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最終更新日:2018年06月07日


●水上勉の京都を歩く 立命館から京都府庁時代編
  初版2004年11月13日 二版2005年1月10日 <V01L01> 上長者町通りの写真を入替

 「水上勉を歩く 京都編」の”立命館から京都府庁時代”を掲載します。八条坊城の西村才天堂で”むぎわら膏薬”を売りながら立命館大学国文学科に入学しますが、こちらも長くは続きませんでした。


<私版京都図絵>
 この「京都図絵」は昭和54年(1979)3月から翌年の4月までPHPの月刊誌Voiceに掲載されたもので、昭和55年(1980)5月「私版京都図絵」として出版されています。「東京図絵」が朝日新聞の東京版に掲載されたのが平成6年(1994)6月から翌年の9月までですから、この「京都図絵」は15年程前になります。やはり京都への思いが強いのだとおもいます。「あとがき 私は、京都を舞台にした小説を書いて文壇に認められた者のひとりである。自身の履歴をいえば、九歳で京都ゆき話が親たちによってとりきめられ、相国寺塔頭徒弟になったのが十歳。十一歳で得度し、名も大猶集英と僧名をいただき、禅寺での生活も、十八歳まで続いた。二十二歳で上京するまで、殆ど京都で暮らしたといってもよい。精神形成期の大切な時期を京都で過ごしたので、小説を書く舞台が、自ずから京都になったのである。だが、このたびの「京都遍歴」は、小説ではない。私が折にふれて、京都について書いた文を集めて、一冊とした。かつて私は、私版「京都図絵」として福武書店より、京都について書いたものを一冊として刊行したが、その本を主軸に、他に何篇か京都に関わる文章を加えて一冊としたのである。私の、京都物のノンフィクションといえようか。「京都遍歴」と適した所以である。 立風書房の山崎園子さんに、またまた、編集の労をわずらわせた。末尾を借りて厚くお禮を申し上げる。 一九九四年三月三十日 京都百万遍にて 水上 勉」。このあとがきは平成6年(1994)に出版された「京都遍歴、立風書房」のものです。この「京都図絵」を元にして京都の紀行文を次々に書き上げていきます。

左上の写真は作品社の「私版京都図絵」初版本です。上記に福武書店と書かれているのは文庫版の出版社です。この後もこの「京都図絵」に少し加えた「京都遍歴(水上勉紀行文集第二巻、平凡社)」が昭和57年(1987)に出版され、そして上記の”あとがき”が書かれている「京都遍歴、立風書房」が平成6年(1994)」出版と繋がっていきます。昭和54、5年から考えると、7〜8年周期で京都の紀行本を出版していたことになります。「今宮神社界隈」でも書きましたが後になるにつれて、間違い等が修正されています。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)

水上勉の京都年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和11年
1936
2.26事件
17
3月 花園中学校卒業
5月 下京区八条坊城 母の兄の履物商宅に転居
西村才天堂に勤めて「むぎわら軟膏」を売る
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
18
4月 立命館大学文学部国文学科入学
12月 立命館大学退学
昭和13年
1938
関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
19
3月 京都府庁の職業課に勤める
8月 はるぴん丸で満州にわたる
12月 日本に戻る

<水上勉の京都地図 -1->


旧立命館大学>
 八条坊城の西村才天堂で”むぎわら膏薬”を売りながら立命館大学国文学科(夜学)に入学します。「…翌年の春に私は立命館大学専門部文科に入学した。卒業すると、中学の国漢の教師の免状がもらえる、というのが私の夢だった。伯父の家から、才天堂へ通い、店の仕事を終えると、歩いて唐橋に出て、大宮七条から電車で、河原町広小路の立命館へ通ったのだが、夜学でもあったので、途中、京極などのネオンが電車窓から見えると、映画もみたくなって、よく学校をさぼって、河原町をふらつくようになった。長い間の禅寺の生活で、自由なくらしに憧れていたので、自分で稼いだ給料で、映画くらいみてもいいだろう、というのが私の理屈だったが、それはしかし、苦学の目的とはかけはなれていて、酒もおぼえるようになると、しだいに、学校の方がおろそかになった。…」。立命館大学の入学式で坊主時代の友人と巡り合い、遊びが始まります。当時の学生の遊びは遊廓と酒場だったようです。千本仲立売から五番町界隈を遊ぶわけです。

左上の写真の左側に当時の立命館大学がありました。現在の河原町荒神口西入ルの右側になります。現在の府立医科大学の所です。

堀川上長者町東入ル> 2005/1/10 上長者町通りの写真を入替
 立命館大学国文学科も長くはもちませんでした。「…八条坊城の伯父のところで「むぎわら膏薬」を売りはじめたころから、一年ばかりでその仕事もイヤになって、京都府庁につとめだし、堀川上長者町を東へ行ったところにある「小泉」という姓で、友染の帯絵をかいている家の二階を借りてからだった。ここへ越したのは、府庁へ歩いてゆけるという便利さもあったけれど、もう一つは、遊興の町千本界隈まで、徒歩でゆけたためである。…」。遊びに金がかかった為、月謝が未納だった立命館大学を退学し京都府庁に勤めます。京都府庁の建物は昔のままでした。

右の写真は堀川上長者町東入ル付近の写真です。堀川上長者町東入ルには上記に書かれている友染の帯絵を書いている「小泉」というお宅を見つけることはできませんでした。「わが六道の闇夜」では「上長者町の堀川を東へ入った染め物屋の二階に下宿した。」。とも書かれています。同じことかなともおもっています。

千本丸太町付近>
 相国寺瑞春院のころ、アルバイトをしていたようです。アルバイトといっても和尚から命令されて経をあげに檀家の家々を回っていたのです。「…千本丸太町を下るとまもなく竹屋町だが、そこからひと筋目下るといっても、西にだけ入る小路だったから市電に乗っていると、通りすぎてしまうのだった。露地の突き当たりに、軒ひさしのくっつきそうな一つの露地があって、この露地の入口に門のようなものがあり、露地内の住民の表札がかかっていた。両側の家は、入口にわずかな三和土、上り間は四畳半か三畳、それにもうひと部屋六畳あるかないかの長屋がざっと二十軒ぐらい。表口に朝顔棚や植木鉢の類をならべている。 この付近には、こういう小路がいくつもあって、記憶にまちがいなければ、舞楽某町といった。その露地の入口とば口あたりに、谷口という駄菓子屋があった。そこが、瑞春院の檀家だった。……私が仏壇の前にすわると、婆さまは、夏はうしろからウチワで煽いでくれた。冬だと三和土の七輪コンロをあげて、ぬくめてくれた。…」。檀家を回るといろいろと面倒をみてくれますからいいことも多かったでしょう。

左上の写真が千本丸太町を下がった竹屋町通りから千本通りを写したものです。竹屋町通りから千本通りを一筋下がった露地はもうありませんでした。ビルが建って露地を無くしてしまっています。裏側に回ってみると長屋がありました。途中で切れてしまっていますのでその先にあった長屋ではないかとおもっています。

智恵光院丸太町下ル、主税町の磯田家の二階>
 どうも、”堀川上長者町東入ル”と”智恵光院丸太町下ル”の住いがオーバーラップしているようです。上記にも”京都府庁につとめだし”と書かれています。「…智恵光院丸太町下ル、主税町の磯田家の二階を借りて住んだのは、立命館大学の夜学に通うべく、八条坊城のむぎわら膏薬売りをやめて、京都府庁につとめたころだった。府庁は、下立売にあったから、丸太町から近く、歩いてかよえた。いまのNHKのある地点の前を入って、三軒目の二階家で、最近そこへ行ってみたら、琴三弦の師範の看板が出ていた。表に面した母家はそのままあって、私の借りた部屋の窓が、往時の木枠をみせて、はまっている。磯田といったのは私の記憶ちがいかもしれぬ。ここにも婆さまがひとりいて、離れの二階と、表の二階を学生に貸していた。私は、ここに半年はどいた。昭和十三年ごろなので、NHKはもちろんあったし、その南に接した公園は、いまのように樹が混んでなく、白い砂を敷いただけで、広く見はらしがきいて、遠くに二条城の櫓が望めた。この公園で、ラジオ体操があり、江木アナウンサーの声がNHKの拡声機から流れて、私たち主税町の全員は、老いも若きも、公園に出て、体操をやった。もちろん、南の方からも大勢の人がきて、毎朝、ざっと五百人近い人の渦だった。…」。水上勉は近年この”智恵光院丸太町下ル、主税町の磯田家の二階”を実際に見に行っています。

右の写真の左側一軒目に”智恵光院丸太町下ル、主税町の磯田家の二階”があったようです。この先の交差点からは手前に三軒目となります。良く写真を見ると左から一軒目と二軒目の間に”琴三弦の師範の看板”が写っています。上記に書かれているとおりですが、家は建て変わっています。この道の先、左がわにNHK京都があります。右側には二条児童公園がありますのでここもピッタリですね。

次週は千本中立売から五番町界隈編を特集します。

<水上勉の京都地図 -7->

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫
・命あるかぎり贈りたい:山路ふみ子、草思社

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