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最終更新日:2006年6月9日


●水上勉の京都を歩く 等持院界隈編
  初版2004年10月2日 <V01L02>

 今週は「水上勉を歩く」を引き続き掲載します。先週は紫野中学と今宮神社界隈でしたが、今週は花園中学と等持院界隈編を掲載します。


きつねうどん>
 水上勉も等持院の小僧時代に食べたことのある”きつねうどん”のようです。この”きつねうどん”が登場するのは彼の「文壇放浪」の中です。「…その昭和七年から翌八年ごろにかけて、等持院の嵐山電車駅の北側に、当時としては新しい二階建ての清酒な木造アパートが建ち、「等持院アパート」という看板が電車からでも見える切妻屋根の下に出ていたが、この二階の階段を上ったつきあたりの部屋に、井上靖氏が住んでおられた。井上さんに、そののちきいたことであるが、よく、このアパートから等持院まで歩いて、松林の陽だまりを見つけて腰をおろして読書したものです、とか、あのうどんやさんがなつかしい、などとおっしゃっていた。うどんやとは、嵐電駅の南側にある銭湯前の店のことで、よく私たち小僧も夜ふけに出前をたのんだので、親爺さんの顔までおぼえているのだが、井上さんは、このアパートに住んでおられた昭和十一年七月にサンデー毎日の千葉亀雄賞に応募され「流転」で受賞されたことは有名なはなし。…」、とあります。このうどんやさんは水上勉というよりは井上靖氏が好きなうどん屋さんで有名です。上記に「嵐電駅の南側にある銭湯前の店」と書かれていますが、実際は京福電鉄北野線等持院駅の一つ先の龍安寺道駅(駅の間隔は僅か200m程)の北側にあるお店です。等持院駅の南側には確かに「花の湯」というお風呂屋さんがあります。井上靖氏は昭和7年九大を中退、京大に再入学しています。その頃からこの等持院アパート(現在は立命館の寮)に住んでいたのではないかとおもいます。昭和10年11月に京都帝国大学名誉教授足立文太郎氏の長女ふみさんと結婚され、その後毎日新聞社に入社しています。

左上の写真が井上靖氏が好きな”きつねうどん”です。お店は「食堂笑福亭」といいます。御夫婦でやられているそうで”跡を継ぐひとかいないので私たちで終わりになる”と言われていました。お店には井上靖氏が残されたものがたくさん置いてありました。食べてみたい方はぜひとも早くいかれるといいとおもいます。京都のきつねうどんは”あげがきざみ”になります。大阪のきつねうどんは大きなあげが一枚入っているのか普通ですが、京都はきざみのようです。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)

水上勉の京都年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和6年
1931
満州事変
12
3月 室町尋常小学校卒業
4月 禅門立紫野中学校入学
昭和7年
1932
満州国建国
5.15事件
13
2月 相国寺瑞春院を脱走、相国寺内玉龍庵に入る
11月 天竜寺派別格地衣笠山等持院の徒弟となる
昭和8年
1933
ナチス政権誕生
国際連盟脱退
14
4月 花園中学校三年に編入
昭和9年
1934
丹那トンネル開通
15
4月 花園中学校四年
昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
16
4月 花園中学校五年
昭和11年
1936
2.26事件
17
3月 花園中学校卒業
5月 下京区八条坊城 母の兄の履物商宅に転居


等持院>
 水上勉は昭和7年2月相国寺瑞春院を脱走し一時相国寺内玉龍庵に入っていましたが国元若狭の海泉寺の住職の世話で等持院に入ります。「…寺はずいぶん荒廃していたが、現今よりも風格はあった。まず、山門から中門にいたるアプローチが美しかった。両側の土塀から巨松が枝をさしかわし、なだらかな坂道が、瓦ぶきの中門に吸われて、その門も四木柱が虫境いもあらわで、かたむいていた。この中門は、現在は取りはらわれて、コソクリートの塀と門になり、途中の坂は、土塀が消え、人家が建っている。したがって、坂は三分の二ぐらいけずられて、ラチもないただの入口になった。……したがって、往時の幽邃さは失せ、ただの街なかの寺院である。……こんなように書いてくると、等持院ほど、ここ二十年間のうちに変り果てた寺はめずらしい。同じ衣笠山をめぐってある金閣寺、龍安寺等は、昔どおりの敷地を守って、名残りを懸命にとどめているのに、この寺だけは、周囲がむざんといえるはど、大学、人家に迫られ、風格を失ったのである。やはり、足利尊氏の菩提寺ということで、人が省みないこともあって、経営難に拍車をかけ、どこの寺でもそうだが、屋敷の切り売りをやった結果というしかない。…」。等持院としては残念ですね。水上勉がいたころは境内を東亜キネマに貸して、その家賃でなんとか寺の経営をおこなっていたようです。この山門の300m程先に本殿があります。今でもあまり裕福ではないお寺のように見受けます。

【衣笠山等持院】
 万年山等持院は、衣笠山麓にある。臨済宗天龍寺派別格地京都十刹の一つ、足利尊氏の建立した寺で、尊氏の菩提寺でもある。境内に宝篋院塔の墓や、足利累代将軍の遺髪塔があり、本堂よこの霊光殿には、尊氏から十五代義昭将軍までの木像が安置されている。足利家とながいかかわりをもったことが知れる。その足利家は、軍国主義下では国賊尊氏の裔といわれ、維新当時も何かと眼の敵のようにされて、たとえば、勤皇派の浪士が等持院を夜襲、尊氏の木像の首を斬ったりした伝説がある。維新時にかぎらず、それ以前でも、等持院の名は登場している。応仁の乱の時は、一方の大将の屯所になり、兵火もあびている。代々の将軍は、初代の墓所でもあったから、しょっちゅう法事を催した。だが、その室町期の建物は消失し、今日ある方丈、庫裡は江戸期のもので、福島正則が建立した。徳川家康は、足利家と因縁があったところから尊氏を敬い、正則の建立もこれにかかわっている。(「京都遍歴」より)

左上の写真が等持院山門です。水上勉がいたころはこの山門から先がすべて等持院だったようですが、上記にも書かれている通り、現在はこの山門の先の両側は民家になっており、その先の中門はコンクリートの門柱が両側に建っているだけでした。

鳥原たばこ店>
 等持院の門前にあるたばこ屋さんが鳥原たばこ店です。このお店は昔からあるお店で結構有名なんです。「…私はそういう時代の小僧だったから、毎日のように、撮影隊のくるのが待ち遠しかった。おばえているものだけでも、山中貞雄「足軽出世物語」、石田良三「恋慕吹雪」、衣笠貞之助「二つ燈籠」などがある。当時は三橋式といって、アフレコのトーキーだったが、私たちのお経をよむ音を衣笠監督が、大作「忠臣蔵」や「二つ燈籠」 に吹きこまれたことをおばえている。石田民三監督は、門前の鳥原タバコ店の二階にいて、ドテラ姿での撮影だった。…尾上松之助が一週間で、「忠臣蔵」を撮った時は、「松の廊下」は方丈の縁だったし、「一力茶屋」は庫裡の書院だった。討入りの「吉良屋敷」も、方丈前庭の唐門がつかわれ、「忠臣蔵」全篇が等持院で完了している。つまり、寺は内も外もあげて、撮影セットの役割を果した。……私が、『雁の寺』で直木賞をうけた時、京都上七軒に悠々自適の生活をしておられた石田民三さんが、「ああ、この小僧は、わしも見たことがある」ともらされたときいたが、それほど、私は、石田監督がドテラ姿で監督されるのに、ぴったりくっついて、銀紙もちをしていたらしい。…」。忠臣蔵が一週間で撮影できるとはすごいですね。雑というか、時代が可能にしているのか、でも、銀紙を持って撮影の手助けをしていたとはおもいもよりませんでした。この近くに谷崎潤一郎も一時住んでいました。

右の写真が鳥原たばこ店です。現在の名前は「デイリーショップ等持院とりはら」です。たばこ屋さんからコンビニに変わっているようです。私はアイスクリームを買って食べました。真夏だったので暑かったのです。

花園中学校>
 水上勉は等持院に移るとともに紫野中学の閉鎖に伴い花園中学に移ります。花園中学は京都花園妙心寺が臨済宗宗門子弟の教育機関として設立したものです。「花園中学は前記したように妙心寺の建てた学校である。花園木辻町にあったが、当時は、全校生徒は五十人そこそこで、私たち五年生は十七、八人だったと思う。妙心寺派末寺の徒弟が大半だったが、ちょうど、私が三年の時に、大徳寺よこの紫野中学が廃校になったので、転入組もいて、他の学級に比して人数は多い方だった。…」、と書いています。全校生徒数が50名とは少ないですね。この人数なら良く勉強ができたでしょう。また同級生か当時のことを書いています。「… 水上君は、等持院の薄暗い部屋でいつもマンガ本を読んでいた。小説も読んでいたが、時々空想的な物語を考え私達に話しかけたりした。今思えば、この着想、思考と発表能力が今日の彼に発展していく一要因を灯していたのではなかろうか。中学時代の水上君は、苦労と苦難の連続で何一つ自由に振る舞えることはなかったと思う。しかし、この得がたき試練がより広く世間を知り人の心を知って、糧となり今日の一大飛躍に結びついたのであろう。(天獄院住職)」。さすが同級生です。いいことを言ってくれます。お寺の住職が書かれていますのであまりふざけたお話は書けないのでしょう。そっちのお話は、「…卒業間近くなると、この学級にも、はしかのように襲った「女郎買い」がある。すなわち,五年在学中に童貞を捨ててこなけれは、ストーブにあたらせてもらえない、という掟が出来て、すでに級の大半は遊廓で、童貞を捨てていた。宇和島の選仏寺の長男である名本某は、柔道四段で年も二十四歳という強の者で、休み時間がくると、女の話ばかりしていた。童貞を捨ててきた連中は、みなこの名本に感化されたものであって、私もだいぶおくれたが卒業の年の一月に、五番町へ級友につれられていって、望みを果たした。…」。18歳ころですから、みんな考えることは一つのようです。この辺りのお話は「千本仲立売から五番町を歩く」で書きたいとおもいます。

左上の写真が昔の花園中学、現在の花園高等学校です。花園高等学校の左隣は京都花園妙心寺です。昔はラクビーで有名だったのですがこのごろはそうでもないようです。進学校になってしまったのかな!

次回は下京区八条坊城付近を掲載します。

<水上勉の京都地図 -5->

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫
・命あるかぎり贈りたい:山路ふみ子、草思社

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