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最終更新日: 2018年06月07日


●水上勉の京都を歩く 千本中立売から五番町界隈編
    初版2004年11月13日
    二版2008年1月1日
    三版2008年6月15日
    四版2008年7月21日
<V01L01> 奥村楼の場所を修正

 今週は「水上勉を歩く 京都編」の”千本中立売から五番町界隈編”を掲載します。ご存じの通り五番町は遊廓跡であり、千本中立売は水上勉がよく遊んだ西陣京極の歓楽街がありました。


<五番町遊廓跡>
 京都市内の遊廓といえば島原が有名ですが、上七軒、宮川町、そしてこの五番町等があります。とくに五番町は西陣の職人のための遊廓として成り立っていたようです。「…久しぶりに京都の五番町遊廓跡を訪れた。千本中立売を少し西へ入った一筋目を、出水のあたりまで散歩してみたのである。むかし、まだ売春禁止法が施行されぬ前まで、この界隈は「五番町」とよばれた遊興地の中心で、両側に妓楼がならんでいる。この道りだけでなく、もうひと筋西よりの通りと交叉する東西通りが何本かあって、その横筋も、辻のあたりはとりわけて、賑やかだった。青や赤の小割りした窓ガラス。左右どちらからもはいれて、す通りも出来る三角形の戸口。手すり欄干をめぐらせた二階。洋風とも和風ともつかぬ四角い木造洋館。京格子をこまかくはめこんだ連子窓のl一階をもつしもた屋風。それぞれの楼風を競って立ちならぶのだが、どの戸口にも、小火鉢をもち出して、丸椅子に腰かけた、しわがれ声のおばはんが、股あぶりしていて、「ちょいと、ちょいと、あんたア」 と道ゆく男をよびとめていた。…」。私は遊廓に行ったことがないので、雰囲気がわかりせんが、現存している遊廓の建物を見ていると当時の雰囲気がなんとなく分かるような…‥・!!

左上の写真は五番町にあった石梅楼という遊廓跡の建物です。「…出水からつぎの南北通りを北へ歩く。石梅第一、石梅第二、というむかしなつかしい妓楼がうかんできた。奥村楼というのもあった。石梅は洋風の建物を角地にもっていた。…」。残念ながらこの建物は現存しません。現在は駐車になっています。この写真はSKさんよりお借りしています(VGAへの拡大はしません)。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)

水上勉の京都年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和8年
1933
ナチス政権誕生
国際連盟脱退
14
4月 花園中学校三年に編入
昭和9年
1934
丹那トンネル開通
15
4月 花園中学校四年
昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
16
4月 花園中学校五年
昭和11年
1936
2.26事件
17
3月 花園中学校卒業
5月 下京区八条坊城 母の兄の履物商宅に転居
西村才天堂に勤めて「むぎわら軟膏」を売る
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
18
4月 立命館大学文学部国文学科入学
12月 立命館大学退学
昭和13年
1938
関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
19
3月 京都府庁の職業課に勤める
8月 はるぴん丸で満州にわたる
12月 日本に戻る

<水上勉の京都地図 -1->


千本中立売を西へ入った一筋目>
 水上勉は初めて五番町遊廓に入ったときのことを書いています。「…中立売を、千本から西へ入ったひと筋目を降りてくると、右側が寺の基地のみえる土塀になっていて、軒のひくい二階屋の妓楼が片側にならんでいた。その中はどの店で、二階の窓が、とりわけひくく、よごれたガラス障子のはまった楼だった。名はわすれたが、入口は暗い土間になっていて、左手の小部屋が妓の溜り場だった。……溜り場にいた妓は四、五人いた。その中で肌の白い大柄な妓が、ウチワみたいな平べったい顔をにこにこさせ、先に廊下にきて私を凝視したが、一見して、学生と直感した様子で、一瞬、考えこむふうだったが、私が帰りそうもないのをみとめると、いそいで私の手をひいた。正直いって、私には妓をより好みする余裕などはなく、誰でもよいから寝てほしかったのである。……私はみじめな気持ちになって、着物をいそいで着ると階段をかけ降り、おばさんが何かいうのを尻目に、外へ出た。中立売通りの方へ走った。…」。まあ、男性なら分かるフレーズです。

左上の写真の露地が上記に書かれている”中立売を千本から西へ入ったひと筋目”です。中立売通りに向かって撮影しています。ですから左側が”寺の基地のみえる土塀”となり、右側に。”軒のひくい二階屋の妓楼”があったわけです。現在はほとんどが建て直されていました。中立売通りから撮影した写真も掲載しておきます。

奥村楼跡>2008年7月21日奥村楼の場所を修正
水上勉の紫野中学時代の友人の実家がこの五番町遊廓の中にありました。「…奥村楼というのもあった。石梅は洋風の建物を角地にもっていたし、奥村楼は、門構えで、つつじの植えこみのある内庭を歩いて玄関に辿りつく構えが重々しかった。通りへ手すりのある二階がせりだしていて、同じ妓楼でも、上位の方だったかもしれない。…… 私が紫野中学に通っていたころに、二つ三つ年上だが、ラッパズボンをはいて、ユキビ面にクリームをぬってくる背高い奥村という同級生がいた。私が烏丸上立売から歩いて通うのに、彼は近い千本から電車で通学していた。誰いうとなく、五番町の妓楼の長男だということだ。私は奥村と、妙に気があい、のち等持院へうつってからも文通していたが、仁和寺通りの西のはずれにある奥村楼が生家で、自家がかなり大規模な妓楼なため、両親が彼を大将軍の牧茂一郎先生(紫野中学の博物担当だった)の宅にあずけていたことから、牧先生の勤めておられる私らの中学へ転入してきていたのである。色白で、眼玉の大きな顔は、美男子というにふさわしかったが、彼はしょっちゅう、「うちは女郎屋やさかい、かなんねや」 といっていた。…」。この奥村楼は五番町では一流の遊廓だったようで、当時の水上勉には手も足もでない高級店だったようです。

右上の写真左側に路地がありますが、この路地を左に入って、少し先の左側に奥村楼がありました(直接の写真は控えさせていただきました)。昭和30年初めには無くなっていましたので、戦後すぐにに廃業したのだとおもいます。「…その奥村楼は確か、仁和寺街道と千本からひとつ目の筋との角から、少し西へいった北側だった気がする。大きな構えで、二階窓に手すりがあった…。」、と書かれていますが、最後の”北側”が南側の間違いなのではないかとおもっています。

中立売の角から二軒目>2008年6月15日写真を入替
15、6歳の中学時代から飲み屋に通っていたようです。
「…中立売の角から二軒目に、縄のれんをたらした安呑み屋があった。のれんの向こうに格子戸が一枚はまっていて、あけて入ると、土間に板のカウンター。向こうにおでん鍋を一つすえて、肥った女将が、湯気の中で、コップ酒をつぐのに、うけ皿へこぼすまでにして、「ホルモンつけてお気張りやす」というのが口ぐせだった。何という店か名はわすれたが、私は、この呑み屋へ兄弟子の某につれられて一ど行った。遊廓のとば口ともいえる場所なので、遊興に出かける労働者だとか、丁稚ふぜいの男らが、夕刻すぎから四、五人、いつも、表に背を向け、坂椅子に腰をかけていた。私はここでコップ一杯の酒をのんで、ふらふら歩きで天神前に出、白梅町をすぎ、等持院へ走り帰った。…」
とんでもない坊主だったようです。これでは坊主家業が長く続かないわけです。

左上の写真は昭和36年の中立売六軒町の急カーブです(撮影者名:森俊朗氏、お借りしています)。左から二件目に「熊鷹」の看板が微かに見えるのですが(拡大してください)、上に右側からキリンビールの看板があるところです。因みに走っている市電は京都駅前から北野天満宮までの北野線です。昭和36年に廃止されていますので廃止少し前の写真ですね。現在はいくつかのお店が一つのビルになってしまっていて、「熊鷹」も無くなっていました。千本中立売交差点か撮影した写真も掲載しておきます。

西陣京極付近>
西陣京極付近は大正時代から昭和初期にかけて「日本のハリウッド」として映画館20軒以上を有する京都一の大歓楽街でした。直ぐ傍に五番町遊廓があり、千本中立売付近から千本丸太町付近まで(約800m)遊びには事欠かなかった場所でした。「…伯父の家から、才天堂へ通い、店の仕事を終えると、歩いて唐橋に出て、大宮七条から電車で、河原町広小路の立命館へ通ったのだが、夜学でもあったので、途中、京極などのネオンが電車窓から見えると、映画もみたくなって、よく学校をさぼって …… 私たちが飲んだ店は、八千代(千本通り中立売下ル)、バット(千本通り中立売上ル長久屋前)、五十鈴(今出川通り千本西人ル)、天久(千本通り丸太町上ル)、黒猫(御前通り一条上ル)などだった。こういう店は、バアとも、一杯呑み屋ともつかぬ体裁で、八千代、バットは昼は喫茶店に化け、夜はビール、酒が出た。…… 私たちはいつも、バットか、八千代で会って飲み、おそくなると、五番町へくりこむのが常だった。ぴいぴいの私などでも、五十銭硬貨一枚あれば、ショートタイムの妓が買えるのだった。…」。上記に書かれている飲み屋(バア?)は探してみましたが一軒も残っていませんでした。一軒くらい残っていたら面白かったのですが残念です。また、当時の硬貨は一円硬貨までありましたが、実用的には50銭硬貨が一番高価なコインでした。現在の価値に換算してみようとおもったのですが、換算する商品によって差が大きすぎるようです。現在の5000円程度と考えるのが妥当とおもわれます。

右の写真が西陣京極歓楽街の千本通り側の入り口です。細い露地でこれが戦前の人で溢れた繁華街だったのかとおもうと寂しい限りです。現在は飲み屋とパチンコやと映画館がありました。

次回は水上勉の生まれ故郷を訪ねます。

<水上勉の京都地図 -8->

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫
・命あるかぎり贈りたい:山路ふみ子、草思社

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