ののぞみではあったけれど、実現にあたっては、信州在の多くの人々のあつい手をかりた。前山寺ご住職守栄真氏が約一千五百平方メートルの用地を提供してくだきり、農民美術史など地道な研指で知られる地元の著述家小崎軍司氏が、資材の調達や人あつめにはしってくれている。たてものの建築のほうは、私の永年の知己で、東京麻布で設計をやっている入江慶一君のプランをもとに、上田市内の建設会社の青年社長、花岡空口氏がひきうけられた。いずれも、私にとっては、旅さきの信州路で出会ったゆきずりの人である。…」。窪島誠一郎氏については小生の「水上勉の明大前を歩く」を参照してください。実子でありながら名前が違う二人の別れと出会いが分かります。二人の再開が昭和52年ですから、「信濃デッサン館」を創った時期と重なります。軽井沢と上田で信越線(まだ新幹線はない)繋がり二人は合う機会が増えたようです。

左上の写真は講談社文庫「信濃デッサン館日記」です。信濃デッサン館のことだけではなく、実父と実母との出会いについても書かれていますのでなかなか面白い本です。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。(福武文庫より)

水上勉の信濃年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和38年
1963
ケネディ大統領暗殺
44
9月 世田谷区成城町382に転居
昭和52年
1977
キャンディーズ引退
58
実子 窪島誠一郎と再開
昭和54年
1979
共通1次試験開始
ウォークマン発売開始
60
6月 信濃デッサン館開館
平成3年
1991
多国籍軍がイラク攻撃
72
長野県北佐久郡北御牧村勘六山に別荘を移す
平成16年
2004
水上勉死去
85
9月8日 肺炎のため死去

<水上勉の信濃地図 -1->


水上勉 軽井沢旧宅>
 水上勉は長野県北佐久郡軽井沢町松並木通りに別荘を購入します。「…私が最初に子として名のりをあげたときの手紙が、折しも六月二十三日、川端賞受賞式典に受賞者として列席していた父のもとへ、ご家族の手をへて届けられ、その混乱しているかにみえる表情の父がマイクの前に立っている姿が、中央公論社からの全集の1冊に収められていた。人の世のただなかで、もまれつつ今を生きている父に、子として名のりをあげられた私は、父のつらさもわきまえず、その舞台をはれがましく、しあわせにも思う。返信を待ちきれなくて、電話をかけたら、凌か、待っていたぞ、すぐ来いと言ってくれた。軽井沢へ自動車をはしらせた。碓氷峠が霧だった。南ヶ丘の林道を、胸をきしませながら折れた道すじのかどに、父のいる山荘があって、そこが三十年ぶりの遊道の場所だった。父をみたとき、父だと思った。似ていた。…。」。養子に行く前の名前が「凌」、養子先の名前が窪島誠一郎となります。二人の初めての出会いがこの軽井沢の別荘でした。

左上の写真が水上勉別荘跡です(クリックすると別荘全体の写真になります)。現在は”エルミタージュ・ドゥ・タムラ”というフレンチレストランになっています。水上勉の別荘を改築し、2000年4月に西麻布より移転、オープンしています。私は残念ながらまだ食しておりません(予約が大変と聞いています)。

信濃デッサン館>
 信濃デッサン館を車で訪ねたのですが、地図が無くて苦労しました。前山寺が目印です。先に下記の無言館に着いてしまいました。「…「信濃デッサン館」のたつ信州独鈷山前山寺の境内には、室町の初期に建立された重文の三重塔がそびえている。秋にモミジ、春夏に藤とアンズの色むれる山里を、三重三間の純朴な塔姿がみおろす。俗に、地元ではこれを「未完成の塔」とよんでいるが、窓もなければ扉もないのっぺらぼうな、それでいてどこか体内に人知れぬ色感をはらませるすがたがそうよばせるのである。凍てる信濃の冬をむかえて、塔は白雪をかむってさらにけだかい。さて、雪とける来年の春先、前山寺にはもうひとつ、未完成の名所がふえる勘定なのである。…」。本当に前山寺の真横に信濃デッサン館がありました。前に駐車場があり、そこから眺める千曲川から上田は絶景でした。

右の写真が信濃デッサン館です。小さな美術館ですが内容は充実です。一般の方は訪ねられても面白くないかもしれません。其れなりの目的をもって見に行かれるのがよいとおもいます。

【信濃デッサン館】
住所:長野県上田市東前山300(前山寺横)
電話:0268-38-6599

無言館>
 平成9年に建てられた美術館で、太平洋戦争で戦地に散った美術学生30余名、300余点の遺作、遺品が展示されています。勿論、窪島誠一郎氏が創られた美術館です。

左の写真の建物が無言館です。私は下諏訪から中山道を車で走って上田に向かいましたが、信濃デッサン館の手前に無言館がありました。私が訪ねた時はかなりの人が訪ねていました。人気があるようです。

【無言館】
住所:長野県上田市大字古安曽山王山3462
電話:0268-37-1650

勘六山房>
 水上勉は平成3年に軽井沢から長野県北佐久郡北御牧村勘六山に別荘を移します。軽井沢の雑踏から人のほとんどこない勘六山に移ったわけです。軽井沢では新幹線の軽井沢駅まで4Km程で近かったのですが、勘六山は、しなの鉄道田中駅まで4Km、そこから上田までしなの鉄道に乗って上田駅で新幹線に乗り換えます。上田駅か佐久平駅まで車でいったほうがよさそうです。

右の写真は勘六山房への道です。山の上が別荘となっています。S字カーブを300m位歩くと水上勉宅(勘六山房)入り口です。この勘六山は別荘地として開発かれたようで、水上勉宅の他に数軒の別荘が建っていました。こんな所によく別荘を建てたなとおもうくらいの場所です。

平成16年(2004)9月8日、午前七時十六分、肺炎のため長野県東御市の仕事場で死去されます。八十五歳でした。丁度その時間に台風18号が”飢餓海峡”の舞台となった函館の北を通過しており、洞爺丸台風以来という被害をもたらした台風の出現が、なにか水上勉の死を教えているようでした。

この後「水上勉を歩く」は”飢餓海峡”や”五番町夕霧楼”等を特集する予定です。

<水上勉の信濃地図 -2->

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫
・命あるかぎり贈りたい:山路ふみ子、草思社


 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール