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最終更新日:2006年6月9日


●水上勉の京都を歩く 今宮神社界隈編
  初版2004年9月25日 <V02L03> 山路ふみ子さんの自伝を掲載

 今週は「水上勉を歩く」に戻って「水上勉の京都を歩く」”今宮神社界隈偏”を掲載します。水上勉は室町尋常小学校卒業後 昭和6年4月 今宮神社参道にある禅門立紫野中学校に入学します。


あぶり餅>
 私も京都へは度々訪ねていますが、今宮神社のあぶり餅は今回が初めてでした。かなり有名なお餅で、なんと平安時代中期(1000年頃?)からあるそうで、1000年は経っていますね。「…裏門を出て両側の「あぶり餅」本家、元祖の客をよびこむ風景に息をのんでいる。一文字屋とかざりやである。赤い前かけをした女中さんらが、充血した手甲を光らせて、「寄っといでやす、あぶり餅どっせ」と呼び、真の炭火であぶる餅を、雪のかかる店先で喰っていると、向こうの朱の神殿に雪が舞い、冷えた腹に熱い餅がしみるのだ。学校をさぼって餅喰いにきた貧書生も、一瞬平安時代に入りこめる錯覚なのである。…」。京都駅からはかなり遠くて金閣寺や北野天満宮からも北に2Km程歩かなければなりません。観光客はちょっと訪ねにくい場所です。私が食べたときは暑い夏でしたので、扇風機の回る座敷で汗をかきながらの試食でした。でもお客さんは多かったです。

左上の写真が「かざりや」のあぶり餅です。今宮神社に入ってすぐ右側の裏門の外にあぶり餅屋が二軒あります。

かなり昔からこの二軒は向かい合ってあるそうで、右の写真のとおり、今宮神社裏門から見て左側が「一和」、右側が「かざりや」です。「一和」は正式名称で「一文字屋和助」といい、水上勉が上記に書いている「一文字屋」となるわけです。「かざりや」は正式には”あぶり餅 本家・根元 かざりや”となっています。あぶり餅ですが、お餅を一口大にちぎって、きな粉をまぶしそれを竹串にさして備長炭であぶります。その上で白味噌をベースにしたたれをかけて食べます。なにか、昔懐かしい味という感じでした。すこし甘かったです。一人前500円です。お持ち帰りもOKです。緑色の包み紙に「今宮神社の名物にてその昔よりこれを食べれば疫病を除き運強く長寿を保ち広く賞味される物なり」と書いてありました。何方のお店も味はあまり変わらないようです。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)

水上勉の京都年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和4年
1929
世界大恐慌
10
8月 京都の相国寺瑞春院で一ヶ月程修行
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
11
2月 京都の相国寺瑞春院へ小僧に出される
室町尋常小学校へ転校(5年生)
昭和6年
1931
満州事変
12
3月 室町尋常小学校卒業
4月 禅門立紫野中学校入学
昭和7年
1932
満州国建国
5.15事件
13
2月 相国寺瑞春院を脱走、相国寺内玉龍庵に入る
11月 天竜寺派別格地衣笠山等持院の徒弟となる
昭和8年
1933
ナチス政権誕生
国際連盟脱退
14
4月 花園中学校三年に編入

<水上勉の京都地図 -4->


今宮神社>
 水上勉は室町尋常小学校卒業後 昭和6年4月 今宮神社参道にある禅門立紫野中学校に入学します。「…私は昭和四年に福井から相国寺にきて、第一室町小学校の尋常科を卒え、この紫野中学へ入学していたが、子供の足だから、烏丸上立売から、大宮通りを、北上するこの道のりは、かなり時間を喰い、四十分はかかった気がする。時には、新町を歩いて、妙覚寺をよこぎり、妙顕寺に出て、その境内をななめに通って、済生会病院のよこから大徳寺前に出たが、いずれも、この途中は混んだ機屋のほかは、寺か病院ぐらいしかなく、道もせまくて、早朝は新聞配達か、牛乳屋しか通っていなかった。…… そこから今宮神社入口へ向かうなだらかな道の右側は、わずかな商店と人家であったが、その一軒に若狭の父の師匠だった小原嘉左衛門という宮大工がいた。…… 私が通ると、いつも「つとよ、きばっとるか」と勇吉はカンナ屑の中からはなしかけてきた。…」。烏丸上立売から紫野中学までは約3Km弱で、歩くと45分位かかるとおもいます。相国寺から紫野中学まで水上勉が通った通学路を記載しておきます。ただし、良く読むと「新町を歩いて、妙覚寺をよこぎり、妙顕寺に出て」、と書いていますが、新町通りからは最初のお寺は妙顕寺で、次に妙覚寺となります。順番を間違えています。

左上の写真が北大路通りにある今宮神社の朱の鳥居です。左に向かうと千本北大路から金閣寺となり、右に向かうと北大路大宮となります。

建勲神社>
 今宮神社の朱の鳥居の北大路通りを挟んで向かい側に船岡山があります。この船岡山の南東に建勲神社があります。「…北大路通りの今宮近くは、小原工務店の前に、ぽつんと一軒だけ建った刃研ぎ屋があるだけで、ほとんど両側に家はそろわず、正面の千本の角は高台の感じで、前方に金閣寺の森がみえた。少し下ると、藁天神の高い石柱のある参道だった。そうして、その前は畑になって、小学校が見え、建勲神社の船岡山が牛が一頭寝たように、町家を圧していた。…」。建勲神社は織田信長を祀る神社で、明治2年(1869)明治天皇により東京で創建されています。明治13年京都に移され、明治43年当地に祀られました。

右の写真が建勲神社の鳥居です。この鳥居は船岡山の南東にありますが、今宮門前の北大路通りを挟んで反対側にも建勲神社北参道と書いてありますので、こちら側からも入れるようです。

今宮神社参道>
 今宮神社の朱の鳥居をくぐった右側に同じような家が数軒並んでいます。「…朱の鳥居をくぐるのだが、いつのころだかわすれたが、鳥居をくぐってまなしの右手に、格子門をもった二階家が同じ構えをみせて五軒ほど建ち、一軒に「山路」と表札がかかっていた。新興キネマの女優山路ふみ子さんの家だ。ある日、私が表を通ると、山路さんがゆかた姿で、ウチワをもって門の前にたち、銀紙の貼板をもった助手をつれたカメラマンが、大きな三脚をすえて、撮影中だった。私は足をとめ、その撮影を見ていて、学校に遅刻している。山路さんは、『愛怨峡』で主役をやる直前で、スターになりかけのころだった。この撮影の写真は、やがて、京都の町角のところどころで目につく、西陣のきもののポスターになった。…」。左の写真を拡大してみると、同じようなスタイルの家が並んでいます。昔のままの家が一軒あって、その両隣りの家はすこし直しているように見えました。この数軒の家の何処かが「女優山路ふみ子さんの家」だったのでしょう。

 山路ふみ子さんの自伝がありましたので、確認してみました。「…こうして母と私は京都の今宮神社近くの洋館作りのおしゃれな家で暮らすことになりました。…」。とあります。正確な住所は記載されておりませんでしたが、だいたい合っているようです。

左上の写真が今宮門前交差点の朱の鳥居を潜ってすぐ右側のところです。道を進むと左側に紫野高校、正面に今宮神社となります。

旧紫野中学校>
 水上勉が相国寺から通った紫野中学です。「…大徳寺よこにあった紫野中学(般若林)は、相国寺、東福寺、大徳寺三山が徒弟教育のため建てた学校だった。のちに転校してゆく花園中学が妙心寺一山の経営だったのとあわせて、京都市内には、禅宗徒弟の学校が二つあったわけで、経常する本山は変わっても、二校には全国津々浦々から、禅僧になる子供が集まった。そのため、校舎は貧弱でも、分不相応な寄宿舎があった。ここには衣を着る舎監がいた。紫野中学の場合は、のち淑女高女になり、いまは洛北高校になったけれども、当時は今宮神社の朱塗りの大門をくぐった閑雅な参道は美しく、北は孤篷庵の石畳道に接し、裏山のグラウソドからは衣笠山がみえた。そこに平屋の校舎が三列あり、生徒は一年から五年まで、あわせて四十人ぐらいだったかと思う。…」。いまでも朱塗りの大門を超えた辺りは趣があります。やはり京都という雰囲気です。「孤篷庵の石畳道」は今も健在でした。昭和7年2月、水上勉は相国寺瑞春院を脱走、相国寺内玉龍庵に移ります。その後天竜寺派別格地衣笠山等持院の徒弟となり、花園中学校に編入します。昭和6年4月からの2年間、この紫野中学校に通います。

右の写真が現在の京都市立紫野高等学校です。上記には、「のち淑女高女になり、いまは洛北高校になった」、と書いていますが、現在は京都私立紫野高等学校です。洛北高校は下鴨神社近くなので違うとおもったのでよくよく調べてみました。水上勉が上記を書いたのは昭和48年9月出版の「わが六道の闇夜」です。昭和55年5月出版の「京都図絵」では、「私の記憶にまちがいがなければ、宗門立紫野中学が廃校になったのは、昭和七、八年で、経営者だった各本山は、この敷地を、大宮にあった「淑女高女」(?)に売却し、女学校が越してきたはずである。この女学校の後身が、いまの「紫野高校」になったと思う」、と修正して書いています。平成6年5月出版の「京都遍歴」では、「私の記憶にまちがいなければ宗門立紫野中学が廃校になったのは、昭和十年で、経営者だった各本山は、この敷地を、大宮にあった「淑女高等女学校」に売却し、女学校が越してきたはずである。この女学校の後身が、いまの「紫野高校」になったと思う。」、と書いています。紫野中学の廃校の年が変わっています。後になればなるほど、他の部分も含めてかなり修正しています。面白いです。

次回は等持院界隈編を掲載します。

<水上勉の京都地図 -3->

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:窪島誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪島誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫
・命あるかぎり贈りたい:山路ふみ子、草思社

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