●三島由紀夫と水上勉の「金閣寺」を歩く 京都編(下)
    初版2007年11月17日
    二版2007年11月23日  <V01L01> 写真を追加 
 今週は「三島由紀夫と水上勉の『金閣寺』を歩く」に戻って”京都編(下)”を掲載します。金閣寺炎上の直前の養賢を歩いてみます。(今回で最終回となります)

「金閣」
鹿苑寺(ろくおんじ)>
 養賢は終戦一年前の昭和19年4月、鹿苑寺に入ります。このお寺は一般には金閣寺と呼ばれていますが、鹿苑寺(臨済宗相国寺派の禅寺)が正式名称です。元々は西園寺公経の別荘(鎌倉時代)だったそうですが、その後、足利義満が西園寺家から譲り受け、山荘北山殿を造っています。三島由紀夫の「金閣寺」から引用します。「…足利義満は西園寺家の北山殿を譲り受け、ここに大規模な別荘を営んだ。その主要建築は、舎利殿、護摩堂、懺法堂、法水院などの仏教建築と、宸殿、公卿間、会所、天鏡閣、拱北楼、泉殿、看雪亭などの、住宅関係の建築とであった。舎利殿は最も力を注いで造られ、後に金閣と言われた建物である。いつ頃から金閣というようになったか、はっきりと一線を引くのは困難であるが、応仁の乱以後らしく、文明頃には可成普遍的に用いられている。金閣はひろい苑池(鏡湖池) にのぞむ三層の楼閣建築で、一三九八年(応永五年)どろ出来上ったものと思われる。一・二層は寝殿道風につくり、蔀戸を用いているが、第三層は方三間の純然たる禅堂仏堂風につくり、中央を桟唐戸、左右を花頑窓としている。屋根は槍皮葺・宝形道で金銅の鳳凰をあげている。また、池にのぞんで、切妻屋根の釣殴(漱清)を突出させ、全体の単調を破っている。屋根の勾配はゆるやかで、軒は疎樺とし、木割細く軽快優美であって、住宅風の建築に仏堂風を配して調和をえた庭園建築の優作であり、公家文化をとり入れた義満の趣味の現われと、当時の雰囲気とをよく伝えている。義満の死後、北山殿は遺命により禅刺となし、鹿苑寺と号した。その建物も他に移されたり、または荒廃したりしたが、金閣だけは幸いに残された。…」。よく現代まで残っていたとおもいます(残念ながら焼けてしまいますが!)。御所からは北西の方角で、またかなり離れていたため、大火にも合わずに済んだのだとおもいます。御所より南側だったらかなり昔に焼けてしまったとおもいます。

左上の写真が金閣です。池に写る金閣はすばらしいです(写真はいまいち)。

「タ佳亭」
夕佳亭(せっかてい 茶室)>
 鹿苑寺について少し解説しようとおもったのですが、鹿苑寺のパンフレットだけでは説明しきれませんでした(本を買って再度解説する予定です)。「…私たちの掃除にねぎらいの言葉をかけ、老師は涼しげな白衣で、タ佳亭へむかう石階を登って行った。そこで一人でお茶でも点てて心を澄ますのだろうと思われた。 その日の朝空には、烈しい朝焼けの名残があった。空の青のそこかしこに、まだ紅く照り映えている雲が動いていた。雲がまだ含羞から醒め切らぬかのようであった。 掃除がすんで、私たちはおのがじし本堂へ帰りかけたが、私だけはタ佳亭の横をとおって大書院の裏手へ出る裏道から帰った。大書院の裏手の掃除が残っていたからである。私は箒を携えて金閣寺垣に囲まれた石段をのぼり、夕佳亭のかたわらに出た。木々は昨夜までの雨に濡れていた。…… 周知のとおり、夕佳亭に接して拱北楼があり、その名は、「北辰之居二某所南衆星挨レ之」に出ている。しかし今の拱北楼は、義満が威令を振っていたころのものとはちがって、百数十年前に再建して、丸形好みの茶席にしたのである。老師の姿は夕佳亭には見えなかったので、多分拱北楼にいるらしかった。 私は一人きりで老師に顔を合わしたくはなかった。生垣ぞいに身を屈して歩けば、むこうからは見えない筈だ。そのようにして、足音をひそめて歩いた。 拱北楼は開け放たれていた。常のように、床には円山応挙の軸が見える。…」。上記に書かれているタ佳亭は明治時代に一度焼けていますが再建されています。このタ佳亭の裏側に拱北楼があるはずなのですが、多分この建物が拱北楼ではないかとおもっています。

左上の写真がタ佳亭です。金閣の裏手の丘の上あります(写真がよくありませんので再度撮影予定です)。

【三島由紀夫】
 東京生れ。本名、平間公威。昭和22年(1947)東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ケ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月乃臥『豊俵の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国譜に翻訳され、全世界で愛読される。(新潮文庫より)

【水上勉】
 1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)


金閣寺 京都地図 -1-


三島由紀夫と水上勉の金閣寺年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 林養賢の足跡
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 - 林道源 成生 西徳寺に入る
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
- 父と母(志満子) 成生で結婚
昭和 4年 1929 世界大恐慌 0 3月19日 林養賢 生まれる
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 6 4月 養賢 田井小学校入学
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 12 4月 東舞鶴中学校入学 安岡の林家に下宿
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 13 12月 父 林道源 結核で死去
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 14 4月 金閣寺で得度式
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
15 4月 金閣寺に入る
臨済学院中等部に転入
8月 水上勉 青葉山麓の杉山峠で初めて林養賢と出会う
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
16 3月 臨済学院中等部卒業
8月 成生に戻る
昭和21年 1946 日本国憲法公布 17 4月 金閣寺に戻る
禅門学院に入学
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
18 4月 大谷大学に入学
昭和24年 1949 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 20 10月 母 西徳寺を出る
昭和25年 1950 朝鮮戦争 21 4月 大谷大学に入学
6月17日、18日、19日 田村古物商に古着を売る
6月17日、18日、19日 五番町遊廓の泉楼に登楼
6月22日 本田薬局でカルモチンを購入
6月24日 清水古書で図書を売る
7月2日 未明、金閣寺炎上
7月3日 養賢逮捕
12月 懲役七年の判決
昭和31年 1956 日ソ国交回復 27 3月7日 養賢死去



「建勲神社」
建勲神社>
 三島由紀夫の「金閣寺」には”建勲神社”が登場しています。水上勉の「金閣炎上」には書かれていませんので、フィクションだとはおもいます。「…電車に乗って船岡公園前で下車し、建勲神社へ向う迂回した石段を駈け昇った。そこの御みくじで旅先の暗示を得ようと思ったのである。石段の昇りぎわに、右手に義照稲荷神社のけばけばしい朱いろの社殿や、金網に入っている一対の石の狐が見えた。狐は巻物を口にくわえ、鋭く立てた耳の中も朱に塗られている。薄日のひまに、時折ひらめく風の肌寒い日である。昇ってゆく石段の石の色が、こまかく灰が降ったように見えるのは、木かげを洩れる弱日の色だ。その光りはあまりにも弱いので、汚れた灰のように見えるのだ。しかし建勲神社のひろびろとした前庭に出たときには、そこまで一気に駈け昇ってきた私は汗ばんでいた。正面に拝殿につづく石階がある。これに向って平坦な変がのびている。左右から低くわだかまる松が、参道の空に伏している。右側には木壁の色の古い社務所があり、玄関の戸に「運命研究所」という札がかけてある。社務所から拝殿寄りに白い土蔵があり、そこからはまばらな杉木立がつづいて、冷たい蛋白いろの雲が沈痛な光りを含んで乱れている空の下に、京都西郊の山々が見渡された。建勲神社は信長を主祭神とし、信長の長子信忠を配祀した社である。簡素な社だが、拝殿をめぐる朱いろの欄干だけが色どりを添えている。私は石階を登り、礼拝して、賽銭箱の槙に渡してある棚の上の古い六角の木箱を手にとった。木箱を振った。孔から細く削った竹の一本を振り落した。それには墨で、「一四」 とだけ書いてある。私は踵を返した。「一四、……一四、………」と呟きながら石階を下りた。。 …」。建勲神社の描写はそのままなので、何度か訪ねたことがあるのでしょう。織田信長を祀っている神社なので、普通の神社とは少し違います。上記の最後に書かれているのは、建勲神社の上の拝殿で御神籤を引いたのですが、御神籤をもらえるのは上記写真の右側の建物なので、階段を下りて貰うわけです。それで、14番なのですが、ここには掲載しませんでしたが、三島由紀夫の「金閣寺」では御神籤がなんであったか、書かれていましたので、同じか確認するため、私も14番を貰いました(私個人は別の番号を引いて御神籤を貰っています)。すると、14番は全く同じ内容の御神籤でした。何だったかは、実際に御神籤(200円)を貰うか、本を読んでください(「金閣寺」が書かれた昭和31年から50年間変わっていませんでした)。

左上の写真の正面が建勲神社入り口です。入って正面は義照稲荷神社で、建勲神社へは左側から登っていきます。小高い丘の上に神社がありますので、少々疲れました。

「田村古物商跡」
田村古物商>
 養賢はお金を作るために自身の衣類を次々に売ります。金閣寺を炎上させようと決心していたためか、冬物の衣類(高額になる)を全て売ってしまったようです。「…昭和二十五年六月十七日の昼すぎであった。上京区紫野南船同町の古物商田村政次の店先へ大谷大学の学帽をかぶった制服姿の養賢がきて、風呂敷包みから、冬トンビを二着出して買ってくれといった。田村政次は、トンビをひろげてみた。霜降り軒隣地のそれは、旧式なィンパネスである。襟はすり切れ、ボタンが一つ失せていた。学生の父親が着ふるしたものであることがわかる。だが、世間は兵隊服や航空服ばやりで、旧式にしても羅紗地は貴重に思えた。スフや人絹のカーテン地を女子供が服にしているころだ。半オーバーにでも仕立て直せば活用出来よう。裏地は鉄無地の絹なのも、田村の欲をそそった。 …」。時期が昭和25年ですから、戦後間もなくで、衣類も不足していたのでしょう、上記の様な衣類でも、そこそこの値段で売れたようです。

左上の写真の右側路地の先に田村古物商があったようです(推定)。住所は上京区志野南船同町ですので千本鞍馬口を東に入った所になります。

「泉楼跡」
五番町遊廓の泉楼>
 五番町は水上勉の小説「五番町夕霧楼」で有名です。少し前までは遊廓の建物がたくさん残っていました。水上勉の「金閣炎上」から引用します。「…南船岡町の古物商に、十七日からつづけて、都合三日衣類を売り、合計千六百円の紙幣を入手した養賢は、小雨の十八日、どしゃ降りの十九日、五番町遊廓の泉楼に登楼していた。泉楼は、出水通の千本を、西へ入ったところで、遊廓の中央部に当った。このあたりを仁和寺街道六軒町とも町内の人はよんでいた。千本からかぞえてふた筋目の角から下へ二軒目の妓楼である。二階家で、真向いに銭湯がみえた。…… 相方になったのは、和歌山県東牟婁郡敷屋村出身で部屋輝子といい、二十一歳であった。丸ぽちゃ顔の背のひくい輝子は、断髪にコテをかけたあと前髪をカールし、耳の上にまだ髪をまいた針金の器具をつけていた。輝子は養賢を二階表のまわし部屋に通し、氏名を記帳させたあと髪のカールの道具をそのままにしてすぐ横になって関係した。養賢の態度は、大学生にしてはうぷさが目立った。床に入ってもふるえたので、輝子の方から、時間花の理由もあってせきたてた。童貞だったと輝子はのちに供述している。… 」。水上勉は泉楼の場所を”出水通の千本を西へ入ったところで……千本からかぞえてふた筋目の角から下へ二軒目……真向かいに銭湯”と書いています。私が当時の住宅地図(住宅地図は昭和31年度版で赤線の廃止が昭和33年ですから全てのお店が掲載されています)で調べたところ、「貸席いずみ」というお店が見つかりました。石川湯(現在も営業中)の斜め前あたりです。上記に書かれている”出水通の千本から西に入ったところ” と”仁和寺街道六軒町”は二筋ほどずれており、”出水通の千本から西に入ったところ”には遊廓はありませんでした。もう少し北側になります。

左上の写真の左側正面の古い建物が貸席いずみ跡です(推定)。当時のままの建物ではないでしょうか。三島由紀夫の「金閣寺」にも五番町のことが書かれていました。「…六月十八日の晩、私は金を懐ろにして、寺を忍び出て、通例五番町と呼ばれる北新地へ行った。そこが安くて、寺の小僧などにも親切にしてくれるということは聞き知っていた。五番町は鹿苑寺から、歩いても三四十分の距離である。……思いあぐねた末には、一体金閣を焼くために童貞を捨てようとしているのか、童貞を失うために金閣を焼こうとしているのかわからなくなった。……とある四つ辻の角店に、「大滝」という家があった。やみくもに私はそこの暖簾をくぐった。畳六帖ほどのタイルを敷いた一間が突先にあり、奥の腰掛けに三人の女が、まるで汽車を待ちくたびれたような風情で腰かけていた。一人は和服で、首に綿帯を巻いていた。…」。ここでは「大滝」というお店になっています。ただ”とある四つ辻の角店”とあるので上記の「貸席いずみ」に近いとおもわれます。

「本田薬局跡」
本田薬局>
 養賢は睡眠薬カルチモンを大量に購入しています。カルチモンといえば太宰ですね。昭和23年(1948)6月13日に死去していますから影響を受けたのかもしれません。「…養賢が五番町泉楼に登楼した十九日から三日たった二十二日の午すぎ。上京区千本通鞍馬ロ下ル閣魔堂前町八番地の薬局本田多古の店へ、制服姿の養賢がきた。主人の本田が出てみると、育錠入りのカルモチンをくれという。本田は学生には百錠は多すぎると思えたので、三十錠ではどうかというと、養賢は、どうしても百錠入りが必要だといった。心なし不審な思いはあったものの本田はわたした。小瓶入りで定価は百円であった。…」。カルチモンは現在は販売されていませんが、自殺するにはかなりの量を飲まないとだめだとおもいます。平均的な体重の男性で、700〜800錠以上でしょうから、百錠は自殺には程遠い量です。

右上の写真の左角に薬局がありました。閣魔堂前町八番地という住所的には写真の所なのですが、薬局の名前が違いました。地図では「友田薬局」になっていました。”友”と”本”の字の間違い?「…私は千本今出川の西陣署ちかくの薬屋でカルキテンを買った。はじめ店の者が、三十錠入りと思われる小瓶を出して来たので、私はもっと大型のをくれと云って、百錠入りを百円で買った。さらに、西陣署南隣りの金物屋で、刃渡り四寸ほどの鞘附小刀を九十円で買った。…」。三島由紀夫の「金閣寺」にも薬局は書かれていましたが睡眠薬の名前が違いました(カルキテンという名前の薬にはない?)。西陣署については下記を参照してください。

「清水古書跡?」
清水古書>
 養賢はお金を作るために本も売ります。「…それから二日たった。上京区千本通今出川上ル南上善寺町一四九番地にある古書籍業の清水源吉の店頭へ養賢が二十冊ばかりの文学書を包んできた風呂敷をひろげた。清水は五月半ばどろ、養賢から仏教辞典、仏教聖典の二冊を六十円で、さらに六月に入って、経済学辞典、哲学辞典の二冊を三百二十円で買取っていた。その節やはり古物売買の規約で買取記帳に、住所氏名を書かせたところ、衣笠鹿苑寺内僧侶、林養賢二十一歳、と署名したので、金閣寺の小僧が、仏教辞典や聖典を売りにくるのに不審感を抱いたが、盗品でもなさそうだったし、また由緒のある寺の小僧でもあるからと買取ることにした。それで、二十四日に、再々度の訪問をうけた時、もちこまれた書籍の大半が文学書で、それも小説類が多く、背角もすりきれたパール・バック『大地』(第一書房刊普及版)、スタソダール 『赤と黒』嘉渡文坪版)、『トルストイ ー その生涯と文学』などといった …」。上京区千本通今出川上ル南上善寺町一四九番地には本屋さんはありました。こちらも名前が違っていました。地図上では「便利堂書店」となっていました。清水さんが経営している「便利堂書店」かも?

左上の写真の左側から二軒目のビルが「便利堂書店」(京都的に書くと千本通今出川上ル左側二軒目)です。この本屋さんはビルには変わっていますが、昔のまま営業されているようです。

「西陣警察署跡」
西陣警察署>
 養賢は昭和25年7月3日午前3時に放火します。その後、金閣寺の裏山である大文字山に逃げ込みます。「…西陣署員若木松一が養賢を逮捕したのは、二日の午後四時ごろで、養賢は大文字山の中腹の台地で、胸から血を出して、カルモチン服用による意識陳瞞のすがたで苦しんでいた。若木は見つけてすぐ「林か」と問うた。養賢がそうだとこたえたので、うしろへまわって手錠をはめ、部下と二人で金閣寺へ連行した。第一回調書が「金閣寺本堂において」となっているのはそのためである。…… 養賢は、犯行を否定しなかったし、発見された証拠品、検出の指紋すべてが符合した。一つだけ疑問になったのは自室西側の廊下の足跡だった。そこには養賢一人では多すぎる藁草履の跡が無数にあった。第二回供述詞書にそのくだりが出る。問 廊下には無数の足跡がついていたが二三人居ったのと違ふか。 答 私一人です。それは雨降りであったので:…私が金閣を焼きましたのは、一人の考へであります。 あとで調べた結果、無数の足跡は、養賢が何ども自分の持ち物をはこぶために金閣を往還した時のものだと判定された。火災が起きたころから、金閣寺近辺は大騒ぎになり、附近の家の者らが走りこんで見物にきた。かなりな人だかりだった。警察と消防署は、大玄関口、拝観受付に縄を張り、一般人を足止めした。養賢が逮捕された時も門前に野次馬は大勢いて、若木警部見習が身柄を護送車に入れ、西陣署に連行する際は、山門内外は人だかりだった。養賢は手錠をはめられておとなしく車に乗ったが、野次馬をにらみつけていた。…」。養賢本人も罪を認め、昭和25年12月28日京都地方裁判所で懲役七年の判決を受け、刑に服します。当初、加古川刑務所で服役しますが極度の精神障害と肺結核がひどく、昭和28年3月、八王子の医療刑務所に移ります。しかし病状はよくならず昭和31年3月7日死去します。

右上の写真の正面辺りに西陣警察署がありました(上京区千本通今出川交差点南西角)。道路拡張で北野神社前に移っています(現在は上京警察署)。「…私は千本今出川の西陣署ちかくの薬屋でカルキテンを買った。はじめ店の者が、三十錠入りと思われる小瓶を出して来たので、私はもっと大型のをくれと云って、百錠入りを百円で買った。さらに、西陣署南隣りの金物屋で、刃渡り四寸ほどの鞘附小刀を九十円で買った。…」。ここに書かれている西陣署南隣りの金物屋とは「刃物 是重」ではないかとおもわれます。西陣署の南隣にありました。

「馬堀駅手前の鉄橋」
母親の自殺> 2007年11月23日 追加
 養賢の母親志満子さんは昭和24年10月、成生の西徳寺から実家の京都府大江山麓の尾藤部落に戻っていましたが、7月2日、警察の呼び出しにより西陣署で事情聴取を受けています。「…新聞によると、林志満子は三日の午後四時四十五分京都発城崎行八三一号列車に花園駅から乗った。時刻からいって、かつぎ屋で混んでいたはずだ。志満子は西陣署まで同行した弟の勝之助とならんで、三輌目のデッキにいた。汽車が保津峡駅をすぎ、馬堀駅にさしかかる手前に鉄橋がある。下は深い渓だ。志満子はとつぜん下駄をぬいで、デッキの端へ走り、勝之助が眼を放したすきに身を投げたのだ。デッキに扉はなかった。 死体は南桑田郡篠村役場に収容された。勝之助が次の馬堀駅からひきかえして受けとった時は暗くなっていた。姉の遺体を弟はそこから大江山麓の尾藤部落へはこんで、茶毘に付した。…」。当時の保津峡付近の山陰本線は付け替えられています。旧線は嵯峨野観光鉄道となって、嵯峨嵐山駅からトロッコ亀岡駅間をトロッコ列車として観光客用に走っています。養賢の母親志満子さんが飛び込み自殺した場所は上記には馬堀駅手前の鉄橋となっていますので上記の写真の場所になります。

左上の写真が馬堀駅手前の鉄橋です。保津峡駅から馬堀駅までは鉄橋はここのみです。ただ、あまり深くはなくて、自殺するには少し高さが足らないようにもおもえます。

今回で『三島由紀夫と水上勉の「金閣寺」を歩く』は終了します。