●三島由紀夫と水上勉の「金閣寺」を歩く 舞鶴編(上)
   初版2007年9月1日 <V01L03> 
 松本清張の「点と線」を掲載する予定でしたが、取材が間に合わなかったため「三島由紀夫と水上勉の『金閣寺』を歩く」を先に掲載します。”金閣寺を歩く”と言ってもお寺を歩くのではなくて、金閣寺に放火した林養賢の生涯を歩いてみます。最初は生まれ故郷の舞鶴 成生からです(本を呼んでいないと全く分からないとおもいます!)。

「養賢と母の墓」
養賢と母の墓>
 金閣寺というと三島由紀夫と水上勉の金閣寺ですね。三島由紀夫と水上勉の金閣寺(正確には三島由紀夫は「金閣寺」、水上勉は「金閣炎上」)は少し意味合いが違います。三島由紀夫の「金閣寺」は純文学と言っていいとおもいますが、水上勉の「金閣炎上」はノンフィクション小説と言った方がいいとおもいます。両者の小説を参照しながら林養賢を歩いてみます。先ずは三島由紀夫の「金閣寺」の書き出しです。「幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。 私の生れたのは、舞鶴から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽である。懇望されて、僧籍に入り、辺鄙な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。…」。もう一つ、三島由紀夫の「金閣寺」は昭和31年31歳の時に書かれたもので、水上勉の「金閣炎上」は23年後の昭和54年に書かれています。水上勉は当然三島由紀夫の「金閣寺」を読んでいた筈ですし参照しているとおもいます。

左上の写真は舞鶴市字安岡にある林養賢と母親のお墓です(正面が本人で右側が母親の墓です)。林養賢の生まれ故郷、京都府舞鶴市字成生から始めようとおもったのですが、先ずは養賢のお墓から始めたいとおもいます。水上勉の「金閣炎上」この最後に林親子のお墓を訪ねる場面があります。「…共同墓地の、椿林の一角に、林家の墓石群はあった。隅に二基、正四角立方型の二尺ぐらいの高さの石塔があり、一基は養賢のもので、「正法院鳳林養賢居士」と彫字はよめ、一基は「慈照院心月妙満大姉」とよめた。裏に両名の死亡年月日があった。志満子は昭和二十五年七月三日になっていた。保津川投身の日である。ともに林家の建立による。母子が俗家へ帰ったのだから、養賢としては、身近な在家である林家にもどって不思議はない…」。養賢の死亡日時は昭和35年7月3日と書かれていました。

「安岡」
安岡>
 林親子のお墓が舞鶴市字安岡にあるのは父親の実家があり、叔父の家があったからです。養賢が戦前の舞鶴中学校に通ったときもこの叔父の家に下宿しています。現在もお住まいで、お墓も林家の方に教えていただきました。ありがとうございました。三島由紀夫の「金閣寺」にも安岡の叔父の家のことが書かれていました。「…成生岬の寺の近くには、適当な中学校がなかった。やがて私は父母の膝下を離れ、父の故郷の叔父の家に預けられ、そこから東舞鶴中学校へ徒歩で通った。 父の故郷は、光りのおびただしい土地であった。しかし一年のうち、十一月十二月のころには、たとえ雲一つないように見える快晴の日にも、一日に四五へんも時雨が渡った。私の変りやすい心情は、この土地で養われたものではないかと思われる。 五月の夕方など、学校からかえって、叔父の家の二階の勉強部屋から、むこうの小山を見る。若葉の山腹が西日を受けて、野の只中に、金屏風を建てたように見える。それを見ると私は、金閣を想像した。…」。三島由紀夫もこの付近を訪ねたのではないでしょうか。ここまで詳細に書けないでしょう。

左上の写真付近が舞鶴市字安岡です。左側の上にJR小浜線が走っています。お墓はこの道の少し先左側上にあります(個人で探すのは不可能です)。この付近は京都府の外れで少し東に走ると福井県大飯郡高浜町になります。水上勉の生まれ故郷はすぐそこです。安岡については次回に詳細を掲載します。

【三島由紀夫】
 東京生れ。本名、平間公威。昭和22年(1947)東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ケ月で退職、執筆生活に入る。1949年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に、1954年『潮騒』(新潮社文学賞)、1956年『金閣寺』(読売文学賞)、1965年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等。1970年11月乃臥『豊俵の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決。ミシマ文学は諸外国譜に翻訳され、全世界で愛読される。(新潮文庫より)

【水上勉】
 1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)


金閣寺 舞鶴地図 -1-


三島由紀夫と水上勉の金閣寺年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 林養賢の足跡
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 - 林道源 成生 西徳寺に入る
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
- 父と母(志満子) 成生で結婚
昭和 4年 1929 世界大恐慌 0 3月19日 林養賢 生まれる
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 6 4月 養賢 田井小学校入学
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 12 4月 東舞鶴中学校入学 安岡の林家に下宿
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 13 12月 父 林道源 結核で死去



「成生」
成生(なりう)>
 林養賢は成生の西徳寺で昭和4年3月19日生まれます。私は二度ほど訪ねましたが、海のとても綺麗な小さな入り江の部落です。三島由紀夫の「金閣寺」には”成生”についてほとんど書かれていませんでした。三島由紀夫はこの”成生”を訪ねなかったのでしょう。ここでは水上勉の「金閣炎上」から引用します。「…成生部落は、わずか二十二戸しかなかった。分教場の子らが鹿が寝ているようだと云っていた岬の先端は、小さな江にのぞんでいて、なるほど鹿の頑のように突き出た山がうしろにあり、若狭湾側へずり落ちる山壁にへばりついた恰好だった。漁業と養蚕が主で、海仕事は男、養蚕は女だった。二十二戸の家は、落ちこんだ磯から、山へ向ってすぼまるふうにひしめき建っていた。どの家も似たような瓦ぶきの入母屋で、たまに小舎をもつ家もあるが、殆んど二階で蚕を飼い、下を座敷と居間と土間にしている。せまいから、軒がひっつくほど接近し、どの家も庭はもたず、道路は軒下の三尺幅ぐらいしかなく、雨がふるとここは川にな った。 磯には舟小舎がならんでいた。わずかな砂地と、くり石の浜が弓状にひろがって、中央部に短かい桟橋があった。陸路のない頃の舟着場の名残りである。橋のけたや杭に無数の貝殻が付着していた。海岸を田井の方からきて、山桃の群生する崖の道を三十分くらい歩くと、端に出たが、成生二十二戸の村は、白い磯にならんで、扇子をひろげたように見えた。 …」。水上勉は上手に”成生”の様子を描写しています。写真の通りの部落でした。

「西徳寺」
左上の写真は成生手前の丘の上から撮影したものです(拡大すると全体が分かります)。左の写真は現在の西徳寺です。建物は綺麗に改装されていましたが当時のままとおもわれます。「…あれは三ど目の訪問の時である。メモを見ると昭和三十六年の夏と託している。無人の西徳寺の庭から、林養賢の父道源和尚の墓に詣で、六体地蔵のわきにきて、本堂の軒につるされた半鐘を見ていた。半鐘は以前に来た時それほど目につかなかったのだが、人気のない寺に、それだけが生きもののようにあるのは異様だった。本堂に鐘が必要なことは私も知っていた。法事だとか、何かの際、和尚なり小僧が鳴らして、一般にことをしらせるのだ。………」。林養賢の父の源和尚のお墓を探したのですが、よく分かりませんでした。上記に書かれている六体地蔵半鐘(本堂の中心からやや右寄りにあります)の写真を掲載しておきます。

「海臨寺」
海臨寺>
 成生の西徳寺の本寺になる海臨寺が成生の手前の田井にあります。立派なお寺なのでびっくりしました。「…田井の海臨寺は西徳寺の本寺で、東福寺派の多いこの半島では、中本山のような地位にある格式寺だと教えるのだった。…… 和尚の病状悪化で、西徳寺内が、志満子を中心にうごいてゆく昭和十七年末からの事情が呑みこめた。寝たきりの住職なら、仏事も出来ぬ不甲斐なさだから、法事や葬式があるたびに、田井の海臨寺和尚を招かねばならぬ。…」。田井の丘の上にあり、登るのが大変でした。

右の写真が田井にある臨済宗の巨利 海臨寺です(南北朝時代に創建されたお寺のようです)。階段の下から撮影した写真もあったのですが、あまり綺麗ではないので横からの写真にしています。

「田井小学校」
田井小学校>
 昭和10年4月、養賢は田井尋常小学校に入学します。成生から田井まで2Km程ですが、当時はけわしい道だったとおもいます。「…小学校は田井部落だった。そこまで子供の足で約三十分。きりたった崖の裾がえぐれている。波が打ちよせる、山桃の原生林を、通学路は黒縄を置いたようにのびている。途中大松山から落ちる尾根が一つ、断崖へかぶさっている。村人が、大正初年に子供らの通学の不便を思い、総出でくりぬいた隧道が一カ所。赤土肌の山は、一尺も掘ると、すぐ堅固な岩石に つき当った由で、完成までに、二年近い月日を費したと広一が父からきいたそうだ。そんな崖道を通って、養賢は田井小学校の尋常科へ通った。 「なにせ、がらは大きかったで、上級生も下級生も養賢さんには一目おいてつきあう裏で、やっぱりぜぜりの賢さんいう軽蔑した思いがあったのう。田井へゆけばいったで、ぜぜり、ぜぜりと阿呆にされたわな。…」。現在は海岸沿いのよい道を歩くだけです。

左上の写真が田井小学校です。残念ながら廃校になっており、校庭の隅に廃校の記念碑が建てられていました。しかし校舎が残っていましたので見ると、当時のままのようです。

次週はお休みです。再来週は舞鶴中学校入学から掲載します。