●三島由紀夫と水上勉の「金閣寺」を歩く 京都編(上)
   初版2007年11月10日 <V01L01> 
 今週は「三島由紀夫と水上勉の『金閣寺』を歩く」に戻って”京都編(上)”掲載します。京都での養賢を戦前から戦後にかけて歩いてみます。(今週は養賢の学業を中心に歩きます)。

「金閣寺総門」
金閣寺に入山>
 養賢は昭和17年12月に父が死去したため、東舞鶴中学校を中退し約束より一年早く昭和18年4月、金閣寺に入山します。三島由紀夫の「金閣寺」から引用します。「…父の遺言どおり、私は京都へ出て、金閣寺の徒弟になった。そのとき住職に就いて得度したのである。学資は住職が出してくれ、その代りに掃除をしたり、住職の身のまわりの世話をしたりする。在家のいわゆる書生と同じことである。。……『金閣よ。やっとあなたのそばへ来て住むようになったよ』と、私は欝の手を休めて、心に呟くことがあった。『今すぐでなくてもいいから、いつかは私に親しみを示し、私にあなたの秘密を打明けてくれ。あなたの美しさは、もう少しのところではっきり見えそうでいて、まだ見えぬ。私の心象の金閣よりも、本物のほうがはっきり美しく見えるようにしてくれ。又もし、あなたが地上で比べるものがないほど美しいなら、何故それほど美しいのか、何故美しくあらねばならないのかを語ってくれ』 その夏の金閣は、つぎつぎと悲報が届いて来る戦争の暗い状態を餌にして、一そういきいきと輝やいているように見えた。六月にはすでに米軍がサイパンに上陸し、連合軍はノルマンジーの野を馳駆していた。拝観者の数もいちじるしく減り、金閣はこの孤独、この静寂をたのしんでいるかのようだった。…」。流石の三島由紀夫です。下記に水上勉の「金閣寺炎上」を掲載しておきますが、三島由紀夫の文章は”ことば”ひとつひとつに意味があるというか、美しいですね。水上勉は「ノンフィクション」として魅力があり、三島由紀夫は純文学として魅力があるようにおもいます。20歳で徴兵検査ですから養賢は兵隊に行かなくて済んだようです。

左上の写真は金閣寺総門です。休日の撮影だったので観光客の切れ間が無く撮影に苦労しました。水上勉の「金閣炎上」からも引用しておきます。三島由紀夫の「金閣寺」と比べてみてください。「…林養賢は昭和十九年四月二日、林喜一郎につれられて金閣寺に入るのである。志満子は同道しなかった。約束より一年早く入山してきた養賢を、住職村上慈海師はこころよく迎えた。……京都駅からの手荷物が養賢の小僧部屋の六畳にはこばれた時、谷井貞一は、明けた障子の手前側に身をおいて、顔だけ敷居へ出して見た。学用品、書籍、衣類の入った行李一個と油紙に包んだ大包みが一個、その荷物はふつうの小僧のよりは少なかった。…」。水上勉の文章も読ませますね。次が読みたくなります。

「花園高等学校」
臨済学院中等部>
 養賢は京都で臨済学院中等部(現 花園高等学校)に編入します。水上勉も同じく等持院に移るとともに臨済学院中等部(現 花園高等学校)に移っています。水上勉が17歳で臨済学院中等部を卒業したのは昭和11年ですから10年違います。「…東舞鶴中学校を中退して、田山道詮和尚のロききで、臨済学院中学へ転校することになった私は、一ト月足らずしてはじまる秋学期から、転校先へ通うことになっていた。しかし学校がはじまれば、いずれすぐどこぞの工場へ、勤労動員をされることはわかっていた。…」。臨済学院中等部は京都花園妙心寺が臨済宗宗門子弟の教育機関として設立したものです。

左上の写真が現 花園高等学校です(旧 臨済学院中等部)。臨済学院中等部は京都花園妙心寺が臨済宗宗門子弟の教育機関として設立したものです。昭和23年の学制改革により花園高等学校に改正しています。水上勉はよく知っているのか詳しく書いています。「…養賢が転入学した臨済学院中学部は花園町の木辻にあった。山陰線花園駅から徒歩で五分ほどで着ける妙心寺を中心にした町だが、学院も妙心寺経営だった。京都の臨済宗派は、五山派はじめ妙心寺のような別派も数多く、各本山には徒弟養育のための般若林あるいは禅門学院が経営された時代もあったが、それらの学院の大半が廃校になると、妙心寺経営の一校だけが臨済派の中学教育の中心になり、文部省が指定する中学校令による唯一のものとして、存続していた。学院中学部といったのは、専門部もあったせいである。木辻通りのつきあたる下立売通正面に、鉄扉をもった石門を構え、二階建ての講堂、職員室をふくむ本館から、廊下つづきに、軍隊兵舎のような平家の三棟が教室にあてがわれていた。北隅にどこかの本堂の中古を移築した剣道場、さらにその裏に食堂につづいて寄宿舎があった。広大なグランドも町なかの学校ではめずらしかった。 養賢は四学年に転入した。金閣寺からは一人きりの通学だった。徒歩で約四十分はかかった。…」。金閣寺からは少し遠いです。金閣寺と臨済学院中等部の間に等持院があります。臨済学院中等部の場所を”木辻通りのつきあたる下立売通正面”と上記には書かれていますが、下立売通ではなくて妙心寺道ではないかとおもいます。下記の地図を参照してください。東舞鶴中学校と比べると京都は遊ぶところが多く、感化されたのではないでしょうか。

【三島由紀夫】
 東京生れ。本名、平間公威。昭和22年(1947)東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ケ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月乃臥『豊俵の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国譜に翻訳され、全世界で愛読される。(新潮文庫より)

【水上勉】
 1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)


金閣寺 京都地図 -1-


三島由紀夫と水上勉の金閣寺年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 林養賢の足跡
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 - 林道源 成生 西徳寺に入る
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
- 父と母(志満子) 成生で結婚
昭和 4年 1929 世界大恐慌 0 3月19日 林養賢 生まれる
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 6 4月 養賢 田井小学校入学
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 12 4月 東舞鶴中学校入学 安岡の林家に下宿
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 13 12月 父 林道源 結核で死去
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 14 4月 金閣寺で得度式
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
15 4月 金閣寺に入る
臨済学院中等部に転入
8月 水上勉 青葉山麓の杉山峠で初めて林養賢と出会う
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
16 3月 臨済学院中等部卒業
8月 成生に戻る
昭和21年 1946 日本国憲法公布 17 4月 金閣寺に戻る
禅門学院に入学
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
18 4月 大谷大学予科に入学
昭和24年 1949 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 20 10月 母 西徳寺を出る



「禅門学院跡」
禅門学院>
 養賢は昭和20年3月臨済学院中等部を卒業します。体調不良と父親の三回忌のため夏に成生に一度戻りますが敗戦翌年の昭和21年4月、金閣寺に再び戻ります。「…林養賢は四月一日に上京して金閣寺に入った。田舎でくらしたのだから、病後といえども京都の適中(谷井や大里ら)にくらべると、元気があった。海に近いから魚も喰え、冬は兎や鶇をたらふく喰ってきたので、鳩胸の岩乗な体つきは、ひとまわり大きく見えた。養賢は長い療養をゆるしてくれた長老慈海師に謝意をのべ、慈海師もまた全快の帰山を喜んで、さっそく、相国寺北門前にある禅門学院に入学させた。前記したように、相国寺派一山の徒弟を養育する学院で、慈海師が院長である。もと大徳寺よこにあった般若林の後身といわれるから、ふつうの専門学校教育とちがって、雲水に進む下準備の、禅宗史、読経を教えるほか、作務も課したので、養賢は、入学早々に不満を訴え、慈海師に大谷大学入学の希望をもらした。慈海師は養賢に勉学の意志があるとみとめ、承諾した。 …」。この禅門学院については調べましたがよく分かりませんでした。三島由紀夫の「金閣寺」には禅門学院は書かれていませんでした。水上勉の「金閣炎上」には上記のように詳しく掲載されています。

左上の写真の右側が相国寺北門です。正面の学校は京都産業大学付属中学校、高等学校です。禅門学院はこの付近にあったとおもわれます。

「大谷大学」
大谷大学>
 養賢は昭和22年4月、大谷大学予科に入学します。お寺の小僧が中学校から大学予科に進ませてもらうのですから恵まれています。大谷大学については三島由紀夫の「金閣寺」を参照します。「…この大学は、三百年ちかい昔、寛文五年に筑紫観世音寺の大学寮を、京都の枳殻邸内へ移したのがそもそものはじまりである。爾来永く大谷派本願寺子弟の修道院とな ったが、本願寺第十五世常如宗主のとき、浪華の門徒高木宗賢が浄財を喜捨して、洛北烏丸頭の此地を卜して、本学を建てた。一万二千七百坪の地所は、大学としては決して大きなものではない。しかし大谷派のみならず、各宗各派の青年がここに学んで、仏教哲学の基礎的な知識を修めるのであった。古い煉瓦の門は、電車通りと、大学のグラウンドを隔てて、西の空にたたなわる比叡山に対している。門を入ると、砂利の車道が本館前の馬車廻しに通じている。本館は古い沈鬱な赤煉瓦の二階建である。玄関の屋根の頂きに、青銅の櫓がそそり立っているが、鐘楼にしては鐘が見えず、時計台にしては時計がない。そこでその櫓は、繊細い避雷針の下に、むなしい方形の窓で青空を切り抜いているのである。 …」。水上勉も貧しいながら立命館に通っていますから、お金が無くても何とか大学にいけたようです。本人次第でしょう!!

右上の写真は現在の大谷大学です。中に入れませんでしたので正面の写真のみです。「…慈海師に大谷大学入学の希望をもらした。慈海師は養賢に勉学の意志があるとみとめ、承諾した。金閣寺代々の小僧で大学へ通う例は先輩小僧にもあった。本人が学業を望まぬ場合にかぎり僧堂へ入るが、大半は、臨済宗大学、竜谷大学、大谷大学等で好きな科目を専攻して、卒業後に僧堂へ入った。当の慈海師も、中学を卒えてから大谷大学に入れてもらい、母校で禅宗史を講じる立場にあった。養賢の希望を拒む理由はなかった。そこで、養賢は禅門学院を一年たらずで退学し、大谷大学予科を受験してパス、昭和二十二年四月から、大谷大学生として金閣寺から通学することになる。…」。水上勉の「金閣炎上」からです。今回は三島由紀夫と水上勉が入れ代わっています。

次回は金閣寺を炎上させる直前の養賢を歩きます。


金閣寺 京都地図 -2-