●水上勉の「飢餓海峡」を歩く 東京編
   初版2007年9月1日 <V01L02> 
 水上勉の「飢餓海峡を歩く」は岩内、函館、下北半島、舞鶴と掲載してきましたが、最終回として東京を歩きます。大湊の遊廓で働いていた杉戸八重の東京での足どりを辿る為に函館警察署の弓坂警部補は東京を訪ねます。

「亀戸天神」
亀戸天神>
 大湊の善楽町「花家」で犯人と唯一接触のあったとおもわれる杉戸八重が上京後、東京で最後に働いたのが亀戸天神裏の女郎屋「梨屋」でした。「…江東区亀戸にある遊廓は、亀戸遊廓といわれた。総武線の亀戸駅から北へ約五百メートルほどゆくと新しくつくられた広い道路につき当った。そこから、亀戸天神まで歩いて十分とかからない。この天神へゆく途中に、五十軒ほどの遊廓が三筋ばかりの道路に向きあって並んでいた。もともと、この町は深川木場や、錦糸町あたりを中心とする下町商店街の店員や、主人たちの憩う三業地だった。戦災をうけて一帯は焼野と化したが、いつやらほどから、この三業地あとの一角に遊廓が生じ、建物はうすっぺらな安建築ではあったけれど、どの家も、三、四人の妓を置いて、客をよびこんでいた。…」。総武線の亀戸駅から600m程北へ歩くと蔵前橋通りに突き当たります。この蔵前橋通りを西に450m程歩くと亀戸天神です。

左上の写真は現在の亀戸天神です。映画「飢餓海峡」にもこの亀戸天神が登場します。モノクロですが杉戸八重が歩いている姿が映し出されています。「飢餓海峡 上巻」によると、杉戸八重が上京後最初に働いたのは池袋西口のマーケットでした。「…池袋駅西ロ ─ 詳述しておくと、豊島区池袋二丁目というのがこの界隈の名称だった。西口改札口から、西に向う広大な焼野に迷路のように建てられたバラックや屋台店の町は、通称、池袋ジャングルといわれた。スイトンやカストリを売る店が、数百軒も道路の両側にならんで客をよんでい。富貴屋という一杯呑み屋は、ジャングルの中央部にあった。せまい小路の角である、共同便所のわきである。ハモニカの穴のようにならんだ小さな呑み屋の中では、この店は、かなり店らしい体裁をととのえていたといえたかもしれない。わずかに四坪くらいの広さしかないけれども、角になっていたから東南両方の出入ロがあって、南の半分はカウンターと椅子のならんだ酒場になっていて、一方は、店主の鴨居うたの発案で、甘味屋になっている。…」。池袋西口のマーケットとは戦後の闇市です。昭和34年1月に火事になるまであったようです。

「亀戸遊廓跡」
亀戸遊廓跡>
 木村聡の「赤線跡を歩く2」を読むと花街は亀戸天神の裏手と書いてあります。水上勉は亀戸天神の手前と書いていますので、少し違うのですが、戦後まもなくは三業地が広がっていたのかもしれません。料亭も少なくなっています。「…杉戸八重が、この町の空気にひかれたのは、町がひっそりしていたためである。それは一見して、遊廓とは思えないほど静かであった。家もこぢんまりしていた。新宿や吉原のよう に、きらびやかな装飾のある店はなかった。平家のバラックばかりだ。どの家も申し合せたように表通りから五メートルほど過って家を建てていて、腰高の窓に囲まれたせまいタタキ のフロアが造られてあった。そこにテーブルが一つ置いてあった。鉢櫓のあおきがしょんぼ り窓からのぞいてみえたりする。陽当りもよいし、どことなくのどかな感じがした。八重が、その中の「梨花」という看板のかかった平家の一軒に吸いこまれるように入っていったのは、折から打水をしたばかりのタタキの戸をあけて出てきた人の好さそうな四十年輩のおかみが、白いワンピースの裾から、二センチはど桃色の湯文字をのぞかせ、無心に表通りの草取りをはじめたからである。…」。この付近は空襲ですっかり焼けてしまっていますので建物は戦後建てられたものです。TV版の「飢餓海峡」ではこの亀戸遊廓の場面が登場しますが、どうも「鳩の街」で撮影したのではないかとおもっています(場所については調査中です)。

左上の写真は現在の亀戸天神裏の料亭街です。「…その舞鶴東署の捜査本部へ、東京から一通の手紙が届いたのは、翌々日の夕刻のことであった。署長宛になっていた。差出人は江東区亀戸町一九九八番地「梨花」本島進市としてある。…」。ここに書かれている江東区亀戸町一九九八番地という住所は実在しません。998という番地はよく出てきますので水上勉は好きだったのかもしれません。

【水上勉】
1919年、福井県に生まれる。立命館大学国文科中退。60年、「海の牙」で探偵作家クラブ賞、62年、「雁の寺」で直木賞、71年、「宇野浩二伝」で菊池寛賞、73年、「兵卒の鬚」他により吉川英治賞、75年、「一休」で谷崎潤一郎賞、77年、「寺泊」で川端康成賞、84年、「良寛」で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。著書として他に「飢餓海峡」「五番町夕霧楼」「越前竹人形」「金閣炎上」「父と子」「地の乳房」など多数。2004年9月死去されました。(福武文庫より)


飢餓海峡 東京地図 -1-



「東神田末広町九九八番地」
神田末広町九九八番地>
 函館警察署の警部補 弓坂吉太郎は杉戸八重を追って上京します。大湊の「花家」にいた同僚の葛城時子を見つけ出し、杉戸八重のことを聞き出そうとします。「…東京都千代田区神田末広町九九八番地。 − このあたりは、繁華な上野広小路と神田須田 町を結ぶ都電通りに画していた。戦災をうけるまでは中小企業の商店や会社などの建物がぎっしりつまっていたものだが、西側の高台にある湯島聖堂や、神田明神の一角を残しただけで、町の大半は焼野と化した。無惨な空襲の爪痕である。都電通りの両側には、瓦礫や焼けビルの残骸がほったらかしである。草茫々の野っ原だ。 赤錆びた金庫。飴のように折れ曲った鉄骨。むかしの面影はどこにもない。地下鉄末広町の駅入口があるというのに、人通りも少なかった。…… 小さな、といっても六畳と四畳半の間取りのあるスレートぶきのバラ ックが建ったのは二十二年の夏の末だ。周囲はまだどこにも人家がなかった。バラックは省線の通る高架線からも望見できるほどきわだってみえたが、この家に住んでいるのは女一人であった。葛城時子という表札がかかっている。女主人は年のころは二十七、八。瓜実顔の心もち平べったい顔つきだった。家が建ってから、まなしにここへたずねてくるようになった六尺近い大男の黒人兵の姿をみとめると、町の人びとは、この女は、黒人兵のオンリーに ちがいないと噂しあった。 …」。ここでも998番地が登場します。現在の末広町からは想像もできない光景です。水上勉は終戦間もなくの昭和20年10月には上京し、神田鍛冶町で二人目の奥様の叔父の家に住みはじめています。ですからすぐ近くの末広町についてはよく知っていたわけです。

左上の写真は末広町交差点の東方面を撮影したものです。「…警部補はこのはなしを一応、末広町の交番にまでしておかねばならないと思った。交番は地下鉄昇降口から、百メートルほど黒門町よりに歩いた地点にあった。交番へ入ってゆくと、まだ足にしっくりこない進駐軍払下げの編上靴をはいた小柄な巡査がいた。…」。書かれていた末広町の交番は現存しています。


飢餓海峡 東京地図 -2-

「池ノ上駅」
井の頭線 池の上駅>
 函館警察署の警部補 弓坂吉太郎が東京で宿泊したのが井の頭線 池ノ上駅近くの友人の家でした。「…弓坂警部補は、世田谷の宿へ帰ってきた。井の頭線の池の上の駅から、商店街を五分間ばかり歩いて、閑静な住宅街へそれたあたりにその家は在った。めずらしく戦災をまぬがれたこのあたりは、ブロック塀や杉垣にかこまれた古い家が残っていた。大きな梓の木のある神社裏の空地と地つづきになった小泉七郎の家である。…」。池ノ上駅近くなので、下北沢駅からも近くなります。神社裏と書かれていましたので、思い出しました。水上勉が昭和22年から勤めた文潮社が八幡神社の裏にありました。

右上の写真が井の頭線 池ノ上駅です。右手の方に歩いていくと八幡神社方面になります。上記にも書きましたが文潮社の場所のイメージで書かれているとおもいます。


飢餓海峡ロケ地(劇場版)


「墨田川土手」
隅田川土手他>
 ここからロケ地を歩いてみます。映画版の「飢餓海峡」は昭和40年1月公開(モノクロ)ですから、東京はまだ昭和30年代イメージを残していましたのでその雰囲気が映画にも出ていました。その中で杉戸八重が隅田川の土手の上を歩いている場面がありました。何処かとおもいましたら三谷堀の所でした。写真の通りなのですが当時は桜橋も首都高速も無く、隅田川の向こうに弘福寺がはっきり見えていました。

左の写真が三谷堀から隅田川を撮影したものです。左の橋が桜橋で、首都高速も見えています。川の向こう側に弘福寺が見えないとだめなのですが見えませんね。その他の東京のロケ地では、上野駅正面、亀戸天神鳥居前で撮影されていました。


飢餓海峡ロケ地(テレビ版)


「カド」
「カド」他>
 TV版の「飢餓海峡」は、昭和53年9月2日から10月21日まで8回に分けてフジテレビ系列で放映されたものです。368分(46分×8回)の長編です。東京の昭和53年ですから戦後間もなくの東京の風景を探すのは大変なのですが、上手に戦後の風景を探して撮影していました。主要なロケ地は墨東のようです。三囲神社、鳩の街又は千住(何方かよく分かりませんでしたが多分千住)の赤線地帯です。葛城時子の末広町の家は佃三丁目の突き当たりの所ではないかと推定しています。

左上の写真は向島二丁目の喫茶店「カド」です。現存しています。向島見番の少し先の交差点の角にあります。残念ながら私はまだ入ったことがありません。くるみパンをぜひとも食べて見たいです。


飢餓海峡 東京地図 -3-