●三島由紀夫と水上勉の「金閣寺」を歩く 舞鶴編(下)
   初版2007年10月6日 <V01L02> 
 今週は「三島由紀夫と水上勉の『金閣寺』を歩く」に戻って”舞鶴編(下)”掲載します。水上勉と林養賢の出会いと養賢の中学時代を三島由紀夫と水上勉の両面から歩いてみました(ずごくローカルな話になりました)。

「杉山入口」
水上勉と林養賢の出会い>
 水上勉と林養賢は戦前の昭和19年8月に出会っているようです。ただ、出会いは水上勉の「金閣炎上」に記載されているのですがあくまでもフィクションの本ですので真実については不明です。「…私が在地の名を冠して高野分教場とよばれたこの学校にいたのは、昭和十九年春から二十年の秋までだった。……昭和十九年の八月はじめである。確かな日はわすれたが、陽のかけらがそこらじゆうにつきささる暑い午すぎだった。杉山峠から北へ少し行った茅っ原で、その男たちと出あった。男たちというのは、私が京都の相国寺塔頭の小僧だった頃、本山宗務所から今宮の大徳寺よこにあった般若林中学へ通っていた上級生の滝谷節宗と、もう一人はその時しか見ていない中学生だった。……。…」。さすがに舞鶴付近については描写が細かいです。高野分教場で代用教員をしていた頃については「水上勉の生誕の地 若狭を歩く」を参照してください(近々に改版予定です)。林養賢は上記に書かれている”もう一人はその時にしか見ていない中学生だった”ようです。林養賢は昭和16年4月に東舞鶴中学校(旧制)に入学しますが昭和19年4月に金閣寺に入っており、そのため中学校も京都の臨済学院中等部に転入しています。ですから19年夏には臨済学院中等部に在学していましたから、養賢が夏休みに成生に戻っていたときの話になります。

左上の写真は杉山峠から少し北に入った”杉山入口”です。写真の左側に杉山1.2Kmと書いてある看板が見えます。”杉山峠から北へ少し行った茅っ原”の茅っ原の場所がよく分かりませんでした。当時のこの付近は舞鶴軍港があったため要塞地帯だったようです。「…当時はこの半島全体は、舞鶴軍港を抱く要塞地帯だった。しょっちゅう監視員が見廻りにきた。司令部からの刷り物には、子供に山や森を写生させたり、地誌のまねごとすらも書かせてならないとあった。最上級の四年生のため、私は教室のうしろ壁に、掛軸型の「大日本帝国精図」をかけていたが、その地図にも分教場の所在する高野区の山や川は誌されていず、岬の名である成生ももちろんなかった。…」。青郷駅から高野分教場を通って今寺まではそこそこの道でしたが、今寺から松尾寺まではカローラクラスの車がやっと一台通れるくらいの道でした。今寺で「SM2Z舞鶴要塞第二地帯」と書かれた当時の石碑を見つけました。最初のSM2Zは何のことが分かりませんでした。

「松尾寺」
松尾寺>
 水上勉は林養賢と出会った時、小浜線の青郷駅から高野分教場、今寺、松尾寺、杉山峠と歩いています。この道を辿ってみました。「…ふたりとは二十分くらいで別れた。 私が歩いてきた松尾寺参道から今寺へぬけ、それからふたりは分教場わきの坂を降りて青郷駅へゆくのだった。関屋は駅に近い部落で、戦死者の遺骨が村へまた帰ったか。滝谷は経をよみに、金閣寺の小僧は汽車で京へ去る。滝谷の首が左右にゆれて茅にかくれ、そのあとを、中学生が、風呂敷包みをわきへせりあげ、寸のつまったズボンにゲートルをまいた、やや胴長なうしろ姿で消えた。 この中学生がまさか、六年後に金閣へ放火して世間を騒がせようなど誰が思えただろう。…」。ここに出てくる松尾寺は正式には「青葉山 松尾寺」といい西国二十九番札所で、本尊は馬頭観世音です。名前の通り、馬に因む信仰をあつめているようです。それにしても立派なお寺でした。

左上の写真が「青葉山 松尾寺」です。車でないとたどり着けない場所にあります(お寺の前の道の写真を掲載しておきます)。JR小浜線松尾寺駅より徒歩で一時間弱掛かるとおもいます。ほとんど徒歩での参詣は不可能です。タクシーもありません。

【三島由紀夫】
 東京生れ。本名、平間公威。昭和22年(1947)東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ケ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月乃臥『豊俵の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国譜に翻訳され、全世界で愛読される。(新潮文庫より)

【水上勉】
 1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)


金閣寺 舞鶴地図 -1-


三島由紀夫と水上勉の金閣寺年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 林養賢の足跡
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 - 林道源 成生 西徳寺に入る
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
- 父と母(志満子) 成生で結婚
昭和 4年 1929 世界大恐慌 0 3月19日 林養賢 生まれる
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 6 4月 養賢 田井小学校入学
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 12 4月 東舞鶴中学校入学 安岡の林家に下宿
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 13 12月 父 林道源 結核で死去
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 14 4月 金閣寺で得度式
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
15 4月 金閣寺に入る
臨済学院中等部に転入
8月 水上勉 青葉山麓の杉山峠で初めて林養賢と出会う



「安岡」
安岡>
 林養賢は昭和16年4月、東舞鶴中学校に通い始めます。成生からは遠いため安岡の父親の実家である叔父の家に下宿して通学します。水上勉の「金閣炎上」では、「…養賢は、この東舞鶴中学入学を機に、西徳寺を出て、父の里安岡の伯父喜一郎宅へ越すからである。…… 道源が、中学入学と同時に、養賢を安岡へうつした理由は三つ考とられる。一つは、かりに自転車で通っても舞鶴までは一時間以上かかったからである。中学は東舞鶴市にあった。当時、成生には中学へゆく者はいなかった。もう一つは、学資はともかく、学用品その他の費用は里の兄に出してもらう約束になっていたこと。そんなことならと思い切って、卒業までの教育を兄にあずけたか。最後の一つは、道源に病気の極度な進行がわかったので、伝染をおそれたとみてよい。安岡移住には、この三つの理由のいずれもがかさなっている気もする。志満子が、日傘をさして、成生から安岡まで、自転車にも乗らず、一日がかりで往還する姿をみせるようになるのもこの年まわりからだった。成生の人々は、三里の崖道で、たもの木や椎の木蔭に、腰をおろしては海をみている志満子に出あった。 …」、と書かれています。父親は肺結核で昭和17年12月に亡くなり、母親はただ一人の子供である養賢の成張をたのしみにしていたとおもいます。

左上の写真は安岡の叔父の家付近です(まだご家族がお住まいのため直接の写真は控えさせていただきました)。林養賢はこの道を通って徒歩で東舞鶴中学校に通います。

「小林寺」
小林寺>
 水上勉は林養賢のお墓を探すため、安岡の菩提寺小林寺を訪ねています。「…この安岡の菩提寺少林寺で、道源が幼少時に林家から小僧に出て剃髪した頃の様子をききたくて出かけ、畑で出あった寺の細君から、養賢の墓が訊きだせた。 「あなたさまのおたずねの和尚さまは、先住さんのことでござりましょう。とっくに亡くなられて、そのお墓はうらの寺墓にありますが、道源さんはそのお弟子で、西徳寺へゆかれましたから、西徳寺に墓がありましょう、お子さんと志満子さんのは、仏門を出されなさったため、林さんの墓のよこに石塔を建ててもろうてべつにまつられておいでです。汽車の線路下の椿林の墓地ですから、すぐにわかりますよ」 …」。少し前までは地元のお寺が必ずあったものです。水上勉の「金閣炎上」は昭和54年に書かれていますから、当時は小林寺が安岡の菩提寺だったのでしょう。

左上の写真が安岡の菩提寺 小林寺跡です。安岡の村からJR小浜線を超えて、林の中を少し歩いた先にあります。現在は誰も住んでおらず、無人の寺となっていました。

「東舞鶴高等学校」
東舞鶴中学校(現 東舞鶴高等学校)>
 三島由紀夫が安岡について「金閣寺」のなかで書いているのは”東舞鶴中学校”と下記の”金剛院”のみです。「…東舞鶴中学校は、ひろいグラウンドを控え、のびやかな山々にかこまれた、新式の明るい校舎であった。…」。東舞鶴中学校は昭和15年に開設された比較的新しい中学校でしたので、旧制中学校にしては入りやすかったとおもいます。田井小学校で中学に進学できたのは養賢のみだったようです。

右の写真が現在の東舞鶴高等学校です。場所は当時と変わっていないようです。叔父の家から東舞鶴中学校まで約2.7Km程ですから、徒歩で40分位かかったとおもいます。

「金剛院」
金剛院>
 三島由紀夫の「金閣寺」で登場する安岡近くの「金剛院」です。水上勉の「金閣炎上」には書かれていませんので、フィクションかなとおもいますが、当時の世相としてはありそうなお話です。「…金剛院は名高かった。それは安岡から歩いて十五分ほどの山かげにあり、高丘親王の御手樽の栢や、左甚五郎作と伝えられる優雅な三重塔のある名刺である。夏にはよく、その裏山の滝を浴びて遊んだ。 川のほとりに本堂の塀がある。やぶれた築泥の上に、芝が生い茂って、その白い穂が夜目にもつややかに見える。本堂の門のそばには山茶花が咲いている。一行は黙々と川ぞいに歩いた。 金剛院の御堂は、もっと昇ったところにある。丸木橋をわたると、右に三重塔が、左に紅葉の林があって、その奥に召五段の苔蒸した石段がそびえている。…… 石段の上には金剛院の本殿があり、そこから左へ斜めに渡殿が架せられ、神楽殿のような空御堂に通じている。その空御堂は空中にせり出し、清水の舞台を模して、組み合わされた多くの柱と横木が、崖の下からそれを支えているのである。…」。三島由紀夫の「金閣寺」で登場する金剛院のお話は、”安岡の女性と親しかった兵隊が脱走して安岡近くの金剛院に立て籠もる”というお話です。最後は警察に取り囲まれ、女性を殺して本人も自殺します。

左上の写真の右側から左に金剛院の本殿、渡殿、空御堂となります。工事中だったので残念です。金剛院の入り口三重塔本殿への階段の写真を掲載しておきます。

次週は「林養賢の京都を歩く(上)」を掲載します。