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最終更新日:2006年2月19日


●水上勉の京都を歩く 相国寺界隈編
   初版2004年8月21日 二版2005年1月8日 玉龍庵の写真を追加 <V01L01>

 今週は「水上勉の東京を歩く」をお休みして「水上勉の京都を歩く」”相国寺偏”を掲載します。水上勉は小学校5年の時に京都の相国寺瑞春院へ小僧に出されます。寺の小僧になれば中学校にいけるわけですから、昭和初期の当時としては親元の若狭本郷で飲まず食わずでいるよりははるかに恵まれるわけです。



相国寺>
 私は個人的に京都が好きでよく訪ねるのですが、相国寺を訪ねたのは今回が初めてでした。京都御所の裏の今出川御門を上がると相国寺南門です。同志社大学と同志社女子大学の間の道を歩くことになります。「…相国寺は、いまも放法唱名がのこっていて、京都五山では唱名本家とうたわれて、その道をおさめて、晩年まで、維邪の師であった。また、松庵師の先住敬宗令恭は、金閣寺に栄転して、十一世集養の弟子集完も、金閣寺で得度していて、代々金閣を法類としたので、私も得度後は、しょっちゅう金閣寺の法事に参加させられたものだ。…」、と書いています。相国寺は臨済宗相国寺派の総本山で相国寺派の寺院は、金閣寺・銀閣寺をはじめ全国に100ヶ寺余りあるそうです。また京都五山の第二位に列しています。寺は応仁の乱(1467)で一時焼失しますが豊臣家、徳川家により再興されています。しかし天明の大火(1788)で法堂だけを残して再び焼けてしまいます。大部分の建物は文化年間(1804〜18)に再建されたものです。上記に書かれている京都五山とは、別格で南禅寺、第一位:天竜寺、第二位:相国寺、第三位:建仁寺、第四位:東福寺、第五位:万寿寺となり、六寺となります。金閣寺、銀閣寺は相国寺が総本山になります。今週は水上勉の「私版 京都図絵」を中心にして歩いてみました。

左上の写真が相国寺庫裏です。この写真は京都のお寺を紹介するときによく使われる写真なのでどこかで見たことがある写真だとおもいます。

右の写真が相国寺南門です。御所のある今出川通りの同志社の横から入るとこの門の所になります。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。(福武文庫より)

水上勉の京都年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

水上勉の足跡

昭和4年
1929
世界大恐慌
10
8月 京都の相国寺瑞春院で一ヶ月程修行
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
11
2月 京都の相国寺瑞春院へ小僧に出される
室町尋常小学校へ転校(5年生)
昭和6年
1931
満州事変
12
3月 室町小学校卒業
4月 禅門立紫野中学校入学
昭和7年
1932
満州国建国
5.15事件
13
2月 相国寺瑞春院を脱走、相国寺内玉龍庵に入る
11月 天竜寺派別格地衣笠山等持院の徒弟となる

<水上勉の京都地図 -1->


相国寺塔頭瑞春院(そうこくじたっちゅうずいしゅんいん)>
 水上勉が昭和5年2月に小僧に出された先が京都相国寺瑞春院でした。「ここは私が出家した寺である。若狭から十歳の時に入寺して、当時の住職山盛松庵和尚の弟子になり、ここで得度式をあげてもらい、名も集英となった。…… 思い出のつきない寺である。いろいろ小説や、随筆にも書いたので、私にとって、文学的にもここは根っこのようなものをもらった寺というしかない。詳しくいえば、上立売鳥丸東人ル、相国寺東門前町、というのが当時の地名で、市電停留所「烏丸上立売」 から東へ入ると、わずかの距離に、黒い柱が二本立った門があった。そこを入って左側のとばロに瑞春院はある。そり棟の門から庫裡玄関に至る石畳と苔庭がみえて、一本の百日紅が門のわきに枝を張っている。向い側は同志社大学で、いまは高い校舎が建っているが、昔はくずれ土塀に囲まれた運動場だった。よくだんだら縞のユニホームを着たラグビー部の学生が、泥んこになって走っているのが土塀ごしに見えた。烏丸通りもこのくずれ土塀で小さな門があり、町の子供らも、そこから無断で入って、グラウンドであそべた。関かなそんなグラウンドと向きあって、瑞春院は庫裡と本堂がL字型に要を樹の間にしずめ、松林の相国寺境内に至る道に向って土塀をまっすぐのばしていた。うしろは茂った孟宗藪だった。…」。市電停留所「烏丸上立売」はもう無く地下鉄になっていましたが、上立売鳥丸東人ル相国寺東門前町の地名はそのまま残っていました。地名が変わらないのは京都のよいところですね。このお寺は「雁の寺」の名前どおり、雁の襖の絵が有名なのです。秋に特別公開があるようなので時間がとれれば見に行くつもりです。

左上の写真が瑞春院の前に立てられている看板です。やはり「雁の寺」で有名なので看板もその言葉ばかりでした。上記に書かれている”黒い柱が二本立った門”は今は石柱が二本立っていました。この石柱が黒い柱だったのがはわかりません。

室町尋常小学校>
 小学校五年の三学期に京都の相国寺瑞春院の小僧になります。そして通学した小学校が室町尋常小学校でした。「…室町小学校(室町上立売を上った地点にあった) 五年生に入学、尋常科を卒えると、紫野中学(般若林の後身)に入学し、十四歳までいた。…」。「私の履歴書」ではもう少し詳しく書いています。「…十二歳の春、室町小学校六年を卒業した。この学校は、相国寺から近く烏丸通りをへだててすぐの室町にあった。級友は頭を剃ったばくのことを「坊主」とよんだ。致し方のないことだった。しかし女の子までにそうよばれるとこたえた。教師は島内といい、頭のはげた人だった。六年「は」組、男女共学である。この一学期になぜかばくは級長に任命された。副級長は女子で山下といった。ばくは着物をきて通学していた。その胸に白いリボン糸の徽章をつける。それが級長のしるしであった。ばくは級長をいつやめたか記憶はない。たぶん、一学期だけだったかと思う。…」。室町尋常小学校へは相国寺瑞春院から烏丸上立売の交差点を上がればわずか250mの距離です。級長になれるのですからかなり頭が良かったようです。

右の写真が現在の室町小学校です。昔と場所は変わっていないためそのままです。

烏丸湯跡>
 水上勉がよく通った風呂屋が烏丸湯だったようです。「…烏丸上立売を上った右側に「烏丸湯」という風呂屋があった。電車通りに面した大きな風呂屋だ。寺には風呂場はあったがどういうわけか、タガがはずれたまま風呂桶は放りっばなしになっていて、年じゅう私たちはこの鳥丸湯へ通った。多津子さんが、先ず山人で女風呂へ入る。時間を見はからって、私が、良子さんを背負ってゆく。私は女風呂へ入り、良子さんをおろして、多津子さんに手わたす。多津子さんは浴室へ入ってゆく。私は、女のぬぎ場に待機して、新しいおむつや、肌着をベッドにならべている。やがて、多津子さんが洗い終えた赤ん坊を抱いてくる。私はうけとる。赤ん坊におむつをさせ、肌着をす早く着せる多津子さんは、真っ裸なので、いらだっている。すぐまた浴室へ帰る。私は、この赤ちゃんを背負って寺へ帰るのだ。これが毎日だった。十一、二歳の私はこの女風呂へ行って待機している時間がイヤだった。…」。烏丸湯を探したのですが残念ながら無くなっていました。

左上の写真の交差点が烏丸上立売交差点です。烏丸上立売交差点右側角に烏丸湯がありました。写真正面のレストランの所です。

相国寺内玉龍庵> 2005/1/8 玉龍庵の写真を追加
 風呂屋の件も辛かったようですが、若尾文子が主演した映画「雁の寺」にも描かれているような辛い日々が多かったようです。「…こんなぐあいで、私の中に生じた和尚夫妻への憎しみは、中学校へ入るにしたがって高じ、とうとう、二学年の三学期に、瑞春院をとび出て帰らなかった。約四年問の徒弟生活だった。塔頭に玉龍庵という寺があった。南門のわきにあって当時、新しい本堂と庫裡が竣工してまもなかった。いまも方丈池と向きあってこの寺はあるが、碩学の人で、坂根良谷という人が住職だった。良谷師は、瑞春院と法類(俗家で親類といった意味)でもあったので、私が瑞春院で泣いてばかりいたのを目撃しておられた。私が脱走したことをきくと、放浪中の私を玉龍庵へ匿って下さった。私は良谷師が、松庵師とちがって、やさしくて、ひどく物わかりのいいのに面喰った。……玉龍庵の良谷和尚は、自分の弟子でもないのに、とにかく、身柄をあずかって、まるで、自分の子のようにやさしくして下さったのだった。私は、それで、紫野中学の三年生に進級出来た。…」。辛い日々で一番有名だったのが映画にも出てくる場面です。「…ある日、私が井戸の水が冷たいので泣いていると、和尚は早起きしないからだと説諭した。私は六時に起きるのはつらく、いつも寝坊したのだ。ある朝、和尚は六時にやってきて、私の枕を足で蹴り、まだ寝とぼけている私をふとんからひきずり出すと、井戸端へつれて行った。そうして、棕梠縄(しゅろなわ)のつるべをくませた。縄はつららで光っていたが、だんだんつるべが近づくと、湯気が出ていた。いよいよつるべがあらわれた時、和尚はこれをもって、一方の手で私の霜焼け手をつかんでつるべの中に入れた。水は温かった。「お前が早起きすれば、若狭のおっ母が沸かしてくれておる湯にめぐりあえる」 と和尚はいった。…… だが、こんなことをまともにきける私ではなかった。子供心に、そんなことをいう和尚をますます恨んだ。」。朝早く起きるとまわりの温度が低いので井戸の水が温かく感じるのでしょう。井戸水の温度が変わるはずがありません。

右の写真が玉龍庵です。南門を入ったすぐ右側に玉龍庵があります。方丈池も左側にありました。

次回は「水上勉の東京を歩く」戦後編を掲載します。

<水上勉の京都地図 -2->

【参考文献】
・霧と影:水上勉、新潮文庫
・私版 東京図絵:水上勉 朝日文庫
・私版 京都図絵:水上勉、福武文庫
・私版 京都図絵:水上勉、作品社
・京都遍歴:水上勉、平凡社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・ぶんきょうの坂道:文京区教育委員会
・秋風:水上勉、福武文庫
・凍てる庭:水上勉、新潮文庫
・冬の光景:水上勉、角川文庫
・父への手紙:i窪田誠一郎、筑摩書房
・母の日記:窪田誠一郎、平凡社
・わが六道の闇夜:水上勉、読売新聞社
・告白 わが女心遍歴:水上勉、河出書房新社
・冬日の道:水上勉、中央公論社
・京都遍歴:水上勉、立風書房
・停車場有情:水上勉、角川書店
・枯木の周辺:水上勉、中央公論社
・文壇放浪:水上勉、新潮文庫
・五番町夕霧楼:水上勉、新潮文庫
・名作の旅 水上勉:巌谷大四、保育社
・越前竹人形 雁の寺:水上勉、新潮文庫
・寺泊 わが風車:水上勉、新潮文庫

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